インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

サイレントエアポート

先日、観光バスのバスガイドさんが「ガイド過多」なんじゃないかという感想を書いたのですが、観光案内の他にも過多だなと思ったのは、各種の注意事項です。その日はちょうど前日の夜に大雨が降った後だったのですが、観光スポットに到着してバスを降車する際に、ガイドさんが繰り返し「水たまりがありますからお足下にお気をつけて」とか「対向車の水はねには十分注意なさって」とか、とにかくそんな注意喚起をたっぷりなさるのです。


https://www.irasutoya.com/2013/03/blog-post_6342.html

もちろん親切心でおっしゃっているのは分かるのですが、正直に申し上げて大人の観光客にそうした注意喚起は不要だと私は思います。しかしこれもまた一部の乗客に「ガイドが前もって注意してくれなかったから水たまりで靴が汚れた」などとクレームを入れる輩がいて、それでリスク回避的にアナウンスするようになったのかしら。きっとそうなんでしょう。観光バスに限らず、日本の公共交通機関にはとにかくそんな「リスク回避型」のアナウンスや表示が溢れかえっていますから。

それを「おもてなし」だと持ち上げる向きもありましょうが、単に私たちひとりひとりが自立・自律できていないからではないかと思います。自己責任という言葉は当今、冷たい物言いの代名詞みたいになっちゃってますけど、本来はそれぞれがそれぞれの自立と自立でもって自分の行動を主体的に考える、つまり究極の自由を希求するものではないかと考えます。

以前にもこのブログに書いたことがありますが、諸外国には“Silent Airport”という取り組みを推進している空港があります。アナウンス過多、注意喚起過多を改め、本当に大切な、あるいは緊急を要する情報伝達だけに絞るという方針です。

edition.cnn.com
www.euronews.com

私たちの公共交通機関も、こうした「大人の」考え方を見習ってほしいと切に願います。そう、くだんのバスガイドさんのガイド過多に感じたのは、つまりは自分が大人扱いされていない、まるで子どもを諭すかのような口調だなという一種の不快感だったのだと思います。

qianchong.hatenablog.com

「誰もが自分と同じように行動すれば気持ちいい」か

毎朝通っているジムは比較的規模の大きな施設で、早朝から多くの方が運動されています。館内にはこういったジム特有のアップテンポな曲が流れており、加えて頻繁にアナウンスも流れてきます。スタジオプログラムの開始を知らせるアナウンスも多いですが、それにも増して多いのはマナーの遵守を呼びかけるアナウンスです。

「マシンや設備は譲り合って使いましょう」という定番のアナウンスは、日本語に加え、英語・中国語・韓国語でも流れます。またコロナ禍からこちらは、マスクの着用と会話の禁止を呼びかけるアナウンスが定期的に入るようになりました。さらに最近多いのはこんなアナウンスです。

ロッカールームやスパなど、マスクの着用ができないエリアでの会話は禁止させていただいておりますが、なかにはお守りいただけないケースもあり、たくさんお声をちょうだいしております。いま一度、ルールとマナーの徹底をお願い申し上げます。

文言は正確ではありませんが、概略こんな感じ。ロビーには投書箱みたいなものが置いてありますし、館内にはあちこちにスタッフを呼び出すためのブザーがあります。これだけ頻繁にアナウンスが流れるということは、相当数苦情が寄せられているのだろうと、そしてそれだけ行儀の悪い利用者が多いのだろうと想像します。

確かに、私自身が見かける範囲に限っても、マシンやトレーニング用のベンチをずっと占拠している方はときどき見かけます。このジムのルールでは、利用はひとり20分間までで、マシンの側に置いてあるプレートに開始時間と終了時間を書くようになっているのですが、書かないで使っている人もいれば、終了時間近くになると書き換えている(時間を延長している)人もいます。使い終わった後に備え付けのペーパータオルとアルコールスプレーでシートなどを拭かない人もいれば、大声で延々おしゃべりしている人もいます。


▲じゃんぽ〜る西『パリの迷い方』23ページ

以前は私もそういう人たちに対して少なからず憤慨していたのですが、いまはもう自分のトレーニングに専念というか「潜行」するような感じで気にしないようにしています。畢竟、どこの社会にもそうしたルールやマナーを守れない、行儀の悪い人間は一定数いるもので、しかも成人してもなお、そうした行儀の悪さが直らない、公徳心が発動しないというのは、これはもうつける薬はないと思うからです。不特定多数が利用する施設である以上、一定の割合でそういう人が出没するのは仕方がないのでしょう。

qianchong.hatenablog.com

かつて中国に住んでいたとき、列に「横入り」するオバサンを注意するも「私は前からここに並んでいた」と見え透いた嘘をつくのでさらに抗議したら、後ろに並んでいた年配の紳士に“管不了”だよ、と諭されたことがありました。「放っておきなさい」というような意味で、当時の私はなぜ不正を見逃すのかと憤慨したものですが、いまになって思います。あれは、そうした人間につける薬はまずないのだという諦念だったんじゃないかと。

もちろんいまだって不正を見逃すのはよくないとは思います。ただその是正は、個人レベルでできることとできないことがある。あるいは是正できるにしてもある程度の「歩留まり」というものがある。そう考えなければ、こちらが心を病むか、あるいは暴力という形に訴えるといった最悪の結果を招くかもしれません。誰もが自分と同じように行動すればそれは気持ちがいいでしょうけど、人間社会はそんなに単純ではありません。

……と、ここまで考えてふと思いました。世にある強権国家というものは、たぶんこうした個人レベルの「誰もが自分と同じように行動すれば気持ちいい」を究極にまで突き詰め、膨張させた結果、生まれるのかもしれないと。

