インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

フィンランド語 124 …日文芬訳の練習・その45

「ご存知でしょうか」に最初“tietää”を使っていたのですが、言葉を知っているということで“tuntea”に直されました。また、最後のフレーズを“muuttaa juomisen onnellisuudesta raittiuden onnellisuuteen”と、出格→入格にしていたのですが、動詞“muttaa”は目的語を変格(ksi)として取るということで、“onnellisuudeksi”になりました。

「ソーバーキュリアス」という英語をご存じでしょうか。これは「素面(シラフ)でいることへの興味」を意味します。お酒が飲めないわけではないものの、あえて飲まない人や、少ししか飲まない人を指す言葉です。私はお酒が大好きで、ワインの資格を持っているほどでした。でも歳をとって、だんだんお酒が飲めなくなりました。たぶんもう一生分飲んでしまったのだと思います。お酒を飲まなければ、そのぶん本を読んだり、語学を勉強したり、たくさんのことを落ちついてすることができます。「飲んでいれば幸せ」から「シラフのほうが幸せ」へ転換することが大切だと感じています。


Tunnetko englanninkielisen sanan "sober curious"? Se tarkoittaa sitä, että on uteliaisuutta raittiutta kohtaan, vaikka voi juoda alkoholia, mutta pidättäytyä siitä tai juoda vain vähän. Ennen minä rakastan juomista hirveästi, ja minulla oli todistus viinistäkin. Mutta vanhetessani, en ole pystynyt juomaan vähitellen. Ehkä olen jo juonut koko elämäni alkoholit. Jos en joisi, voisin tehdä paljon asiaa niin rauhallisesti, esimerkiksi lukea kirjoja tai opiskella kieliä, jne. Nyt on minulle erittäin tärkeä, että muuttaa juomisen onnellisuutta raittiuden onnellisuudeksi.


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喜多流養成会

平日のお昼に、ぽかっと時間が空いたので、目黒の喜多能楽堂に出かけてきました。能楽喜多流の若手能楽師、まだ『道成寺』を披く前の二十歳代の方々が舞囃子や能を披露される会です。なかにはおひとり、ティーンエイジャーの方も。

いずれも以前から舞台で拝見したり(なかには子方の頃から)、温習会の際に手伝ってくださったりという方々で、こちらが勝手に応援しているというか親近感を抱いている能楽師の方々なので、こういう言い方は大変に僭越ですが、なんだか甥っ子を見守るおじさんのような心境です。

とはいえ、もちろんみなさんプロの能楽師なので、舞囃子も能もとても見応えがありました。しかもこの会は自由席、かつ比較的客席も空いていて(出演されている方々からすれば残念でしょうけど)、自分の好きな正面前列のワキ柱寄りに座ることができて、なおかつコロナ対策としても上々です。

特に今回座った席からは、これまた大好きな能『枕慈童』でシテの装束と一畳台の菊の花がうまい具合に重なって見えて、ことのほか美しいと感じました。こうした席は、ふだんはかなりお高く、かつすぐに売り切れてしまって私には縁遠いのですが、こういう会ではチケットも格安です。今回は改めて能の面白さに気づかされました。やっぱり、良い席は良いのです。当然ですが。

しかもこの会、若手の番組のあいまに、重鎮級の能楽師のみなさんが花を添えるというか激励するというか、そんな感じで仕舞を披露されていて、これまた眼福でした。地謡にもベテラン勢が多く参加されていましたし、こういうふうに流儀全体で若手をもり立てようと力を合わせるの、いいものですよねえ。

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http://kita-noh.com/schedule/11206/

存分に能の魅力を楽しんだ午後だったので、その余韻をかき乱すようなことはしたくないのですが、やはり感じてしまったのは、ご年配の方々のいささか上品ではない行動です。私がふだん能楽堂で正面席のチケットを取らないのは、もちろん高くて、かつすぐに売り切れるからですが、もうひとつ、正面席にいらっしゃる確率の高いご年配の方々の中に、傍若無人な方がまま見受けられるからです。

上演間際まで、ひどい場合には囃子方が入場しているのにずっとおしゃべりに興じているとか、「あめちゃん」の袋をガサガサとか、身を乗り出して見るとか(お着物のご婦人など、お太鼓があるので身体が少々前に出るというのはあります。これは仕方がありません)、謡っちゃうとか、いびきかいちゃうとか、写真撮っちゃうとか。

もちろんそうじゃない方の方が大多数ですが、少数ながらかなりの確率でそういう方がいらっしゃるんですよね。それも決まってご年配の方々。今回も遭遇しちゃいました。しかも重鎮の仕舞が終わったら「これでお目当ては見たから」とばかりに帰っちゃった……。わはは、おかげで最後の能は心置きなく堪能できましたけど。

それでも知人によると、能の観客はまだ「マシ」だそうです。歌舞伎など、もっと行儀の悪いお年寄りが大量に出没すると。う〜ん、私もそういうお年寄りに片足突っ込んでいる年齢ですが、年齢とともに自重と抑制の効いた存在になりたいものです。そしてお若い方々をもり立てる側に回るのです。この会の雰囲気のように。

宇宙人と出会う前に読む本

宇宙「各地」の「宇宙人」たちが集まる「惑星際宇宙ステーション」へ行ったと仮定して、そこで宇宙人たちと会話するとしたら、どのような基本的、かつ宇宙共通と思われる教養を備えておくべきか……という一冊。もちろん、それぞれの恒星系が絶望的なほど隔たっている宇宙では荒唐無稽すぎる設定ですが、その設定を使って、私たち地球の人類が現在のところまでに究明している科学知識がどれくらい宇宙共通と言えるのか、それとも言えないのかを解説しています。

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宇宙人と出会う前に読む本 全宇宙で共通の教養を身につけよう (ブルーバックス)

宇宙空間におけるそれぞれの位置に始まって、元素、力の統一理論、ダークエネルギー、ビッグバンとインフレーション、生命のありよう、数のなりたちなどなど、物理学と数学の最先端の話題を物語形式で噛み砕いて解説しているのですが、なるほど、仮に宇宙に知的生命がいるとしたら、どんなプロトコルであればコミュニケーションができるのか、あるいはできないのかを想像するのはとても興奮します。

紙面の関係もあって、それぞれのトピックはごくごく初歩的な知識の範囲に留まっていますが、それでも私のような一般の社会人にとっては十分に楽しめる教養読本のような内容です。私はこの本を読んで、やはり物理学と数学が底抜けに面白いと思いました。この二つは学生時代に最も苦手としていた教科であるにも関わらず。ああ、もっと早くその魅力に気づいて、真面目に勉強しておけばよかった。

