インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

お酒から遠く離れて

お酒をやめてから二ヶ月ほどになりました。あれほど毎日飲まずにはいられない生活だったのに、なぜこんなにふっつりとやめることができてしまったのか、自分でもよく分かりません。「もう一生分飲んでしまったから」と自分で自分を納得させていますが、もうひとつ自分の背中を押してくれたのは『「そろそろ、お酒やめようかな」と思ったときに読む本』という本でした。

この本ではきわめて直裁に「お酒は嗜好品ではなく薬物である」と言い切っています。私は正直に申し上げて、こういう物言いはあまり好きではありません。お酒以外にも「砂糖は化学方程式で表される薬」だとか「新型コロナワクチンには死刑にも使われる薬物である塩化カリウムが含まれている」といった、ほとんど陰謀論に近い言説に似ていると思うからです。

https://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E7%A0%82%E7%B3%96

砂糖は化学方程式(化学式?)で表される薬だから身体に悪い……などと言い出したら、世にあまたある化学物質すべてが身体に悪いことになるんじゃないでしょうか。塩はNaClだし、水はH2Oです。身体に悪影響を与える化学物質もありますが、そうでないものもある。そうでないものも量によっては悪影響を及ぼすこともある。そういうものですよね。死刑に用いられる塩化カリウムの量と、ワクチンに含まれている微量のそれとを同列で論じるのは鬼面人を威すやりかたです。

ただ、私は上掲の本で「お酒は嗜好品ではなく薬物である」という物言いに接したとき、なぜか反発より「ああそうか」という納得が先に降りてきました。だからといって他人にも「酒や薬物なんだぞ!」と吹聴する気はまったくありませんが、自分のなかでは「じゃあ、やめようか」という行動にすんなり結びついたのです。たぶん以前なら反発が先に来たのでしょうけど、これだかたくさんお酒を飲んできて、しかもそのために体調を崩してほとほと嫌になっていたところに、この物言い。何か小さな引き金になってくれたような気がしています。

お酒をやめてみて、あらためて世の中にはお酒の広告があふれているなと思いました。テレビはもちろん、街頭や電車内の広告も、新聞や雑誌やネットにも、お酒そのものだけではなく、お酒を介した楽しい暮らしのイメージがあふれています。それぞれの広告のシズル感(人の感覚を刺激する感じ)も、当然のことながらとても上手に盛り込まれている。ああ、なるほど、こういうアプローチで来られたら、ついついお酒を飲みたくなるよなあ……と、お酒をやめてからよりその誘惑の手法が分かるようになりました。

もちろん私がお酒をやめたのは純粋に個人の選択としてであり、他人に禁酒をお勧めも強要も一切する気はなく、その点でそれらの広告に反発を感じることはないのです(商品の広告なんだからそうした手法は当然です)が、ただ以前よりもそうした広告の存在とその「仕掛け」に気づくことが多くなったという感じ。お酒に興味がなくなったのなら、お酒の広告にも興味が向かなくなるはずなのに、これはどうしてなのか。まだお酒に未練があるからなのか。よくわかりません。

とりあえず、お酒を飲まなくなってからすこぶる体調がよく、積ん読になっていた本がどんどん減っていくので、今後も飲まない日々を続けようと思っています。

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https://www.irasutoya.com/2016/01/blog-post_982.html

フィンランド語 133 …三人称命令形

新しい文法項目として、三人称の命令形が出てきました。これまでには二人称の命令形を学んでいます。「命令」するときは、まず多くの場合、向かい合っている「あなた(単数)/あなたたち(複数)」に対して行うわけで、だから二人称なんですね。例えば“lukea(読む)”なら……

  肯定形 否定形
単数 Lue!(あなたが)読め! Älä lue! 読むな!
複数 Luekaa!(あなたたちが)読め! Älkää lukeko! 読むな!

それから一人称の命令形というのもあるそうです。これは複数のみで、命令というより「〜しようよ」とか「〜しましょう」というニュアンスになります。

  肯定形 否定形
複数 Luekaamme!(私たちは)読みましょう! Älkäämme lukeko!(わたしたちは)読まないでおきましょう!

「〜しましょう」ということでは、以前に学んだ受動態でも言えるのでした。“Luetaan!(読みましょう!)”。先生によれば、一人称命令形も受動態もまったく同じ意味ですが、どちらかというと受動態のほうが多く使われ、一人称命令形はやや硬い表現になるそうです。

Unohtakaamme tämä asia!
このことを忘れましょう!

「私たちはこのことを忘れる」という普通の文なら“(Me) unohdamme tämän asian.”と主語と動詞が連動していて目的語は対格になりますが、“Unohtakaamme tämä asia!”は主語と動詞が連動しないので目的語が原型に戻っています。ただし否定文では原則通り目的語は分格になります。

Älkäämme unohtako tätä asiaa!
このことを忘れないでおきましょう!

そして三人称の命令形です。私でもあなたでもなく、誰々に命令するというのはなんとなくイメージしにくいですが、要するに話し手と聞き手以外の誰かに「〜させよう」「〜してもらおう」という表現のようですね。作り方は比較的簡単で、二人称複数の命令形でつけていた語尾“kaa/kää”を“koon/köön”にするだけです。これが単数の場合。複数は“koot/kööt”をつけます。否定は“Älköön/Älkööt”。

  肯定形 否定形
単数 Lukekoon!(誰々に)読ませよう! Älköön lukeko! 読ませないようにしよう!
複数 Lukekoot!(誰々たちに)読ませよう! Älkööt lukeko! 読ませないようにしよう!

参考書にはこんな例文が載っていました。

Minulla on kiire. Käyköön Liisa asemalla.
私は忙しい。リーサに駅に行ってきてもらおう。
Lapset älkööt leikkikö, vaan siivotkoot huoneensa.
子どもたちに遊ぶのをやめさせて、部屋を掃除させよう。
フィンランド語文法ハンドブック』321ページ

なるほど。先生によると、この三人称命令形は熟語的に使われるものも多いそうです。

Onneksi olkoon!
幸せでいなさい!→おめでとう!
Eläköön Suomi!
フィンランドよ、生きろ!→フィンランド万歳!

