インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

これからの男の子たちへ

昨夜遅く、録画しておいたテレビ番組を見ようとテレビをつけたら、ドラマ『半沢直樹』をやっていました。これまで一度も見ていないので話の筋はわからないながらも、なんだかテンポよく「謎の解明」みたいなのが続くのでしばらく見ていました。が、登場するのがアグレッシブな男ばかりで、威嚇、挑発、冷笑、侮蔑の果てに大声で怒鳴り散らし土下座……気持ち悪くて消してしまいました。エンタメで作り事の世界とはいえ、どうしてこういう物語が受けるのかなあと。

ちょうど太田啓子氏の『これからの男の子たちへ』を読んだところでした。私がこの本で最も大きな共感と「震え」のようなものを持って読んだのは「有害な男らしさ」という言葉と、自分の感情を言語化することに長けていない男性という指摘でした。また自分の子供時代から始まる数々の嫌な記憶、それも長らく忘れていた記憶までが蘇って少々驚きました。それらはまさに「有害な男らしさ」への信奉から生み出された、男らしさへの強要、いじめ、性暴力の数々です。かくも心の奥深くに刻み込まれていたのかと。

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これからの男の子たちへ: 「男らしさ」から自由になるためのレッスン

小学生の頃は、この本でも取り上げられている「カンチョー」のほか、大人数で寄ってたかって服を脱がせる「カイボウ」などはよく見られました。私はその加害側にも被害側にもなっていませんでしたが、それらを傍観していたことの痛みは今でも感じます。長じて、体育やスポーツが苦手なことに対する劣等感や、その反動である一種の憧れのなかで悶々としていた頃もありました。学校や職場におけるホモソーシャルな人間関係も、いまならすぐに逃げ出すところ、ただひたすら耐えていた時期もありましたねえ……。

もっと陰湿な側面では、男性同士で性体験の豊富さを自慢するような雰囲気、逆にそれらが乏しいことに対する劣等感、性風俗への周囲からの誘いとそれを拒否することに対する侮蔑……男性とはこういうものであるというまさに「有害な男らしさ」刷り込みが、なんとまあ長年月にわたって繰り広げられてきたことよ、とため息をつきます。そして今もまた、そうしたものに自分が脅かされていないか、あるいは他人に求めたりはしていないか、さらには自分がそれを撒き散らす存在になっていないかと、粛然とした思いにとらわれるのです。

とても卑近な例ながら、この本に引かれていて思わず笑ったのは、対談で清田隆之氏が披露しているサウナの例です。「サウナで一緒になった人と無言のうちに我慢比べみたいになって、先に出たほうが負け……みたいな意識って“男性あるある”だと思うんですよ」(81ページ)。あるある! もうほんとうにくだらないんですけど、そういう根拠のない男性性の張り合い、そうした心性は「有害な男らしさ」がもたらすものと確実につながっていると思います。思えばスポーツジム(私はジムでサウナを利用しています)って、そういう心性が容易に顔をのぞかせる場所なのかもしれません。

この本で印象的だったのは、著者の太田啓子氏が繰り返し繰り返し、私のような中高年男性に対する「諦め」にも似た心境を語っておられることです。ここまで凝り固まり、「有害な男らしさ」を骨の髄まで体現してしまった男性たちにはもう期待できないと。本のタイトルじたい『これからの男の子たちへ』ですもんね。それは私も(残念ながら)認めざるを得ません。周囲の多くの人々を見てもそう思いますし、自分自身この本で改めて自分の「有害な男らしさ」の、そのあまりの根深さに気付かされました。この本で述べられていることに全面的に共感し、僭越ながら、若い頃からそういう「男らしさ」への強要に疑問をいだき、自分の考え方をアップデートしてきた自負が多少なりともある自分であっても。

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それでも私は、そういう「有害な男らしさ」をこじらせ、凝り固まらせたような年寄りにはならないよう努力したいです。そしてできればそういうスタンスを周囲に広げていくことにも。また、自分の感情を適切に言語化することが苦手にならないよう、これからも大量に読み・書くことを自分に課して行きたいと思います。