もうひとつ、これは著者の意図するところでは全くないかもしれませんが、個人的にいろいろと考えさせられる設定がありました。物語の主人公は自分のことを「私」としか言いません。そして「私」は惑星際宇宙ステーションで出会ったペガスス座の宇宙人と知り合い、やがてその宇宙人に少なからぬ好意を抱くようになります。

まあよくあると言えばよくある設定なのですが、私は(いま考えると不思議なことに)、無意識のうちにその宇宙人を「女性」、そして「私」を「男性」と考えて読んでいました。ところがこの本の最後の方になって、筆者はこの宇宙人のことを「彼」と書いていることに気づいたのです。

あらためて最初からページを繰ってみると、最初からすべて「彼」になっていました。なのに私は、これをごく「自然」に、するっと「男女」の関係と設定して読んでいたわけです。

もちろん性別を「女性」と「男性」だけに分けて考えること自体が不毛です。それは現代の地球上においてもそうですが、宇宙に生命があると仮定してもそうでしょう。そも「性」というものが存在するのかどうかさえ未知の世界なんですし。

また仮にこれを極めて限定された地球の私たち的な世界観に押し込めて考えたという前提でも、「私」が「男性」であってペガスス座の宇宙人もまた「男性」であったとしても、それはそれで構わないはずです。なのに私は初手から、惑星際宇宙ステーションに地球の一般人として初めて参加を許された「私」が当然のように「男性」であり、その「私」が好意を寄せる相手は当然のように「女性」であるという設定を無意識のうちに選択していたわけです。自分の奥底にしっかりと根を張っている男性性みたいなものにあらためて気づかされたという次第です。

おそらく著者はそこまでは設定に盛り込んでおられず、「私」と「ペガスス座の彼」とは友情で結ばれた関係という以上のものではないと思われます。それでも、地球の科学的な常識が全宇宙でも通用するかどうかはわからないという知的好奇心を刺激される一冊で、極めて陳腐かつ強固な自身の男性性を再確認できたのは、思わぬ余禄でした。

フィンランド語 123 …共格と具格

新しい文法事項として「共格」と「具格」が出てきました。いずれも書き言葉のみで使われる格ですが、先生によると、古いフィンランド語の形式を残しているものなんだそうです。

共格

その名の通り、主に「〜と共に」を表す格です。これまでは“属格+kanssa”をよく使っていました。

koiran kanssa → koirineni
犬と共に(犬と一緒に)

“koirineni”が共格で、目印は“ne”ですが、この共格は単数と複数が同型で、しかも常に複数の“i”がついた形で書かれるので、実際には“ine”が目印ということになります。しかも最後にかならず所有接尾辞がつくそうです。

koira(語幹)→ koira + i(a が消える)→ koiri + ne(所有接尾辞をつける)→ koirine + ni,si,en,mme,nne,en

例文です。

Minä menen elokuviin vaimoni kanssa.
= Minä menen elokuviin vaimoineni.
私は妻と一緒に映画に行きます。
Liisa lensi uuden poikaystävänsä kanssa Ouluun.
= Liisa lensi uusine poikaystävineen Ouluun.
リーサは新しい彼氏と一緒にオウルへ飛びます。
Minä matkustan Rovaniemelle suomalaisen tuttavan kanssa.
= Minä matkustan Rovaniemelle suomalaisine tuttavineni.
私はフィンランド人の知り合いと一緒にロヴァニエミへ旅行します。

目的語につく形容詞も共格になりますが、所有接尾辞はつかないんですね。もうひとつ、共格には「〜を含め〜は」という意味もあるそうです。

Savonlinna ja sen ympäristö ovat kesällä vilkasta turistiseutua.
= Savonlinna ympäristöineen on kesällä vilkasta turistiseutua.
サボンリンナはその周辺を含め、夏にはにぎやかな観光地になります。

具格

具格の目印は“n”で、これまでに学んできた単語では“jalan(徒歩で)”や“yksin(一人で)”などがそうです。具格は道具や手段を表す格ですが、これは現代フィンランド語では所格・接格の“llA”を使って、例えば“bussilla(バスで)”のように表せるので、具格のほうはほぼ熟語的に使われるものを覚えておけばよいようです。

kaikilla keinoilla(あらゆる方法で)= kaikin keinoin
kaikin voimin(全力で)
kaksin käsin(両手で)
omin luvin(独断で、勝手に)
terveisin(あいさつで=よろしく)

例文です。

Olen yrittänyt kaikilla keinoilla päästä irti tupakasta.
= Olen yrittänyt kaikin keinoin päästä irti tupakasta.
私はあらゆる方法で禁煙しようと試みました。

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Tampere on mukava kaupunki vanhoine taloineen.

裾野を広げる

作家・演出家である鴻上尚史氏の『演劇入門』を読みました。演劇と、映像(映画やドラマ)あるいは小説との違いについて論じた部分など、なるほどと得心できる内容が多かったのですが、「終わりに(あとがき)」の部分に書かれていた「裾野を広げる」というお話にも共感しました。

アートには二つの方向があります。(中略)山の頂点を引き上げる方向と裾野を広げていく方向です。派手で目立つのは、山の頂点を引き上げる方です。けれど、裾野を広げることも、まったく同じぐらい重要なことなのです。(262ページ)

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演劇入門 生きることは演じること (集英社新書)

鴻上氏はこの話をもちろん、演劇や音楽などの芸術、さらにはスポーツ業界を例に挙げて語っています。ひとにぎりの人たちが頂点を目指すことにのみに価値を置くようになると、やがてその分野は先細って行ってしまうと。「頂点を高くするためには、豊かな裾野がないとダメ」だと。これは芸術やスポーツ以外のどんな分野にも共通するお話ではないでしょうか。

「アート(art)」は辞書の第一義的には芸術や芸術作品を表しますが、他にも「技術」や「技能」、「能力」といった意味もあります。あのエーリッヒ・フロムの名著『愛するということ』も、原題は“The Art of Loving”です。つまりアートは、より豊かに生きるための方策や営為と捉えることもできるのではないか。そしてその「アート」はひとにぎりのハイエンドだけでなく万人にとって欠かせないものなのではないかと思うのです。