それから先生は、フィンランドの歴史家で詩人のアルヴィドソン(Adolf Ivar Arwidsson/1791―1858)の言葉も紹介してくださいました。1809年に、フィンランドが長きにわたったスウェーデンの統治から離れてロシアに併合されたあとの言葉のようです。

Ruotsalaisia emme enää ole, venäläisiksi emme halua tulla, olkaamme siis suomalaisia.
もはやスウェーデン人ではなく、ロシア人にもなりたくない。私たちはフィンランド人になろう。

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フィンランド語 132 …日文芬訳の練習・その52

「Zoomで」というのを最初“Zoomissa”と内格にしていたのですが、これは「道具・手段の llA」ということで“Zoomilla”に直されました。また「地震がない国」は“maa ei tärise(揺れない国)”という言い方もあるとのこと。“täristä”が「揺れる」という動詞ですね。

先週東京で、比較的大きな地震がありました。職場の学校には、地震がまったくない国の留学生もいるので、かなり怖かっただろうと思います。翌日は一部の交通機関が乱れて、登校できない学生が続出しました。私は学校から指示を受けて、学生をzoomで繋ぐために朝から大わらわでしたが、本音は「休校にすればいいのに」でした。こういう時でもなんとか通常の業務をやろうとする日本の私たちは、はたして良いのか悪いのか分かりません。


Viime viikolla Tokiossa oli suhteellisen suuri maanjäristys. Koulussamme on ulkomaalaisia opiskelijoita, jotka tulevat maista, joissa ei ole maanjäristyksiä, joten luulen, että he pelkäsivät sitä hirveästi. Seuraavana päivänä monet oppilaat eivät voineet tulla kouluun, koska julkiset liikenteet myöhästyivät. Pomoni käski minun yhdistää opiskelijoiden välit Zoomilla. Olin ollut erittäin kiireinen aamusta asti. Tässä tapauksessa mielestäni on kuitenkin parempi sulkea koulu. Japanilaiset selviäisivät aina joskus jopa hätätilanteissa. En tiedä onko se hyvä vai huono.

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https://www.irasutoya.com/2018/09/blog-post_755.html

Officeが使いにくくてしょうがない

これは私がMacBookを愛用しているからことさらに言挙げしているんじゃないんですけど、最近つくづくMicrosoftのOfficeは使いにくいなあと思うようになりました。WordもExcelPowerPointも日々使っているものの、とにかく挙動がいちいちめんどくさく、メニューが多すぎて使い勝手が悪いです。あと、これは言っても詮ないことですけど、ユーザーインターフェースのデザインがとっても「垢抜けてない」。

加えていまの職場はクラウドストレージにGoogle Driveを使うよう指示されていて、仕方なしに使っていますが、職場のネット環境が貧弱だからなのか、たびたび不可思議な挙動が起こって作業が滞ります。私はド素人なので単なる憶測ですが、Mac機とWindows機をGoogle Driveで使うという「三つ巴」の環境の中でいろいろと齟齬が起こっているような気がしています。

まあこれは前述したような職場のネット環境の問題に加えて、私が使っているパソコンが非力なのだと諦めていますが、Officeのゴテゴテとした大仰さ+デザインの不在に毎日つきあっているのは本当に神経に障ります。

それで最近は、文章を書くときにWordを使うことはほとんどなくなりました。いま書いているこの文章もそうですが、アウトライナーで。アウトライナーはWorkFlowyを使っていますが、きわめてシンプルなデザインなので、書くことと考えることだけに集中できてとても快適です。

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最近WorkFlowyはアップデートされて、文字に色をつけたり、網掛けをしたりできるようになったのですが、個人的にはこれもあまり必要ないかなと。

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私は常々、冗談半分本気半分で「Windowsが事実上の世界標準になったのは、人類にとっての一大不幸だった」と言っているのですが、Officeにも同じようなことが言えるかもしれません。同僚のWindowsファンからはいつも煙たがられていますが。

Duolingoの英語メニューが急に変わった

言語学習アプリのDuolingo、今のところ私は「日本語で学ぶ英語」と「英語で学ぶフィンランド語」のふたつを毎日隙間時間に取り組んでいます。このアプリ、特に英語はいろいろなコンテンツがあって飽きず、サボってあまり学習しないでいると「リーグ」落ちになってしまう(しかも再度上のリーグに戻るのはけっこうたいへん)ので、毎日コンスタントに学ぶ習慣が身につきます。なかなか上手くできているのです。

英語の方はすでに全コンテンツを学び終えて「コンプリート」してしまい、あとはもう復習するくらいしかないので少々つまらないなと思っていたら、二週間ほど前に突然画面がリニューアルされて、新しいコンテンツが増えました。ただ、それまでは受動態や過去完了形など比較的難しい(私にとっては)内容がそろっていたのに、リニューアル後は明らかに難易度が下がったように思えます。文法事項によるカテゴライズが少なくなり、そのかわりさまざまなテーマごとに語彙を増やす方向になったようです。

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これはいったいどういうことなのかと、Duolingoのサポートページ(ヘルプセンター)を見に行くと「私のコースが変わったのはなぜですか?」という質問項目がありました。

コースのアップデートでは、どのような改善が行われるのですか?


