インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

話し言葉で起こる省略

先日、ポストにこんなチラシが入っていました。近所にある24時間制ジムの広告です。コピーは「やっぱジム行こ」。ジムに通うということについて、そんな一大決心なんていらないんですよ、「ちょっとやってみようかな」程度の軽いノリで始めてみませんか……という口吻が伝わってきます。加えて、ジムに通う側の「少しくらい身体を動かしておかないといけないかな」というちょっとした決意みたいなものも。

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こういう「私はやはりジムに行こうと思います」から「やっぱジム行こ」というコピーが生成されるというの、日本語の非母語話者と日々接している立場からすると、とても興味深いです。留学生のみなさんから、これはどういうことなのかと聞かれたらどう説明しようかな、などと考えることができるからです。

しかも「私はやはりジムに行こうと思います」では、新規のお客さんにジムに通おうと思わせることはなかなか難しいですよね。なんでアンタが私の気持ちを代弁しているんだという感じで押し付けがましいし、あらたまりすぎていてジムへの敷居が高くなってしまうような。ここは「やっぱジム行こ」のほうがシンプルでかつお客さんの気持ちにもより近いという判断があるんでしょう。

どうしてこのジムのチラシのコピーにそんなに惹かれたかというと、先日フィンランド語のオンライン授業で、フィンランド語の話し言葉について先生が少し紹介してくださったからです。

私たち非母語話者が学んでいるのは標準的なフィンランド語であって、教科書に出てくるのはいずれもスタンダードな文章です。ときに話し言葉や書き言葉の違いはあり、多少くだけた言い方や省略も入っていますが、基本的には「折り目正しい」というか、まさに「教科書的」なフィンランド語です。

私個人は、非母語話者が目指すのはそういう標準的でスタンダードで折り目正しい教科書的なフィンランド語でいいと思っています。「私はやはりジムに行こうと思います」が正しく読めて、聞けて、書けて、言えればいいなと。「やっぱジム行こ」がより自然な、自分の気持ちにより近い言い方だから、そっちをこそ目指したいとは思いません。

言葉を省略したりくだけさせたりするのはスタンダードな言い方がベースにあるからこそで、しかもそれはできるようになった段階で必要があるならやればよく、最初から目指すものではないからです。ましてや、非母語話者がまだそこまで上達もしていないうちに「ネイティブっぽい」くだけた(ときに下卑た)言い方を使い回すのは正直みっともないからです。これはフィンランド語に限らず、自分がこれまで学んできた中国語でも英語でも同じだと思っています。

フィンランド語の先生は、学習の目標としてこんなことをおっしゃっていました。①まずは教科書の文章が正しく読める。②その正しい文章を音で聞いて分かる。③さらにはフィンランド語の話し言葉で聞いても分かる(話し言葉なので、それを文章として読むということは基本的にーースマホでチャットするときなどを除いてーーありません)。

いま私はまだ①の段階もおぼつかない状態ですが、将来的に②、そして③へと進んでいきたいものです。ただこの③、つまりフィンランド語の話し言葉がなかなかに難しそう。授業で先生がほんの少しだけ紹介してくださったのは、『Pelikaani Mies(ペリカンマン)』という映画の冒頭シーンでした。私は全然知らなかったのですが、日本でも公開されたことがあるようですね。

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https://www.arthousecinemaniagara.fi/fi/elokuvat/arkisto/pelikaanimies

先生によると、フィンランド語の話し言葉では、かなりの「省略」が行われるそうです。例えば……

Minä käyn hakemassa hänet.
彼を連れてくるね。

Mä käyn hakemassa sen.


Minä selitän sinulle sitten joskus, kun sinä olet vähän isompi.
いつかお前がもう少し大きくなったら説明するよ。

Mä selitän sille sitten joskus, kun sä oot vähän isompi.

なるほど、人称代名詞などを中心にけっこう省略されちゃうんですね。これを聞いて分かるのが③の段階だと。上述したように非母語話者である私が自ら話さないまでも、相手が言っているのは聞き取れなければいけないわけです。これはまたかなり遠い道のりになりそうです。でも先々が楽しみでもあります。

フィンランド語 130 …日文芬訳の練習・その50

フィンランド語の作文練習もようやく50本になりました。だいたい一週間にひとつ書いているので、ちょうど一年続いてきたことになります。先生も毎回毎回ていねいに添削してくださっていて、しかも私以外の生徒も提出しているので大変だなと思いますが、ありがたいことです。今後も続けていこうと思います。

私は外食をすることがとても少ないです。以前からそうでしたが、コロナ以後ははますます行かなくなってしまいました。最近はお酒もやめてしまったので、バーや居酒屋などに飲みに行くこともありません。外食が苦手なのはもうひとつ理由があって、それはほとんどのお店の味が濃すぎると感じることです。子供の頃、関西地方で育ったからかもしれません。実際、関西の食べ物は一般的にとても薄味だと言われています。


Minä syön harvoin ulkona. Näin oli aikaisemminkin, koronaepidemian jälkeen on ollut yhä harvemmin. Nykyisin olen lopettanut juomisen, joten myös en käy lainkaan baareissa tai kapakoissa. Minulla on toinen syy olla syömättä ulkona. Minusta tuntuu siltä, että melkein kaikki ruokien maut ovat minulle kyllä vähän liian voimakas. Ehkä tunsin näin, koska kasvoin lapsena Kansain alueella Japanissa. Itse asiassa Japanissa sanotaan, että Kansain ruokien maut ovat yleensä hyvin kevyitä.