これはまた、何かを志してその道でプロや一流になれなかったとしても、それを失敗や挫折と捉えなくてもいいということでもあります。高みを目指すのはすばらしいことですけど、裾野を広げるのもまた大切なことです。そして私を含めてほとんどの人は、その裾野を広げる側にまわるのです。

高みを目指して上ばかり見ていると、裾野の存在を忘れてしまいがちになります。世の中は自分が想像しているよりもずっと広く、その広い世の中で自分の持ち場や役割は何だろう、自分には何ができるだろうか(そして何ができないだろうか)と考えること。それは「自分を誰かと比べない」ということにも通じるかもしれません。

頂点を目指せば、その少ないポジションを目指して誰かと常に競うことになります。おのずと上下が生まれ、ヒエラルキーが生まれ、権威が生まれる。そうやって人と比べることが常態化すると、その「アート」をどんどん楽しめなくなります。抜きん出た才能に学ぶことも大切だけれど、自分は自分のフィールドで裾野を広げる仕事をしているのだと考えるほうが、結果として自分の人生も豊かにしてくれるのではないか。そんなことを考えました。

ワクチンの2回目を打つ

昨日、新型コロナウイルス感染症のワクチン、2回目を打ちました。感染防止に対してワクチンが完璧ではないことは理解していますが、それでも一安心しました。2回目の接種後はかなりの確率で1回目よりも重い副反応が出ると言われていたのですが、いまのところ私は1回目と同様、接種部位の筋肉が多少痛む程度で済んでいます。

接種を終えて、15分間の待機時間中にスマートフォンのQuizletで時間をつぶしていたら、この質問が出てきました。もちろん偶然ですけど、ちょっと出来過ぎです。でももうこの単語は忘れないと思います。

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もうちょっと現実的なところで社会情勢とリンクしてほしい

早朝から、ジムのパーソナルトレーニングに出かけてきました。ここのジムは朝10時から開いているのですが、休日の朝一番だと若いアスリートのみなさんはほとんどまだ出てきていないので、広いジムに私一人だけということもよくあります。というか、それを狙って休日の朝一番に行っています。

若いアスリートのみなさんは、そのほとんどが大学の体育会系の選手だそうですが、私が観察したところ七割から八割くらいはトレーニング中にマスクをしていません(トレーナーさんはもちろん全員しています)。それでいてけっこうおしゃべりしながらトレーニングしていたりして、私たちは学生さんたちとは多少距離は離れているとはいえ、傍目にはかなり危なっかしく感じます。

ことに若年層でも重症化リスクが高いとされるデルタ株の蔓延以降、ちょっと危なすぎるんじゃないかと思って、トレーナーさんには懸念を伝えました。聞けば体育会系の学生さんたちは、その多くが合宿所での集団生活であるよし。学生さんとはいえ、もうちょっと現実的なところで社会情勢とリンクしてほしいと思います。トレーナーさんによれば、私と同じように懸念を示して、というかご自身の仕事先からの指示などもあって、一時的にトレーニングを休んでいるビジネスパーソンは多いそうです。私もしばらく控えたほうがいいかな。

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https://www.irasutoya.com/2018/12/blog-post_60.html

それでも今日は、このひと月くらいずっとチャレンジしてきたベンチプレス75kgを挙げることができました。トレーナーさんいわく「ここまで来ると、もう筋力の問題じゃないですね。全身の使い方の問題です」。主に大胸筋を鍛えるベンチプレスですが、実のところ胸だけでなく背中やお尻や脚までが連携した動きをしないと数字は上がりません。その全身の連携が、かなり繊細かつ難解なのです。

しかもその全身の使い方は個々人によって様々です。人によってできること・できないことが違い、改善すべきポイントも千差万別だからです。ですから、例えば「筋トレ本」や雑誌などで説明されているポイントを読み、イラストや写真でフォームを確認したとしても、ある程度までは知識として蓄えられるものの、結果として現れにくいのではないかと個人的には思います。

パーソナルトレーニングに行く最も大きな理由は、ここにあります。個々人の長所や短所や身体の使い方の癖などを見極めた上で、きちんと言語化して目標を伝え、目の前でやって見せ、私たちがやっているときにもリアルタイムで補正する……そういった役割のためにパーソナルトレーナーさんは存在しているんですね。

だから本音では定期的にパーソナルトレーニングに通うのをやめたくはないのですが……。一度ジムの「おえらいさん」というか経営陣の方に、こちらの問題意識を伝えてみようかなと思っています。それでも改善されなければ、このジムとはご縁がなかったとして、通うのを諦めるしかありません。

でも、若いアスリートの学生さんもですけど、その学生さんを指導しているトレーナーさんたちのリスクも考えられるべきですよね。今日担当してくださったトレーナーさんにそう言ったら「いや、本当はそうなんですけどね……」と、ちょっと複雑な表情をされていました。うん、やっぱり経営者は雇用者の安全を確保しなきゃいけないですよ。

あんまり「自粛警察」的なことも言いたくないのですが、スポーツ業界界隈は今時のオリパラをめぐるアスリートや関係者の発言を見ても、ちょっと世間離れしすぎ、世間知らずでありすぎのような気がします。「もうちょっと現実的なところで社会情勢とリンクしてほしい」、つまりアスリートも社会の一員として、もう少し世の中のことを勉強してほしいと言ったら言い過ぎ……私もステイホームに完全に徹しないでジムにこそこそと出かけているので偉そうなことは言えませんが。

フィンランド語 122 …日文芬訳の練習・その44

「絞める(殺す)」の“tappaa”を一人称単数の過去形にした時、なぜか“tapasin”としていて、添削で“tapoin”に直されました。確かに“tappaa → tapa + i → tapoi + n → tapoin”ですね。「天国へ行けない」というのは「地獄に堕ちる」ということで“joudun varmasti helvettiin”でもいいかもしれないとのことでした。

20代の頃、私は熊本県の田舎で小さな養鶏場をやっていました。にわとりを200羽ほど飼い、その卵を地元の生協に売って生活費を稼いでいたのです。卵を産まなくなったにわとりは、感謝しつつ絞めて食べます。にわとりを絞める時、おんどりとめんどりではかなり特徴的な違いがあります。めんどりは従容として死に赴きますが、おんどりはとても激しく暴れます。要するに「往生際が悪い」のです。私はこの手で何百羽もにわとりを絞めているので、きっと天国には行けないんじゃないかと思います。


Kun olin kaksikymppinen, minulla oli pienen siipikarjatilan Kumamoton maaseudulla. Siellä oli noin 200 kanaa ja olin myynyt munat paikalliselle osuuskunnalle ansaitakseni elantoni. Jos kanat lakkasivat munimasta, tapoin ja söin niitä kiitollisuudessa. Kun jouduin tappamaan ne, huomasin, että kanojen ja kukkojen välillä oli tyypillinen ero. Kanat ovat hyvin rauhallisia kuolemissaan, mutta kukot raivoavat ja vastustavat hirveästi. Lyhyesti sanottuna kaikki kukot ovat huonoja luovuttamaan. Luulen, etten pääse taivaaseen, koska olin jo tappanut niin paljon kanoja omilla käsilläni.