1. コンテンツの追加:私たちの目標は、あなたが学習中の言語をCEFR(英語表記のブログ記事)のB2レベルまで教えることです。そのため、あなたをB2レベルに近づけるためにコンテンツを追加したのかもしれません。


2. 既存のコンテンツの調整:私たちは、どのようにすれば最も効果的に教えることができるかを確認するために常に実験を行っています。そのため、みなさんがより効果的に、より全面的に学べるようにコンテンツを調整してコースを更新している可能性があります。


3. 全く新しいコンテンツの作成:私たちは、すべてのコースをCEFRの基準に合わせたいと考えています。そのため、コースの内容を全面的に変更して、教える内容と教える時期を改善し、適切な内容を適切なタイミングで学べるようにすることもあります。

https://support.duolingo.com/hc/ja/articles/360055757612-%E7%A7%81%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%81%8C%E5%A4%89%E3%82%8F%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%81%A7%E3%81%99%E3%81%8B-

CEFRのB2レベルとは「ガイドライン」ではこのように位置づけられているそうです。

CEFR ガイドラインによると、英語のB2レベルの人は:


自分の専門分野での技術的な議論を含め、その話題が具体的でも抽象的でも、複雑な文章の主旨を理解できる。


ある程度流暢に、自然に相手とやりとりができ、無理なくネイティブスピーカーと通常の対話ができる。


幅広い話題に対して明確で詳細な文章が作れ、複数の選択肢の長所や短所を挙げながら時事問題に対する自分の意見を述べられる。
https://www.efset.org/ja/cefr/b2/

う〜ん、これはどうかなあ。少なくとも私は、いまの自分の英語がこのようなレベルに達しているとはとても思えませんし、新しくなったDuolingoの英語コンテンツもそれよりははるかに易しいものばかりだと思います。

しかも、新しくなってからも毎日取り組んでいますが、以前よりも明らかに同じような文章(単語を入れ替えた程度)の反復が多くなりました。利用されている方はご存じだと思いますが、1レッスン20問出題されるうちの15問くらいが、ほとんど同じような文章だったりすることもあるのです。これではあまりに単調です。それでせっかくアプリも有償版にして2000日近く継続してきたDuolingoはもう「卒業」かな、とも思ったのですが、そこでちょっと思い直しました。

確かにDuolingoでは同じような文章を手を変え品を変え繰り返して入力させられます。でもそのおかげで英語の語順の感覚はかなり身体に入ってきたような気がします。中国語も似たようなところがありますが、日本語とはかなり異なる「まずは主語、そして動詞を明らかにし、それを先に出す!」という感覚が身につきました。出題されると同時にぱっと英文が脳内に響くようになったのです。

またフィンランド語も平行して英語を使って学んでいるため、英語が出た瞬間に日本語ではなくフィンランド語の単語が頭に響くこともあります。母語である日本語をまったく介することなく、第二言語、第三言語が頭の中を飛び交うというのは、とてもエキサイティングで一種の快感に近い感覚を覚えます。私は朝の通勤電車で主に取り組んでいますが、ちょっとけだるい感覚の頭が、明らかにどんどんスッキリしてくるのがわかるのです。

というわけでDuolingo、もう少し継続してみようと思っています。①一番上の「ダイヤモンドリーグ」に残留し続ける、②有償版の年会費以外の課金は行わない、をマイルールとしながら、これからも。

清少納言を求めて、フィンランドから京都へ

いわゆる「アラフォーシングル」のミア・カンキマキ(Mia Kankimäki)氏が清少納言に魅せられ、休職して京都へ研究に赴く……というより安宿に「転がり込む」ようにして京都にやってきます。エッセイであり、紀行文であり、ご自身がフィンランド人であるだけに自ずからそれは比較文化論にもなっていて、とても楽しんで読みました。京都に到着したばかりの時に、筆者はこう書きます。

ここでこれから私は人生の三ヶ月を過ごすのだ。会議を梯子するのでも、ストレスで苦しむのでも、絶ゆまぬ(ママ)成長と営業活動改善と組織改革の圧力を受けるのでも、モチベーション不足に陥るのでも、転職という名のもとに安月給に悩まされるのでも、六時十五分に鳴る目覚まし時計に従うのでも、変わり映えのしない毎日にフラストレーションを溜めるのでも、テレビ番組の次回を待つのでも、違和感を覚えてプレッシャーに押し潰されるのでもなくーーここで、自由に、自立して、一人で、目の前にあるあらゆる可能性を、毎朝、自分の思うままに、したいことやしそびれたことを選ぶために。(82ページ)

この記述に「ぐっ」と心を掴まれる方は多いのではないでしょうか。私ももちろんそのひとりです。ああ、私もこんなふうに、日常に倦んだ自分の心を解き放って、例えばフィンランドのユヴァスキュラあたりにでも行って、思う存分勉強できるような日々に身を置いてみたい。

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清少納言を求めて、フィンランドから京都へ

でも、この本は、そうした「自分探し」のようなよしなしごとをただ書き連ねているだけではありません。そのベースにはご自身がこんなにも惹かれてしまった清少納言の『枕草子』について独自の解釈や、その成立の背景を推理する一種の「謎解き」のような考察が敷かれています。これがまた面白く、また自分が日本語母語話者でありがなら『枕草子』をほとんど読んでこなかったことを恥じ(中学校か高校の「古文」で冒頭部分「春はあけぼの……」を暗記させられたくらいでしょう)、もう一度読んでみたいと強く思わせてくれるのです。

紫式部の『源氏物語』に比べて、英訳された資料が圧倒的に少ないという『枕草子』。そして筆者は、日本語がほとんど分からず読むこともできず、わずかに英訳された枕草子の資料を通して清少納言の人物像と、生きた時代に想像を馳せて行きます。清少納言の他に、もちろん紫式部にも、そして吉田兼好、さらにはヴァージニア・ウルフにまで考察は及びます。ちょっと無謀とも思えるような研究の旅。けれども、筆者が自分を清少納言に重ねながら、さまざまなことを感得し、悟っていく過程に私は、とても共感を覚えました。