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パントマイムと仕舞

パントマイム・アーティストのが~まるちょば氏が『マツコの知らない世界』に出演されていました。

tver.jp

短い尺ながら、パントマイムの歴史から説き起こし、実演しながらパントマイムの可能性と限界の両方に言及されていて、その分かりやすい話し方とともにとても興味深く観ました。特にパントマイムがセットを使わない理由について述べるパートで、が〜まるちょば氏はこう言っていました。

セットを使うとイメージがひとつだけになってしまう。パントマイムは何も使わないことで、観ている人の経験や想像力で背景を感じてもらう。だから小さい子供も楽しめるし、お年寄りも楽しめる。その二人が見ている物が違った物に見えてくるという素晴らしさがパントマイムにはある。

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この「観ている人の経験や想像力で、舞台上の演技がそれぞれ違ったものに見える」という点は、能楽にも共通していると思いました。能楽にもセットのようなもの(作り物)や小道具、あるいは役柄の属性を表す面(おもて:仮面)や装束などはありますが、特に「作り物」はいずれもごくごく単純な、あるいは抽象化されたようなものが多く、その作り物すらない簡素な能舞台だけという演目が多いです。

そこでは多分に観る側の想像力が要求され、また優れた能楽師の舞にはその想像力を喚起させる強い力があります。とはいえ、個々人の想像力はそれこそ千差万別で、そのひとりひとりの創造性や感受性の違いによって、目の前に現れてくるものがそれぞれに違ったものになるというのが能楽のおもしろいところで。

番組ではパントマイムの一種として、マイケル・ジャクソンムーンウォークや、Mr.ビーンの演技、欅坂46の振り付けなども紹介されていました。いずれも言葉によらない身体の動きだけで観る者を引き込むパフォーマンスなのですが、私は能楽の、とくに仕舞もそのひとつではないかと思いました。

仕舞は能楽の一部分を抜き出し、しかも面や装束も使わず黒紋付などスタンダードな出で立ちと扇だけ(曲によっては薙刀や竿なども)で舞うというものです。地謡によって言葉での描写が謡われはしますが、舞の型には時にかなりの抽象性が認められます。例えば武将の合戦のようすを描写する場面で、刀を振り下ろしたり、弓を射たりする動作がある場合、そういう情景を具体的に再現しているようでいて、リアリズムとはまた違った次元の型によってそれらは表現される、というか「舞われる」のです。

そう、お師匠がよくおっしゃるのは、演技ではあるけれども「舞」でもあるという点。あくまでも「舞」であって、実際に鬼の形相で敵に切りつけるリアリスティックな「演技」をするわけではないと。その一種の抽象性の中に、舞を観る者の想像力を羽ばたかせる余地を残すというのが能楽の、特に仕舞のあり方なのですね。

もちろんそれは、熟達した玄人(プロ)の舞においてのみであって、私たちのような素人の舞はほとんど型をさらっているだけか、せいぜい型を忠実に再現しおおせるか否か……というレベルではあります。それでもほぼ「何もない空間」である能舞台の上で、そこに敵がいる「つもり」、花が咲いている「つもり」、別れを目前に控えた人がいる「つもり」などなど……で舞うのは、なかなかにおもしろいです。

そのおもしろさは、観るものが観るものの経験や想像力でそれぞれに違ったアウトプットを引き出せるというおもしろさとともに、舞うもの自身も自らの経験や想像力でそれぞれに違ったアウトプットが生まれる、そうならざるを得ないという点のおもしろさだと思うのです。だから自分のことは棚上げであえて書けば、玄人のみならず素人の方々の仕舞を観ていて、良くも悪くもその人の「人となり」がとてもよく伝わってくる……ということがままあります。よく考えてみたら、けっこう怖いです。

ここには、人が別の人の前で何かを演じるという行為そのものの、いやもっともっと広く、人が別の人の前で何かを発信する、つまりコミュニケーションが立ち上がる時の「おおもと」にある何かが潜んでいるような気がしています。

インターネットポルノ中毒

カバーのそでにこう書いてあります。「インターネットポルノ中毒は、裸やエロスに対する中毒ではない。画面上の目新しさに対する中毒だ」。この本の副題は「やめられない脳と中毒の科学」となっていて、書店で偶然見つけて購入しました。

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インターネットポルノ中毒 やめられない脳と中毒の科学

最近飲酒をやめ、それを継続させ、習慣化させることに努力してきました。飲酒をやめると、当然ですが「しらふ」でいる時間が長くなり、そのぶんを読書や学習にあてることができるようになります。その読書や学習についても習慣化が常に課題としてつきまといます。

そういうわけで、人間が何かの嗜好について心身の健康を害するほどに耽溺してしまうのはなぜなのか、そこから抜け出し、抜け出した状態を継続させるためには、すなわち習慣化するためにはどういうプロセスが必要なのかについて興味があり、この本を手に取ったのでした。

……と書くと、なにやら優等生めいていますが、恥を承知で正直に書くと、私もポルノにアクセスしたことは多々あり、そこから抜け出すのに苦労したこともあります。しかもこの本の帯の惹句にあるように、「無気力、集中力不足、不安感、うつ」などの原因が「ポルノの見過ぎ」であるというのはとても人ごととは思えず、思わず「そう!」と書店の店頭で叫びそうになってしまったのでした。う〜ん、やっぱり恥ずかしい。

この本によると、近年爆発的にそのコンテンツが増加しているインターネットポルノサイトは、従来の古典的な(?)ポルノ、つまりグラビア雑誌とか単体で購入するAVなどとはまったく違う性質のものだということです。「高速チューブサイト」と表現されていますが、高速インターネットの普及で登場した、ストリーミングで次々に、しかも「一番おいしい部分」だけを切り取った映像ばかり取っかえ引っかえ、それも無料で視聴することができる(その裏にはアフィリエイトや有料サービスへの誘導など、数々の広告的仕掛けがあります)ポルノサイトは、脳に与える影響という点において、それまでのポルノとは異なっている(もちろん害が桁違いに大きい)というのです。

これはよくわかります。こうしたネットの技術に裏打ちされた、過剰に消費を促し、過剰なまでに脳の注意を喚起する仕組みは、何もポルノサイトだけではありません。この本にはこう書かれています。

「空っぽ」のドーパミンハイを引き起こす活動は控えよう。たとえばひんぱんで強烈なビデオゲーム、ジャンクフード、ギャンブル、フェイスブック逍遙、インスタグラム、ツイッター、ティンダー、無意味なテレビなどだ。(166ページ)

こうした刺激が具体的に脳内でどのような生理学的な影響を与えるのかについても、この本では詳しく解説されています。それはやや専門的で難解な部分もありますが、そこが完全に理解できなくてもこの本を読む価値はあると思います。要するにインターネットポルノもまた、SNS同様に、ネット時代に入って私たちに大きな影響を与えるようになった「注意経済(アテンション・エコノミー)」の一種であり、きわめて注意深く対峙しなければ、心身の健康を害するまでにいたる存在なんですね。