パニーノ

パニーノ、もしくはパニーニと呼ばれるイタリアのサンドイッチがありますね。私はあれが大好きで(というかサンドイッチ全般が好きですが)、仕事先で見つけるとよく食べています。いままでで一番おいしいなと思ったのは、都内にいくつかお店があるCAFFE PASCUCCI(カフェ・パスクッチ)のそれです。

このカフェは(あくまで何度か、それもいくつか異なるお店に行っただけの印象でしかありませんが)、なぜかお店によって食べ物の味やサービスがけっこう違うような気がします。私が先日食べたのは麹町店のパニーノですが、同じ麹町店でも以前のパニーノとはちょっと違っていました。おそらく厨房を担当される方によって味が変わるんじゃないかと想像します。

麹町店のパニーノは何種類かありますが、私が好きなのはとてもオーソドックスな生ハム・ルッコラモッツァレッラチーズを挟んだものです。生ハムもルッコラもわりあい惜しみなく入っていて、とくにモッツァレッラチーズがとてもクリーミーでおいしいです。ソース系の調味料はいっさい入っておらず、具材をそのまま重ねただけという感じのシンプルさと薄味がとてもいいのです。

しかもパン(たぶん「チャバッタ」と呼ばれるたぐいのパンだと思います)の表面が舌を焼くくらいに温められていて、ひんやりした具材と絶妙に合っています。これはお店でないと食べられない種類のパニーノです。

私は以前、パニーノといえば細長い小判型で平べったくした白いパンに挟んで、ホットサンド状にストライプの焦げ目がついているものだと認識していました。でも調べてみたら別にあのタイプだけがパニーノじゃないんですね。イタリアのサンドイッチ全般がパニーノと呼ばれるらしい。ちなみに日本でパニーノはパニーニとも呼ばれますけど、イタリア語ではパニーノ(panino)が単数形で、パニーニ(panini)は複数形だそうです。

フィンランド語 170 …日文芬訳の練習・その82

先週アメリカのバイデン大統領が来日した際、台湾有事の際には米国は台湾を守ると述べました。 ある日本の国会議員は、それを「うれしい失言」と喜んでいましたが、私は失言ではなかったのだと思います。台湾は現在、世界最高峰の半導体技術を持っているからです。おそらくアメリカの「戦略的曖昧さ」はすでに過去の話になっているのではないかと思います。


Viime viikolla, kun Yhdysvaltain presidentti Biden tuli Japaniin, hän sanoi, että Yhdysvallat puolustaisi Taiwania, jos Kiina hyökkää saarelle. Eräs japanilainen parlamentaarikko oli tyytyväinen, että se oli "onnellinen lipsahdus". Mutta mielestani, että se ei ollut lipsahdus, ja Biden vastaisi tietysti "kyllä", koska Taiwanilla on nyt maailman korkein puolijohdetaidot. Uskon, että ehkä Yhdysvaltojen ”tahallisesti epämääräinen politiikka” on jo mennyt ohi.


バスガイドさんの「芸風」について

留学生の校外研修で軽井沢にやってきました。さすがに涼しいです。ホテルのビュフェで朝食を食べていると、周りはほとんどがゴルフを楽しみにきたとおぼしき中高年のグループのようでした。まだあちこちでコロナ対策は継続中ですし、マスクも手放せませんが、こうやって小旅行に出かけることができるようになって、留学生も楽しそうです(ここ二年間はほとんどが中止か変更になっていました)。

観光バスのバスガイドさんも、ようやく二年ぶりで仕事量が回復してきたそうで、何だかとても気合いが入っている感じがしました。それはそうでしょうね。コロナ禍が原因で、このお仕事を離れてしまったお仲間も多かったんじゃないかと拝察します。

ただ、そんなガイドさんの意気込みとはうらはらに、留学生のみなさんはほとんどがスマートフォンに向かっていて、ガイドさんの説明を聞いているんだかいないんだか。ちょっと申し訳ないような気持ちになりましたが、しかし留学生の気持ちも分かるような気もします。

こんなことを申し上げるのは大変失礼なのですが、バスガイドさんのお仕事のやり方も時代に合わせて変わってもいいのではないかと。「伝統的」なバスガイドさんと言えば、バスが走る沿道のさまざまな情報を間断なく伝えて車内を盛り上げるという一種の「芸風」がありますが、きょうび、それは客層によっては必ずしも必要ではないんじゃないかなと思ってしまったのです。考えてみればこうしたバスガイドさんの「芸風」は私が小学生くらいの頃から、いやたぶんもっと前から、ほとんどと言っていいほど変わっていませんよね。

特に景色のきれいなところに差し掛かったりしたら、私なら静かに車窓を眺めていたいです。そんなときでもガイドさんの説明が止むことなくずっとスピーカーから流れ続けて、ひとつの情報だけに耳を傾けさしめるというのは、これはひょっとして日本だけの光景なんじゃないか。そっとしておいてほしい、常に注意を喚起し続けないでほしい、個々人が好きに想像をめぐらせる余地を残しておいてほしいと思うのは私みたいな変人だけなんでしょうか。NHKの『世界ふれあい街歩き』における、あの過剰なナレーションと同じような問題を感じました。

qianchong.hatenablog.com

私たちは街中で常に注意を喚起させられ続けています。もう慣れっこになってしまったのでいまさらそれほどのストレスは感じないかもしれませんが、視覚からはさまざまなサインシステムや看板の文字が大量に流れ込み、聴覚からは不断にアナウンスの声が流れ込みます。それも電車内での「発車しますと揺れますのでご注意ください」的な、まったく必要がないと思われるたぐいの注意喚起が大部分を占めている環境に私たちは馴染みすぎている。

たぶん観光バスのアナウンスも、そういう日本ならではの光景なんじゃないかと思ったのです。これからまたインバウンドが復活して外国からの観光客がたくさん来日されるようになるでしょうけど、あまりに情報過多なのは嫌がられるんじゃないかと思いました。留学生諸君が図らずもやっていたように、いまはスマートフォンなどでいくらでも、それも個々人のニーズに合った情報を得られるのですから。