フィンランド語で書かれた原著のタイトルは“Asioita jotka saavat sydämen lyömään nopeammin”で、直訳すれば「より速く心を打ちつけてくれるものたち」とでもなるのだと思います(たぶん)が、これは翻訳者の末延弘子氏が「『枕草子の』章段から引用された『胸がときめくもの』」なのだと解説されています。日本語版には『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』というそのまんまの邦題がつけられていて、これはまあ営業的には仕方がないと思います(実際、この題名だったからこそ私もこの本を手に取りました)が、読了したあとでは確かに「胸がときめくもの」だなあ、できればこの題名がよかったなあとも思いました。

清少納言と『枕草子』をめぐる記述のほかにも、いろいろと付箋を貼った箇所がありました。筆者がちょうど滞在していた当時に発生した、東日本大震災当時の日本についても書かれていて、外国人として京都にいた作者の混乱と不安が伝わってきます。当時私は東京にして、同じように不安な思いを抱えていたけれども、異国でそうした事故に遭遇することが私たちの想像を超えるほど大変なことなのだということが分かります。

また、国際的な観光都市・京都であってさえ、博物館などの展示や文章のほとんどが日本語しかないというのは意外でした。この本はコロナ直前のインバウンドが急増した時期よりももっと前に書かれているので、いまは当時よりもかなり充実している可能性はありますけれど。

遅ればせながらも日本語を学び始めた筆者の悪戦苦闘ぶりにも、同じ語学学習者としてにんまりしてしまうところが数多くあります。

数字にも滅入ってしまう。だって、人か、機械か、動物が小さいか大きいか、平べったいか、細長いか、丸いか、塊のようなものか、数える対象によって数え方が違うのだ。(39ページ)

そうそう。そういう、世界の切り取り方の違いが言語の違いでもあるんですよね。でも私たち日本語母語話者だって、フィンランド語の複雑極まりない格変化に、滅入る暇もないほど振り回されっぱなしなんです。もちろん、それが楽しくもあるのですが。

全体で500ページ近くもある大部の作品ながら、筆者の旅に寄り添いながらあっという間に読み終えてしまいました。凡庸な(と自分には思える)日常を抜け出して、何か新しい人生のステージを切り開きたいと思っている、特に中年と呼ばれる年代を迎えた人々への励ましとなる一冊だと思います。

留学生の字幕翻訳課題

外国人留学生の通訳翻訳クラスで、毎年この時期の課題となっている字幕翻訳に取り組みました。プロも使っている字幕製作ソフトを用い、日本の字幕翻訳のルールも学んだ上で、英語や中国語の動画に日本語字幕をつけるという課題です。

翻訳は、それも高度な言語感覚が必要とされる字幕翻訳は通常、外語→母語方向を担当することがほとんどです。ですから留学生が日本語方向の字幕を作るというのはかなりハードルが高いのですが、通常の実務翻訳とはまた異なる字幕翻訳をやってみることで、日本語を異なる側面から見つめてみよう、日本語の言語感覚をより豊かにしようという主旨で毎年取り組んでいます。

昨年までは学校の予算もあり、留学生3〜4人にひとつの字幕製作ソフトしか用意できませんでした。それでグループ作業としてこの課題に取り組んだのですが、当然のごとくグループ内で学習意欲にも、さらには語学の習熟度にも差があるため、積極的に取り組む人とそうでない人の差がかなりありました。

そこで今年は私が学校側にかけ合って予算を取り、1人ひとつのソフトで各自が責任を持って課題に取り組めるようにしました。そして課題提出後には上映会を開き、下級生や教職員を招いて見てもらい(広く公開するわけにはいかないので、内輪だけの会にしています)、さらには全員の投票で最優秀作品を選んでトロフィーを贈ることにしました。さすがにここまでお膳立てが整うと、いい加減に課題に取り組む人はほとんどいなくなります。結果としてとても面白い字幕翻訳作品がたくさんできあがりました。

昨年までは、同じグループの誰かが必死に字幕を作っているそばで、所在なさげにスマートフォンでゲームをしているような学生もいたのですが、今年は最初から最後までみなさんとても真剣、かつ楽しそうでした。こういう仕組み作りも教案同様大切なんだよな、でもそのためにはそれ相応のお金もかかるんだよな……と改めて思いました。

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優れたトレーナーさんを探す

男性版更年期障害とでも言えそうな不定愁訴に耐えかね、ジムに通い始めて4年ほどになりました。この間、1対1で指導してもらうパーソナルトレーニングを軸にして、そこで教わったことを毎朝出勤前に職場近くのジムでこなし、さらにLINEを使った体幹レーニングのレッスンを組み合わせて現在に至ります。

このLINEを使ったトレーニングはよくできていて、私の課題(腰痛予防)に重点を置いた体幹レーニングメニューが週替わりで6〜7種類ほど動画つきで送られてくるほか、「今日はトレーニングできましたか?」とか「やってみて身体に違和感を覚えたところはないですか?」などのプレッシャーメッセージが毎日届きます。結果、いやでもきちんと毎日メニューをこなすように。

4年間で身体がどう変わったかといえば、あいかわらず腰痛は襲ってきますし、日々疲れ気味であることもあまり変わりません。ただこれは加齢に伴うものですから仕方がないと思っています。でも、夜中に目が覚めるほどひどかった肩凝りはまったくなくなり、不定愁訴のようなものも雲散霧消しました。腰痛も、以前のような歩くのもつらいほどの大変な状態には陥らなくなりました。

さらに筋トレで体力もつきました。4年前にくらべて明らかに元気になったと思います。というか、あのまま何もしないでいたら、何か大きな病気をしていたか、下手をしたら死んでいたかも知れないとすら思います。

元気になったら筋トレに対する「欲」のようなものが出てきて、少しずつハードルを上げてウェイトトレーニングに取り組んでいます。いわゆる「BIG3」と呼ばれる種目のうち、デッドリフトだけは腰に負担を与えすぎるのでトレーナーさんからやらないように言われていますが、そのほかのベンチプレスとスクワットはほぼ日課になりました。

