インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

BEYOND TOFU シュレッド

あの「ザクとうふ」にはじまり、豆腐のさまざまな可能性を追求し続けてこられた「相模屋」さん。豆腐大好き人間としてはスーパーで新商品を見かけるたびに購入して応援しています。

最近の筋トレブームにあやかってか、先日は「たんぱく質のとれるとうふにゅうめん」シリーズなるものが東急ストアの豆腐売り場に並んでいて、「おおっ!」と飛びついたのですが、う〜ん、ごめんなさい、食感と塩辛さでこれはちょっと。プラスチックごみが大量に出るのも個人的には心が痛い。

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ところが、これまた先日、いつも行っているオオゼキがお休みだったので近くのトップパルケに行ってみたところ、相模屋さんのこんな商品を発見しました。「BEYOND TOFU」のシュレッドタイプです。豆乳を主原料として作られた植物性100%のピザチーズ(チーズじゃないけど)ということです。

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さっそくラザニアを作ってみましたが、これは大正解でした。チーズとほとんど変わらない味です。ちょっとあっさりした感じになるかな。相変わらず塩辛さがやや強いですが、これはこちらでホワイトソースやミートソースの塩加減を調整すればいいですから、たいじょうぶ。ミートソースも「大豆ミート」を使ってみました。私はベジタリアンというわけでもないのですが、どうせならということで。

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成分表はこんな感じ。当然のことながら豆腐だけで作られているわけではないですが、カロリーは控えめなのかしら。

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相模屋さんのウェブサイトによると、カロリーは100gあたり335kcal。一般のピザチーズはというと、こちらによれば、100gあたり360kcal。あれ? あまり変わらないですね。ちょっとだけカロリー控えめという感じですか、わはは。

通訳報酬の「時給化」について

通訳者として登録しているエージェントさんから、アンケートへの回答を求められました。エージェントとは、通訳者の派遣や通訳者を使った業務のコーディネートなどを行っている会社です。アンケートの内容は、コロナ禍で通訳者の業務環境が大きく変わりつつある中、短時間での業務に対応する場合における報酬について意見を求めるものでした。

新型コロナウイルス感染症の拡大で緊急事態宣言が出され、海外との人的往来が極端に少なくなって以降、国際的な会議や会合はほとんど開催されなくなっており、そのかわりにインターネットを使った遠隔会議が主流になっています。通訳者を必要とする会議や会合のフィールドも遠隔会議の場に移りつつありますが、従来とはかなり異なる勤務形態のため、料金体系を見直したいというのがエージェントの意向なのでしょう。

ここにはエージェントだけでなく、通訳者を依頼するクライアントからの要望もあるものと思われます。通訳者の報酬にはいろいろな形がありえますが、このエージェントの場合は「1日料金」と「半日料金」の二種類しかありませんでした。他のエージェントもほぼ同じです。つまり、例えば2時間の会議であっても、半日料金をクライアントに請求していたわけです。

でもクライアントからすれば、遠隔会議に会議に参加する通訳者は(おそらく)自宅からアクセスしてくるはずで、会議場所までやってくる手間もかからないのだから、会議に参加している時間だけ、つまり「時給」で報酬を支払ったっていいじゃないかという感覚になるんでしょうね。そういうクライアントの声が多く届くようになって、エージェントとしてもそれを放置しておけなくなったというのが、こうしたアンケートの背景にあるのだと思います。

しかし、もともと通訳者の報酬というものは、実質的に現場で通訳をしている時間のみを対象にしたものではありません。単なる井戸端会議ならともかく、専門性の高い業務内容を通訳する場合「話せれば訳せる」わけではなく、事前の入念かつ長時間の予習や準備が必要です。2時間ほどの会議であっても、その2時間だけ顔を出してしゃべるだけ……ではないのです。

qianchong.hatenablog.com
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通訳者の報酬は、それも「込み込み」で日当が設定されていたのであり、わずか数時間の業務であってもその予習や準備の大変さにそれほどの差はないため(なにせ、通訳者はほとんどすべての業界において「門外漢」なのですから)、長年の経験から「1日料金」と「半日料金」という形で報酬を確保する形に落ち着いてきたのだと理解しています。エージェントもその意味や意義をクライアントに十分説明し、クライアントもまた良い通訳業務を通してこそ自らの利益にもかなうのだという点を理解してそうした報酬を支払ってきた。

ところが、このブログでももう何度も指摘してきましたが、そうしたクライアントとエージェントの関係に変化が生じ、エージェントと通訳者の関係にもそれが波及しています。具体的には、クライアントは複数のエージェントに「相見積もり」を取り、エージェントは通訳者に「仮案件」という形でオファーを出し、エージェントが失注した場合には「リリース」になるという形式が常態化したのです。これは通訳者(特にフリーランスの)に一方的な「しわよせ」が行く形式であり、安定した収入の確保がますます難しくなっています。

qianchong.hatenablog.com
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そこにもってきて今次のコロナ禍による「時給制」への移行の動き。エージェントとしても、エージェント他社がクライアントからの要請に応じて時給制を導入し、クライアント側のコストカットに協力するようになれば、座視しているわけには行かないでしょう。それでこうしたアンケート調査という運びになったのだと思います。他のエージェントからはこうしたアンケートは届いていません(私のような末席に出していないだけ、だと思われます)から、このエージェントはまだ通訳者の意向を聞こうとしているだけ良心的でいい派遣業者だと思います。

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https://www.irasutoya.com/2018/12/blog-post_888.html

でも、アンケート結果のいかんによらず、一部の業務では上述したような「時給制」への移行はもう決定的でしょうね。そうなれば、十分な予習や準備が必要な通訳業務にはますますの困難さが伴うようになると思います。これまでだって、クライアントからなかなか資料が提供されない、提供されても会議の直前、提供された資料が当日大幅に入れ替わっているなど、通訳者泣かせの状況は山ほどあったのです。それがさらに困難な状況になる……。

私はもう、エージェント経由のお仕事は実質的に「廃業」状態ですから、いまさら何をか言わんやなのですが、こうやって通訳者を追い詰め、言語の壁をある意味で「舐めて」かかって行った先に明るい未来が開けているとはあまり思えません。