介護脱毛

一時期「介護脱毛」に興味を持っていろいろと調べたことがありました。もう亡くなってしまった義父と同居したり、妻がくも膜下出血で入院して認知症と変わらない症状を呈していた頃にあれこれ世話をしたりという経験があって、じゃあ「自分の番」になったときはどうだろうと考えたからです。

介護脱毛とは、自らが介護されるかもしれないという将来を想定して、あらかじめ「アンダーヘア」を脱毛しておくことです。脱毛業界(?)では「VIO脱毛」と言われることもあります。ネットで情報を集め、実際に脱毛治療を行っているサロンに行って説明を聞いたりカウンセリングを受けたりしました。いろいろ調べて、結局私はやらないことにしないことにしたのですが。

脱毛サロンでのカウンセリング

サロンでの説明は丁寧で、押し売り的なところも一切ありませんでした。ただ、最初は医師が口頭で説明してくれますが、医療的な部分だけ(たぶん法律で義務づけられているのではないかと思いました)で、その後はビデオを見るという形でした。小さなブースみたいな診察室で、一人ビデオを見ていると、ごめんなさい、若い頃に引っかかりかけたことのある某宗教団体の勧誘を思い出してしまいました。

そのサロンは、ウェブサイトの説明では「脱毛を担当するのは全員男性スタッフ」とのことでしたが、カウンセリングで細かいプランなどを説明してくださったのは女性スタッフでした。私はこんなオジサンですからあまり気になりませんが、お若い方は女性にVIO脱毛のことを聞いたり聞かれたりするのはちょっと抵抗があるかもしれないですね。

ウェブサイトの説明では分からず、カウンセリングで初めて知ったことといえば、こうした脱毛はけっこう時間がかかるという点です。レーザー照射を行ういわゆる医療脱毛でも、一度の照射で効果があって抜けるのは、毛根が成長期にあるものだけ(体毛は成長期→退行期→休止期のサイクルを繰り返しながら生えかわるのだそうです)で、全体の10%から20%程度なのだそう。

つまり、何度も照射を繰り返す中で、生えかわりを待ちながら徐々に脱毛の度合いを高めていくようになっているんですね。一気に脱毛完了とは行かないわけです。最低でも5回、ひと月からふた月ほどの間隔を開けつつ(後ろに行くほど間隔があくそう)通院しなければなりません。個人差もあるでしょうけど、一年くらいはかかりそうです。

カウンセリングでは、脱毛に伴うリスクもきちんと説明してくれます。私は説明を聞きながら、脱毛って思っていたよりもけっこう大変そうなんだなと思いました。というか、本来自然に生えているものを毛根を破壊(説明でもこの言葉を使っていました)してまで処理することの不自然さが逆に際立ってくる感じです。

レーザー照射の際はそれなりに痛みもあるそうで、必要に応じて塗布薬型の麻酔や、笑気麻酔などもオプション(別料金)で使うことができるそうです。ただ、その場で「ちょっと痛いから麻酔を」というわけにはいかず、前もって申し込んでおく必要があるのだとか。カウンセラーさんは、たいがいは最初麻酔なしでやって、その時の痛みの程度によって次回から申し込む・申し込まないを決める人が多いとおっしゃっていました。

それから施術前には自身で剃毛をする必要があります。これは、慣れればどうってことないと思いますけど、けっこう大変そうではあります(特にVIO部分は)。

料金は、私がお話を聞いたところだと5回の照射で10万円弱といったところ。その後数回追加で照射して合計12〜3万円くらいが目安のようです。いろいろと調べた他のサロンもだいたい同じような価格設定でした。

私がうかがったサロンは20代から30代と思しき男性でかなり混み合っていました。サロンによっては「誰にも合うことなくプライバシーを確保」と謳っているところもあります。オフィス街だと見知った顔に会うこともありそうですね。ただし、患者名は名前ではなく番号で呼ぶなど、配慮もされているようでした。

やっぱりやらないと決めた理由

調べて、話を聞いた上で、私は「やっぱりやらない」と決めましたが、これはネットでの宣伝がこの脱毛ブームをかなりかさ上げしているんじゃないかと思えたからです。特にSNSなどでは脱毛、とりわけ男性の脱毛や、介護脱毛の宣伝がかなり強力に行われている印象を持ちました。介護脱毛という言葉そのものが、脱毛業界から打ち出されてきたもののようですし。それだけ未開拓の市場で各サロンの稼ぎどころなのでしょう……と言っては失礼かもしませんが。

ネットで「脱毛」とか「介護脱毛」、あるいは「脱毛 メンズ」などで検索すると、おおむね脱毛を勧めるサイトや広告が上位に並びます。そうした情報をかきわけて、留保を促す意見のなかからいくつか引用いたします。ただし、こういうのは賛否いずれの意見にも自身の「確証バイアス」がかかりやすい領域なので、その辺は注意なさってください。

一方で、高瀬さんは「慎重に処理をした方がいい部位もある」と注意も促す。アンダーヘアだ。「毛が生殖器官をウイルスや細菌などからブロックしている。毛をなくせば、その機能の一つが減る。研究のデータはまだないが、感染症などのリスクが高まる可能性はある」と話す。
https://www.asahi.com/articles/ASNDS6RQFN9ZPTFS001.html

人間の陰部はほぼ粘膜で覆われ、粘膜の再生能力はとても高く、傷ついてもすぐに修復されます。とはいえ、繰り返して擦れたりする機械的刺激に対しては、皮膚ほど強くはありません。だからこそ、周辺を毛で覆うことで保護するために、進化の過程で陰部に毛を残したと考えるのが合理的です。さらに、細菌など外部からの異物をブロックする役割もあり、感染予防においても重要です。
https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20200520-OYTET50013/