ベンチプレスはなかなか数字が上がりませんが、トレーナーさんの指導を仰ぎながら細かいフォームの改善を重ねて、最近ようやく「横這い期」を抜け出して少しずつ上がるようになりました。スクワットはあまり重量をかけず、腰痛予防の観点から骨盤と背骨の角度に留意しながら取り組んでいます。ほかにも腕や背中や肩などの種目を教わって、ローテーションさせながら組み入れています。

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https://www.irasutoya.com/2020/08/blog-post_40.html

パーソナルトレーニングはもちろんそれなりにお金がかかりますが、少なくとも最初はきちんとしたトレーナーさんに指導してもらって、正しいトレーニングの仕方を教わる方がよいと思います。これは語学の発音指導にも通じるのですが、これまでとは違う身体の使い方を覚えるときには(語学の発音だって、口の形、舌の位置、息の出し方など、ようは身体の使い方です)、独学ではなく必ず優れたプロの(ここが大切です。優れていないプロもいますから)指導を仰ぐべきです。

なぜなら、それまでの身体の使い方は、当たり前ですけど人それぞれにまったく異なるから。その個々人で異なる身体の使い方に合わせて対策を立ててもらい、きちんと言語化して伝えてもらうと同時に、身体を使って(筋トレや体幹トレの場合は主に手ですが)*1指導してもらう。そうしたプロセスが死活的に重要です。

筋トレや体幹トレを指導する書籍や映像もたくさんありますが、畢竟それらは多くの人に共通する課題に対して解説をしているので、個々人の抱える課題とは距離がある場合も多いのです。さらには独り合点して間違った身体の使い方をしてしまえば、逆効果になる可能性もあります。

トレーナーさんにもいろいろな方がいて、私も語学を教える立場のはしくれなのでその教え方にとても興味を持っているのですが、優れたトレーナーさんはとにかく言語化が巧みです。ご自身でやってみせる動きと、私のそれとは異なる動きとの間で何が違っているのか、どうすれば正しく動けるのかをきちんと日本語で論理的に語ることができるのです。「ぐっと」とか「ぱーっと」とか「すっと」とか「だーっと」などといった言葉を一切使うことなく。

4年間ジムに通い続けて、つくづく良いトレーナーさんを探すことの大切さを感じています。

*1:語学の発音指導ではあり得ないかも知れません。でも私の恩師の故C老師など、生徒の口に指を突っ込んで指導するという「伝説」がありました。いまの時代にそれをやったらたぶん大問題になるかも知れませんが、手を出してでも指導するというその情熱には共感できるところがたくさんあります。

毎日ほぼ同じ格好をしている

毎日暑いです。10月も中旬に差し掛かろうというのに、なぜこんなに暑いのでしょうか。そんなことない、ずいぶん秋めいてきましたよと言われるかもしれませんが、私にとってはまだまだ暑いです。生来の暑がりなので、ほんの少し歩くだけでも、そう、例えば毎日の出勤だけでも汗ばんで不快になります。

気がついたら、3月頃から今まで、つまり1年の2/3ほどをほとんど同じ格好で過ごしていました。上はTシャツかポロシャツ、下はジーンズかチノパン、休みの日はショートパンツ。それも白と紺だけ。靴もスニーカー一択。厳冬期以外(東京に厳冬なんて、もはやほとんど存在しませんが)は、ほとんどアウターが要りません。その冬のアウターだって、ここ数年は薄手のダウンジャケット一択です。

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http://www.irasutoya.com/2017/11/t.html

フォーマルな格好はほとんどしなくなりました。かつてはスーツを何着も持っていましたが、いまはいわゆる「ジャケパン」スタイルで羽織るジャケットが一着あるだけ。ワイシャツとネクタイはオンライン授業で必要な時に使うくらいです。完全にフォーマルな格好は葬儀の時に着る黒の礼服くらいでしょうか。

もともと服装やファッションにはかなり疎いほうですが、それでも一応仕事をするときはそれなりにこざっぱりした格好をしなければいけないのと、あまりにも「おじさん」っぽいスタイルは嫌だというこだわりみたいなものはあります。でもそれらにしたって、上述したような数パターンの服装で十分に間に合ってしまいます。もちろん毎日着替えて洗濯をしますから、それら数パターンを複数セット持ってはいますが。ちなみにスニーカーも、まったく同じ靴を3足持っていてローテーションで履いています。

ああもう、服装はこれくらい単純でいいわと思うようになりました。とくに断捨離などと言うまでもなく、気がついたらすでに十分減っていたという感じです。職場で毎日顔を合わせている同僚からは「この人、ちゃんと毎日着替えてるのかしら」と思われているかもしれませんが。

昨日Twitterで、BBCのこんな映像に接しました。豊かな国々で廃棄やリサイクルに回された大量の衣服がアフリカの国に行き着き、巨大な埋立地を形成し、それが海洋汚染にまでつながっているという映像です。ファストファッションなど安価な服が大量生産・大量消費される一方で、このような歪みをもたらしていると。

ファストファッションがもたらす歪みについては、バングラデシュの「ラナ・プラザ」事故と、それを受けて制作されたドキュメンタリー映画THE TRUE COST〜真の代償〜』などで、私は大きく心を揺さぶられました。そうした現状を見るにつけ、安いからといって服をたくさん、あれこれと買う生活に疑問を持ち始めたのです。それでますますシンプル、というか単純な服装に傾斜してきました。

いろいろな服を選んで着るのだって人生の楽しみのひとつではありますから、ことさら禁欲を自分に強いることはないのです。それでも私自身は、もう「つやばつける*1」ことはないかなと思っています。

*1:「格好をつける」。博多弁。

フィンランド語 131 …日文芬訳の練習・その51

「ネット動画を見た」というのを、最初“katsoin videota verkossa”としていたら、内格の“verkossa(ネットで)”を出格の“verkosta(ネットから)”に直されました。“katsoa(見る)”は「〜から見る」なんですね。こういうふうに、どの動詞がどの格を取るのかというのがなかなか感覚として分かりにくいです。