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https://www.irasutoya.com/2013/06/blog-post_4117.html

ソバーキュリアス

「ソバーキュリアス(Sober Curious)」という言葉があります。お酒を飲めないわけではないけれど、あえて飲まない人、素面(しらふ)でいたがる人、というような意味だそうです。『「そろそろ、お酒やめようかな」と思ったときに読む本』という、そのまんまの題名の本で知りました。

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「そろそろ、お酒やめようかな」と思ったときに読む本

もう数年前から静かなブームになっているようで、試みにネットで検索してみると、数多くのサイトが見つかります。
hillslife.jp
madamefigaro.jp
www.esquire.com
maruku09.com
なんと、中国語のサイトもありました。かつて中国語圏でのビジネスといえば酒宴、それもマチズモ全開のそれがつきものだったんですけど、どんどん時代は変わっているんですねえ。いいことです。
www.foodnext.net

かくいう私ももうずいぶん前から、お酒に弱くなっていました。昔はお酒が大好きで、そのために学校に通って資格まで取ったほどだったのに、ほんの少しの量で酔うようになり、最近は飲むとかなり気持ちが悪くなる日も。これはもう「打ち止め」、一生分のアルコールをすでに飲んでしまったということなのかもしれません。

上掲の本によると、歳をとってお酒が弱くなるのは、医学的には以下のような背景があるそうです。

肝臓のアルコール分解能力が低下、アルコールの血中濃度が下がりにくくなる。
加齢と共に体内の水分量が減り、アルコール血中濃度が上がりやすくなる。
中枢神経のアルコール感受性が上がって、鎮静作用や運動系への作用が強く現れるようになる。

なるほど。私は中でも内臓への影響に注目しています。実はここ半年ほど慢性的な腰痛に悩まされていて、その対策としてかなり積極的に身体を鍛えることでなんとか解消に努めているのですが、なかなか好転しません。もちろんこれからも動かし続けはしますが(運動していると、なぜか腰痛はほとんど気にならないのです)、それ以外に内臓の機能が低下して腰痛にも影響している可能性を考え始めました。それでちょっとお酒を控えて様子をみてみようと思ったのです。

この本ではまず「アルコールは薬物である」というちょっと意外な認識からはじめ、「禁酒して何が変わったかを記録することで『見える化』する」、「飲まなくても平気ですごせる行動パターンのコツをつかむ」、「『自分にとって、なにが飲む引き金になるのか』を知る」など、さまざまなアプローチで減酒・禁酒・断酒への手引きをしてくれます。

この本で紹介されている「AUDIT」という「1990年代初めに、世界保健機関(WHO)がスポンサーになり作成されたスクリーニングテスト(AUDIT | e-ヘルスネット(厚生労働省))」もやってみました。結果は40点中15点で「アルコール依存症疑い群」という判定。うーん、けっこう依存症に近いところにいますね。

そして最終章には「アルコール依存症に『治癒』はない(回復はある)」として、こんなことが書かれています。

・「治癒」=飲酒のコントロールを取り戻すこと
・「回復」=断酒をして「飲んでいれば幸せ」だった状態から、「シラフのほうが幸せ」という生き方へ転換すること(229ページ)

いったん依存症になってしまうと、飲酒をコントロールできる状態には戻れないと。なかなか厳しい言葉です。しかし、依存症にいたる手前の私のような人間にとっても、この「回復」の状態、つまり「シラフのほうが幸せ」という生き方へ転換することというのは、なかなか魅力的です。ソバーキュリアスを選ぶ人たちの気持ちも同じようなところにあるのでしょう。ヴィーガンを選択するのと似ているような気もします(私自身はヴィーガンではありませんが)。

そういえば、コロナ禍前に何度か旅行した北欧では、当時から早くもレストランなどでノンアルコール飲料のペアリングなどが流行していました。あれから自分でもいろいろと試してはみたのですが、比較的長く続くこともあれば、すぐに挫折してしまうことも。いまはソバーキュリアスが静かなブームになりつつあるということで、こんな魅力的な商品も販売されています。いま一度私もチャレンジしてみようと思っています。

soberplus.tokyo

すべてはノートからはじまる

副題に「あなたの人生をひらく記録術」とあり、帯の惹句には「自分を変えたければノートをとれ!」とあります。見返しには「ライフハック」のようなやや軽薄そうに聞こえるフレーズが書かれており、何となく怪しい自己啓発書のような雰囲気ではあります。でもその印象は一読して変わりました。

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すべてはノートからはじまる あなたの人生をひらく記録術

自分が最近使い始めた「アウトライナー」にも通じる、自分の思考を外部化する道具としてのノート。そう言ってしまえばごく当たり前のことのように思えますが、単なる備忘録として(もちろん、忘れることに備えるのも大切な目的ではありますが)、あるいは記録として残すというより、自分の内側の感覚や思いをいったん自分の外に出し、それと対話することで真に「考える」ことを、様々な技法を紹介しながら勧めています。

qianchong.hatenablog.com

印象深い一節がありました。空で考えることと書いて考えることの違いを述べた部分です。

空で考えること(空考と呼びましょう)は、自由に連想が広がっていくのでアイデア発想において役立ちますが、多様な情報を同一平面で扱わなければならない判断や決定においては、書いて考えること(筆考と呼びましょう)の方が役立ちます。「考える」という行為でも、その実体にはいくつかのバリエーションがあるのです。(75ページ)

もうひとつ、「思う」と「考える」の違いと、そのふたつを組み合わせて「思考する」ことについて、そしてその2つを架橋するものとしてのノートという考え方にもとても共鳴しました。

