インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

ライティングの哲学

「書くのが苦しい」とおっしゃる4人の執筆者による『ライティングの哲学』を読みました。タイトル通り、書くことの苦しみから導き出されたそれぞれの「哲学」が語られていて、その哲学的思考の末にそれぞれがそれぞれの「書くことに対する諦念」みたいなものにたどり着いているのが興味深い一冊でした*1

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ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論 (星海社 e-SHINSHO)

それにしても4人はそれぞれ、形式や量の多寡は違えども執筆を生業にされている方々ばかりで、そんないわばプロの書き手がその文章の後ろでこんなにも苦吟されていたとは。でも、比較するのも大変おこがましいですけど、私も毎日こうやってブログを書いていて、書けない悩みと、書けたときの楽しさの両方を日々味わっているので、「そうそう!」と共感のあまり付箋を貼るページがたくさんありました。

いろいろな至言があるのですが、とりあえずは読書猿氏(あの『独学大全』の著者ですね)のこのひとこと。

外部化されない思考は堂々巡りを繰り返す。思考は外部化のプロセスではじめて線形化し、繰り上がる。(155ページ)

本当にそのとおりなんですよね。人にもよるかもしれませんが、頭の中であれこれ考えていても思考はいっこうにまとまらなくて、ましてや文章にまとめることなどできそうにないと思ってしまいます。でも、外部化、つまり書き始めてみると、次から次へと思考が自分の中から引きずり出されて文字の上に定着されていく……常にそうではないけれども、そういう時が確かにあります。文章を書きながら「ああ、自分はこういう事を考えていたのか」と気づくこともありますし、時には自分でもそれまで考えてもみなかったような結論に行き着くこともあります。

このブログでも何度か引用していますが、コラムニストの小田嶋隆氏がある講演で「文章を書いているときの自分は、普段よりちょっと『頭がいい』」というようなことをおっしゃっています。これもつまりは、文章を書き出してみてはじめて、自分の思考がより明晰になるということなのでしょう。「書くことの効用の一つは、その文章を書かなければ一生気づかなかったような自分の内部が出てくるところにある」というようなこともおっしゃっていました。

たしかに、文章を書き出してみると、自分の中からどんどん言葉が湧き出してきて、結果的に「なんだか知らないけど、こんなものが書き上がっていました」ということがあるんですよね。これも「いつも」ではなく「たまに」なのが文才のない人間の悲しいところですが、こんな私でも年に数回はそういう「こんなん出ましたけど〜」みたいな瞬間があるのです。

私はいまの職場でけっこう文章を書くことが多くて、それは自分が職場に提出する、あるいは職場が「お上」に提出する報告書のたぐいがメインなのですが、ああいう文章は私、書き始める時にほとんどストレスを感じることなく、かついくらでも書きついで行くことができます。この本でも瀬下翔太氏が「町役場に提出する事務的な文書をつくるときには、それほど苦労しない(24ページ)」とおっしゃっていました。同僚からは「モスラの幼虫みたい」と言われますが、ああいう魂のこもっていない文章(ここだけの話……)ならいくらでも書けるというのが、書くことの本質の一端を示しているように思います。

つまりは、自分の中から本当に湧き出してきた言葉、しかもそれを誰かに伝えたい(その誰かは時に自分自身でもあります)と本当に思える言葉は、やはり紡ぎ出すのに多少のストレスがかかり、紡ぎ出すためのその人なりの技術やコツみたいなものが必要なんですね。どうせこんなもの誰も読みゃしないんだから(ええ、ここだけの話です……)というシチュエーションであれば、それこそ蚕が糸を吐くようにスルスルと文章が書けちゃう。実際の蚕さんは蚕さんで身を削っているのかもしれませんけど。