おかしいなと思うのは、介護をうけるために陰毛を無くする、という意見である。自分が将来介護を受けることを考え、まえもって無くしておくというのだ。それでは今現在の介護現場で、そのような声が上がっているというのだろうか?陰毛がないほうが介護しやすいから処理しておくべきだという意見が出ているのだろうか??介護職に就く患者さんに聞いてみると、そんな話は聞いたことがない、あんまり関係ないと思う、という意見だ。私も高齢者施設に入所中の患者さんを診察することがあるけれど、同感である。
https://akikowellness.blog/datsumou/


https://www.irasutoya.com/2018/05/blog-post_181.html

経験による格差

骨しゃぶり (id:honeshabri) 氏のブログ『本しゃぶり』に、興味深いお話が載っていました。新しいアプリを目の前にしたときにすぐ対応できるかどうかは、それに似たようなアプリを使い慣れているかどうかという「経験による格差」が大きいというのです。

honeshabri.hatenablog.com

これは非常に納得感のあるお話です。例として挙げられているノート系アプリでも、またさまざまなキャッシュレス決済用アプリでもいいのですが、次々に新しいアプリが現れてそれを使い始めたときに、特に人に聞くこともなければネットで検索することもなしに「なんとなく使えてしまう」のは、いろいろなアプリやソフトを使ってきたという経験があるからなんですね。

そしてまたある種の既視感があるお話でもありました。他人に、それもパソコンやスマホを使い慣れていない人にアプリの使い方を教えるときのあの伝わらなさや隔靴掻痒感の元は、ここにあったんだなと思ったからです。私自身の教え方が悪いのだと思っていました(それもあるでしょうけど)が、あれは使い慣れていない人特有の「当然分かるであろうことが分からない・分かっていない」に起因していたのだと。

そう考えると、骨しゃぶり氏がおすすめされている「ポイ活」でもなんでもいいので、とにかく新しいアプリ、それも日々の暮らしに比較的深く結びついている、あるいは結びつきつつあるアプリは、とりあえず使ってみるというの、とても大切なんじゃないかと思いました。私の中には、そういう新しいものばかり追い求めることに空しさを覚える気持ちも大いにあるのですが、一種のボケ防止対策だと思って取り組むべきなのでしょう。

2030半導体の地政学

先般アメリカのバイデン大統領が来日した際、記者会見で台湾有事の際には「台湾を守るため軍事的に関与する意思があるか」と問われて「イエス」と答え、これを「うれしい失言」などと何だか奇妙な喜び方をしていた政治家がいました。大手マスコミにも「同様の失言も三回目だから、これは本音とみていいのではないか」などと分析しているところがありました。

でも私は、バイデン発言は失言でもなんでもなく、当然「イエス」と言うに決まってる、アメリカのいわゆる「曖昧戦略」などというのはすでに過去の話なんじゃないかと思いました。直前に太田泰彦氏のこの本、『2030半導体地政学』を読んでいたからです。

台湾には世界最高峰かつ他の追随を許さない高度な加工技術を持つTSMC(台湾積体電路製造:台積電)があり、いまやアメリカはなりふり構わず台湾の半導体産業を自国内に取り込もうと、かなり強引に働きかけています。アメリカからすれば、これが中国の手に落ちることだけはどんなことがあっても避けなければと考えるはずです。


2030半導体の地政学

この本の冒頭に、現在の半導体をめぐる熾烈な競争に関わる「キープレーヤー」企業の一覧があります。TSMCや中国のファーウェイ(華為技術)にハイリシコン(海思半導体)、韓国のサムスン電子アメリカのインテルクアルコム、そして日本のキオクシアやルネサスエレクトロニクスあたりまでは知っていましたが、そのほかに電子回路の設計開発で圧倒的な存在感を誇るイギリスのアーム、シリコンウエハーに電子回路を「露光」させる技術でこれまた圧倒的なオランダのASMLなど、さまざまな企業が技術覇権を競う現状は初めて知りました。面白いといっては語弊がありますけど、半導体が最重要の「戦略物資」であるという意味がとてもよく分かりました。

そしてまた、半導体業界の上流から下流までにある、設計した回路を貸し出す企業、製品を企画・デザインする企業、製造を委託される企業……IPベンダー・ファブレスファウンドリーといった新聞ではよく見かけるけれども、正直よく理解していなかったさまざまな企業形態の違いもこの本でよく理解することができました。半導体そのものの理屈や仕組みについてはほとんど書かれていないので、それはまた他の書籍に当たる必要がありますが、少なくとも地政学的な見地で半導体をめぐる競争を俯瞰するのには最適の一冊でした。

しかし何ですね、こういう半導体をめぐる競争、いや「戦争」を見ていると、今次のロシアによるウクライナ侵攻など、きわめて前世紀的な世界観・国家観・民族観・戦争観、そして古い地政学に則って行われているんだなと思います。少なくとも半導体をめぐるこうした世界全体の動きを冷徹に俯瞰していれば、こんな割に合わない侵攻など行う気にもならないんじゃないかと。プーチン氏は「デジタル音痴」だという流言を読んだことがありますが、なるほど、そうなのかもしれません。

文化がヒトを進化させた

インターネットを「集合知」という言葉で形容することがあります。集合知(集団的知性)は、辞書的には「多くの個人の協力と競争の中から、その集団自体に知能、精神が存在するかのように見える知性」*1ということで、とりわけネットのそれはSNSの登場以降ちょっと疑問符がつくような状況にはありますが、それでも無償で世のため人のためにご自身の知識を披露してくださる方はとても多くて、いつも助けられています。