おっと、つい呪詛の言葉を吐いてしまいました。私はくだんのアンケートにまだ回答していないのですが、エージェントさんの立場は十分にわかるものの、それではこの業界を志す新しい方々はますます減り、それは回り回って御社の状況にも影響を与えるのではないかと思います、とでも書こうかなと思っています。

qianchong.hatenablog.com

コロナ禍が対中観に与えるかもしれない影響

国産ジェット機の開発が事実上凍結。携わってこられた方々からすれば無念だとは思いますが、一度走り始めたらどんなに無理筋でも止まらないというこの国にしては、まだまだ賢明なトップはいるのだと思わせてくれて、かすかな希望を感じたニュースでした。

this.kiji.is

これよりも遥かに巨大で、かつ罪深い東京五輪もほぼ中止が確実なようです。何が罪深いって、招致段階からの賄賂に始まり、「アンダーコントロール」のウソ、コンパクト五輪と言いながらの税金2兆円以上の投入、新国立競技場やエンブレムなどにまつわるゴタゴタ、「アスリートファースト」を掲げつつのテレビ放送や広告利権が絡む炎天下での開催、その炎天下のタダ働きと称されたボランティア問題、延期に伴うさらなる税金の投入……ときて、今時のコロナ禍。

コロナ禍だけは不可抗力ですけど、これはもう「最初から手を出すんじゃなかった」的な無理筋感満載です。それでもまだ国も東京都も組織委員会も何が何でも開催しようとしているようですが、五輪にはこの無理筋を止める賢明なトップがいないんですね。しかも中止になったら中止になったで、その後の経済に与える影響も大きそう。本当に、暗澹たる気持ちになります。

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https://www.irasutoya.com/2020/01/blog-post_265.html

経済に与える影響もさることながら、個人的に危惧しているのは中国への風当たり、というかもっと人々の心の奥深いところでの対中観に与えるかもしれない影響です。

新型コロナウイルス感染症の感染者数や死者数が飛び抜けて多いアメリカのトランプ大統領は、このウイルスを「中国ウイルス」と言ってはばかりません。いまはこの言い方に眉をひそめる向きも多いと思われます。でも、コロナ禍の影響が五輪の中止に及び、その後も二年、三年と経済に、ひいては我々の暮らしの隅々にまで、かつてなかったほどのインパクトを及ぼし続けるとしたら、このトランプ的発想に支持を与える人々が増えるのではないかと危惧するのです。

思い起こせばこの感染症が日本でも流行し始めた頃、中国や中国人に対する露骨な差別的言動がいくつも現れました。その後ウイルスが全世界的に拡大するにつれ、人々の往来が止まったことによって来日する中国人もほぼ皆無になったからか、そうした差別的言動は影をひそめていきました。が、私は今後、このウイルスの発生地とされる中国に対する人々の恨みつらみが露骨に顕在化してくるのではないかと心配します。国産ジェット機の開発も五輪も中止になり、経済は大打撃、それもこれももとを辿れば中国のせいだ……のような。単純な考えですけど、単純なだけに心にするっと入り込みやすい。

加えて現在の中国政府が、内政においても外交においてもある意味あまりにもわかりやすい「とんでもなさ」を発揮しています。香港しかり、新疆ウイグル自治区しかり、内モンゴル自治区しかり。さらに台湾への対応、バチカンとの距離感、東南アジアからオーストラリアにかけてのアジア太平洋地域における覇権とそれへの反発……にもかかわらず、いち早く感染症の影響から脱してITでも宇宙開発でも、さらにはエンタテインメントでも存在感を高めつつある中国。そうした中国に対してコロナ禍で疲弊する国々の人々からは、これまで以上にあからさまな敵意なり憎悪なり妬みなりが示されてくるのではないかと。

言うまでもなく、中国という国ないしは政府と、ひとりひとりの中国人は分けて考えるべきです。私だって、今の日本政府に日本人としての私を代表してほしくないですからね。けれど、そんな当たり前のことを冷静に考えられない人が残念ながらこの世の中には数多く存在しています。人々の対中観が今後、かつてなかったような醜悪な形に変わっていくのではないかという心配が拭えません。

こういう心配が杞憂であることを祈ります。それでも私は、自分の周囲にいる中国人の仕事仲間や学生や友人を、ひとりの日本人としてどう援護することができるだろうか、ということを今から考えておかなければと思っています。

「諫言」を容れる度量すらない

今朝Twitterで、このツイートに接しました。

荀子は二千年以上も前の人です(『荀子』としてまとめられたのは唐の時代)。二千年以上も前にここまで明快に言われちゃってることを、まったく学ぼうとしないんですよね。Z国も、うちの国も。小島毅氏がおっしゃるように、Z国をあれだけ警戒して、うちはZ国みたいなのとは価値観を全く異にすると言っておきながら、やってることはどんどんZ国に近づいています。

近視眼的で、大局的かつ長期的な視野で国を考えることができないというの、暮らしを回すことに汲々としている庶民ならいざ知らず、天下国家を論じるべき政治家こそそうした視野や世界観が必要なのに、本当に情けないです。

ネットではずいぶん話題になっていますけど、今度の新しい首相なんか、ほんの8年ほど前に出したご自分の著書でこう書いていたんですよ。「千年に一度という大災害に対して政府がどう考え、いかに対応したかを検証し、教訓を得るために、政府があらゆる記録を克明に残すのは当然で、議事録は最も基本的な資料です。その作成を怠ったことは国民への背信行為」だと。

note.com

なのに、ご自分たちが政権を取ったら、そうした記録を残さず、改竄したり、処分したりした上に、その著書の新版でもこの記述をばっさり隠蔽しちゃう。単に当時の与党・民主党をディスりたかっただけでしょ。本当に目の前のことしか考えておらず、まさに「国家にとっての良し悪しを気にかけず、自分の地位を保つことだけ考えて権力者に迎合する連中」じゃないですか。小さい、あまりにも小さすぎる。