ネットで台湾人の講演動画を見ていたら、講師が「教育といえばフィンランド、職人といえば日本」と言っていました。フィンランドはともかく、日本の第一印象が「職人」だというのはちょっと意外でした。同僚の台湾人によると、確かに伝統工芸や精密機器だけではなく、アニメやラーメンやフィギュアなど、さまざまな分野で細かいところまでこだわるというイメージがあるそうです。要するに職人というよりは「オタク」ということですよね。


Kun katsoin Taiwanilaisen luennoimaa videota verkosta, lehtori sanoi : Koulutusten osalta on sanottu, että Suomi on paras maa, ja käsityöläisten osalta Japani on. Voin ymmärtää suomalaisista koulutuksista, mutta en ole koskaan ajatellut, että ensivaikutelma Japanista olisi käsityöläiset. Kysyin siitä taiwanilaiselta työtoverilta. Hän sanoi minulle, että Taiwanilaisilla on varmasti sellaisia vaikutelmia, paitsi perinteisistä käsitöistä ja tarkkuuslaitteista, myös animaatioista, ramen-nuudeleista ja hahmoista. Hehän tuntevat, että japanilaiset etsisivät yksityiskohtia monilta alueilta. Lyhyesti sanottuna se voi olla pikemminkin nörttejä kuin käsityöläisiä, eikö niin?



www.youtube.com

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https://www.irasutoya.com/2020/04/blog-post_42.html

昨夜の地震をうけて

昨日の夜は久しぶりに東京都心で大きな地震がありました。震度5と報道されていましたが、さいわいうちは何も被害はなく、私はそのまま寝てしまいました。が、今朝起きてシャワーを浴びようとしたらガスが止まっていました。地震で自動的に元栓を閉めるような仕様になっていたんでしたっけ。元栓を開け直したら、元に戻りました。

今朝はいつものように都心に出て、ジムで朝トレしてしてから出勤したのですが、電車もジムも職場も普通とまったく同じでした。ところが比較的遠くから通ってらっしゃる非常勤の先生方からは「電車が止まってる」とか「混雑で駅に入れない」などの情報が次々に。それで学校側からの指示もあり、たまさか出勤していた私が、学校側からの指示で先生方や学生と連絡を取り、登校できた学生と自宅にいる学生をZoomでつなぐお膳立てをするなど、朝から大わらわでした。でも本音は「休講にしちゃえばいいのに」だったんですけど(こらこら)。

こういうときでも何とか出勤して通常の業務をしようとする日本の私たちって良いんだか悪いんだか……。コロナ禍でテレワークを積み重ねてきた経験は何だったんだという感じですね。でも急遽オンライン授業に切り替わった学生さんたちは、何事もなかったかのように全員アクセスしてきました。さすがDigital Native! むしろ私たち教職員の方が慌てています。

学生は全員外国人留学生ですが、地震などほとんどない国や地域からの人もいるので、さすがに昨日の地震は怖かったようです。東京にもう何十年も住んでいる我々は、これくらいの地震ではそんなに慌てませんけど、アレが初めての経験だったとしたらそりゃ怖いだろうなと思います。

阪神淡路大震災を経験されたクリエイティブ・ディレクターでエッセイストのさとなお(佐藤尚之)氏によると、大きな地震があった際に、もし自宅にいたら真っ先にすべきことは「水を貯める」ことだそうです。電気やガスは比較的早く復旧するけれど、水道管は一度壊れると復旧にかなり時間がかかり、その間、水に困ることになるからだそうです。しかもそれは飲み水ではなく、トイレ用の水が一番困るのだと。確かに、トイレが流せないというのは精神的にかなりつらそうです。そして大地震直後も、特に集合住宅などは屋上のタンクにまだ水が残っていて、貯められる可能性が高いのだとか。私はこの話をいつも留学生にも伝えています。

私は自宅に水や簡易トイレ(薬剤で固めることができるというもの)を非常用に備蓄していますが、今朝のガス切れで、やはり備えておかないと不便なことになるなと改めて思いました。この際、もう一度備蓄品を見直しておこうかなと考えています。

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https://www.irasutoya.com/2018/12/blog-post_46.html

老いにあらがう「イタさ」みたいなもの

先日、年に一度の健康診断がありました。いわゆる「メタボ健診」といわれる腹囲が8センチ減っていたので、昨年のデータと見比べた看護師さんが「間違いじゃないですよね」ともう一度測ってくれました。まあ元々が中高年特有のお腹なので、減ってもたいしたことはありませんが、ジムのパーソナルトレーナーさんに言ったら「そりゃこれだけよってたかって体幹レーニングやってるんですから、減って当然です」とおっしゃっていました。 

私は昔からあまり体型が変わっておらず、典型的な中肉中背です。これまではあまり体型を気にしたことはなかったのですが、ジムでトレーニングをしていると人並みに「欲」は出てくるもので、せっかくならお腹がまだあまり出ていない現在の体型を維持したいと思うようになりました。

私の職場はファッション系の大学や専門学校が集まっているところだからか、廊下のあちこちにやたらと大きな姿見があって、教室を移動するたびに己の全身を見ることになります。そんなとき、ついつい体型を確認して「まだ大丈夫かしら」(←なにが?)などと思ったりもするのですが、しかしそれよりなにより、中高年に至った自分のこの全体的な「老けっぷり」に時々心折れそうになります。いくらジムで元気を保とうとしても、寄る年波には勝てないのです。

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『きのう何食べた?(18) 』 p.64

よしながふみ氏のこのマンガは、主要な登場人物がほぼ私と同じ年齢であり、なおかつ実際の時間の流れとまったく同じ速度で作中でも歳を取っていくので、とても共感できる描写がたくさんあります。同年代としてこの作品を読み続けることができる幸せを感じますが、あれだけ「その年齢でそのルックス? 気持ち悪い」などと言われるほど若く見えていたシロさんも、ついにこういう悲哀を共有できるところまで来たのだなあと、ある種の感慨も覚えます。