そもそも自分一人で学べることには限界がありますし、すべてを一から学ぶことはできません。となれば、先賢の知的営為の上に「乗っからせてもらう」形で、自分の知識や教養を増やし、伸ばしていくのが短い人生においては得策ということになるでしょう。もしかしたらその先に、自分の知的営為が誰かの役に立つこともあるかもしれません。もっとも私の場合は、いまだそんな「貢献」ができているとはとても思えませんが。

ともあれ、そんな知的好奇心に突き動かされてネットを徘徊し、さらにはそこから触発されたり教えられたりしていろいろな本を読むのですが、今回読んだ『文化がヒトを進化させた』にはとびきり興奮させられました。大枠の主題としては猿の仲間から分岐して現代まで生きてきた私たち人類の進化史なのですが、とりわけ人類がどのように文化を構築してきたのかが様々な研究成果とともに紹介されます。


文化がヒトを進化させた

そして、そうやって生み出されてきた文化が人類の遺伝子レベルにまで影響を及ぼしてきたことを実証しようとするのです。文化がその人らしさを作るといったような比喩的なレベルではなく、まさに遺伝子レベルで物理的・化学的影響をもたらし、人間を改変してきたと。

つまりこの本は、ネットに留まらず、我々の行住坐臥すべてに先人が蓄積してきた集合知が活かされている(だからこそいまこの時代に生きていけているし、新しい知も生み出していける)ことを壮大な人類史の歴史に位置づけながら、さまざまな角度から検討を加えた本と言えます。進化に対する考え方、特に人間の進化に対する考え方が大きく変わる衝撃的な一冊でした。

ジャレド・ダイアモンド氏の『銃・病原菌・鉄』に始まって、それによく似たように見えて*2実はかなり異なるアプローチであるデイヴィッド・W. アンソニー氏の『馬・車輪・言語』を読み、さらにユヴァル・ノア・ハラリ氏の『サピエンス全史』で種としてのヒトの身体に興味を持ち、ダニエル・E・リーバーマン氏の『人体600万年史』とビル・ブライソン氏の『人体大全』を読んだあとにこの『文化がヒトを進化させた』を読んで知的興奮が最大にまで高まりました。

ヒトは賢い、のですが、その賢さには、先人が積み上げてきたメソッドや知見が大いに生かされているからだと著者は言います。訳者*3あとがきに簡潔にまとめられていたように「祖先代々受け継がれてきた知識や技術や習慣など、膨大な文化遺産の澎湖から,知的アプリケーションをふんだんにダウンロードして利用しているから」だと。

それは一方で、受け継がれない知識や技術や習慣は、驚くほど短時間に失われるということも意味しています。また一度失われてしまうと、あるいはそもそもそういう知識や技術や習慣が存在していない場所では、ゼロからそれを一挙に作り出すこともほとんど不可能だということも。北極で遭難した探検隊、海に隔てられて技術が「退化」したタスマニア原住民、ついに車輪を発明することがなかったインカ文明などなど、それを裏付ける歴史上の事実が次々に語られます。

この本を読んで、やはり私たちは学び続けなければならないとあらためて思いました。そしてまた初中等教育の段階で、人類が蓄積してきた様々な知見を一通り広く浅く(本当は広く深くが理想だけれども)学ぶことの大切さも感じました。世上よく言われる、三角関数微分積分など、学校を出てから使うことなんてまずないんだから学ばなくていいんじゃないか的な言説が、いかに幼稚で浅はかかということが分かります。 

以前にこのブロクにも書いたことがありますが、数学に限らず、そういった学習内容というものは、大人になって使うため「だけ」に学ぶんじゃないんですよね。それらを学ぶことで抽象的・科学的な思考方法を身につけることに意味があるんです。あるいは先人に倣って、知的な営みの習慣をつけるため、教養を育むためと言ってもいい。それをあらためて確認できた一冊でした。
qianchong.hatenablog.com
集合知について付け加えると、ひとりの専門家の意見より、多くの大衆の集合知のほうが正答率が高いとよく言われます。ですが、大衆がメディアなどによって偏向させられている場合はそうはなりません。だからこそ、少数のイデオローグによる煽動や洗脳を許してはならないのです。マスメディアの責任はきわめて大きいといえますが、最近はそのマスメディアが丸腰でSNSにすり寄りすぎているんじゃないかな、危ないんじゃないかな……と個人的には感じています。
www.q-o-n.com

*1:集団的知性 - Wikipedia

*2:題名はともかく、日本語版の装丁まで『銃・病原菌・鉄』そっくりにしちゃう出版社の節操のなさはちょっとどうかと思いました。

*3:翻訳者は今西康子氏。とても読みやすいです。

あの薄いビニール袋との戦いはまだまだ続く

先日、渋谷のTHE BODY SHOPでローションを買ったら、「中身が漏れ出す心配はございませんので、このままお持ちください」と商品をそのまま手渡されました。簡潔でいいなと思いました。以前にも同じお店で同じ商品を買ったことがあるのですが、その時は薄い透明なビニール袋に入れてくれました。あれから無駄な包装を省くべく検討されたのでしょうね。

Patagoniaでダウンジャケットを買ったときも、丁寧な口調で「このままのお渡しになりますが、よろしいですか」と聞かれ、くるくるっと丸めたダウンを小脇に抱えて店をあとにしました。日本の、プラスチック・マトリョーシカとも揶揄される過剰包装に疑問を持ち、企業としてこうした勇気ある行動に出ようというの(残念ながら、日本ではまだまだ勇気ある行動の範疇に入るでしょう)、私は心から支持したいと思います。

ローションやダウンジャケットと同列には語れないかもしれませんが、ひるがえって相変わらずだなあと思うのは、毎度私があの薄いビニールとの戦いを続けているスーパーマーケットです。スーパーにマイバッグを持っていくのはまあ当然なんですけど、ありとあらゆる冷蔵品を薄いビニール袋に入れてくださろうとするレジ係の方に「それはけっこうです」と伝えるタイミングがとても難しく、「戦績」は五分五分といったところ。ほんのちょっと油断するだけで(財布からカードを出している隙など)、肉も豆腐もチーズもバラ売りの野菜も片っ端から「アレ」に入れられてしまいます。