人間は無自覚に情報処理を行っておりそれが「思う」を発生させ、「考える」は意識的にその情報処理を促す、そして「思う」と「考える」の二つを含むのが「思考」という活動です。(144ページ)*1
日常生活の大半は繰り返しであり、それらは「思う」の情報処理だけで過不足なく進めることができます。しかし、「思う」だけでは十分ではなく、解決できない問題や解消できない不具合が生じることがあります。そうした時に必要になるのが「考える」です。言い換えれば、変化を呼ぶものが「考える」であり、その知的作用が新しい動きを作り出していきます。(146ページ)

私はよく「思考」が堂々巡りをして、うまくまとまらないときがあるのですが(というか、そればっかり)、たまさか何かの方策に行き着いて前進できることもあるものの、おおかたの場合はその堂々巡りに疲れてしまって、結局忙しい日常生活上の些事に戻っていってしまう(後回しにしてしまう)ことがままあります。なるほど、そんなとき私は「思考」していたのではなく、ただあれこれと「思う」だけだったのかもしれません。「思う」をノートの形で*2いったん自分の外に押し出すことが肝要なのでした。

「自分の想像力よりも、人生の可能性のほうが広い」。筆者の倉下氏はそうおっしゃっています。いや、実にその通りで、自分の「思う」を外部化して「考える」ことで、自分でも気づかなかったなにかの可能性が開けることがあるわけですね。そう考えると副題の「あなたの人生をひらく記録術」というのも腑に落ちます。

この本にはほかにも、SNSなどによってもたらされる「注意経済」から自分を引き離し、自分の「思考」を自分の中心に置くための道具としてのノート、ノートの一つの形としてブログや本を書く意義など、さまざまな示唆に富む記述があります。

qianchong.hatenablog.com

それもこれも、煎じ詰めれば自分の脳内の活動をノートに出力するというシンプルな行動に収斂します。世上よく言われる「可視化」とか、さらには「レコーディングダイエット」みたいなものにもつながる考えで、特段新しい考え方ではないのですが、それをとてもわかりやすく、かつ「自己啓発書臭」の少ない形で解説していて、自分にとってきわめて示唆に富む一冊でした。その意味では「すべてはノートからはじまる」という書名にそのエッセンスは言い尽くされていると思います。

*1:この部分、以前に読んだダニエル・カーネマン氏の『ファスト&スロー』に通底する話だなと思って読んでいたら、果たして巻末の読書案内で参考文献として取り上げられていました。

*2:ノートは紙のノートに限らず、スマートフォンやパソコンのメモやアウトライナーや、さらにはこのブログのような形でもいいのです。本書に詳述されています。

マチズモを削り取れ

私がいまメインで奉職している学校は、もともと女子大だった建物を利用しているためか(現在は共学になっています)、男性用トイレが極端に少ないです。必要最小限というのか、とてもミニマムな仕様というのか。あ、今日はちょっと尾籠なお話なので、ご勘弁ください。

私のオフィスがあるフロアには、男性用トイレに小便器がひとつと、大便用の便房(いわゆるトイレの個室のことです。こういう呼称があることを、後述する本で知りました)がひとつしかありません。もっともこの学校はなぜか男性の教職員が極端に少ないので、その点では特に不便ということもありません。

ただし、学校には教職員だけでなく、当然ながら学生もたくさんいます。というわけで、休み時間などは男性トイレがけっこう混雑するため、学生も、そして私たち教職員も、違うフロアのトイレに行ったり、隣の棟まで「遠征」したりというようなことを日常的にしています。

ちなみに私のオフィスがある棟に限ると、男性用トイレは7階建てのうち3フロアにしかなく、しかもそのうちの2フロアは上述したような「小1大1」のミニマム仕様で、比較的広めのものは最上階にしかありません。最上階はイベントなどが行われるホール(講堂)になっていて、ここは利用者の便(利便の便ですよ。超蛇足ですが)を考えて一般的な仕様の規模になっているのでしょう。

でもこの古い建物には3人程度しか乗れない小さなエレベーターが1基しかなく、使おうとしてもかなり待たされるので、トイレに行きたいときには極めて不向きです。というわけで、オフィスがある3階から7階まで階段を上がり下がりすることになります。足腰は鍛えられますけど……。

職場のトイレのことを思い出したのは、武田砂鉄氏の『マチズモを削り取れ』を読んだからです。「マチズモ」とは、Wikipediaの説明によると「『男性優位主義』を指し、男性としての優位性、男性としての魅力、特徴を誇示する、という意味合いがある」言葉。この本には武田氏が男性として、ジェンダーの問題を考える、あるいは論じることの、ある種の困難に正面から向き合った意欲的論考の数々が収められています。

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マチズモを削り取れ

この本の「おわりに」に、こうした論考を世に問う意義について簡潔な問題提起がなされています。「個人として、当事者として、第三者として、社会の問題を考えるとは、どういうことなのか。ジェンダーについての問題で、とりわけ男性が答えようとしてこなかった(307ページ)」。

マチズモが、かくも社会の様々な側面に、時にわかりやすい形で、あるいは時に巧妙に隠された形で、さらには最近になってようやく明らかにされつつあるという形で、潜んでいる。いや、こびりついている。その意味で「削り取れ」は言い得て妙だと思いました。まさに、フライパンの頑固な汚れと対峙するかのように、積極的にそれを削り取り、削り落とさなければならないのだと。まずは男性から、率先して。

この本には「なぜ結婚を披露するのか」とか「体育会という抑圧」とか、個人的に大いに共感する論考が数多く含まれているのですが、いちばん共感し、かつ複雑な読後感を残したのが「それでも立って尿をするのか」という「新幹線のトイレでは便座がデフォルトで上がっている問題」を追求した一文です。つまりは、男女共用である新幹線のトイレに入ると、必ず便座が上がっている。それはつまり「大便器に向かって小便をする人が『ここでもできるし』くらいの感覚で入ってきている可能性はある(95ページ)」のではないかと。実は新幹線のトイレにおけるこの問題に関しては文中で意外な事実も判明するのですが、それはまあ本書にあたっていただくとして、私がいちばん心穏やかでいられなかったのは「男だったら立ってするべきだ」という一群の男性たちによる主張です。

トイレならまだしも、かつては(今もあるでしょうけど)「立小便」という行為(もしくはその痕跡)が日常的に結構な頻度で目撃されたものでした。この本でも作家の坂口安吾や、劇作家の別役実による、立小便にことさらの「価値」を与える文章が紹介されています。しかし最も心がざわついたのはニュースから引用されている、宮城県石巻市の60代男性・住職の声です。「男だったら立ってするべきだ。座ってするなど許しがたい。(中略)男の『座りション』なんて“草食の時代”が生んだもので、絶対立ってし続ける(96ページ)」。うわあ、マチズモもここに極まれり(それもなんとも「みみっちい」形で)です。