最近はコロナ禍でずいぶんご無沙汰していますが、以前は通訳者として日本や台湾や中国の大企業の方々の会合でお仕事をすることがありました。守秘義務があるのであまり詳細には書けませんが、大企業のトップの人たちも、同じように目の前の短期的なこと、もっと有り体に言えば目の前のお金儲けのこと(四半期の決算とか、せいぜい一年二年単位の業績)しか考えていなくて、長期的な視野で国とか公(おおやけ)のことを考える人が少ないんだなあと感じていました。

折しも、日本学術会議がZ国の「なんとか計画」と深くつながっているという情報が与党の大物政治家から発信され、その根拠を問われて主張がトーンダウンするという顛末を見せられたばかりです。この件については引き続きいろいろな立場から発信がなされていますが、面白いことにそのどれを見ても(つまり正反対の立場からの主張であっても)、結局のところうちの国が学問や研究という学術全般にわたって長期的な視点に著しく欠け、予算的にも冷遇を続けていることへの危惧についてはほぼ一致しているんですよね。

www.dailyshincho.jp
grici.or.jp
news.yahoo.co.jp

作家の百田尚樹氏など、この三つ目の記事を「マジで1万くらいリツイートしてほしい!!」なんて無邪気につぶやいていますけど、この記事だって結局は「日本では科研費をどうやって取るのかで皆が汲々としている」、「面倒なことをやらずに学問に没頭できて本当に幸せ」という日本の抱える問題点を露わにしちゃってる。Z国の「なんとか計画」に日本の研究者を取られたくないなら、日本の学術環境を飛躍的に向上させなきゃならないという主張において右も左もないんです。

なのにいまの為政者にはそうした「諫言」を容れる度量すらない。夏目漱石の『三四郎』冒頭に出てくる「滅びるね」をつい思い起こしてしまいます。

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https://www.irasutoya.com/2020/07/blog-post_48.html
▲「いらすとや」さんには本当にいろいろな絵がありますね。

「筆洗」の裏側を見せていただきました

今朝の東京新聞に「筆洗子」氏がその舞台裏を披露されていました。筆洗子は朝刊一面コラムの「筆洗」を執筆されている方だそうです。新聞や雑誌やなどの編集者がご自分のことを「編集子」と呼ぶことがありますから、筆洗子の名もその倣いなんでしょうね。「担当を退くまで素性を明かさない」のがルールなんだそうで、この記事では犬の姿で登場されています。

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毎日毎日一面を飾る、社を代表するコラムを担当されるご苦労はいかばかりかと思いますが、「おどおどと書くことを心掛けている」というのが興味深いと思いました。「一刀両断や反論を一切認めないような書き方はなるべくしたくない」と。歴史のあるコラムと同列に語るのも大変おこがましいのですが、私もブログを書くときに同じような感覚を持っているので、とても共感しました。

筆洗子氏が自らおっしゃっていますが、そういう「おどおど」とした書き方が、ときにしたたかなユーモアや批判(悪口ではなく、批判)につながることがあるんですよね。「『バカ』と書かず、『利口な人はたぶんやるまい』と書いた方がおもしろい」というのも、その一例かと思います。勇ましい、上から決めつけるような言葉は力強くて自分はスッキリするかもしれないけれど、読む人や聞く人の耳と心を閉ざしてしまうような。「嫌い」と書くより「苦手」と書いた方が、全く違う考えの人にもわずかに届くかもしれない可能性が残るような気がするのです。

ただ、これも私など言うのはおこがましいと思いながらも、「筆洗」に限らず、朝日新聞の「天声人語」でも毎日新聞の「余録」でも日本経済新聞の「春秋」でも、最後にちょっと人情を効かせてうやむやな、というか毒にも薬にもならないトーンに逃げ込んでしまうことが時々あって、あれはどうかなあと思います。うまい例が思いつかないんですけど「〜と思う今日この頃である」みたいな終わり方。

総じて現在の日本のマスメディアは、ジャーナリズムという観点からすればまったくもって舌鋒鋭くない、甘々の筆致が多すぎるように思います。新聞の一面コラムにまで強い批評精神を求めなくてもよいかもしれませんが、もう少し「辛口」でもいいんじゃないかなあというのがずっとこの手のコラムを読み続けてきた私の正直な感想です。

あと、なぜだかこうしたコラムを写経よろしく「書き写す」という活動が一部にあって、「筆洗」の東京新聞も「まるっと写しノート」なるものを販売されているんですけど、外語として日本語を学んでいる方がやるならともかく、日本語母語の我々がやることにいったいどういう意味があるのかな。前々から疑問に思っています。

バーミキュラのフライパンで餃子を焦げつかせずに焼く

バーミキュラのフライパンを購入したのち、初手から餃子を盛大に焦げつかせて挫折を味わい、その後何度もチャレンジするなかで「道具を使う際にはまず取扱説明書を熟読玩味せよ」というごく当たり前の真理を遅まきながら再発見した私ですが……。

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あれからさらに経験を重ね、このフライパンをどう使えばいいのか、その肌感覚みたいなものがようやく分かってきたような気がしています。取説通りに使うのは基本なのですが、火加減をきちんと考えて使えば、取説から多少離れた使い方でも焦げつかないみたいです。

蓄熱性がとても高いこの鋳物製フライパン、十分に蓄熱させたのち、その熱を安定して食材に伝えるように考えながら火加減を調節すれば、焦げつかないし、必要以上に焼きすぎることもないようです。スキレットみたいにとにかくガンガンに熱して焼くというよりは、予熱したあと油をなじませたら、しばらく火を極弱火にするか、いっそのこと消してしまって、フライパン全体に熱が伝わりかつ油も十分に熱くてなじんでいる状態を作るのがコツというか。

こうすれば、例えば炒め物の最初にみじん切りのニンニクやショウガを炒めるなどという際にもうまくいきます。ガンガンに熱しちゃったら、みじん切りのニンニクやショウガなど一瞬で焦げちゃいますから。