とまれ、「書くのが苦しい」と思えるような文章を書くことは、自分の心の中(つまりは思考)を見つめ、それを外部化することで自分から切り離して客観視し、そこで感じたことがまた自分にフィードバックされてきて、新たな自分への活性化を促す……そんな営みであるという確信のようなものを、この本を読んで得ることができました。私はブログを毎日書くことを「ボケ防止」だと思って、今日まで1300日あまり続けてきたのですが、文章を書くことは単に「頭を働かせて文を書くから脳に良い」といったような単純なものではなく、もっと深い「効能」があるのだと確信したのでした。

余談ですが4人のみなさんは文章を書く時にそれぞれお気に入りの「アウトライナー」を使ってらっしゃるそうです。アウトライナーとは「文書の全体の構造を階層的に作成・編集し、また細部を加筆・編集する形式を取る文書の作成ソフト・ツールです(17ページ)」とのこと。この本自体が、最初はこのアウトライナーをそれぞれがどう使っているのかを紹介し合うという企画から始まったそうです。

私は恥ずかしながらこの「アウトライナー」というものを初めて知りました。これまで書いてきた文章はすべてパソコンにデフォルトでついている「Word」や、ブログだったらブログの編集ページに直接書き込んで、最初から最後まで仕上げてきたのです。仕事での何十ページにも及ぶ文書でも「Word」一本。でもプロの書き手のみなさんはもっとさまざまなツールを使いこなして豊かな内容を持つ文章を紡ぎ出しているんですね。「Word」を使うのは、書き上げてから体裁を整える、あるいはクライアントの要求に従って(Word形式で送れ、というクライアントが多いよう)という、納品直前の一瞬だけなんだそうで。

とにかくぼくはWordからできるだけ離れたい人間で。あれは発狂するんですよ!(36ページ)

わははは。確かに! Wordもそうだし、Excelも発狂します。あんなに使い勝手の悪いもの(そしてちょくちょく「いらんこと」してくるもの)はありません。なぜいままで我慢して使ってきたのかなあ。私もアウトライナーの使い方を研究してみようと思いました。

*1:ちなみにこの本、人気のためか現在のところAmazonなどネット書店では品切れ状態になっており(Kindleなどはすぐ買えます)、そこに便乗した業者が新刊を法外な値段で売っていたりします。それで所用で新宿に出た折に紀伊國屋書店でようやく平積みを見つけて購入した次第。

そんなに炊事がきらいなんですか

今日の新聞朝刊に、興味深い記事が載っていました。新聞各社が加盟する日本世論調査会が実施した「食と日本社会」という世論調査の結果です。いわゆる「ポテサラ論争」を踏まえた質問や、「孤食」、コロナ禍での外食の減少など注目ポイントは多いのですが、私がいちばん興味を持ったのは「あなたの家で食事を作っている人は男性ですか、女性ですか」という質問です。

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きょうび、男性か女性かという質問、しかもそれが「あなたの家で」という前提のもとでなされること自体が時代遅れのような気もします。それは、家族は、あるいは世帯は、男性と女性のペアによって営まれるものという前提がデフォルトで設定されていて、多様な家族のあり方が最初から想像すらされていないことが透けて見えるからです。それでもその時代遅れの価値観にしっかりと呼応するように、有意すぎるほど有意な数字があらわれていて、「2021年になってもこれですか……」とため息をついたのです。

問12 あなたの家で食事を作っている人は男性ですか、女性ですか。
男性 9%
どちらかといえば男性 3%
どちらかと言えば女性 20%
女性 67%
家で食事は作らない 1%
無回答 0%
東京新聞8月12日朝刊より

数字の大きい方から並べず、男性→女性という順になっているのも引っかかりますが、とりあえずそこは目をつぶるとしても、この性差の大きさといったら。しかも東京新聞によると「二人以上の世帯に限ると『どちらかといえば』を含め女性が計94%、男性は計6%とさらに男女差が明確に」なったそうです。