ここまで書いて、かつて中国語の学校に努めていた頃、「日中友好」をその名に冠した旅行団に帯同したときの経験を思い出しました。その旅行団は主に年配の、古くから日中友好運動に関わってこられた方々が参加していたのですが、黒龍江省の哈爾濱(ハルビン)で市内中心部を観光中、用を足したくなった男性数名が、路傍の建設工事中と思しき(家屋の解体中だったと記憶)現場に入っていって立小便をしていたのです。

気づいたときにはすでに「行為」の後で止められず、それでも私は「ちょっとそれは……」というような弱々しい抗議をしたように記憶していますが、私とは親ほども年の離れたその男性諸氏からは「いいんだよ、どうせ壊すんだから」みたいなことを言われました。日中友好などと口ではいいながら、あれは明らかに中国の人々を下に見ている態度だと思いました。あの時なぜもっと強く抗議しなかったのか、いまだに悔やまれます。

閑話休題

この「立って or 座って問題」ですが、武田砂鉄氏は「自分は日頃、便座を下げ、座って尿をしている」そうです。私も同じです。というか、私は男性用トイレに小便器があったとしても、立って用を足すのはあまり好きではありません。これを言うと大抵は怪訝な顔をされるのですが、本音では、いつまで見ず知らずの人たちの前で排泄中の立ち姿を見せ合うような半ば「野蛮」なことが行われているのだろうかとさえ思います。

ただ、おおかたの男性諸氏はそんなことはあまり気にしていない様子です。留学生諸君など、並んでにぎやかに会話しながら用を足したりしています。そのほうが世間的には「普通」というか、そこになにか問題でも? というレベルの話なのでしょう。でも私は、昔からあの「風習」が苦手でした。学生時代から世にいう「連れション」なんてとんでもないと思っていました。なぜって、排泄はごくプライベートな行為だからです。

これは男性諸氏ならおわかりだと思いますが、小便器の間に仕切りがあるところはまだしも、かなり「オープン」な作りのところもまだまだ多い。男性用トイレもすべて個室になったらいいなと思っています。高級ホテルでもそういうところはまだ少ないですが。

あと、男性用トイレで用を足しているときに女性の清掃員が「失礼します」と入ってくるのも、個人的には大いに抵抗があります。あれは人権侵害じゃないかとさえ(私たちにとっても、そして清掃員さんにとっても)思います。

アウトライナーを使い始める

先日読んだ『ライティングの哲学』で大いに推奨されていた「アウトライナー」、さっそく使い始めました。

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ただし、この本ではアウトライナーの詳しい使い方までは説明されていないので、実際に使い始めるにあたっては、こちらの記事がとても参考になりました。ご教示感謝申し上げます。
pouhon.net

使ってみてしみじみと思いましたが、どうしてこんなに便利なものを今まで使っていなかったのだろうと。あらためて己の不明を恥じています。先日もこのブログで書きましたが、なにか文章を書こうとする時には、真っ白な髪やディスプレイを前にしてあれこれ考えていても埒が明かないもので、とにかく頭に浮かんだことを書き出してみるのが大切です。書き出してみることができれば、その文に触発されるように次々と文が紡ぎ出されてくる……これは、形式や形態の違いはあれ、日頃から文章を書いている方にはなかば自明の「真理」ではないかと思われます。

考えてみれば、頭の中で「考え」を保持しておけるキャパシティって、そんなにないですよね。11桁の電話番号(独立した11個の情報)だって覚えられないくらいなのに。だったら、どんどん書き出して、目の前に一覧として並べるようにすればいいのだと上掲の本に教わりました。これまでも長い文章を書くときにはポストイットなどに項目を書き出すくらいのことはしていましたけど、それをもっと簡便に行えるツールが、もうずいぶん前から世の中に存在していたのです。なんてことだ。

ちょうど今日、通勤電車の中で読んだ記事でも、『独学大全』の読書猿氏がこう書かれています。「頭の中だけで考えずに、まず頭に浮かぶものを全部書き出すことに専念する。そうして一旦自分の外に出したものを読み返す」と。氏は書き言葉を人類が獲得した「外部足場」と形容されていますが、すばらしい比喩です。作ろうとしているもの(文章)の外部に足場を設けるからこそ、内部を作り込み、外装を施すこともできる。

diamond.jp

アウトライナーはとりあえず、「WorkFlowy」を使ってみました。とりあえずメールアドレスだけ登録すれば、無料で使い始めることができます。表記はすべて英語ですが、これくらいなら「中学二年生レベル」の私でもだいじょうぶ。データはすべてリアルタイムでクラウドに保存されるので、複数のパソコンやスマホとも連携できます。私はスマートフォンにもアプリを入れたので、これからは通勤など移動中にもメモ的に使えるようになりました。

これまでもスマホのメモアプリは使っていましたが、これはひとつのアプリで閉じた世界なので、けっきょく使いこなせませんでした。このブログなど、なにかテーマを思いついたら「はてなブログ」の下書き画面に直接メモするような形で書いていたのです。でもこのアウトライナー「WorkFlowy」はそれらに比べて操作性が抜群です。文字や項目やアイテムの入れ替え・挿入・削除がとても感覚的にできるのです。

エクスポートも簡単です。ほとんど文章を仕上げてしまってから、Wordなどのワープロソフト、あるいはブログの編集画面に移して、体裁だけ整えればよいのです(改行や文字の装飾をするとか、リンクを張り込むとか、図を載せるとか)。実はこのエントリも、はじめてアウトライナーを使って書いてみたのですが、まだ慣れていないので、最終段階ではなく途中でエクスポートして、ブログの編集画面で加筆しています。でもゆくゆくはアウトライナー上でほぼ書き終えてしまえるようにしたいです。

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文章を書き始める瞬間が白紙なのは、アウトライナーだろうがWordやブログの編集画面だろうが同じ(当たり前)です。でもアウトライナーでは、とにかくどんどんメモ感覚で書き出して行くことができ、後でいくらでも入れ替えや編集が可能というこの「前提」が、どれだけ書くことをラクにしてくれることか。これは使ってみてはじめて実感できました。もうWordなどの真っ白な新規作成画面には怖くて戻れません。