また水分を急速に蒸発させるのがこのフライパンの真骨頂なので、中途半端に水分を入れると焦げつきの原因になるようです。水分でフライパン全体の温度が下がってしまうと蓄熱で焼き続けるメリットが失われてしまいますから。ただし水分をもっと増やして煮込むような形にするのなら大丈夫です。それでも熱いところには熱い水分を足した方がよいようです。

というわけで、先日も餃子を焼きました。焼き上がりにヘラなどで底をさらわなくてもスルッと離れるくらいに理想的な仕上がりです。使い続けて油がフライパンになじんできたのも使いやすくなったという要因もあるかもしれません。ああ、失敗を積み重ねてきただけに、また泣きそう。

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真ん中にもやしのナムルを置いて浜松風にしてみました。バーミキュラのフライパンで餃子を焼くと、餃子全体がふっくらと焼き上がり、かつ水分がほどよく飛んでいるので、皮がとてももっちりとしていて、とても美味しいです。

フィンランド語 67 …日文芬訳の練習・その4

オンライン授業で毎週提出しているフィンランド語の作文、Twitterのツイート1本ぶんか2本ぶん書くだけでもかなりの時間がかかりますが、一度やめたらたぶん続かなくなると思うので、必死で書いています。

教室で先生が文章を解説する時や、自分たちで文章の読解をする時、フィンランド語の文を理解する手順みたいなものがあって、それに倣って作文をしています。先生いわく、フィンランド語の読解では文頭から単語を追って読もうとしてもうまく行かないことが多く(語順で話す言語ではないので)、まずは動詞を見つけ、それを起点に文の構造を読み解いていくのがいいのだとか。

それで作文も、まずは「誰が→どうした」を考えて、そこに要素をつけ加えていくようにしました。つまりまず主語と動詞を決めるのです。とはいえ作文は自分のこと(本当のことではなく創作でもいいけれど、とにかく自分がどうする、自分がどう思うという文章)を書くことが多いので、なんといっても動詞を決めるのが第一歩ということですね。そしてフィンランド語では動詞が人称によって変化する、つまり動詞に人称が含まれているので、最初にだけ主語を出したら、その後は主語を省略します。何度も「私は〜」「私は〜」とやると、くどくなるみたい。

フィンランド語は時制や格によって語形変化が激しいので、本当は最初からそれを折り込みつつ作文をして行くべきなのだろうと思います。ただ私はまだそこまで習熟できていないので、とりあえず辞書形(原形)で単語を並べ、そののちに時制や格を整えています。単数か複数か、可算か不可算かなども考えながら。

あまり複雑なことを書こうとしても無理なので、なるべくこれまでに習ったことのある単語を使って作文をするようにしています。もしくは直近の授業で習った表現を使ってみるとか。最初に日本語を作って、それをフィンランド語に移し替えますが、ここでは最初の日本語をできるだけ短い文章で切りながら書くこと、日本語の表現にとらわれず(多少幼稚になるのもいとわず)簡単な表現で書くのがよいようです。とにかく、初手から凝ったことを書こうとしないこと。日本語の表現に近づけようとして日芬辞書などを使うと、かえって収集がつかなくなるように思います。

全部できたら、参考までにGoogle翻訳フィンランド語から英語に訳してみます。さらにその英語に手を入れて、フィンランド語に訳し戻してみる。そうしてできたフィンランド語の文章を自分の作文と比べてみます。この方法は多少「微妙」で、あまり寄りかかりすぎると最初からGoogle翻訳を使って作文をしたくなるので注意が必要です。あくまでも最後の確認程度に。

フィンランド語から訳された英語が奇妙なものになっている場合、よく見ると綴りが違っていたり、時制が違っていたり。あと、まったく意味不明な英文になった場合はもう一度自分の作文を検討し直します。これまでの印象ではGoogle翻訳の「芬→英」の場合、文章全体の構造はあまり問題がない一方で、単数や複数の訳し分けがかなり怪しいという感じです。

若い頃、仕事をやめ、奨学金を得て中国へ留学しました。それは人生最高の日々でした。留学する前は日本のことがあまり好きではありませんでしたが、留学して日本の別の側面が見えるようになりました。先週フィンランド語のクラスで、フィンランド教育省の夏期大学プログラムを知りました。いまも行われているかどうか分かりませんが、いつかぜひ参加してみたいと思います。
Nuorena minä olin jättänyt työpaikkani kesken ja saanut stipendin, menin Kiinaan opiskelemaan. Se oli elämäni paras päivä. Ennen kuin opiskelen ulkomailla, en ollut tykännyt Japanista niin paljon, mutta sen jälkeen olen osannut ymmärtää monta Japanin eri puolia. Viime viikolla suomen kielen kurssilla, tiesin että Suomen opetusministeriö järjestää vuosittain kesäkursseja. En tiedä että ne ovat vielä järjestäneet, mutta jos ne jatkaisivat, haluaisin osallistua sellaisille kursseille.


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この作文を読んだ先生から教えてもらったんですけど、このフィンランド教育省のプログラムは基本的に大学でフィンランド語やフィンランド語教育を専攻している方が対象なんだそうです。そうなると私みたいな者には参加資格がないですね。残念。

このプログラムは1日に4時間くらい授業があって、そのうえ何時間もかかるような宿題が毎日どっさり出て、週末は週末で色々なイベントに参加し、それが4週間ほど続くというハードなものらしいです。物見遊山気分で参加するとえらい目に遭うそうですが、私は好きですねえ、こういうの。はやく仕事をやめて(こらこら)、そういう勉強三昧の日々に戻ってみたいです。

ごく普通の人のための筋トレ

先日、仕事先で「あれ、ちょっと太りました?」と聞かれました。コロナ禍でリモートワークや在宅勤務が多くなったため、しばらく直接はお目にかかっていなかった方からです。「いわゆる『コロナ太り』というやつですかね」と返しましたが、たしかに体重は増えています。数年前に比べると5kgくらいは重くなったでしょうか。

不定愁訴の解消を目指して筋トレを始めてから、たしかに体重が増えました。少し身体が太くなったので、太ったように見えるかもしれません。若い頃に不摂生をしてかなり太ったことがありますが、あのときとの違いは顔が太らないことでしょうか。私の場合、不摂生で太るときはまず顔がむくんだようになるのです。

