インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

洪通

その絵から、かのヴォイニッチ手稿を連想しました。臺南市美術館2館で展示されていた洪通(Hung Tung)氏の作品を見たときです。たまたま立ち寄ったこの美術館では、ちょうど台南にゆかりのある画家の展覧会が行われていて、紹介されている4人のうちのおひとりが洪通氏でした。


www.tnam.museum

50歳を過ぎてから創作をはじめ、その独特の書画のスタイルから“靈異畫家”とか“東方的畢加索(ピカソ)”などと称されたという洪通氏。亡くなってからすでに30年以上も経っていて、いまではほとんど忘れられた存在になっているようですが、生前の一時期は台湾画壇に一大ブームを巻き起こした人物なのだそうです。私はこの展覧会で初めて知りました。

ネットで洪通氏のことを検索してみると「プリミティブ(原始的)」とか「スピリチュアル(屬靈的)」といったキーワードでその作品が語られることが多いようです。たしかに、人間と動物と植物、それに漢字やアルファベットといった文字が渾然一体となったその作品は、いわくいいがたい感情を見るものに与えそうです。

いっぽうでヴォイニッチ手稿は、おそらく1400年代から1500年代に作られ、1912年に「再発見」されたた古文書です。いまだに未解読の文字で記述されており、多数の彩色画が付されています。そのモチーフは植物や人物、占星術のような図案からなっており、文字と同様に絵も何を指し示しているのかがほとんど明らかになっておらず、壮大な偽書であるという説もあるほどです。私はこのヴォイニッチ手稿に以前からとても惹かれていたのですが、洪通氏の絵にもおなじような魅力を感じたのでした。


beinecke.library.yale.edu

洪通氏は台南にゆかりのある画家とのことで、これもネットで検索してみると、台南市の郊外に生家が保存されており、近くには小さな展示館もあるとのこと。郊外といっても台北市の中心部から40kmくらいは離れた北門区で、バイクだと小一時間はかかる距離です。でもせっかくですから次の日に出かけてみることにしました。

……が、到着してみるとそれらしき建物はありません。村のいくつかの建物には洪通氏のものらしい絵が描かれていて、“素人畫家洪通出生地”と書かれた錆びた鉄の看板があるだけです。あとは公民館(というか台湾の村によくあるお廟の入った建物)みたいなところに絵が飾られていましたが、どれも複製写真のようでした。

お廟の入口に洪通氏の画集みたいなのが置いてあって、“凡奉獻油香壹仟圓者,贈送「洪通・靈魅狂想」傳記一本”、つまりお賽銭を1000元奉納した方にもれなくこの画集を差し上げますと書かれています。えええ、欲しい、もとい、ぜひとも奉納させていただきたいんですけど、と思いましたが、野良犬以外にはどなたもいらっしゃいません。だいたいこの展示室だって電気が消えていて、私が勝手につけちゃったんです(ごめんなさい)。

仕方がないので、台南市内へまた小一時間かけて戻りました。でもなんとなくあきらめきれないような気持ちでもう一度臺南市美術館へ行って、あの洪通氏の展示を見ていたら、昨日はあまり目に止めていなかったパネル展示がありました。説明をよく読んでみると、洪通氏の作品は地元のお廟「南鯤鯓代天府」の造形に深く影響を受けているのだとか。

南鯤鯓代天府廟體為國定古蹟,觀其壁畫、壁堵、飛檐、剪粘等工藝於建築之美,可以發現廟宇藝術為洪通創作的底蘊。


南鯤鯓代天府廟は国の史跡に指定されており、その建築に施された壁画、壁堵(壁や欄間などのレリーフ)、飛檐(反り上がった軒)、剪粘(屋根や庇に載せられた彫刻)など職人技の美が洪通作品のベースにあることがわかります。

なるほど、そうだったのか〜と見入っていたら、美術館の監視員さんとおぼしきおじさんが声をかけてきました。ご自身がこのお廟がある場所の出身だそうで「機会があったら一度行ってみるといいよ」って。どこにあるのか聞いてみたら「北門区」だそうです。北門区って、さっき行ってきた場所じゃないですか。Googleマップで調べてみたら、あの洪通氏の生家があった場所のすぐそばです。あああ、なぜ昨日ちゃんとこの展示を読んでおかなかったのか。

またあの場所まで往復2時間かけてバイクで向かうのはちょっとしんどいと思いましたが、これもなにかのご縁のような気がして、次の日にもう一度行ってみました。はたして、予想以上にとても規模が大きくて立派な、そしてとても歴史のあるお廟でした。細かく見て回ると、確かに壁画やレリーフ、屋根や柱の彫刻など、洪通氏の作品を彷彿とさせるものがあります。レリーフに添えられた文字やお札のデザインなどもまた洪通氏の世界に通じますよね。


あまりに素晴らしい建物なので、ふだんは信仰心などまったく持ち合わせていない私もなんだか敬虔な気持ちになって、お線香とお供えの紙銭など買い求め、神様ごとにひととおり(ご承知の通り、台湾のお廟にはそれはたくさんの様々な神様や仏様が祀られています)“拜拜”をして回りました。境内にたくさんいる犬(神犬とかじゃなくて、たぶん野良犬さん)をなでてあげたら、そのあとずっと私のあとをついてきました。

代天府からの帰り道、もういちど洪通氏の生家近くにあるあの公民館兼お廟みたいな展示施設に行って、あわよくばあの画集を手に入れたいものだと思いました。執着にまみれていますね。でもきょうも誰もおらず、たまたまお廟の前にいらしたおじいさんに聞いてみるも台湾語で“今日は誰もいないよ”的なことを言われ(たぶん)、しかたなく帰ろうとしたら、比較的お若いおばさん(失礼)が通りかかったので、厚かましくも「実はお賽銭をあげてあの画集をいただきたいのですが」と言ってみました。

このおばさんも台湾語しかお話しにならないので困ったなあと思っていたら、3階に祭壇があるからそこへ行きなさいとおっしゃる(たぶん)。それで上がってお参りしていたら、おばさんが画集を持って上がってきてくれました。で、賽銭箱に1000元お供えして、画集をいただくことができました。ありがとうございます。それにしてもなんという僥倖(あとから調べたら、この画集はすでに絶版になっていました)。これもさきほど代天府でお線香をあげた功徳なのかしら。