インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

体育の授業がもっと有益なものになってほしい

ジムのパーソナルトレーニングで、トレーナーさんに「とにかくスポーツや体育の授業が嫌いでした」と言ったら驚かれました。「そんなふうに見えない」とおっしゃる。トレーニングでの、私の身体の使い方を見ていればわかるじゃないですかという感じですが、身体の使い方が「なっちゃいない」のは単に加齢のせいであり、若い頃はずいぶんスポーツをやった人間だと思われていたようなのです。

その誤解には外見も寄与しているものと思われます。私は上背こそあまりありませんが、そんなに線の細いほうではなく、加えて顔がやや浅黒くてかなり「いかつい」です。だもんで、昔からよく初対面の方に「なにか運動やってらっしゃる? 柔道とか?」などと聞かれていました。実際には柔道はおろか、体育会系の運動部に所属したことは一度もありませんし、趣味でスポーツを楽しむなんてこともほとんどしたことがありません。

中学校のマラソン大会前日はとにかく憂鬱で、ひたすら自然災害の襲来か火事や爆破予告などの事件が起こるのを祈っていたような生徒でした。体育の授業はもちろん一番気乗りのしない時間で、特にあの体育会系なマインドを炸裂させている体育教師のお一人お一人が大嫌いでした。ごめんなさい。でも今から考えても当時体育の授業を担当されていた先生方にはロクな人がいませんでした。トレーナーさんにそう正直に言ったら、苦笑しながらも「まあ、たしかにそういう人の割合は高いっすよね」とおっしゃっていました。

だからいまこうやって、ほとんど「週五」か「週六」でジムに通っている自分がちょっと信じられません。でも、私がジムに通って筋トレをしているのはスポーツとしてではありませんし、ましてやマッチョな身体になりたいからでもありません。ひたすら今の体力と健康状態がこれ以上低下しないように維持ないしは向上させて、さらにできれば腰痛や肩こりやその他の疾患を頻発しないような合理的な身体の使い方を身につけたいからです。

以前にも書きましたが、コラムニストのジェーン・スー氏が引用されていたご友人の「筋トレ観」はまさに至言だと思います。

ムキムキになるためじゃないよ。スタイルをよくするためでもない。これからの私たちには、明日を生きるための筋肉が必要なんだよ。もっと切実な話なの。

qianchong.hatenablog.com

小学校、中学校、高校などで行われている「体育」の授業が、その名の通り「自らの身体を育む」ための時間であればいいなと思います。怪我をしないで健康的に暮らしていけるような合理的な身体の使い方、社会に出た時に降り掛かってくるさまざまな身体的トラブルにもしなやかに対応できるような心身のありよう、歳をとってからもできる限り生活の質を落とすような状態に陥らないための生活習慣……そうしたことを総合的に学ぶ時間であったらいいなと。

いまはどうだか分かりませんが(改善されていることを願います)、少なくとも私たちの学生時代のように、軍事教練と見紛うような規律にまみれ、競技とか球技とかの名を借りて競争や闘争ばかりを強調し、みんなと「一体」になることにばかり至上の価値を見出し、勝つことだけが尊い(その極点がオリパラではないかと思います)という価値観をこれでもかと刷り込むような時間ではなくて。

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https://www.irasutoya.com/2015/10/blog-post_914.html

実のところ文部科学省による最新の「学習指導要領」を読むと、けっこういいことが書かれているのです。例えば中学校の「保健体育編」における一節、「教科の目標」(11ページ)。

体育や保健の見方・考え方を働かせ,課題を発見し,合理的な解決に向けた学習過程を通して,心と体を一体として捉え,生涯にわたって心身の健康を保持増進し豊かなスポーツライフを実現するための資質・能力を次のとおり育成することを目指す。
(1)各種の運動の特性に応じた技能等及び個人生活における健康・安全について理解するとともに,基本的な技能を身に付けるようにする。
(2)運動や健康についての自他の課題を発見し,合理的な解決に向けて思考し判断するとともに,他者に伝える力を養う。
(3)生涯にわたって運動に親しむとともに健康の保持増進と体力の向上を目指し,明るく豊かな生活を営む態度を養う。
https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2019/03/18/1387018_008.pdf

とくに(3)など私の考えにとても近いです。でも結果として私のような「スポーツ・体育嫌い」を生んでしまう理由は、体育の授業が極端に(1)と(2)に偏ってきた・偏っているからかもしれません。(1)は実質的には競技や球技における競争に、(2)は実質的には「団結」とか「結束」とか“One team”とか“One for all, all for one”などという精神論に偏りすぎていて、結局は抑圧の装置になってしまっているのではないかと。

精神的にはまだ未熟な部分を残している小中高生によって営まれる学校社会では、スポーツや体育における個人の優劣がそのままクラス内・学校内のヒエラルキーに結びつき、それを教師側も看過するという空気があるように思います(これも現代では改善されていることを祈ります)。スポーツが、そして体育が、もっともっと多くの人たち(児童・生徒のみならず、社会人もふくめて)にとって真に有益で、長くその意義をかみしめることができるようなものになってほしいと思います。