短期的な報いは小さくても、永続する持続的な満足を生む活動に目を向けよう。よい会話、作業場所の整理、抱きしめ合い、目標設定、誰かを訪ねる、何かを作ったり庭いじりをしたり、といったものだ。要するに、絆を感じさせたり、長期的な目標に向けて後押ししてくれたりするものならなんでもいい。
インターネットポルノのような強力な気晴らしは、退屈、苛立ち、ストレス、孤独に対する自分なりの薬の一種だったりする。だが本書を読んでいるなら、おそらくは超常的な刺激による気晴らしの慢性的な利用が、目標や健康を犠牲にしかねない、ファウスト的な取引だというのに気がついているはずだ。(同)

本書の対象読者はいわゆる異性愛の男性が主に設定されているようですが、女性や、それ以外のジェンダーの人々にも通じる課題を扱っています。ただ研究対象として本書で紹介されたり証言したりしている方々のほとんどが米国人であるからか、EDの克服と、パートナーとの「健康」なセックスを取り戻すことに重点なり目標なりが置かれている傾向があるので、その辺は人によって自分の問題意識とはやや齟齬を感じるかもしれません(例えば、ポルノに出演している人々を「消費」ないしは「蕩尽」しているという問題などについては、本書では論じられていません)。

お酒を飲まない暮らしへの関心

緊急事態宣言や蔓延防止等重点措置を今月末で解除するという政府の決定を受けて、飲食業のみなさんが「ようやく光が見えてきた」と語っています。テレビニュースはさっそく新橋駅前でサラリーマンに取材して(この「様式美」もそろそろ変えてみたらどうかなと思いますが)、飲み会の予定を入れたとか、久しぶりに友人と会って飲みたいなどといった声を拾っていました。

私は元々外で飲むことがほとんどない人間で、飲むどころか外食すらここ数年は月に一度あるかどうかという頻度になっていたので、コロナ禍に見舞われてからこちらも、その生活スタイルにはほとんど変化がありませんでした。そこへ持ってきて最近は飲酒自体をやめてしまったので、ニュースを見ていてもどこかその高揚感のようなものとは無縁の自分がいます。

ふと思い立ってお酒を飲まなくなってから40日ほどが過ぎました。あれだけお酒が大好きで、毎日飲まずにはいられなかったのに、なぜ急に飲まないでいられるようになったのか自分でも不思議です。ひとつにはアウトライナーで毎日記録をつけて「見える化」することで、その記録が積み重なっていくのが楽しくなった(=習慣化のコツです)というのがあると思いますが、やはり一番大きいのは歳を取ってもう飲めなくなった、身体が欲しなくなったからなのでしょう。

お酒を飲まなくなってから「お酒を飲まない暮らし」についての関心が高まりました。このブログでもすでに書いたいくつかの「禁酒本」を読んだのはそのひとつです。なかでも『「そろそろ、お酒やめようかな」と思ったときに読む本』に出てきた「ソーバーキュリアス(ソバーキュリアス/Sober Curious)」という言葉には、とても引きつけられました。禁酒とか断酒というと、どこか苦行のようなネガティブな響きがあるのですが、「シラフでいることへの興味」にはポジティブにそういう生き方を選んでいるという雰囲気が感じられます。

この“Sober Curious”という言葉は、Ruby Warrington氏の著書で広まったとされています。

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Sober Curious: The Blissful Sleep, Greater Focus, Limitless Presence, and Deep Connection Awaiting Us All on the Other Side of Alcohol (English Edition)

その邦訳ももうすぐ出版されるということで、いまから読むのを楽しみにしています。

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飲まない生き方 ソバーキュリアス Sober Curious

ソーバーキュリアスをキーワードにネットを検索すると、社会の中に「脱飲酒」を指向するさまざまな動きを見つけることができます。例えばFacebookには(現在ほとんど使っていませんが)「ゲコノミスト」というグループがあったので、参加してみました。また「ゲコノミクス」という言葉を冠した本もありました。

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ゲコノミクス 巨大市場を開拓せよ!

この本はまだ読んでいませんが、かつてはよく売れていたウイスキーのような強いお酒がだんだん売れなくなっているという話は聞いたことがありました。ウイスキーだっていまはハイボールとして飲まれるのが主流ですよね。チューハイもアルコール度強めのものがある一方で、低アルコールのものも以前に比べて多く出てきました。「微アル」というビールのジャンルも各社から出始めましたし、確かに下戸ないしはそれほどアルコールに強くない消費者をターゲットにした経済がこれから拡大していくのかもしれません。

お酒を飲まなくなってからはずっと、ソーダストリームで作った炭酸水を飲んでいます。いまのところほとんど飽きませんが、時々飽きたときに「じゃあ軽くビールでも」とならないよう、ノンアルコール飲料をあれこれ探しています。大きめのスーパーだと、以外にいろんな選択肢がありますし、先日はノンアルコール飲料を専門に販売するネットショップも見つけました。

maruku09.com

アルコール依存症など、治療が必要なレベルになるとまた別でしょうけど、「シラフでいることへの興味」というスタンスで脱飲酒に移行したいという人にとっては、とてもそれがやりやすい時代になっているんだなあと思います。

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https://www.irasutoya.com/2014/06/blog-post_3778.html

TOKYO REDUX 下山迷宮

下山事件といえば、戦後間もない1949年に起こった、初代国鉄総裁の下山定則氏が失踪後轢死体で発見された事件として有名です。折しも国鉄職員に対する大量の人員整理案が問題となっていた時期で、GHQと日本政府、それに当時勢いを増していた左翼勢力との駆け引きが絡んで、謀略説・自殺説などさまざまな憶測を呼びながらも結局迷宮入りしてしまいます。その後立て続けに国鉄関連で起こった三鷹事件松川事件とともに、その概要や真相の推定について多くの著作で論じられてきました。

もうずいぶん前になりますが、私は松本清張氏の『日本の黒い霧』で下山事件のことを知りました。その中で推理されている事件の「真相」についてはとても説得力があるのですが、この『日本の黒い霧』をはじめとした下山事件関連本ほか、膨大な日本語の資料の(英訳版)を元に10年の歳月をかけて書かれたというデイヴィッド・ピース氏の『TOKYO REDUX 下山迷宮』を読みました。