最近は新聞を読んでも、テレビニュースを見ても、明らかに私たち世代向けのサプリの広告ばかり目につくようになりました。それだけ既存の新聞やテレビチャンネルがオールドメディア化している(若い世代はあまり見ない)という証左でもありますね。ただ私は、できればそういうサプリなどに頼らずに、しかしできるだけ健康な状態を維持できたらいいなと考えています。

そういうサプリが往々にして強調している「年齢の割には若々しく見える」ことを追求するのは「イタい」ですけど、かといって年齢以上に老け込んじゃうのはもっとイヤなのです。……いや、そういう必死さがそもそも「イタい」、健康診断の腹囲に一喜一憂していること自体が「イタい」のかも知れませんけど。

Twitterから遠く離れて

『note』で興味深い記事を読みました。tori氏による『自分がどのくらいエコーチェンバーの中にいるのか可視化するシステムを作ってみた』という記事です。

note.com

詳しくは元記事にあたっていただきたいのですが、エコーチェンバーというのは「閉鎖的空間内でのコミュニケーションが繰り返されることにより、特定の信念が増幅または強化されてしまう状況の比喩(Wikipedia)」。これは本当に怖くて、自分の立ち位置や自分がいる場所(職場・コミュニティ・交友関係などなど)を常に客観的に捉えるよう努力していないと、たちまちこの中に落ち込んでしまいます。

要するに自分のいる場所があたかも世の中全体状況の反映ないしは縮図になっていると勘違いすることですね。ちょっと考えてみれば世界は自分のちっぽけな想像力では把握しきれないくらい広く大きいということなどすぐに分かりそうなものですが、これがけっこう難しい。

自分の理解が及ぶ範囲の狭さを自覚しないまま、物事をすぐに一般化したり、国家や地球レベルに膨張させて語ったりする方は世の中にあふれています。自分の成功体験によってしか思考できない「昔取った杵柄系」、あるいは仕事における「タコツボ化」とか生き方全般における「井の中の蛙」状態もエコーチェンバーに落ち込んだがゆえの結果と言えるかもしれません。

qianchong.hatenablog.com

TwitterFacebookなどのSNSなど、エコーチェンバーの最たる物かもしれません。こうしたSNSのタイムラインになかば依存症的に身を任せていると、知らず知らずのうちに自分の中の思考に偏りが生まれているのです。あるいは人と比べて落ち込んだり、逆に謎の優越感を覚えたり。そんな危険性に気づいて以降、私はSNSから少し距離を置くようになりました。

まったくやめてしまった時期もあったのですが、そこはそれ、使い方によっては学ばされることも多いので、注意深くまた使い始めました。具体的にはいわゆる「脊髄反射的」に反応しないこと。例えばタイムラインに流れてきた情報に反応する場合、一呼吸置くとか、別のメディアで裏を取るとか。そう、タイムラインに流れてくる人が悪いんじゃないんですよね。それを見てつい脊髄反射的に反応したり、人と比べて落ち込んだり優越感を覚えたりする自分が悪いのです。

タイムラインもひとつの社会ではあります。ただそこにはエコーチェンバー的なバイアスが多分にかかりまくっている、というのを常に自覚することが大切なんでしょう。これはリアルな社会生活・人間関係でも同じですよね。

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で、自分のTwitterタイムラインにおける「エコーチェンバー度」です。この「エコーチェンバー可視化システムβ版」で検証してみたところ、偏りは標準的な範囲内でしたが、タイムラインに流れてくる話題を可視化してみるとこんな感じでした。おおお、かなり偏ってる。

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特に「党派性」はかなりリベラルに偏っています。まあこれは自分の考え方に近いので驚きはないのですが、少なくともTwitterのタイムラインでは意図するとせざるとに関わらず、リベラル的な立場の物言いをより多く浴び、選択的にそれらを摂取しているという自覚だけは常に持っていなければならないなと改めて思いました。

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TwitterなどのSNSは有用な側面もたくさんあるけれど、やはりそれはこの広い世界のごくごく一部なんだということを日頃から自分に言い聞かせておかなければいけないですね。基本的には遠く離れて眺めるくらいのほうがいいんじゃないかと思っています。

本を読まないとバカになる

先日Twitterで「読書の秋」に読みたい書籍100選というツイートが話題に、というか「炎上」していました。元のツイートは削除されてしまったようですが、おそらくそこに並んでいた書籍がほぼいわゆる「自己啓発本」のたぐいだったのと、そうした本を読んでこそ社会の上層・上流に行けるという価値観が感じられたのとで、読書好きを持って任じる方々が激烈に反応されたようです。

確かに私も、あのツイートで推されていた自己啓発本の数々だけでなく、ひろく優れた文学書や歴史書学術書、あるいは古典にできるだけ触れるほうがよほど人生の糧になるんじゃないかとは思います。自己啓発本はとにかく手っ取り早く人生のノウハウを教えてくれるような魅力があって、しかも実際読んでいるときは謎の高揚感や全能感に囚われる、いわばドラッグのようなもの、あるいはポルノのようなものですから。

ただ、あのツイートにあった100冊の中にはそうした自己啓発本とくくってしまうのはいささか乱暴な本も含まれていましたし、私も読んで自分の糧になったものがいくつかありました。その意味ではちょっと叩かれすぎではないかという気もしていました。ともあれ、みなさん読書についてはそれぞれ一家言あり、人にお勧めしたくて仕方がない本があるものなのだなと感じ入った次第。

Twitterという特殊な環境だからかもしれませんけど、種々の調査で(たとえばこれ*1)日本人の読書離れだの、諸外国に比べて読書量が少ないだのと言われているわりには、読書にこだわりのある方はまだまだ大勢いらっしゃるんですね。