身体が太くなっても「マッチョ」というほどではないので「ちょっと太った?」という印象になるんですね。中年特有のポッコリお腹はそのままですし。ただ先日親戚の葬儀に出席して久しぶりに礼服を来たら、上着のボタンを閉じるのに苦労しました。ずいぶん前にオーダーで作ってもらった礼服なので、身体にピッタリ合っていたんですけど、そのボタンが閉じづらくなった。確かに、筋トレを続けて少しは筋肉がついたようです。

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https://www.irasutoya.com/2018/10/blog-post_8.html

筋トレをしていると体調がとても良いので、これからも続けようと思っています。パーソナルトレーニングのトレーナーさんは、身体を大きくするのもいいけれど、それよりも適切なフォームで適切に筋トレをして、その結果、全身のバランスが整って健康を維持できるのが最良という考えのようで、私もそこは完全に同意です。特に私のような運動選手でもない中高年にとって、筋トレは健康維持のためなんですよね。いまでは定期的にジムに行かないと、逆に体調不良になります。

でもくだんの「ちょっと太りました?」と聞いてきた方は、それが筋トレの結果だと知ると「じゃあそのうちぴちぴちの水着でステージに立ってるかもしれませんね」と冗談を言っていました。そうそう、筋トレをやっているというと、大概はそういう反応が返ってきます。「筋トレ」と「ボディビル」の区別がよくわからないと。もちろんボディビルダーを目指して筋トレをする方もいますけど、私のようにそうじゃない人もいます。

以前の私自身が色眼鏡で見ていましたから偉そうなことはいえないんですけど、こうした「筋トレ=ボディビル」で「ムキムキ・マッチョ」を目指すもの……というイメージが変わっていくといいですね。あと「ストイック」で「意識高い系」というイメージも。最近は筋トレブームらしくて書店にも「デキるサラリーマンは筋トレをしている」みたいな本が並んでいますから、よけいにそうしたイメージが強化されるんですけど、ごく普通の人のための「健康のための筋トレ」というありようが社会的な認知を得ていくといいなと思います。

なかなか覚えられない単語をどうやって定着させるか

私が使っているこの「はてなブログ」には「週刊はてなブログ」というブログがありまして(ややこしい文章ですみません)、はてなブログ編集部が選んださまざまなブログが紹介されています。中でも私が好きなのは、毎週一回発表される「今週のはてなブログランキング」。主に「はてなブックマーク」のついた数で判定される、人気ブログ記事のランキングです。

このランキング上位に入っているブログ記事は、さすがに多くの人から支持された記事だけあってほとんど「はずれ」がありません。私のブログとは雲泥の差です。しかも毎回かなり変わった、というか普段目にしている新聞や雑誌などではまずお目にかかれないような視点の記事が多くて、面白い。自分の興味の範囲に頼ってばかりいると、だんだん視点が凝り固まってくるような気がしているので、(自分にとって)とんでもない角度から話題を放りこんでくれるこうしたランキングは貴重です。

今週のランキング1位は、こちらの記事でした。
www.furomuda.com
ご自分の電子書籍シリーズ、その第一巻を無料公開されているという形の記事です。科学的学習法、それも外語の単語を覚える最も効果的な方法について書かれているので、とても興味を持って読みました。ちなみにこの記事、ものすごく長いです。

現在趣味で、というか「ボケ防止」のために学んでいる「悪魔の言語」フィンランド語。毎日通勤時にQuizletで単語を覚えていますが、何度繰り返しても覚えられず、定着しない一連の単語があります。一番定着が早いのは名詞。たぶん具体的なビジュアルと紐付けて覚えているからでしょうね。その次が動詞。これもイメージが浮かびやすいですし、語尾がみんな「a」や「ä」で終わっているのでそれが目印にもなっています。

一番定着しにくいのが、やはり形容詞や副詞、それも抽象的な単語です。副詞は形容詞の後に「sti」という語尾がついていることも多くて目印にはなるのですが、似たような綴りでぜんぜん違う意味のものも多くて、なかなか覚えられません。本当は文章や文脈と合わせて覚えていくのが王道なんでしょうけど、忙しい暮らしの中でそこに大量の時間を割くのも難しいので、結局通勤時間のQuizletだけになってしまっています。

ところでこのQuizlet、いろいろな機能があるのですが、私は「単語カード」を主に使っています。これは誰でもやったことがあるであろう紙の単語カードをスマホで再現したもので、画面に出てきた単語をタップすると、画面がひっくり返って意味が現れます(Excelファイルを流し込める)。正解なら右、不正解なら左にスワイプしていって、全部終わると今度は不正解のものだけが現れる。そうやって不正解の単語をつぶしていくわけです。単語カードと同じ仕組みですね。Quizletは音声読み上げ機能もあるので、スマホの画面を見ずにタップとスワイプを繰り返して、音だけで単語を覚えていくこともできます。これはなかなか素晴らしいアプリです。

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右側の画面は、不正解だった単語をつぶしているところ。いまのところ1600単語くらい入力しているうち、たぶん半分から3分の1くらいの単語がまだ定着していません。それで何度も不正解のものだけに絞って覚えていこうとしているのですが、なかなか定着しないのです。

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https://www.irasutoya.com/2015/06/blog-post_88.html

ところが上掲の記事には驚くべきことが書かれていました。この記事に紹介されている、認知心理学者のJeffrey D. Karpicke氏とHenry L. Roediger氏の実験によれば、私がやっているような不正解の単語だけに絞って繰り返し覚えながらつぶしていく方法、たぶん多くの方も同じようにしてきたであろう方法は、学習効率としてはあまり良くないということなんですね。

詳しくは上掲の記事をお読みいただきたいのですが、結論から行くと「弱点勉強・全テスト」、つまり覚えられない単語を学んだら、その都度全単語をテストするというのがよいのだと。う〜ん、これは私たちの認識とはかけ離れていてにわかに信じがたいのですが、その認識や認知のゆがみこそ、科学的な知見が明らかにしてきたことなのだそうです。