レジであらかじめ「ビニールはいりません」と言っておくという手もあるのですが、レジ手前に置いてあって1枚3円だか5円だかで売られているあの白いビニール袋のことだとレジ係の方に勘違いされることが多いです。レジ係の方からは「ビニールいらないんだったら取らなきゃいいんだから、いちいち言わなくても」という冷たい視線を浴びることになります(きっと考えすぎでしょうけど)が、私が「いりません」と言っているのは、「水物袋(みずものぶくろ)」と呼ばれるあの薄いビニール袋なのです。

先日も肉や野菜や豆腐などを買って、レジ係の方が次々にPOSで読み取っているなか、肉のパックに手がかかり、同時に水物袋にも手がかかった瞬間を見定めて「あっ、そのビニールはいらないです」と言ったら、ものすごく怪訝な顔で「肉ですけど、いいんですか」と返されました。「いいんです」と言いましたが、レジ係の方はとても不満そうでした。まるで「私のこの流れるような水物袋さばきを邪魔するなんて」と抗議したがっているようにも見えました(これもきっと考えすぎでしょうけど)。

かつてスーパーには、買い物籠に放り込んでおける「レジ袋いりませんカード」がありましたが、最近はほぼ有料化されたためか少なくなりました。いっぽうで一部のスーパーには「水物袋いりませんカード」を置いているところもあります。企業によっては少しずつ意識が変わってきているようですが、そもそも水物袋をほとんどの冷蔵品に使うという発想から改めて行ってほしいと思います。

レジ係の方に怪訝な顔をされたくだんのスーパーには、レジを抜けて商品をレジ袋やマイバッグに詰め替えるカウンターの上にこんなディスプレイがありました。

このスーパーではもっかSDGs、とりわけフードロスの問題にとても関心を寄せておられるようですが、ぜひあの過剰な薄いビニール袋ーー水物袋の問題にも取り組んでほしいです。……しかし、そのすぐ下にはロール状の水物袋が取り放題になっていて、「いーとーまきまき」よろしくごっそり持っていこうとするオジサンやオバサンを強く引きつけてやまないのです。嗚呼哀哉。

フィンランド語 169 …日文芬訳の練習・その81

日本では「アフターコロナ」の生活様式を模索し始めています。政府は屋外でマスクを外すことを推奨し、世論調査でも屋外でマスクを外すことに賛成する人が半分以上います。ところが実際に屋外で観察してみると、今のところマスクを外している人はほとんどいません。日本は同調圧力がきわめて高いと言われますから、みんなまだマスクを外す勇気を持てないのでしょう。私自身は、もう屋外ではマスクをしないと決めました。約二年ぶりにとても爽快な気分を味わっています。


Japanissa ihmiset alkavat etsiä "koronan jälkeen" elämäntyyliä. Japanin hallitus neuvoo maskin poistamista ulkona, mielipidemittauksissa myös yli puoli prosenttia ihmisistä kannattaa sitä. Mutta itse asiassa melkein kaikki käyttävät edelleen maskia tällä hetkellä. Sanotaan, että japanilaisessa yhteiskunnassa on paljon ryhmäpainetta, joten ihmiset eivät uskalla ottaa maskia pois. Itsestäni puhuen, että jo päätin poistaa maskin ulkona. Koen oloni virkeäksi ensimmäistä kertaa noin kahteen vuoteen.



https://www.irasutoya.com/2020/02/blog-post_418.html

cakesが終了と聞いて

クリエイターと出版社、そして読者をつなぐというコンセプトの「cakes(ケイクス)」がサービスを終了するそうです。cakesには好きな連載記事もいくつかあって、私も一時は課金していたこともありました。書籍化されて買った本もけっこうあります。ただここ数年は更新直後に無料で読ませていただくばっかりで、あまり熱心かつ忠実なユーザではありませんでした。
cakes.mu
おそらくそんなユーザが多かったのでしょう、有料コンテンツで持続的な事業を作り出すのは難しいのだなと改めて思いました。無料記事が多ければそれだけSNSなどで拡散する可能性も高まりますが、それが利益に結びつくかどうかは「微妙」ですし、全部有料にしてしまうとこのコンテンツ過剰な時代では一定規模の読者数や会員数を保つことは難しくなります。

かつて翻訳者の仲間のみなさん(とはいえネットでのみつながっていて、実際にお目にかかった方は少なかったです)とC-Pop(中国語圏のポップミュージック)をテーマにしたメルマガを作っていたことがありました。K-Pop全盛の現代ではちょっと想像しにくいのですが、当時は中国語圏、特に香港や台湾のアーティストが日本でも注目され初めていたのです。でもこれも、最終的には課金する事業を構想しながらも、結局は日本におけるC-Popの流行が退潮に傾くのと軌を一にするように立ち消えになってしまいました。

その後も私は個人でC-Popのブログなど作っていた時期もありましたが、これもやめてしまいました。あのときの記事はどこへ行ったかしら。ブログを閉じるときに文章をエクスポートしたかどうかも記憶が曖昧です。けっこうたくさん記事を書いていたはずなんですけど。

そういえばcakesの記事はエクスポートができないそうです。これは、寄稿されていた方々にとってはかなり困るのではないかとお察しします。自分がいま記事を書いているこのはてなブログは、エクスポートが簡単です。記事のレイアウトや写真やイラストなどは残りませんが、テキストだけは保存しておくことができます。