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TOKYO REDUX 下山迷宮

現実の事件に取材したとはいえ、これはルポルタージュではなくミステリーあるいは犯罪小説ですから、ネタバレになりそうなことは一切書けません。が、版元で公表されている範囲にとどめて書けば、下山事件発生当時だけでなく、1964年の東京五輪前夜、さらには1989年の昭和終焉時にも時空が飛ぶ、ものすごい展開になっています。しかも「ノワール」と言えばこれほどノワールな小説もないといえそうなほど「闇に闇を重ね、黒に黒を塗り重ね(訳者あとがきから)」た本作。これを日本語にした黒原敏行氏の訳業にも敬服します。

台詞を示すカギ括弧がほとんど使われないなど、文体も独特です。その文学的技巧の濃密さゆえ、読後の疲労感が半端ではありません。しばらく魘(うな←このおどろおろどしい漢字が正にうってつけ)されそうです。

香港の人と北京語で話す

よく利用している近所のコワーキングスペースに、時々香港の方が見えます。現在一時的に日本在住とのこと。スペースのオーナーさんがその方とスペースの使い方について細かい話をする時に、おたがいに英語だと隔靴掻痒な感じなので、私が間に入って中国語(北京語)でお手伝いしたことがあり、それで顔見知りになったのです。香港の方はふつう広東語が母語ですが、北京語も話せるという方がけっこういます。

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https://www.irasutoya.com/2014/11/blog-post_81.html

その方は日本語がまだ上手ではないと言っていました。一方こちらは広東語が話せないので、北京語でお話ししたわけです。オーナーの説明が終わったあとも、しばらく他愛ないおしゃべりをしてその日は終わりました。その後も何度かお目にかかることがあって、そんな折には「最近どうですか」みたいな感じで北京語の会話をしていたのですが、そのたびに私は、うまく言えないのですが、なんとなく「よそよそしいもの」を感じていました。

そう、どうもその香港の方からは、こちらを警戒しているような感じが伝わってくるのです。もちろんこれは私がそう感じたというだけで、まったくの思い過ごしかもしれません。それに、あちらも流暢とはいえ北京語は母語である広東語ほど自由にのびのび自分の気持ちを表せないので、いきおいやや生硬な感じになっているだけなのかもしれません。でも、どこか一歩身を引いて相対されている感じがするのです。

もうずいぶん昔のことですが、香港へ観光で行って、北京語で買い物をしていたら露骨に無視された思い出がよみがえってきました。やっぱり香港の方にとって、北京語話者というのはそういう、やや身構えさせるところがあるような存在なんでしょうか。加えて私は風体もちょっと「いかつい」ので、その点でも不信感を持たれるのかもしれません。が、それ以上に北京語を操るこいつ(私)が、その背景にどんなものがある人物なのか見極めきれないというのが、その「身構え」のベースにあるのかもしれないと思ったのでした。

ご案内の通り、現在香港の政治状況は非常に緊迫しており、部外者の立場で物申すのは大変僭越ながら、中華人民共和国政府のありように懐疑的な香港の人々にとっては特に残念な状況に陥っています。香港がそういう状態に傾斜してきたここ数年間、実は私の仕事の周辺でも、香港の人々と接する機会がここ数年、以前とはかなり違う頻度で増えてきました。

なんとも回りくどい表現ですね。でも私は私と接しているその一人一人に無用の害が及ぶことを極端に心配する者ですから、具体的なことは何も書きませんし、書けません。ただ、香港がいま「ああいうふう」になっていることで、当面は香港現地ではなく、別のところに自分の居場所を見つけ、当座の暮らしを立てて行こうとされている人が多くなっているのかなあと、私のような人間でも如実に感じることができるようになってきたのです。

コワーキングスペースで偶然知り合ったあの香港の方も、ひょっとするとそういう背景から一時的に日本に滞在されているのかもしれません。どんなお仕事をされているのか、どういう状況で日本に来られたのかは知りませんし、聞いてもいませんが(聞けばますます身構えられるでしょうし)。

つい最近も行政長官を決める選挙委員の選出で民主派の委員がほぼゼロになったという報道に接したところです。
www.nikkei.com
香港の今後は、いまの状況に疑問と憤りを感じている立場の人々にとっては、ますます不本意な方向に推移していくだろうことが想像できます。そんな中で、私は少しでもそういう人々に寄り添いたいとは思っているのですが、軽率かつ不用意に関われば、かえって迷惑をかけるかもしれない……私のような者でも「業界」の末端につながっている以上、そこは慎重でなければならないと思っています。

「その方」とはまたコワーキングスペースでお目にかかることもあるでしょう。機会があれば、もっと私自身の考えをその方に伝えてもいいのかもしれません。でもそんな「積極性」がさらに相手を身構えさせてしまうかもしれません。要らぬ気遣いかもしれませんが、まだどう接していいものか、いまひとつよくわからないのです。

「いちのや」の海苔弁

コロナ禍に直面してからというもの、勤務先でのお昼ごはんの選択肢が狭まりました。まずコロナ禍が飲食業を直撃した頃に休業や廃業するお店がちらほらと出始め、その後感染対策を講じて営業再開するところが増えるも、やはり食べるときにはどうしたってマスクを外すので、ちょっと足が遠のいてしまい……。

お弁当を作って持って行っていた時期もありますが、これもちょっと朝が忙しすぎて、現在は味噌汁だけ自分と妻の分を作りスープジャーに入れて持参しています。これにおにぎりかサンドイッチなどをコンビニで買ってお昼ごはんにするのです。……が、申し訳ないけれどもコンビニの食べ物は味が濃い上に添加物もものすごくて、正直心安らぎません。

最近は冷凍食品も優れているよとの情報を同僚から得て、時々は買ってみるのですが、これもとにかく味が濃すぎるというか塩辛すぎるというか。でもまあ、もうこれ以上はどうしようもないので、毎日それらをガマンして食べるか、前日の夕飯の残りを持って行くかでしのいできました。