ということは、Quizletで全単語に一度あたって、次に不正解だった単語をいちど全てあたったら、そののちにまた全単語に戻るのがいいというわけですね。早速やってみよう。……とはいえ、1600以上も単語があるので、そうした繰り返しを行うまでに何日もかかってしまうのが悩ましいところです。短い通勤時間だけでやろうというのがどだい無理筋なんですけど。

石炭の思い出

Twitterでヒロヲカさん(@shirlywang)が「たどん」についてアンケートを取ってらっしゃいました。今のところ「わかります」と「わかりません」が半々くらいのようです。


私は九州の田舎で「たどん」を使っていました。ただ記憶は曖昧ですが、たぶんそれは手で丸めたものでは既になく、型を使って作られた「豆炭」だったのではないかと思います。掘りごたつでは「練炭」を使っていました。円筒状で小さな穴がたくさん開いているアレです。練炭は大人になってからも田舎ではけっこう使われていたと思います。あと、直径5cmくらいの棒状の練炭もあって、適当に折って使っていたんですけど、あれは何という名前だったかな(ネットで検索したら「オガ炭」という名前が出てきました)。

小学校低学年の頃は、学校に石炭置き場があったのを覚えています。資材置き場みたいな感じでベニヤ板で仕切られていて、中に石炭が積まれていました。たぶん冬の暖房用だと思いますけど、教室で石炭ストーブが使われていた記憶はないので、それ以前の時代のものが残っていただけだったのだと思います。もしくは学校の一部で(ボイラー室とか)使われていたか。

教室のストーブといえば、生徒が持ってきた弁当を暖めるために使われていました。当時はみんなアルミやアルマイトの弁当箱で、先生が弁当箱を集めてストーブの周りや上に置いておいてくれるのです。今のお若い方にはちょっと想像がつかないような光景だと思いますが、中国の留学生にこの話をすると「やってた!」という方もたまにいるので、寒い地方ではまだ残っているやり方なのかもしれません。

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https://www.irasutoya.com/2016/10/blog-post_297.html

中国といえば、個人的には石炭(とその燃える時)の匂いが深く結びついています。私が留学していたのは北の地方だったので、冬になると石炭が大活躍していました。北の地方は“暖気(スチーム)”などセントラルヒーティングが充実していて、スチームに通す蒸気なり温水なりは石炭ボイラーで作り出していたと思います。だから冬になるとキャンパスに石炭の燃えるあの独特の匂いが漂っているんですよね。

大きな施設や公共機関などでも石炭が主流だったので、冬はどこでもこの匂いがしていました。日本から飛行機で中国の空港に到着すると、一番最初に石炭の燃える匂いがして「ああ、中国に戻ってきたなあ……」と思ったものです。最近は中国に行けていませんが、たぶんもうあの匂いは、特に北京のような大都市では感じられなくなっているかもしれません。

また中国の冬の味覚といえば、私はなんといっても“涮羊肉(羊肉のしゃぶしゃぶ)”ですけど、あれも昔ながらの石炭(コークス)で鍋を炊いているお店があって、食事に独特の雰囲気を加えてくれます。ドーナツ状の鍋の下にコークスが赤く熾っていて、真ん中に細長い円錐状の煙突がついているあの鍋で食べる“涮羊肉”は格別の味でした。いまでもあるかなあ。それとも地球温暖化対策で全面禁止になっちゃってるかなあ。

もうひとつ個人的に思い出深いのは、美大受験のために取り組んでいた石膏デッサンです。これは石炭ではなく木炭ですが、石膏デッサンは美術用の細い木炭で描いていました。消しゴム代わりになるのは食パン。いまはどうなのか全く知りませんが、木炭と食パンで描くって、100年単位の昔からのやり方がそのまま残っている世界だったんですよね。美術の世界から離れて久しいので、そんなことをやっていたというのがかえって新鮮に感じられます。

石炭や木炭って、つい最近までは私たちの生活に深く関わりのあるものだったんですよね。石炭について書き出すと、筑豊のこと(炭鉱やボタ山上野英信氏……)など、とめどなく広がってしまいそうです。それはまた改めて書きたいと思います。

きっと親から吹き込まれたのだろうと想像します

ジムのトレッドミル(ランニングマシン)で走っている時に、YouTubeで「一月万冊」を見ていたら、ものすごいエピソードに遭遇しました。参議院議員・木村英子氏のお子さんのお話です。


東大教授と語る【菅総理の学歴ルサンチマン】学歴なんか関係ない!の菅首相の真意は何処にあるのか?学歴差別と日本学術会議問題。安冨歩教授電話出演。一月万冊清水有高。

ひとつエピソードがあって、私の息子が保育園にいるときは、私の大型車椅子がスポーツカーだと思っていて、みんなに「すごいでしょ」って、子供たちに自慢するんです。だけど小学校一年生に上がった途端に、学校生活に入ったら、いきなり買い物を一緒にしていたときに、「お母さん、車椅子に乗って恥ずかしくないの?」って言われたんですよ。

これは恐ろしい〜。「一月万冊」主宰の清水有高氏は「学校という空間全体が、子供の心をそういうふうに変えてしまう」、「何か恐ろしい空気によってそこに洗脳されてしまう」のだろうかとおっしゃっていましたが、学校教育というものの本質は何なのかと深く考えさせられるエピソードだと思いました。

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https://www.irasutoya.com/2017/07/blog-post_516.html

ただ私は、学校教育というものがそういう洗脳の側面を持っているというのは同意ですが、学校の空気だけがそうした洗脳を生み出すわけではないだろうとも思います。これはたぶん、息子さんが周りのクラスメートから吹き込まれたのではないかと想像します。クラスメートから「おまえの母ちゃん、車椅子なんかに乗って恥ずかしいな」と揶揄されたのではないかと。

そしてもちろん、そのような価値観を小学校一年生の子供が持っていたとすれば、これはもうその子供の親たちがそういう価値観を持っていると推測するに難くありません。親たちが家庭で差別的な言辞を日常的に弄しているからこそ、子供がそれをある意味「素直に」真似するのです。

学校教育はそこから逃れることも可能ですが(現実にはかなり難しい選択ではあるとしても)、親から逃れることは極めて困難です。これはもう私たちの社会の構成員全体がもっとフラットな視線と豊かな教養を身につけていくしかありません。日々あまりにも無知で無教養な差別的言辞が数多く飛び交うこの日本社会で、そうした明るい未来が開けていくのか、あまりにも道は遠いように思えます。でも、これからもひとりひとりが「おかしいことをおかしい」と言い続けていくしかないですね。

外語では「くよくよ」できない?