自分の文章など他人にはほとんど何の価値もないですけど、少なくとも自分ひとりの記録としては残しておきたいと思います。文章を書いている時は、なぜか普段の自分の思考からは思いもよらなかった考えが湧き出すものですし、その後ふたたび同じように書くことが必ずしも容易ではない思考が現れることがあるので、あとから読み返すと「こんなこと考えていたのか」と、かなり面白いからです。


https://www.irasutoya.com/2016/12/blog-post_233.html

屋外ではマスクを外します

ここのところ数日ほど、各社の世論調査結果を興味深く見ていました。政府が公表した屋内外でのマスクの着用基準を受けて、マスク着用基準の緩和について賛意を表す方が、どの社の調査でもおおむね五割を超えていたからです。つまり屋外では、一定の条件を満たせば(ソーシャルディスタンスが取れているとか、会話をしていないとか)マスクを外すことに半分の人々が肯定的な考えを持っているわけです。

ところが往来を歩いてみると分かりますけど、実際にはそうした世論調査の結果をまったく反映していない光景が広がっています。道行くほとんどの方々が、いまだマスクを着用されているのです。数えたわけじゃありませんが、おそらく100人に数人程度というレベルではないでしょうか。

これはもう多くの方が指摘されているように、日本ならではの同調圧力のなせる技なのでしょう。あるいは、世論調査では理想論や多少「カッコつけた意見」を言えるけれど、実際に人前に出ると「そうはいってもね……」と腰砕けになっているということでもあるのでしょう。

私自身は、もう屋外ではマスクをしないと決めました。屋内にいるときはもちろん、公共交通機関を使っているときや、屋外でもあまりに人が密集しているところでは着用しますけど、それ以外は外しています。いまはまだすれ違う人々の視線が何となく気になりますが、たぶんもう少ししたら(気候も暑くなってきましたし)外す方は多くなるんじゃないかと想像しています。

屋外ではマスクを外し、屋内ではマスクをつける……となると、特に都心で移動しているときなど、頻繁に着脱を繰り返すことになります。これは意外にめんどくさい。コロナ禍に突入してからというもの、私たちはいろいろと新しい生活様式を作り出し,それに慣れようとしてきましたが、これからの過渡期にはこの「マスクの頻繁な着脱」に適応した様式が生まれてくるかもしれません。ウエストバックみたいな形式の「マスクバック」とか、そういう何か新しい商品も登場するんじゃないかしら。

ところで、各社の世論調査結果によれば、屋外でマスクを外すことに肯定的な方は高齢者になるほど多く、若い世代になるほど少なくなるという傾向があるそうです。なるほど、コロナウイルスが猖獗を極めていたころにも、時折電車の中でもマスクをしていない猛者がいましたが、それはほとんどお年寄り(それも男性)でした。う〜ん、当時私はそういうジジイ(失礼)を苦々しく思っていましたが、もしかすると今現在、往来でマスクをしていない初老の私をみて、道行くお若い方々は「なんだこのジジイ」とか「ヤバい奴がきた」などと思っているのかもしれません。


https://www.irasutoya.com/2020/07/blog-post_420.html

超没入:メールにもチャットにも邪魔されない、働き方の正解

私はGmailのアカウントを3つ持っています。1つは個人用、残りの2つは仕事用です。以前は個人用のアカウント1つで仕事にも兼用していたのですが、仕事の幅が広がるとともにアカウントも増えました。最初に使い始めたアカウントの「すべてのメール」で一番古いものを検索してみると、2007年3月31日のメールが出てきます。そう、この頃から私はGmailを使い始めたのでした。ちょうど15年前です。

使い始めたとき、どこかで読んだライフハック的な記事で、Gmailは読み終わったメールをアーカイブでき、あとから検索していつどんなやり取りをしたのか確認するのに便利だということを知りました。そこで私は、DMや宅配便の通知など、あきらかに保存しておく必要のないメール以外は削除せず、アーカイブしてきました。それが現在では何万通という膨大な数になって堆積しています。

よくもまあこんなにたくさんのメールを受け取り、自分からも発信してきたものだと思います。朝起きてまず確認するのはそれぞれのアカウントの受信箱ですし、仕事中もブラウザには常に3つのGmail画面をChromeのタブにして並べてあります。メールが着信したらすぐに気づけるように(ご承知のようにChromeGmailタブは新着メールがあるとその着信数が数字で表示されるのです)。

さらにコロナ禍に突入してからというもの、インスタントメッセンジャー(チャット)も頻繁に使うようになりました。私が仕事で常時連絡を取り合う必要があるのは5名ほどの同僚ですが、コロナ禍でオンライン授業と対面授業のハイブリッドになったため、在宅勤務や時差出勤が増えました。同僚が全員オフィスに揃っていることが少なくなったため、Gmailに付属しているハングアウトで連絡を取り合うようになったのです。ますますGmailの画面から離れられなくなっています。

このように仕事に(いやGmailはプライベートでも使っていますから、もはや暮らし全体に)欠かせなくなっているメールやインスタントメッセンジャーですが、そうしたツールに束縛されるワークフローを俎上に載せ、それらを克服した先にあるべき新しい働き方を提唱する衝撃的な本を読みました。カル・ニューポート氏の『超没入: メールやチャットに邪魔されない、働き方の正解(原題:A WORLD WITHOUT EMAIL)』です。


超没入:メールにもチャットにも邪魔されない、働き方の正解

カル・ニューポート氏といえば、巨大ネット産業の構造、特に「注意経済(アテンション・エコノミー)」と呼ばれる産業構造が、いかに金銭的な利益のために人間の心理的弱点を利用しているかについて、驚くべき(しかし冷静に考えればもっともな)事実を教えてくれた『デジタル・ミニマリスト』の著者です。

私は以前この本を読んで、自分の暮らしが大きく変わりました。まず依存症ともいうべき状態に近かったスマートフォンの使用時間が減り、TwitterなどのSNSをほとんど「降り」、そのぶん本を読んだり、語学の勉強をしたり、トレーニングをしたり……と自分の時間をより主体的・自律的に使えるようになったのです。