この記事に引用されている2012年における国際的な比較でも、日本の男性が食事を作る割合は現在とほとんど変わっていませんでした。ほぼ10年前の調査で情報が古いですが、逆にその古い調査と比較してもほとんど変わらないというのは、ちょっと驚きです。

style.nikkei.com

もちろん食事に限らず、男性の家事負担率全般が軒並み低いというのはよく指摘されることですし、そこには社会全体における「男女共同参画」が遅れに遅れているという現状が大きく横たわっているのでしょう。ですから一朝一夕に大きな変化は望めないのかもしれませんが、なぜ日本の男性がこれほど頑迷なまでに家事に対して消極的なのか、本当に私には解せません。

私は基本的には「明日は今日よりもっと良くなる」と思っている楽観主義ですが、自分が高校生の頃から現在までずっと炊事や選択や掃除などをしてきたなかで感じるこの「日本の男性の変わらなさ」はちょっと異様な感じがします。もっと社会全体で、暮らしを立ち行かせて行くために不可欠な家事をしないのは恥ずかしいことだ(身体的な条件で不可能な人を除いて)という共通認識を醸成して行かなければならないですね。

いや、それじゃ男性諸氏はますます頑なになってしまうかなあ。むしろ家事の楽しさを前面に押し出して……いやいや、正直、家事は楽しいだけじゃなくて、ときに面倒でしんどいこともあります。それでも忙しい暮らしの中に家事を織り込んでやりくりする営みの折々に、私はこのしょうもない自分の人生にも何か深い意義みたいなものがあるかもしれぬと思えることがあるんですけど。まだうまく言語化できませんが、いつかもうちょっと説得力のある「家事(とりわけ炊事)のおすすめ」ができればいいなと思っています。

平成史ーー昨日の世界のすべて

区分された時代というものに、あまり意味を見いだせないと思っていました。例えば昭和や平成という元号で区切ったり、「19✗✗年代」のように10年ごとに時代を区切ったりして、「この時代は……」「この世代は……」などと論じるというやり方ですね。特に元号は単に天皇の代がわりで名づけられているだけで、その一人が交代したからといって、社会のあり方が一新するわけでもないことは自明でしょう。

さまざまな人がさまざまなタイミングで生まれ、暮らし、死んでいく、そうした人生が折り重なるようにして紡がれながらこの社会も織り上がっているだけであって、そうした多種多様な人生の一点を横断するように「ここまで」「ここから」などと時代を区分されても困ります。

それでも私を含めて多くの人が何らかの時代区分に従って過去を腑分けしたがるのは、そこになにか自分の人生を整理して(肯定的に)理解したい、ここまではこうだったけれど、ここからはこうなったと記憶を定着させるよすがにしたいと考えるからなのかもしれません。そうしたポイントのようなものがないと、自分のこれまでの人生がなにかとても茫漠としたもののように思えて不安になるからなんでしょう。

そんなことを與那覇潤氏の『平成史ーー昨日の世界のすべて』を読んで感じました。1989年から2019年までの「平成」の30年間を、主に政治や思想史の側面から描き出す一冊です。

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平成史―昨日の世界のすべて

私はちょうど1989年に大学を卒業したので、社会に出てからこれまで仕事をしてきたほとんどの時間が平成史とかぶっていて、年を追って記述される平成のできごとに、自分が当時どこで何をしていたのかを重ね合わせながら読みました。その意味では個人的にはなかなか贅沢で感慨深い読書体験になりました。時代区分に意味を見いだせないなどと思っていながら、しっかり・たっぷりと、その時代区分の妙味を堪能してしまったわけです。

しかしながら、読後感はあまりよくありません。よくないというより、なんだかひどく心許ない気持ちにさせられます。せっかく個人的にもまとめて「振り返りがい」があり、整理して納得のしやすい平成というスパンの時代の回顧を提示されながら、結局この時代は何だったのか、ひいては自分が社会に出てからこれまでの時間は何だったのかという一種虚しい空気が漂ってしまうのです。

那覇氏はこの本の終章で「歴史が歴史でなくなってゆく時代だった平成のあとに、残るものはなんなのか」と記しています。

過去からの歩みをなぞることがそれこそエスカレーターのように、人類や社会の「進歩」を描くことと等価だった時代は、とうに去りました。そして平成期に私たちが直面した挫折や幻滅は、「あの選択が間違っていただけで、この路線をとっていれば解決した」といった形で処理できるものではありません。(542ページ)