しかし……、こんな便利なツールがなかった時代の作家・文筆家・ライターさんたちは、すごかったのだなと改めて思います。執筆にあたって紙などのカードを使って情報を入れ替えたり、独自のノートを使って似たようなことをやっていた方はいると思います。また作家の大江健三郎氏が原稿用紙を何度も推敲し、切り貼りを重ねている映像を見た覚えもあります。それでも、アウトライナーのようにほとんどストレスなく文章を「揉む」ことは難しかったのではないかと。それを頭の中だけでやっていたのだとすれば、現代に生きる私たちはやや知的に脆弱になっているのかもしれませんけど。

ともあれ、しばらく使ってみようと思います。仕事の書類やブログの原稿だけでなく、日々の仕事のメモやToDoリストなどにも使えそうですね。

批判はもちろん必要だけれども

先日このブログで、「あなたの家で食事を作っている人は男性ですか、女性ですか」という世論調査の問いに対して、「女性」と「どちらかといえば女性」を合わせると実に94%もの高率になるという新聞記事を紹介しました。つまり、ほとんど炊事をしない男性が大多数なんですね。

まあ炊事を含めて家事をどうこなすのかは、その方ご自身や世帯を構成しているメンバーの状況によって様々な選択肢がありえますから、基本的には人様のお宅のありようにあれこれ申し上げるのは「大きなお世話」です。それでも長期的に見れば生活の質に大きく関わってくると思われる「食」に対して主体的に考え、手を動かそうとしないのはもったいないなと個人的には思います。さらには、こんなに楽しいことをなぜやらないのかという素朴な疑問も(それこそ大きなお世話ですが)。

ですから、例えば何かの学問の先生とか、論壇の論者さんとかで、かねてからそのお説に共感し、私淑しているような方が家事、なかんずく炊事を軽んじていたりすると(自炊はしたことがありませんとか、インスタントラーメンくらいしか作れませんとかね)、ものすごく残念に思ってご著書を読むのをやめてしまったりします。偏見だとは思うんですけど。

あと、愛煙家だったりするのもがっかりします。これを言い出すと往年の作家などほとんど読めなくなってしまうのですが、「往年」ならともかく、ここまで煙草の害が明らかになり、社会的にな問題にもなっている現代においても、タバコという一種の中毒から逃れようとしない程度の精神でなにか高邁なことを言われても、なにかこう白けた雰囲気が漂ってしまって、それ以上お説を拝聴する気になれなくなるのです。

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https://www.irasutoya.com/2015/11/blog-post_578.html

ただし。残念に思ったり、がっかりしたとしても、それ以上自分のネガティブな感情を育てないようにしようと気をつけてはいます。炊事をしない=世間知を知らない、とか、タバコを吸ってる=自己管理ができない、とか、いくらでもその人を攻撃するための砲弾が装填されてしまいそうになるんですけど、それは明らかに行き過ぎですし、単に溜飲を下げて快感を得たいだけじゃないか思うからです。

どなたにだって(もちろん自分にだって)暮らしの中で至らないところはあるし、なかなか変えられない習慣もあります。でもSNSのタイムラインなどを眺めていると、自分にもそういうところはあるかもしれないという内省をまったく働かせないまま白か黒かで一刀両断している意見(というより罵詈雑言)がけっこうな数で流れてきます。

実のところ私も昔はそういう「作法」に基づいて溜飲を下げていたような時期がありました。でも最近はなるべくそういう「作法」には乗っかるまいと自らを戒めています。もちろん「おかしいことはおかしい」と批判(悪口と批判は異なります)することは大切です。でもそこには、特にSNS上では、一片のユーモアや諧謔を交えるくらいの半歩、いや四分の一歩くらい引いた姿勢ないしは余裕がいるんじゃないかなと思うようになったのです。

ありきたりな結論ですが、これもまた歳をとって少し角が取れてきたということなのかもしれません。そういえば、昔の自分だったら「炊事をしない? もう読まない!」とか「タバコ吸ってる? 書棚にあるこやつの本は全部ブックオフ行きだ!」みたいな脊髄反射で済ませていたところが、最近は改めて読み直してみて「でもやっぱりいいことも言ってるなあ」と思うこともあるようになりました。

体育の授業がもっと有益なものになってほしい

ジムのパーソナルトレーニングで、トレーナーさんに「とにかくスポーツや体育の授業が嫌いでした」と言ったら驚かれました。「そんなふうに見えない」とおっしゃる。トレーニングでの、私の身体の使い方を見ていればわかるじゃないですかという感じですが、身体の使い方が「なっちゃいない」のは単に加齢のせいであり、若い頃はずいぶんスポーツをやった人間だと思われていたようなのです。

その誤解には外見も寄与しているものと思われます。私は上背こそあまりありませんが、そんなに線の細いほうではなく、加えて顔がやや浅黒くてかなり「いかつい」です。だもんで、昔からよく初対面の方に「なにか運動やってらっしゃる? 柔道とか?」などと聞かれていました。実際には柔道はおろか、体育会系の運動部に所属したことは一度もありませんし、趣味でスポーツを楽しむなんてこともほとんどしたことがありません。

中学校のマラソン大会前日はとにかく憂鬱で、ひたすら自然災害の襲来か火事や爆破予告などの事件が起こるのを祈っていたような生徒でした。体育の授業はもちろん一番気乗りのしない時間で、特にあの体育会系なマインドを炸裂させている体育教師のお一人お一人が大嫌いでした。ごめんなさい。でも今から考えても当時体育の授業を担当されていた先生方にはロクな人がいませんでした。トレーナーさんにそう正直に言ったら、苦笑しながらも「まあ、たしかにそういう人の割合は高いっすよね」とおっしゃっていました。

だからいまこうやって、ほとんど「週五」か「週六」でジムに通っている自分がちょっと信じられません。でも、私がジムに通って筋トレをしているのはスポーツとしてではありませんし、ましてやマッチョな身体になりたいからでもありません。ひたすら今の体力と健康状態がこれ以上低下しないように維持ないしは向上させて、さらにできれば腰痛や肩こりやその他の疾患を頻発しないような合理的な身体の使い方を身につけたいからです。