ところが最近、勤務先の近くに「高級海苔弁」の専門店(チェーン店の一店舗らしいです)ができました。いわゆる「ほか弁」の中でもいちばん庶民的な海苔弁が「高級」になっちゃうというのも妙ですが、店頭で配られているチラシによれば、ひとつ1000円もする、素材にこだわったお弁当であるよし。

noriben-tokyo.com

このお店の場所は、以前はうどんのチェーン店が入っていて、私も何度か利用したことがあるものの、とにかくおいしくないので(ごめんなさい)いつも閑古鳥が鳴いていました。そこがいつの間にか閉店して、なにやら改装工事をやっているなと思っていたら、この高級海苔弁専門店の開店と相成ったわけです。開店時は同僚と「そんな高い海苔弁一種類だけのお店なんて、すぐまたつぶれちゃうかもね」と噂し合いました。一度は物珍しさで買うかもしれないけれど、リピーターになることはあまりないんじゃないかと想像したのです。

ところがこのお店、ネットでの情報によるとけっこう話題になっているチェーン店らしく、割合お客さんが来ている様子です。ときおり(これは販売上のイメージ作戦かもしれませんが)「完売御礼」の札なども店頭に掲げられていたりして。それで私もついその宣伝に乗せられて、ひとつ求めてみました。

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確かに1000円は高いですけれど、けっこうおいしかったです。ちょっと揚げ物が多くてお若い方向きかなとは思いますが、味はそれほど濃くもなく、コンビニであれこれ買って600円なり700円なりになるより、よほどいいかもと思いました。

白身魚のフライが入っていて、それに合わせるタルタルソースが別売り(50円)で、しかもあれだけ素材にこだわってるというのを売りにしている割には、タルタルソースはキユーピーのお弁当用パックなんですよね。いや、まあキユーピーのタルタルソースはおいしいですからいいんですけど、なんだかここだけ「なぜこだわらないのかな?」という感じ。

一方で、弁当箱が紙だというのはとてもいいなと思いました。コンビニでお弁当を買っていちばん凹むのは、味もさることながらあのゴミの大量発生なんです。

しかもこのお店、単に定番の海苔弁だけでなく、季節によって限定弁当を売り出すようになりました。夏の暑い期間は「冷やしだし茶漬け」というおよそお弁当とは思えないものを売っていて、私はついつい買ってしまいました。そして最近このお店は「すだち海苔弁」というものを売り出しました。これもその中身の予想がつかないのでついつい買ってしまう私。

すだち海苔弁は1500円もします。そして蓋を開けるとものすごいビジュアルです。一面すだちと海苔に覆われていて、崎陽軒シウマイ弁当のような「食べ進み戦略」が立てられないので、すだちと海苔を持ち上げてみると下におかずがいっぱい詰まっていました。やっぱり揚げ物が多いですが、すだちの酸味とほろ苦さで比較的あっさりと食べられました。

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聞けばこのお店、今度は海苔弁の「秋」バージョンを出すそうです。う〜ん、この店は次々に新作を繰り出して来られますね。「すぐまたつぶれちゃうかも」なんて言ってごめんなさい。けっこう長続きするのかもしれません。それにしても私、なんだかこのお店の販売戦略に、完全に乗せられてしまっています。

フィンランド語 129 …日文芬訳の練習・その49

授業では細かいところでいろいろと添削が入りましたが、今回の作文はこれまでとは違った感覚がありました。いつもは辞書を引きつつかなり四苦八苦して書くのですが、今回に限っては最初から最後まで比較的簡単に書けました。最初に原形で単語を並べてから文脈に合わせて語尾などを変化させるのは変わりませんが、こんなに「すっ」と書けたのは初めてでした。

ひとつには自分の体験を書いた文章で「背伸び」をする必要がなかったこと、もうひとつは偶然知っている単語だけで文章を紡げたことが、その理由だと思います。やはり語彙量、ボキャブラリーの豊富さというのは大切なんですね。これからも地道に覚えていきたいと思います。

以前中国の天津という街に住んでいて、その街には『今晩報』という夕刊紙がありました。ローカルネタが満載で楽しく興味深いのでよく読んでいました。現在受け持っている語学のクラスに天津出身の留学生がいるので、ある授業でこの新聞の記事を配って「懐かしいでしょう?」と言ったら、『今晩報』の存在自体を知らず、読んだこともないと言われました。いまの学生さんはスマートフォンでニュースを見ていて、紙の新聞など読まないのですね。


Kun minä asuin aikaisemmin Tianjinissa, Kiinassa, siellä oli iltalehti, joka on nimeltään "Jinwanbao(Tämän illan uutiset)". Olin aina ostanut sitä, koska siinä voisi lukea paljon hauskoja ja mielenkiintoisia paikallisia uutisia. Olen nyt vastuussa kielikursseista, sillä on ulkomaalainen opiskelija Tianjinista. Eräässä luennossa annoin hänelle artikkelin tästä sanomalehdestä ja kysyin häneltä: Etkö kaipaa sitä? Mutta hän vastasi odottamatta, ettei hän tiennyt sitä itse eikä ollut koskaan lukenut sitä. Nykyään opiskelijat lienevät lukeneet sanomalehtiä mieluummin älypuhelimillaan kuin paperilla.


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トレーニンググローブ

中指と薬指のつけ根に大きな「胼胝(たこ)」があります。昔は指の側面にいわゆる「ペン胼胝」があったのですが、パソコンを常用するようになってからこちら、すっかり姿を消しました。そのかわりここ数年、指のつけ根に出現しているのです。理由はもちろん筋トレです。

ベンチプレスなどでバーベルを上げようとすると、ちょうどこの部分に当たるのです。身体がこの部分にストレスを感じて、自己防衛的に皮膚を厚くしようとしているんでしょうね。これまでは別に違和感もなく不便も感じなかったので、胼胝もそのままにしてきました。

しかしウェイトが徐々に上がるにつれて、この部分がちょっと痛く感じられるようになってきました。しかもトレーナーさんからバーベルを握らないように指示されてからは特に。よくよく手の使い方を観察してみると、みなさんバーベルは指のつけ根あたりではなく、親指の下の膨らんだ手のひらのあたりで支えています。なるほど、ここなら皮膚も厚いのでそれほど痛くもなく、従って力もかけやすいということですか。身体全体のフォームも大切ですが、こういう細かいところの調整もすごく大切なのです。