語学でアウトプットの練習をするときには、別に「本当のこと」を書いたり言ったりしなくてもいい。つまりは「別の自分」を作り出してどんどん語ればいいのであって、話の整合性とか無謬性などにはそんなに重きを置かなくていい。これは語学におけるちょっとしたコツというか心構えみたいなものですけど、誠実で真面目な人ほどそういうのが苦手……という話を昨日書いたら、今日はこんな記事を見つけました。

www.newsweekjapan.jp

外語を話すというのはいつもと違う自分を実感する瞬間で、「言語が性格を変える」とさえ感じると。なるほど、外語の学習が「うつ」に効果的かどうかを論じるのはちと早計かと思いますが、外語を話す自分の性格が母語のそれとは違っているというのは、多くの人が認めるところだと思います。私もこれは強く感じます。

特に外語の習得段階では(というか、かなり熟達してからでも)、それが母語ではないだけにアウトプットはそれほど巧みにはできません。つまり、かなり「素朴」で「プリミティブ」な自分をさらけ出すことを良しとせねばなりません。母語ではいくらでも自分を飾ったり糊塗したりできるのに、外語ではそれが語彙的にも表現のバリエーションとしてもやりにくい。

そういう普段とは違う「素」の自分をさらけ出す勇気を持てた時に、外語の能力は伸び始めるような気がします。語学にある程度の「芝居っ気」が必要というのも、要するに自分の恥やプライドをいったん捨てて、「素」の自分をさらけ出すほんの少しの勇気が必要ということなんですよね。だから、留学しても母語でしゃべり倒している人は、そういう恥ずかしさから逃れられていないんだと思います。もったいないです。

これは外語がまだまだ未熟な私だけかもしれませんが、外語を話しているときは当然、母語のように表現を工夫しきれないので、時に直截な物言いになったり、知っている表現にシフトして多少本意とはズレたことを言わざるを得なかったりします。でもそれが結局、新たな自分の側面を見つけることになるんですよね。言ってしまった後に「おや、自分はこんな大胆な事までしゃべっている!」と驚くことも多いです。

上掲の記事に書かれている、外語を話している自分は性格が変わっているような気がするというのも、そういう未熟さゆえに自分の殻が破られてしまう、軸が否応なしにブレされられてしまう……というような作用によるものなのかもしれません。いずれにしても、そういう自分が揺さぶられる感じ、心許なくなる感じを受け入れて、できれば楽しめるようになると外語の上達ははやいかもしれません。逆に、いつまでも母語で思考し、母語の枠内や母語の世界観に収まり続けようとする人は語学にあまり向かないのではないでしょうか。

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https://www.irasutoya.com/2013/06/blog-post_4926.html

余談ですが、上掲の記事にはこんなことも書かれています。

「わたしたちは誰でも母語以外の言語でくよくよするのは得意ではありません」(228ページ)と指摘するのは、本書の著者であるドイツ人臨床心理士のクラウス・ベルンハルト。

う〜ん、私は非母語である中国語でもよく「くよくよ」しているので、これはどうかなあ。例えば“世上沒有十全十美的事”という中国語(諺でも慣用句でもありませんが)があって、私は仕事や人間関係で悩むたびにつぶやくんですけど、これを母語である日本語で「世の中に完全というものはない」とつぶやいても、どこかよそよそしくて嘘っぽく感じます。中国語でこそしみじみと「くよくよ」できる。

“腰酸背痛”という言葉があって、この“酸”はふつう「酸っぱい」なんですけど、“腰”とか“肩”に使うと辞書的には「痛い」とか「凝っている」とか「だるい」という意味になるものの、私としてはそのどれとも微妙に違う独特な感覚です。何かこう、身体の奥の方から「つーん」と痛むような、なんとも形容しがたいあの不快な感じ。それが“酸”であって、私はこの中国語を手に入れてから自分の腰や肩の痛みにより実感のある形容を与えられるようになりました。

いずれも卑近な例ですけど、こんなふうにその外語を学んだからこそ言える、母語では表現しきれない領域みたいなものがあって、それもまた外語を学ぶことのひとつの魅力であると思います。翻訳などしていて、その外語が表現している内容は充分に実感できているのに、母語にどうしても置き換えられない……そうした経験をしたことがある方は多いんじゃないでしょうか。

フィンランド語 66 …日文芬訳の練習・その3

毎週一回のオンライン授業に、フィンランド語の作文を提出し続けています。できればこのまま続けて習慣化したいところです。自分でも語学の授業を担当することがあるのでよく分かるのですが、作文って、自由に書いていいと言われるとかえって書くことに悩むものです。テーマは何でもいいと言われると、何を書いていいか分からなくなる。

会話練習でも、何でも話していいと言われると話が途切れるみたい。テーマを与えてもらった方が話しやすいということはあります。でもこれら、つまり作文でも会話でも、フリーにするとかえってアウトプットに窮するというのは、実はとても誠実で真面目な人だからなんだと思います。

語学の練習なんですから、別に「本当のこと」を書いたり言ったりしなくてもいいんです。また、例えば家族のことを話してみましょうなどとテーマを設定すると「一人暮らしですから」とか「プライベートなことはちょっと」と尻込みする方が時々いますけど、別にリアルなご自分の実情をアウトプットしなくていいんです。うちは大家族で何十人もいて、住み込みのお手伝いさんもいて、犬や猫も買っていて……と勝手に想像(創造)してアウトプットしまくればいい。

