インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

手の倫理

伊藤亜紗氏の『手の倫理』を読みました。人間の五感のうち、最も近距離かつ直接的に行われる「触覚」、とりわけ手によって行われる「さわる」と「ふれる」についての考察をベースに、人間関係の新たな可能性を模索する一冊です。

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手の倫理 (講談社選書メチエ)

自分が他人に「さわる/ふれる」ことって、よくよく考えてみると日常生活の中ではほんの限られた状況でしかありえません。しかし、だからこそ他人に「さわる/ふれる」あるいは他人から「さわられる/ふれられる」瞬間は、心身ともに非常に繊細かつ微妙な反応が往来しているように思います。

性愛はもちろん、それ以外にも介護や介助、スポーツ、教育などの現場でさまざまな「さわる/ふれる」が行われています。この本ではその状況に深く分け入り、「信頼」「コミュニケーション」「共鳴」、そして「倫理」といったキーワードから私たちはそこで何をしているのか、何を与え、何を受け取っているのかを明らかにしようとします。

この本に収められた、いくつかのエピソードはとても印象深いものでした。まず冒頭で紹介されている体育科教育学専門の研究者のお話。

体育の授業が根本のところで目指すべきものって、他人の体に、失礼ではない仕方でふれる技術を身につけさせることだと思うんです。(24ページ)

伊藤氏はここで「エウレカ!」と叫んでらっしゃいますが、たしかにこれは至言だと思います。畢竟、体育とは「体(身体)」を「育てる」ことであって、それはとりもなおさず自分の身体を自分に合った形で使えるよう調整していくことなんですね。自分の身体を無理のない形で自由に使いこなせるようにすること、それが「体育」だと。

中高年に到ってから通い始めたジムのパーソナルトレーニングで、私が常に痛感していることは、自分がいかに自分の身体を使いこなせていないかということです。体幹レーニングでのちょっとした動き、例えば仰向けに寝転がって足を天井に向けた形から、下半身の反動と腕による支えを利用してくるっと起き上がるような動作。トレーナーさんはいとも簡単に軽々とやっているのに、私はどうしてもできないのです。トレーナーさんはいろいろと細かく指導してくれながらも「要は全身の身体の使い方、なんですけどね」とおっしゃる。あるいは「全身の連携なんですけどね」とも。

そう、その全身の連携が自分の中に養われていないのです。ベンチプレスにしても、もちろんメインで使うのは胸筋だけれども、実は背筋や肩や腕や、それら上半身のみならず、お腹や下半身、はては足の裏までを使って挙げている。さらには呼吸や意識の持ち方まで。それはもう比喩でもなんでもなくて、まさに全身を使って(全身を上手に連携させて)挙げているんですね。

そういえば子供の頃、鉄棒の「逆上がり」が、そして高校生の頃は「バック転」がどうしてもできませんでした。あれらもいま考えれば全身の使い方、全身の連携がうまく行かなければ成功しないたぐいの動きだったのでしょう。そして無理のない全身の連携が自分に備われば、そうした動きは造作もなくできるようになり、かつ怪我もしないということになるのではないか。さらにその全身の使い方は、他人の体に「ふれる」際にも及ぶのだということをこの本を読みながら考えました。

そういえばジムのトレーナーさんは、様々な動きを指示するときにこちらの身体に触れてきます。ここですよ、この筋肉を意識してくださいと、軽く手を当てたり、指先でトントンと叩いたり。あるいは骨盤が傾かないように、あるいは腹筋の力が抜けないようにぐっとホールドしたり。

トレーナーさんには男性も女性もおり、私はどちらからも指導を受けていますすが、そこには極めて繊細な「ふれる」技術が使われているように思います。他の場面では「侵襲的」とも見なされてしまうような形であっても、そこにはトレーニングという目的を媒介にした「お互いに許し合っている」ような状態が生まれている。これは例えばあの非人間的な満員電車における身体同士のふれあいや、ましては痴漢行為などにおける犯罪的な接触とはまったく異なるものです。物理的にはかなり近似の接触ではあっても。こうした「自分の身体の使い方」や「他人の身体への触れ方」を養うのが「体育」の目的というお話に、心から共感した次第です。

もうひとつ、この本の後半で紹介されていた、ブラインドランナーに伴走してランニングを行う「バンバンクラブ」の活動も非常に興味深いものでした。この伴走では二人の間をつなぐロープが使われるのですが、それがあたかも「神経繊維」のようにお互いの状況を感じ取り合うコミュニケーションのツールとして機能するというのです。そこではブラインドランナーと伴走者の間に「共鳴」が生じているとも。

最初に伊藤氏がアイマスクをして伴走者と走る体験をしたときには、不安と恐怖で足がすくんだそうです。ところが……

でもある瞬間、実際には走り始めてほんの数分のうちに、こうした不安と恐怖は私から離れていきました。そのときの感覚は、「大丈夫だ」と確信できたというよりは、「ええい、どうにでもなれ」とあきらめて飛び込む感じに近かったように思います。まさに不確実な要素があると自覚しながらも、ひどい目にあわないだろうと「信頼」した瞬間でした。
(中略)
いったん信頼が生まれてしまえば、そのあとの「走る」の、なんと心地よかったことか。最初はウォーキングでしたが、すぐにおのずとスピードがあがって走り始め、最後は階段をのぼることまでできるようになりました。ずっと走っていたい! それは、人を一〇〇パーセント信頼してしまったあとのなんとも言えない開放感と、味わったことのない不思議な幸福感に満ちた瞬間でした。

ここではもはや、身体の使い方が自分ひとりの中にとどまらず、外の世界に拡張しているようなイメージを感じます。私はジムでトレーナーさんとトレーニングをしているときにも、ここまでヴィヴィッドではないけれども、同じような感覚を味わうことがあります。トレーナーさんの声がけや、意識を向けるべき筋肉の部位に手を添える行為を通じて、自分の身体の動きが補完されているような感覚です。

日常生活の中ではほんの限られた状況でしかありえない自他間の「さわる/ふれる」行為には、しかしとても大切な何かが潜んでいることを考えさせてくれた一冊でした。また、この本にはほかにも「多様性」への過剰な傾倒が、かえって「相互不干渉」ひいては「断絶」までもを肯定する危険性など、重要な指摘が多々ありました。

ちなみに上述した「バンバンクラブ」、私もぜひ参加してみたいと思ってオフィシャルサイトを検索してみたのですが、案の定現在はコロナ禍の影響で、現在新規会員の募集を休止しているそうです。残念です。

banbanclub.org