折しも昨日、「読書の秋」に呼応するような特集を掲げた雑誌を、書店で2冊購入しました。いずれもマガジンハウスの雑誌で、ひとつは『BRUTUS村上春樹特集号「『読む。』篇」、もうひとつは『POPEYE』の特別編集号「僕たちはこんな本を読んできた」です。

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BRUTUS(ブルータス) 2021年 10月15日号 No.948 [特集 村上春樹 上 「読む。」編] [雑誌]

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POPEYE特別編集 僕たちはこんな本を読んできた

前者の村上春樹特集は、これはまあ早大のあの施設開館とタイアップで企画されたのでしょうけど、後者のブックガイドはお若い方向けにこれだけの特集がまだ組めるんだというちょっとした驚きがありました。いや、それはお若い方々をバカにしすぎですね。各種調査とはうらはらに、けっこう読書好きの層はまだまだ厚いのかな。

ただ、作家である村上春樹氏の選になる51冊は当たり前としても、『POPEYE』のブックガイドもその大半が文芸や文化系の書籍であるのはちょっと偏りがありすぎるかなと思いました。自然科学や人文社会や、さらには古典などをその道のド素人(私のような)が読んでも、ときに大きな人生の糧になることがあるんじゃないかと思うからです。

ともあれ「本を読まないとバカになる」。種々のブックガイドを参考に、これからも本にだけはあまりお金をケチらないでいようと思ったのでした。そういえばこれも昨日、Amazonでこんな本を見つけました。

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Bowie's Books——デヴィッド・ボウイの人生を変えた100冊

これはおもしろそう。さっそく購入しました。

*1:「1か月に大体何冊くらい本を読むか」を尋ねた結果、47.3%が「1冊も読まない」と答えた(2019年)そうです。

ノンアルコールビールを飲むということ

お酒を飲まなくなってから50日ほど。いまでもスーパーのお酒売り場を通りかかると、ついフラフラと引き寄せられそうになることはありますが、もう以前のように飲みたい、飲まずにはいられないという状態には陥らなくなりました。自分ではそうではないと思っていましたけど、やっぱり若干依存症の傾向はあったのでしょう。それでもこうやって意外なほどあっさり断酒できちゃいましたから、その点ではごく軽い依存症のレベルで済んでいたということなのかもしれません。

それでも時々、とくに夕飯時に飲みたくなることはあって、そんなときはノンアルコールビールを飲んでいます。ご案内の通り大手酒造メーカーのノンアルコールビールは(と一般化してしまうとメーカーさんには申し訳ないですが)、正直に申し上げてあまりおいしくないです。どうしてもノンアルコールビール特有の味や香りがあり、それに泡立ちもかなり弱くて、ビールと呼ぶにはちょっと……というものがいまのところほとんどです。

脱アルコールや「ソバーキュリアス」の流れはけっこう世界的に広まっているようで、日本製のほかに海外でもたくさんのノンアルコールビールが販売されています。日本国内でも、大手メーカーだけでなく、いわゆるクラフトビール地ビール的に作るところも増えつつあるとか。

そんな様々なノンアルコール飲料を販売されている「maruku」さんで、ノンアルコールビールのアソートを買ってみました。様々なメーカーのノンアルコールビールが10種類2本ずつ、合計20本入ったアソートです。荷物が届いて箱を開けてみると、こんなかんじで「うわ〜っ」と盛り上がります。

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それで少しずつ飲んでは自分の好みに合うノンアルコールビールがないかなと探しているのですが……、ここにきて自分のなかに、なんだか身も蓋もない疑問がわきあがってきてしまいました。

果たして私は、ビール風味の飲料を本当に飲みたいと思っているのでしょうか。

私は体質的にはおそらくアルコールを飲めるタイプです。だからお酒の味や香り自体が苦手とか、体質的にアルコールを飲めないという方とは違って、限りなくビールに近づけた飲料をそれなりに楽しく飲めるはず。でも、せっかくお酒をやめて「しらふでいることへの興味」が増したのに、なぜお酒の味や香りにこだわらなくてはいけないのかと。もっと自由に料理に合う飲み物を探してもいいはずです。

数年前のフィンランドで、レストランのノンアルコールペアリングを試して以来、お酒的な発想とはまったく異なる食中楽しめる飲み物を探してきました。でもそれらは往々にして甘すぎたり、力強さに欠けたりして、結局はアルコールがもたらしてくれる様々な刺激に舞い戻っていたのです。

qianchong.hatenablog.com

でも今回、なんだか憑き物が落ちるようにお酒をやめることができたのですから、これを期にもう一度いろいろと追求してみようという気持ちが沸き上がってきました。

先日読んだ『ゲコノミクス』という本では、著者の藤野英人*1が、下戸にとってレストランなどでノンアルコール飲料の選択肢があまりにも貧弱すぎる、でも飲料メーカーにとってはほぼ未開拓のブルーオーシャンであるという趣旨のことをおっしゃっていました。

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ゲコノミクス 巨大市場を開拓せよ!

最近になってスーパーや酒屋さんなどでのノンアルコール飲料の選択肢は増えてきましたし、「微アル」みたいなトレンドも生まれていますが、飲食店・レストランなどでノンアルコールのメニューが充実しているところはまだまだ数えるほどしかありませんよね。この本でも述べられていますが、例えば高級な寿司店やフレンチレストランなどで、お酒を飲まないことが前提で楽しめるお店はまだ少ないと思います。

だからこそ藤野氏はゲコノミクス、つまり下戸を念頭に置いた市場がこれから発展していくだろうと予想されているわけです。以前にもご紹介した『はじめよう!ノンアルコール』のような本を参考に、飲食業界がどんどんこの方向で開発を競ってほしいと思います。たぶん未来は明るい。そう思っています。

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はじめよう! ノンアルコール: 6つのアプローチでつくる、飲食店のためのドリンクレシピ109

*1:この本を読む前にFacebookの『ゲコノミスト』というグループに参加していたのですが、なんと、というか考えてみれば当然ですが、そのグループの主宰者が藤野氏なのでした。