その氏の新著が『超没入:メールにもチャットにも邪魔されない、働き方の正解』です。かつての電話や会議や紙の資料のやりとりに変わって登場した、メールをはじめとする革新的なツールの数々。それが今やまったく予想外の結果として「注意散漫な集合精神」をもたらしていると氏は言います。こうしたツールが我々の職場環境をより効率的でスマートなものにしたと信じて疑っていなかったのに、実はそれこそが業務への集中を妨げ、生産性を低下させ、あまつさえ我々を不幸にさえしているのではないかと。

先だって読んだジェニー・オデル氏の『何もしない』には、スマホやパソコンの画面に表示される新着通知やその数字の存在が不断に私たちの注意をひきつけ、主体的で継続的な思考を中断させる危険について論じられた一節がありました。まさにそれと同じような、常に私たちの注意を喚起し続ける存在としてのメールなどのツールの、その異様ともいえる側面にカル・ニューポート氏も斬り込んでいます。

絶え間ないメールやチャットのやりとりがもたらす「注意散漫な集合精神」について、本書でその例として挙げられている事象の多くに私は「そうそう!」「たしかに!」と膝を打ちまくりでした。あまりにも自分の仕事環境と似ているためにちょっと怖くなってしまうほど。日々メールやチャットで当たり前のように行ってきた働き方こそが、自らの集中すべき業務や作業にかつてなかったほどの断片化と、その結果としての生産性の低下をもたらしていたとは。

「半永久的にメールなしで仕事をする」。序章に掲げられていたこのフレーズに、そんなバカなと思いつつ本書を読み進めていくうち、もうこれなしでは今後の働き方を考えることができなくなりました。現在のようなメールの使い方がもたらす散発的で断片的なコミュニケーションから抜け出し、個人のタスクにじっくり集中して取り組むこと――『デジタル・ミニマリスト』同様、「よりよい人生とは、人間らしい暮らしのあり方とは」を考え直す大きな気づきを与えてくれる一冊でした。

比べないけど競いたい

語学においては、自分を人と比べることに何の意味もありません。私は誰それより上手く話せるとか、誰それより単語をたくさん知っているとか、そんなことはどうでもいいのです。それはもちろん上手く話せるに、あるいは単語をたくさん知っているに越したことはないですけど、それを人と比べることに意味はないと思うのです。それぞれの学習歴も言語環境も異なるのですから。比べるなら以前の自分をおいて他にありません。

それは分かっているつもりなのですが、ひとりで黙々と語学をやっていてもあまり面白くありません。もちろんひとりで黙々やる方が楽しいという方もいるでしょうけど、私は誰かと競いながら学びたい。誰かと競うってことは比べるってことじゃないのかって? たしかにそういう一面もありますが、序列をつける、あるいは合否を決めるために競うのではなく、お互いがお互いのモチベーションを高めるような形で競えたらいいなと思うのです。何となく矛盾しているようで、なかなか言語化が難しいのですが、要するに切磋琢磨したいのですね。

私にとって、語学学校に通う目的はひとえにこの点にあります。誰かと一緒に学ぶことで自分も刺激を受けたい。自分ひとりでは気づくことのできなかった自分の至らない点をクラスメートから気づかせてもらえることほど、ありがたいことはありません。だから、こんな言い方は本当に傲慢かつ不遜で申し訳ないのですが、クラスメートが頼りないというか「相手にとって不足あり」だと張り合いがありません。

かつて中国語を学び始めたときも、最初に通った学校はクラスメートどころか先生もあまりに頼りなくて(毎回授業に遅刻してくるぐらいでした)、すぐに学校を変えました。さいわい変えた先の学校はとても活気があって、先生にもクラスメートにも大いに刺激を受けました。留学していたときは、先生はやや頼りなかったけれど(ごめんなさい)、いろいろな国籍のクラスメートとはよい意味で競い合うことができました。

通訳学校は、都内で日中中日通訳を訓練できる民間の学校みっつとも転々としました(上述したような理由で「張り合い」を求めて)、最後にたどり着いた学校では先生にもクラスメートにも恵まれました。ほんとうに感謝しています。

ひょっとすると、私のような生徒がクラスにいたら、クラスメートはもちろん、先生だってちょっと迷惑かもしれません。クラスメートの中には自分のペースでゆるゆると学びたいという方だっているでしょうし、先生にしたってひとりだけやたらアグレッシブな生徒がいたらかえって教えにくいでしょう。

私自身教師の端くれですから、そのへんの事情は分からなくもありません。ひとつのクラスに習熟度やモチベーションの異なる生徒が混在している場合、どのあたりに基準を置いて教えるかにかなりの神経を使うものですから。グループレッスンである以上、それはある程度しかたがないことは私にだって分かります。

そうなるとこれはもう、マンツーマンレッスンにしか自分の求めるものはないのかもしれません。でもマンツーマンでのプレッシャーと、クラスメートとの切磋琢磨は、やはりぜんぜん違うものなんですよね。ああ、なんだか自分が自分でも大嫌いな、やたらマウントを取りたがる「老害」のオジサンっぽく思えてきました。

筋トレなんかは、これはもう純粋に「自分との対話」だからパーソナルトレーニングでよくて、逆にグループトレーニングなど求めないですけど、語学はやっぱり複数の“志同道合(志と信念を同じくする)”クラスメートが欲しい。でも私がいま学んでいる語学はとてもマイナーなので、学校や教室の選択肢も多くない。いやいや、語学だって身体技能である以上「自分との対話」でいいじゃないか……などと、思考がぐるぐると回って、最近は悶々としています。


https://www.irasutoya.com/2018/09/blog-post_34.html