それでバーベルを支える位置を調整しながらトレーニングしていたのですが、それでもある程度のウェイトを超えると、痛さが耐えがたくなってきました。その時に気づいたのは、朝活のジムなどで見かける、手にグローブをはめた方々の存在でした。

グローブというか、指先がカットされたハンドウォーマーみたいなものですが、なるほど、アレがあれば手のひらも痛くなさそう。トレーナーさんに「アレは何という物ですか」と聞いたら「さあ……?」というので、ネットで調べてくれました。「トレーニンググローブ」だそう。というわけでさっそく購入しました。

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GW SPORTSトレーニンググローブ

使ってみたら、いままで上がったり上がらなかったりを行き来していたベンチプレス75kgが一度ですっと上がりました。やはり手のひらの痛さがまったくないぶん、力を出すことに集中しやすくなるようです。それに、何となくこれをつけているとカッコいい。レーサーがスタート前にきゅきゅっと手袋を装着している時のような。くだらない虚栄心ですが。

ところで「胼胝」をネットで検索したら、Wikipediaに「べんち」という読みが載っていました。おお、中国語の“胼胝(piánzhī:ピィエンヂー)”ではないですか*1。たぶん中国語から入ってきた読み方なんでしょうね。

*1:一般的な会話では“繭子(jiǎnzi)”とか“老繭(lǎojiǎn)”などと言いますが。

人体大全

宇宙に関する本を読むのが好きです。といっても一般向けの入門書しか読んだことはありませんが、人類が宇宙の実態を解き明かそうとして営々と積み重ねてきた努力の歴史をたどり、それでもその結果として宇宙に関するかなりの部分が「まだよく分かっていない」という事実に、変な言い方ですが「救われる」思いがするのです。

想像を超えるほど巨大で広大な宇宙のことを考えると、自分がいまここで生きていることなどほんのちっぽけなことのように思えてきます。それが私にはある種の福音のように思われるのです。日々の暮らしは小忙しく、胸ふたぐ思いをすることも多いですが、そんなこんなで淀んだりわだかまったりしている自分が馬鹿みたいに思えてくる。

宇宙の極大と自分の極小との間の振幅があまりにも大きすぎるがゆえに、宇宙に関する本を読んでいると、なんだか壮大な「肩透かし」をくらったように感じます。自分の中で高まっている無益で無用な圧力をプシュッと抜いてくれるような作用があるのです。

今回読んだ『人体大全』はその自分のさらに内側の極小世界を「大全」の名にふさわしく詳述してくれる一冊ですが、宇宙に関する本を読んだときと同じような感覚を味わいました。宇宙とは逆のベクトルで、ちっぽけな自分と、その自分の中にある極小の世界との間の振幅がこれまた大きくて、宇宙のことを知る時同様に興奮するのです。そして「実はまだよく分かっていない」という点があまりにも多いという点でも宇宙と人体はとてもよく似ています。

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人体大全―なぜ生まれ、死ぬその日まで無意識に動き続けられるのか―

この本の原著が書かれたのは、今次のコロナ禍の直前だそうですが、それでも感染症を扱った項にはまるで現在を予見するかのような記述があります(追記された短い「あとがき」ではコロナ禍についても触れられています)。

コロナ禍によって、普段は自分の身体や健康について、あるいは死について漠然としか意識していなかった私たちは、否応なしにより真剣に向き合わざるを得なくなりました。なのに人体に関するあれこれがここまで「実はまだよく分かっていない」というのでは、思わず絶望しかかるところです。が、私はここでも、宇宙に関する本を読んだときと同じような、一種の開放感にも似たよい意味での脱力感を覚えました。

結局のところ、どんなにあれこれ手を尽くしても、身体と生命に関するリスクについて私たちができることとしては、「健康的な食事を取り、少なくとも適度に運動し、健全な体重を保ち、まったくタバコを吸わず、酒を飲みすぎない(481ページ)」に如くはない……という「諦念」を呼び起こされられるからです。

それは別に何もかも諦めて享楽的に生きればいいという意味ではなく、これだけ、宇宙にも匹敵するくらい複雑で謎ばかりの人体だからこそ、淡々とその日その日をていねいに生きていこう、それくらいしか自分にできることはないという心境です。なんだか信仰めいていますけど、この本を読んであらためて感じたのはそういうことでした。

蛇足ですが、読書猿氏のあの『独学大全』がヒットして以降、書店には『○○大全』と銘打った書籍が沢山登場しています。この本の題名もその流れにあやかったものかなと思いましたが(原題は《The Body: a guide for occupants》)、これはまさしく大全の名にふさわしい浩瀚な一冊です。以前NHKで同様のシリーズ番組をやっていましたが、テレビ番組ではかなり情報が限られるところ、この本でははるかに豊富な知見が披露されていて、とことん楽しめます。

文化に興味があるわけじゃない

先日、フィンランド語のオンラインクラスに出ていたら、先生が「私は別にフィンランドの文化や観光に興味があってフィンランド語をやったわけではないので……」とおっしゃっていました。ではどんな動機で学ばれたのかについては聞けなかったのですが、たぶん言語としてのフィンランド語そのもの、あるいはほかの言語とフィンランド語の比較について興味がおありになったのではないかと想像し、そして共感しました。

なぜなら私自身も似たような動機で学び始めたからです。学んでいるからには現地に行って使ってみたいという欲求はあるので、その意味では文化や観光にまったく興味がないわけじゃありませんが、どちらかというと言語そのものへの興味が勝っていました。「悪魔の言語」とも称されることがあるほど複雑な文法を持つフィンランド語そのものへの興味です。

しかもフィンランド語は、その他の北欧諸語、つまりデンマーク語、スウェーデン語、ノルウェー語、アイスランド語が比較的近しい関係にあるのに対して、言語的に大きく隔たっていると言われています。お隣のロシア語ともまた大きく異なり、わずかに南に位置するエストニア語、それにハンガリー語と近しいくらいで、言語的にはぽつんと孤立しています(とはいえ話者はおよそ600万人ほどいますが)。そこに私は興味を覚えました。

