インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

マチズモを削り取れ

私がいまメインで奉職している学校は、もともと女子大だった建物を利用しているためか(現在は共学になっています)、男性用トイレが極端に少ないです。必要最小限というのか、とてもミニマムな仕様というのか。あ、今日はちょっと尾籠なお話なので、ご勘弁ください。

私のオフィスがあるフロアには、男性用トイレに小便器がひとつと、大便用の便房(いわゆるトイレの個室のことです。こういう呼称があることを、後述する本で知りました)がひとつしかありません。もっともこの学校はなぜか男性の教職員が極端に少ないので、その点では特に不便ということもありません。

ただし、学校には教職員だけでなく、当然ながら学生もたくさんいます。というわけで、休み時間などは男性トイレがけっこう混雑するため、学生も、そして私たち教職員も、違うフロアのトイレに行ったり、隣の棟まで「遠征」したりというようなことを日常的にしています。

ちなみに私のオフィスがある棟に限ると、男性用トイレは7階建てのうち3フロアにしかなく、しかもそのうちの2フロアは上述したような「小1大1」のミニマム仕様で、比較的広めのものは最上階にしかありません。最上階はイベントなどが行われるホール(講堂)になっていて、ここは利用者の便(利便の便ですよ。超蛇足ですが)を考えて一般的な仕様の規模になっているのでしょう。

でもこの古い建物には3人程度しか乗れない小さなエレベーターが1基しかなく、使おうとしてもかなり待たされるので、トイレに行きたいときには極めて不向きです。というわけで、オフィスがある3階から7階まで階段を上がり下がりすることになります。足腰は鍛えられますけど……。

職場のトイレのことを思い出したのは、武田砂鉄氏の『マチズモを削り取れ』を読んだからです。「マチズモ」とは、Wikipediaの説明によると「『男性優位主義』を指し、男性としての優位性、男性としての魅力、特徴を誇示する、という意味合いがある」言葉。この本には武田氏が男性として、ジェンダーの問題を考える、あるいは論じることの、ある種の困難に正面から向き合った意欲的論考の数々が収められています。

f:id:QianChong:20210818125224j:plain:w200
マチズモを削り取れ

この本の「おわりに」に、こうした論考を世に問う意義について簡潔な問題提起がなされています。「個人として、当事者として、第三者として、社会の問題を考えるとは、どういうことなのか。ジェンダーについての問題で、とりわけ男性が答えようとしてこなかった(307ページ)」。

マチズモが、かくも社会の様々な側面に、時にわかりやすい形で、あるいは時に巧妙に隠された形で、さらには最近になってようやく明らかにされつつあるという形で、潜んでいる。いや、こびりついている。その意味で「削り取れ」は言い得て妙だと思いました。まさに、フライパンの頑固な汚れと対峙するかのように、積極的にそれを削り取り、削り落とさなければならないのだと。まずは男性から、率先して。

この本には「なぜ結婚を披露するのか」とか「体育会という抑圧」とか、個人的に大いに共感する論考が数多く含まれているのですが、いちばん共感し、かつ複雑な読後感を残したのが「それでも立って尿をするのか」という「新幹線のトイレでは便座がデフォルトで上がっている問題」を追求した一文です。つまりは、男女共用である新幹線のトイレに入ると、必ず便座が上がっている。それはつまり「大便器に向かって小便をする人が『ここでもできるし』くらいの感覚で入ってきている可能性はある(95ページ)」のではないかと。実は新幹線のトイレにおけるこの問題に関しては文中で意外な事実も判明するのですが、それはまあ本書にあたっていただくとして、私がいちばん心穏やかでいられなかったのは「男だったら立ってするべきだ」という一群の男性たちによる主張です。

トイレならまだしも、かつては(今もあるでしょうけど)「立小便」という行為(もしくはその痕跡)が日常的に結構な頻度で目撃されたものでした。この本でも作家の坂口安吾や、劇作家の別役実による、立小便にことさらの「価値」を与える文章が紹介されています。しかし最も心がざわついたのはニュースから引用されている、宮城県石巻市の60代男性・住職の声です。「男だったら立ってするべきだ。座ってするなど許しがたい。(中略)男の『座りション』なんて“草食の時代”が生んだもので、絶対立ってし続ける(96ページ)」。うわあ、マチズモもここに極まれり(それもなんとも「みみっちい」形で)です。

ここまで書いて、かつて中国語の学校に努めていた頃、「日中友好」をその名に冠した旅行団に帯同したときの経験を思い出しました。その旅行団は主に年配の、古くから日中友好運動に関わってこられた方々が参加していたのですが、黒龍江省の哈爾濱(ハルビン)で市内中心部を観光中、用を足したくなった男性数名が、路傍の建設工事中と思しき(家屋の解体中だったと記憶)現場に入っていって立小便をしていたのです。

気づいたときにはすでに「行為」の後で止められず、それでも私は「ちょっとそれは……」というような弱々しい抗議をしたように記憶していますが、私とは親ほども年の離れたその男性諸氏からは「いいんだよ、どうせ壊すんだから」みたいなことを言われました。日中友好などと口ではいいながら、あれは明らかに中国の人々を下に見ている態度だと思いました。あの時なぜもっと強く抗議しなかったのか、いまだに悔やまれます。

閑話休題

この「立って or 座って問題」ですが、武田砂鉄氏は「自分は日頃、便座を下げ、座って尿をしている」そうです。私も同じです。というか、私は男性用トイレに小便器があったとしても、立って用を足すのはあまり好きではありません。これを言うと大抵は怪訝な顔をされるのですが、本音では、いつまで見ず知らずの人たちの前で排泄中の立ち姿を見せ合うような半ば「野蛮」なことが行われているのだろうかとさえ思います。

ただ、おおかたの男性諸氏はそんなことはあまり気にしていない様子です。留学生諸君など、並んでにぎやかに会話しながら用を足したりしています。そのほうが世間的には「普通」というか、そこになにか問題でも? というレベルの話なのでしょう。でも私は、昔からあの「風習」が苦手でした。学生時代から世にいう「連れション」なんてとんでもないと思っていました。なぜって、排泄はごくプライベートな行為だからです。

これは男性諸氏ならおわかりだと思いますが、小便器の間に仕切りがあるところはまだしも、かなり「オープン」な作りのところもまだまだ多い。男性用トイレもすべて個室になったらいいなと思っています。高級ホテルでもそういうところはまだ少ないですが。

あと、男性用トイレで用を足しているときに女性の清掃員が「失礼します」と入ってくるのも、個人的には大いに抵抗があります。あれは人権侵害じゃないかとさえ(私たちにとっても、そして清掃員さんにとっても)思います。