でも誠実で真面目な方は、そういう一種の「ウソ」をつくのが苦手なんじゃないかと思います。だから教師が「本当のことを書いたり言ったりしなくていいですよ」とひと言アドバイスするのは大切かもしれません。

というわけで、今回の作文は「創作」です。といっても完全にでっち上げたわけじゃなくて、去年の夏にユバスキュラで見かけた風景を元にちょっとだけ現実を改変しました。ようはいろいろな語彙や文法事項を使ってみること、これを最優先にして、リアリティとか正確さとかはちょっと後ろに下がってもらう。そんな感じでアウトプットの練習をしていけばいいと思っています。

先週の日曜日に、駅前の広場で歌っている三人組の若い女性グループを見かけました。一人がギターを弾いて、残りの二人はゆっくりと踊りながら歌っていました。それはとても静かな曲で、私は気に入りました。そこで私は近寄って「投げ銭」をしました。これからも歌を続けてほしいと思います。
Minä näin asema-aukiolla laulava kolmea nuorta naista viime sunnuntaina. Yksi naisista soitti kitaraa, muut naiset lauloivat ja tanssivat hitaasti. Se oli erittäin hiljaista musiikkia, pidän siitä. Sitten annoin heille vähän rahaa. Toivon, että he voisivat jatkaa.


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他人の「単純リツイート」と「いいね」はノイズだと思います

今日、Twitter Japanがこんなツイートをされていました。「10月20日から少なくとも大統領選の投票が行われる週まで」の措置だそうです。

この機能の変更は、①リツイートしようとすると「引用リツイート」の画面に誘導される、②フォローしていない人の「いいね」やフォロー情報がタイムラインに表示されなくなくなる、が骨子だそうです。私はTwitterをできるだけ私的な「つぶやき」のためには使いたくないと考えているので、これらの措置は大歓迎です。

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https://blog.twitter.com/official/en_us/topics/company/2020/2020-election-changes.html

Twitterでごくごく私的な「つぶやき」がタイムラインに流れてくるのは正直に申し上げて「ノイズ」でしかありません。それが自分の私淑する人や実際に会ったことがあり大好きな人であっても。だから私はもうそのような「つぶやき」はなるべく発信しないようにしています。とはいえ、ごく私的なブログの記事を書いて、そのリンクをTwitterのタイムラインに流しているので、私も偉そうなことは言えませんが。

どなたかがなされた「単純リツイート」や「いいね」の情報が大量にタイムラインに流れてくるのもノイジーです。ということで私は、フォローしていない人はもちろん、フォローしている人の「いいね」もタイムラインに表示してほしくないです。むしろ他の人の単純な「リツイート」や「いいね」は一切表示しないのをデフォルトとして、そういうのがほしい人は設定で選ぶことができるというようにしていただけたらいいなと思います。

なぜ人は「老害」になるのか

先日、「老害」に関する二つの記事を読みました。高須賀氏の「なぜ人は、仕事を辞めると劣化してしまうのか。」と、その記事を受けて書かれた熊代亨氏の「スーパー、コンビニ、タワーマンションは『老害製造装置』。」です。
blog.tinect.jp
blog.tinect.jp
高須賀氏は、仕事をしているときは生活のため、家計のためと割り切って他人の目を気にしながらも生きてきたものの、その仕事から開放された退職後に老害化が一気に進むと論じています。「老害とは“他人の目をビクビクと気にしたくない”という、私達の”なりたかった姿”の果て」であり、「『実は私達は誰もが老害になりたい』という願望を持っている」のだと。

また熊代亨氏は、そうした他人の目を最大限意識しないでいられる構造として、都会の生活環境、なかでもとりわけ「個」の環境が保たれる「ニュータウンタワーマンションワンルームマンション」を挙げ、そうした他人からの干渉を極力排した環境で生きていけることが老害化を一層後押しすると論じています。

なるほど、いずれも他人との面倒くさいコミュニケーションを極限まで削ぎ落として行った結果、人は独善的になり外部への想像力が衰えていくというのはとてもわかりやすいと思いました。

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https://www.irasutoya.com/2014/03/blog-post_4378.html

私には、かつて帰農を目指して九州の田舎に移り住んだものの、田舎特有の面倒な人間関係やコミュニケーションにほとほと疲れ果てて五年で東京に舞い戻った過去があります。だから都会のマンション暮らしがいかにストレスの少ない生活であるか、そのありがたさが身にしみて分かります。

都会でも庭付き一軒家などご近所との軋轢からは無縁ではありませんが(雑草や庭木の落ち葉などを巡って、また土地全体のメンテナンスを巡って、結構なストレスがかかります)、マンションはそうした軋轢がほぼ皆無。私は首都圏でもう何度も引っ越しを繰り返していますが、物件を探す際の最重要ポイントは「防音」。とにかく上下左右のご近所からの物理的・精神的な「隔離」こそストレスのない暮らしに欠かせないものだという認識があります。

けれども、上掲の二本の記事は、そうした他人との摩擦を極力避けようという志向は他人との(ある意味面倒くさい)コミュニケーションを極力ミュートしてしまいたいという願望であり、それこそが「老害」と表裏一体になっているのだという指摘であるわけです。私はもう中高年から老年へと差し掛かっている人間ですが、この指摘はとても示唆に富んでいると感じました。

その上で「老害」に陥らないために、そして「有害な男性性」をこじらせたようなジイサンにならないために、何ができるでしょうか。これはよほど意識して考えていかないと、自分もまたその「ダークサイド」に堕ちてしまうような気がしています。

qianchong.hatenablog.com

……しかし。私が九州の田舎で暮らしていたときの経験から行くと、濃密なコミュニケーションで満たされており、他人との関わりが自らのタコツボ化を防いでくれるはずの地域社会にも「老害」的な存在はけっこういたんですよね。むしろ人間関係の流動性が極端に低いだけに、そうした「老害」的存在の頑迷さは都会の比ではなかったようにも思います。

そう考えてくると、人が「老害」的な存在になっていくプロセスには人とのコミュニケーション不全以外にもまだまだ要因がありそうです。それを見つけ、注意深く取り除いていくことが、中高年から老年に至ろうとしている自分の課題だろうなと思います。