インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

パントマイムと仕舞

パントマイム・アーティストのが~まるちょば氏が『マツコの知らない世界』に出演されていました。

tver.jp

短い尺ながら、パントマイムの歴史から説き起こし、実演しながらパントマイムの可能性と限界の両方に言及されていて、その分かりやすい話し方とともにとても興味深く観ました。特にパントマイムがセットを使わない理由について述べるパートで、が〜まるちょば氏はこう言っていました。

セットを使うとイメージがひとつだけになってしまう。パントマイムは何も使わないことで、観ている人の経験や想像力で背景を感じてもらう。だから小さい子供も楽しめるし、お年寄りも楽しめる。その二人が見ている物が違った物に見えてくるという素晴らしさがパントマイムにはある。

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この「観ている人の経験や想像力で、舞台上の演技がそれぞれ違ったものに見える」という点は、能楽にも共通していると思いました。能楽にもセットのようなもの(作り物)や小道具、あるいは役柄の属性を表す面(おもて:仮面)や装束などはありますが、特に「作り物」はいずれもごくごく単純な、あるいは抽象化されたようなものが多く、その作り物すらない簡素な能舞台だけという演目が多いです。

そこでは多分に観る側の想像力が要求され、また優れた能楽師の舞にはその想像力を喚起させる強い力があります。とはいえ、個々人の想像力はそれこそ千差万別で、そのひとりひとりの創造性や感受性の違いによって、目の前に現れてくるものがそれぞれに違ったものになるというのが能楽のおもしろいところで。

番組ではパントマイムの一種として、マイケル・ジャクソンムーンウォークや、Mr.ビーンの演技、欅坂46の振り付けなども紹介されていました。いずれも言葉によらない身体の動きだけで観る者を引き込むパフォーマンスなのですが、私は能楽の、とくに仕舞もそのひとつではないかと思いました。

仕舞は能楽の一部分を抜き出し、しかも面や装束も使わず黒紋付などスタンダードな出で立ちと扇だけ(曲によっては薙刀や竿なども)で舞うというものです。地謡によって言葉での描写が謡われはしますが、舞の型には時にかなりの抽象性が認められます。例えば武将の合戦のようすを描写する場面で、刀を振り下ろしたり、弓を射たりする動作がある場合、そういう情景を具体的に再現しているようでいて、リアリズムとはまた違った次元の型によってそれらは表現される、というか「舞われる」のです。

そう、お師匠がよくおっしゃるのは、演技ではあるけれども「舞」でもあるという点。あくまでも「舞」であって、実際に鬼の形相で敵に切りつけるリアリスティックな「演技」をするわけではないと。その一種の抽象性の中に、舞を観る者の想像力を羽ばたかせる余地を残すというのが能楽の、特に仕舞のあり方なのですね。

もちろんそれは、熟達した玄人(プロ)の舞においてのみであって、私たちのような素人の舞はほとんど型をさらっているだけか、せいぜい型を忠実に再現しおおせるか否か……というレベルではあります。それでもほぼ「何もない空間」である能舞台の上で、そこに敵がいる「つもり」、花が咲いている「つもり」、別れを目前に控えた人がいる「つもり」などなど……で舞うのは、なかなかにおもしろいです。

そのおもしろさは、観るものが観るものの経験や想像力でそれぞれに違ったアウトプットを引き出せるというおもしろさとともに、舞うもの自身も自らの経験や想像力でそれぞれに違ったアウトプットが生まれる、そうならざるを得ないという点のおもしろさだと思うのです。だから自分のことは棚上げであえて書けば、玄人のみならず素人の方々の仕舞を観ていて、良くも悪くもその人の「人となり」がとてもよく伝わってくる……ということがままあります。よく考えてみたら、けっこう怖いです。

ここには、人が別の人の前で何かを演じるという行為そのものの、いやもっともっと広く、人が別の人の前で何かを発信する、つまりコミュニケーションが立ち上がる時の「おおもと」にある何かが潜んでいるような気がしています。