フィンランド語を学んでいる方の多くは、コロナ禍以前の教室の風景や、そこで交わされた会話などから想像するに、フィンランドの文化や観光にとても大きな興味があるように思われます。オーロラ、ムーミン、サンタクロース、サウナ、イッタラ、アラビア、マリメッコアルヴァ・アアルトサルミアッキ……私も興味はありますが、それよりも言語そのものが一番の関心事です。

それに、曲がりなりにも長年中国語を学んできて、もうそろそろ中国語以外の語学をかじってみたいなと思っていたこともあります。中国語というか、アジアから離れたどこか遠い場所の言語をやってみたかった。そしてできれば、中国語のような「孤立語*1」とはまったく違う言語を学んでみたいと思いました。要するに、脳の中にこれまでとはまったく違うシナプスの繋ぎ方を作ってみたかったのです。つまり「脳トレ」、もっと自分の実感を伴った言い方にするなら「ボケ防止」ということです。

語学をやる動機のうち、もうひとつ大きなものだと思われるのは、その言語を話している人々に対する興味があるでしょう。友人や知人にその言語を話す人がいて、その人たちと直接コミュニケーションしてみたい、その人たちが大好きで、行き会うだけでも親近感を覚える、といったぐあいに。

私も中国語を学んでいたときは、初手から中国語母語話者の先生がいましたし、周囲にも仕事関係で中国の方が大勢いました。ですから、そうした人たちの人となりに惹かれたり、時にはカルチャーショックを受けたりして、否が応でも興味を向けざるを得なかったのですが、現在学んでいるフィンランド語は、先生も日本語母語話者ですし、日常生活の周辺にフィンランド語の母語話者もいませんし、従って友人や知人と呼べる人もいません(時折Twitterでやりとりする人はいますが)。

というわけで、現時点では「あの人とフィンランド語で話したい!」という強いモチベーションすらなく、また文化や観光への興味でもなく(コロナ禍で観光もできませんし)ただただ言語の面白さや複雑さのみに惹かれて学習を続けているような状態です。周りからは「なぜまた選りに選って」と奇異な目で見られています。それはまあそうですよね*2

でも自分としては、いま学んでいるフィンランド語と英語、それに母語の日本語と、仕事で使っている中国語の四点を毎日ぐるぐる回ったり、ぴょんぴょん飛んで移ったりしているうちに、何か自分のなかで化学反応が起きないかなと期待しているのです。いまのところはまだ反応の気配があまり見られませんが、最近英語の文法が以前よりも自然な形で自分の身体の中に宿っている(ような)気がし始めています。


https://www.irasutoya.com/2016/08/blog-post_337.html

例えばフィンランド語と英語の文法はかなり隔たっている一方で、完了時制などの考え方はとてもよく似ています。そういうかけ離れたものの間でときどき接点が見つかったり、また遠く離れたりという離合集散を頭の中で繰り返し、そこにほかの第二言語母語が干渉してくる……これはかなり面白い遊びなんじゃないかと思います。これも周囲に漏らすと奇異の視線を返されるのですが、スマホゲームなどよりよほど面白いと個人的には思っています。

*1:言語的に孤立しているという意味ではなく、「単語に語形変化がなく、文法的機能が語順によって表される言語(Oxford Languagesの定義)」という言語学上の分類です。

*2:思想家の内田樹氏が、ご自身がフランス語を学ばれたときのことを書かれた文章で「フランス語という『目標言語』は同じでも、それを習得することを通じてどのような『目標文化』にたどりつこうとしているのかは人によって違う」とおっしゃっていました。同感です。http://blog.tatsuru.com/2018/10/31_1510.html

フィンランド語 128 …可能法現在形と完了形

新しい文法事項として「可能法」というのが出てきました。「おそらく〜だ」とか「〜かもしれない」といった意味を表します。これは基本的に書き言葉でしか使われないとのこと(例えば物語を朗読しているときなどには使われることも)です。断定を避けるという意味では、これまでに“ehkä”をはじめ、“kai”“valmaan”“luultavasti”“mahdollisesti”“kenties”“kai”などが使えました。口語(もちろん文章でも)ではこれらが用いられるということですね。

Ehkä hän on suomalainen.
あの人はたぶんフィンランド人です。

これが可能法ではこうなります。

Hän lienee suomalainen.
あの人はたぶんフィンランド人です。

“lienee”という見慣れない単語が出てきましたが、これは“olla”の可能法三人称単数の形。つまり可能法とは、動詞自身が断定を避ける「おそらく〜だ」という意味を持つんですね。“olla”はこのように変化します。

lienen lienemme
lienet lienette
lienee lienevät

否定はもちろんこうなります。

en liene emme liene
et liene ette liene
ei liene eivät liene

こうした特殊な変化をするのは“olla”だけで、ほかの動詞は過去分詞の“nut/nyt”の代わりに“ne”をつけ、さらに人称語尾がつく形です。

動詞 過去分詞 可能法
nukkua nukkunut nukkune+n,t,e,mme,tte,vAt
syödä syönyt syöne+n,t,e,mme,tte,vAt
tykätä tykännyt tykänne+n,t,e,mme,tte,vAt
nousta noussut nousse+n,t,e,mme,tte,vAt
ajatella ajatellut ajatelle+n,t,e,mme,tte,vAt
mennä mennyt menne+n,t,e,mme,tte,vAt
purra purrut purre+n,t,e,mme,tte,vAt
haluta halunnut halunne+n,t,e,mme,tte,vAt
häiritä häirinnyt häirinne+n,t,e,mme,tte,vAt
kyetä kyennyt kyenne+n,t,e ,mme,tte,vAt

kpt の変化もないので比較的楽ですが、例えば“ajatella”などは可能法現在形一人称単数の“ajatellen(おそらく考える)”と第二不定詞具格の“ajatellen(考えながら〜する)”がまったく同じ形になるので、文脈から判断する必要があります。

可能法には完了時制もあって、それは上掲の“olla”の可能法に動詞の過去分詞を組み合わせます。

lienen sanonut lienemme sanoneet
lienet sanonut lienette sanoneet
lienee sanonut lienevät sanoneet

複数では過去分詞も複数形になるので注意が必要です。

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Oikealla olevan poika lienee eri mieltä kuin vasemmalla olevan poika.