以前にも書きましたが、コラムニストのジェーン・スー氏が引用されていたご友人の「筋トレ観」はまさに至言だと思います。

ムキムキになるためじゃないよ。スタイルをよくするためでもない。これからの私たちには、明日を生きるための筋肉が必要なんだよ。もっと切実な話なの。

qianchong.hatenablog.com

小学校、中学校、高校などで行われている「体育」の授業が、その名の通り「自らの身体を育む」ための時間であればいいなと思います。怪我をしないで健康的に暮らしていけるような合理的な身体の使い方、社会に出た時に降り掛かってくるさまざまな身体的トラブルにもしなやかに対応できるような心身のありよう、歳をとってからもできる限り生活の質を落とすような状態に陥らないための生活習慣……そうしたことを総合的に学ぶ時間であったらいいなと。

いまはどうだか分かりませんが(改善されていることを願います)、少なくとも私たちの学生時代のように、軍事教練と見紛うような規律にまみれ、競技とか球技とかの名を借りて競争や闘争ばかりを強調し、みんなと「一体」になることにばかり至上の価値を見出し、勝つことだけが尊い(その極点がオリパラではないかと思います)という価値観をこれでもかと刷り込むような時間ではなくて。

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https://www.irasutoya.com/2015/10/blog-post_914.html

実のところ文部科学省による最新の「学習指導要領」を読むと、けっこういいことが書かれているのです。例えば中学校の「保健体育編」における一節、「教科の目標」(11ページ)。

体育や保健の見方・考え方を働かせ,課題を発見し,合理的な解決に向けた学習過程を通して,心と体を一体として捉え,生涯にわたって心身の健康を保持増進し豊かなスポーツライフを実現するための資質・能力を次のとおり育成することを目指す。
(1)各種の運動の特性に応じた技能等及び個人生活における健康・安全について理解するとともに,基本的な技能を身に付けるようにする。
(2)運動や健康についての自他の課題を発見し,合理的な解決に向けて思考し判断するとともに,他者に伝える力を養う。
(3)生涯にわたって運動に親しむとともに健康の保持増進と体力の向上を目指し,明るく豊かな生活を営む態度を養う。
https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2019/03/18/1387018_008.pdf

とくに(3)など私の考えにとても近いです。でも結果として私のような「スポーツ・体育嫌い」を生んでしまう理由は、体育の授業が極端に(1)と(2)に偏ってきた・偏っているからかもしれません。(1)は実質的には競技や球技における競争に、(2)は実質的には「団結」とか「結束」とか“One team”とか“One for all, all for one”などという精神論に偏りすぎていて、結局は抑圧の装置になってしまっているのではないかと。

精神的にはまだ未熟な部分を残している小中高生によって営まれる学校社会では、スポーツや体育における個人の優劣がそのままクラス内・学校内のヒエラルキーに結びつき、それを教師側も看過するという空気があるように思います(これも現代では改善されていることを祈ります)。スポーツが、そして体育が、もっともっと多くの人たち(児童・生徒のみならず、社会人もふくめて)にとって真に有益で、長くその意義をかみしめることができるようなものになってほしいと思います。

セルフレジがもっと普及してほしい

先日、早朝の人の少ない時間をねらってジムに行き、帰りにユニクロに寄ってショートパンツを買いました。開店間もない午前中の時間だったからか、お客さんは驚くほど少なかったです。みなさんステイホームに徹してらっしゃる。ちょっと後ろめたい気持ちになります。

お客さんも少ないですけど、お店のスタッフも少ないです。特にお会計をするレジの周辺は、以前なら「次の方どうぞ!」というような元気な声が響いてにぎやかだったのですが、現在はとても静かです。ご存じの方も多いと思いますが、ユニクロの店舗では(すべてではないでしょうけど)セルフレジが導入されていて、以前のようなレジ周りの風景が一変しています。

このユニクロのセルフレジはとても良くできていて、学校の理科室にあったような大きくて深めのシンクみたいなボックスに複数の商品をどさっと入れると、それだけで商品のタグがスキャンされ、合計金額が画面に表示されるのです。あとはカードか現金で支払うだけ。

ここまで進化したセルフレジはまだそんなに登場していませんが、コンビニやスーパーでも商品のバーコードを読み込ませて自分で精算するセルフレジは増えてきました。ユニクロの後に紀伊國屋書店にも寄ったのですが、なんとここにもセルフレジが登場していて驚きました。

ルフレジでは有料の袋も購入できますが、私は利用しないのでその場でマイバッグやデイパックに商品を入れます。ちゃんとお金を払っているのですが、何となくその場で万引しているような感じに見えないかしらと毎回ちょっと心配になるのは、たぶんまだ自分がこのセルフレジに慣れていないからなのでしょう。いろいろなお店でもっと普及すれば、なじんでいくと思います。

スーパーなどでのセルフレジがいいのは、個人的にはあの「薄いビニール袋との戦い」が発生しないことです。私は極度に人見知りな人間で、なおかつレジの店員さんがちょっとぶっきらぼうだったり、商品のバーコードを読み取って移すその手付きが荒かったりすると(卵パックとか、お刺身のサクとかね)、それだけで落ち込むようなところがあるので、人とのコミュニケーションが発生しないセルフレジがとても快適です(こういうのも、いわゆる「コミュ障」の一種なのかしら)。

qianchong.hatenablog.com

しかしユニクロ紀伊國屋書店のセルフレジには現在のところ、店員さんが一人つきっきりで立っています。たぶんうまく操作できない方がいたり、万一機械にトラブルがあったりしたときのため、あとは万引防止(セルフレジを通さず失敬しちゃうとか)のためなのでしょう。ずっと店員さんを張り付かせておくなんて、せっかくセルフレジを導入したのになぜ、と思いますが、それでも旧来のレジにたくさん店員さんを置くよりはコストダウンになるのでしょう。

私としてはこういうシステムがもっと進化して、お店に入って、商品を手にして、お店を出るだけで自動的に精算が完了するようなのが普及すればいいなと思います。Amazonがすでに始めていますよね。でもこれを周囲の同僚に言うと、たいがいは否定的な声が返ってきます。セルフレジどころか、キャッシュレス決済とか、クレジットカードそのものに抵抗を覚える方が割と多いんですよね。私の周囲だけかもしれませんが。

私は現在のところ、スマートフォンと財布を持って外出しています。スマホに入っているPASMOやWalletのクレジットカードだけでは支払えないお店もあるので、財布に入れたカードも必携ですし、あと何となく「保険」的に現金も少しだけ持っています。が、はやくスマートフォンかスマートウォッチ一本に集約してしまいたい。なるべくものを持たないで外出できるようになる未来が楽しみです。

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https://www.irasutoya.com/2015/12/blog-post_532.html