ノンアルコールのスパークリングワイン

お酒をやめて一月あまりが過ぎ、体調はとても良好です。唯一腰痛だけはまだ全快とまでは行っていませんが、それでも以前のようにほぼ毎週一度くらいの頻度で襲ってくるひどい状態には陥らなくなりました。飲酒と腰痛の因果関係はよく分かりませんが、特に身体が欲していなくて、なおかつ腰の状態がこのままでいてくれるのであれば、あえてお酒を飲む動機が見当たりません。

お酒好きの同僚からは「また変な行動にハマって……」とでも言いたげな、同情とも困惑とも皮肉とも取れるような反応を返されていますが、いいのです。人は人だし、自分は自分。しかも昨今、コロナ禍でそもそもお酒を飲む機会が激減、というか皆無になっています。学生の頃から30年以上お酒に依存してきたのですから、もうそろそろ違う人生のステージに進んでもいいでしょう。

ただし、食事の時になにか飲みたいという欲求だけはまだあります。お茶でもいいけれど、それは食後に取っておいて、食前と食中は料理に合う何かを飲みたい。これは長年の飲酒歴からくる単なる悪い習慣なのかもしれません。でも何かの習慣を変えていくためには「イヤイヤやる」とか「苦しいのを我慢する」というのは失敗のもとなので、ノンアルコール飲料をもう随分前からあれこれ試してきました。

いまのところは、という限定付きですが、ノンアルコールのビールは、正直いずれも飲んでがっかりするものばかりです。少なくとも何か果汁などを足さないと、飲んで逆に落ち込むほど。食事もおいしくなくなります。国内メーカーだけでなく、海外のものもあらかたお店で探したり、ネットで取り寄せたりして飲みましたが、ひとつも当たりがありません。開発者のみなさん、ごめんなさい。

ノンアルコールのワインも、いまのところは甘すぎるただのジュースという印象のものがほとんどですが、スパークリングワイン(風)のものは、いくつか「これだったら」と思えるものがありました。ひとつは「OPIA(オピア)」のシャルドネ・スパークリング・オーガニック・ノンアルコール、もうひとつは「PIERRE CHAVIN(ピエール・シャルヴァン)」のピエール・ゼロ・ブラン・ド・ブランです。

www.pacificyoko.com
www.pierre-chavin.com

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どちらも、スパークリングワインとジュースの中間といった感じですが、少なくともあまり甘くないので(個人的にはもっと辛口だったらいいなとは思います)、食事にも合います。

近所のスーパーでも売られているので、けっこう需要もあるんでしょうね。最近はビールでも「微アル」みたいにごくわずかなアルコール量のものが各社から出始めていて、お酒を飲まない、あるいはあまり飲みたくないという需要は広まりつつあるようです。そして上述したようにここが面白いというか不思議なところですが、アルコールは苦手なのに「お酒ふう」のテイストは求めるんですよね。つまりお酒を飲むこと自体は嫌いじゃないけど、酔いたくはないと。ここが同僚などにも怪訝な視線を送られるゆえんだと思います。

ノンアルコール飲料に「お酒ふう」テイストを求めるのが飲酒依存の抜きがたい残滓なのか、そのうちに「お酒ふう」さえ求めなくなるのか、自分の嗜好の、今後の変化が楽しみです。

酒をやめて腰痛が改善した?

「ソーバーキュリアス(ソバーキュリアス/Sober curious = しらふでいることへの興味)」という言葉に出会い、ふと思い立って「断酒」を始めてから、ちょうど一ヶ月あまりが過ぎました。この間、一滴もアルコールを飲まない生活でしたが、不思議なことに、特に我慢も努力もすることなく続けることができました。まるで憑きものが落ちたかのようにお酒を飲みたいと思わなくなったのです。

qianchong.hatenablog.com

お酒をやめてみたら、体調にいろいろと変化が出ました。まず血圧が下がりました。毎年の健康診断ではいつも高い値が出ていて、職場からは専門の医師に相談するよう「勧告」されていました。医師に相談すればたぶん降圧剤の服用を勧められるだろうと思って、なんとか生活習慣を変えることで改善を図ろうと、日々の運動や減塩などここ数年取り組んできたのですが、はかばかしい成果はなかった……のに、断酒一ヶ月でぐぐっと下がったのです。たまたまかもしれませんし、今後も経過観察は必要ですが、ほぼ飲酒との関連を疑われても仕方がないかなと思っています。

次に腰痛が軽快しました。少なくともこれもここ数年悩まされてきた、かなりひどい状態には陥らなくなりました。実は断酒を始める前にある方に聞いたお話で(その方もときおり腰痛に悩まれています)、骨がずれているなど器質的に問題があるわけでもないのに長期間の慢性的な腰痛になるのは、もしかすると内臓に問題があるのかもしれないというものがあったのです。

これもまだ断定するには早いと思うものの、少なくともこれまで腰に負担をかけないために仕事の椅子をあれこれと変えては試し、パソコンやキーボードの位置などもあれこれと調整し、パーソナルトレーニングでも腰痛予防にかなりの重点を置いてメニューを作ってもらって取り組んできたのですが、そのいずれにも勝るほどのはっきりとした改善が、断酒によってもたらされてしまったのです。やはり過剰なアルコールの摂取が内蔵に負担をかけていたのかもしれません。内臓の負担と腰痛の因果関係はまったくもって不明なのですが。

「もたらされてしまった」などと、まだ若干お酒に未練がある私ですが、少なくとも何かの記念日とか、大きな仕事が終わったとか、そういうお祝い的なタイミング以外ではもう飲むことはないかな、飲まなくていいかなと思っています。

断酒を続ける中で、いくつかの「断酒本」も読みました。例えば町田康氏の『しらふで生きる』や、若林毅氏の『Shall we 断酒?』などです。それらにはいずれも断酒にまつわるかなりの苦悩と苦労が見て取れるのですが、今回の私にはまったくそういう「苦」がありませんでした。

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しらふで生きる 大酒飲みの決断

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Shall we 断酒?: ダンスを踊るように、楽しみながらお酒をやめませんか

やはりこれは、もう人生で飲むことのできるアルコール量を飲み尽くしてしまったということなのでしょう。ここで「打ち止め」です、お客さんと。まあ、かつては一晩にワインを二本も(ひとりで)開けるような飲酒生活だったのですから、納得もできようというものです。