うーん。個人的にはそれなりに一所懸命に生きてきましたし、30数年前と現在を比べれば私はいまがいちばん幸せです。30数年前のようなあんな「野蛮」な時代を懐かしくなんか思いませんし、その意味では人類や社会は「進歩」してきたと思いたいですし、これからの時代に対しても「なんとかなるだろう」と楽観している部分はあります。

それでもどこか虚しい気持ちになってしまうのは、ひとつにはこの本で詳述されている平成史があまりにも「実りのない」ものであること、そして昨今のコロナ禍と直近の政治や社会の状況がその平成史以上に「実りがなさすぎる」どころか、幻滅と諦念をこれでもかとばかりに突きつけてくるからなんでしょうね。私はこの本をきょう一日で読了してしまったのですが、ちょうど夏休みでよかったです。明日が出勤だなんて日に読んでいたら、たぶん仕事に行きたくなくなるんじゃないかと思います。

今年の夏休みは終わりました

お盆休みを利用して日本国内を旅行したいなと、ずいぶん前から準備していました。春の段階から副業の出勤日を調整してもらって、妻とも休みの日を合わせて、あまり人が集中しないような「渋め」のスポットを探して、そこに合わせて宿を予約して……。でも、多分そうなるだろうなと思っていましたが、最近の感染状況に鑑みてすべてキャンセルしました。

出発までにはまだ日があったので、いずれの旅館やホテルもキャンセル料金はかかりませんでしたが、たぶんここ数日の状況だと、同じようなキャンセルが急増しているものと思われます。旅館やホテルのみなさん、本当にごめんなさい。

でもまあ、残念ではあったけれど、正直ちょっと「ほっ」としました。感染状況がどうなろうと、我々は我々で感染対策をしっかりして出かければいいとか、こんな時期だから観光地はかえって人出が少なくて安全じゃないかとか、いろいろ身勝手な理由を考えて正当化しようとしてみましたが、やはり無理がありますよね。

それで今日も人の少ない早朝のジムに出かけて、思いっきり身体を動かして、JRのシェアオフィススマホで予約、PASMOで解錠、オンラインで決済できるので便利なのです)で語学の音読を目一杯やって、以前から行ってみたかったラーメン屋さんでお昼を食べて、ラーメン屋さんの目の前にある新宿末広亭で寄席を丸々堪能して、帰ってきました。

充実した一日でした。これで夏休みのお楽しみはおしまいです。予定よりかなりお安く上がっちゃいましたねえ。

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言語学バーリ・トゥード

川添愛氏の『言語学バーリ・トゥード』を読みました。私は氏のご本が発売されるたびにほとんど買って読んでいるのですが、今回はこれまでとはまた違った雰囲気の軽妙な文体で楽しめました。やっぱり言語学者というだけあって文章がお上手なのかしら……と思いましたが、この本によると言語学者が言語に堪能で、言葉のセンスがあるというのは「あるある」な誤解なんだそうです。

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言語学バーリ・トゥード: Round 1 AIは「絶対に押すなよ」を理解できるか

それでも氏のご専門は自然言語処理、とりわけ日本語のそれとのことで、日本語をめぐる様々な現象の観察とその応用にかけてはすぐれて巧みでいらっしゃるはず。実際この本では、ご自身がお好きだという格闘技よろしく、次々に笑いのツボを刺激する技を仕掛けてくるプロレスみたいな文体。題名の「バーリ・トゥード」もプロレス用語だそうです。

ただしその笑いのツボは多少マニアックでありまして(プロレス絡みとなると特に)、しかも失礼ながら中年以上の我々には「ニクいところを攻めてくるなあ」と楽しめるものの、お若い世代の方々にはちょっとその妙味が伝わらないかもしれない種類の技ではあるのですが。もちろん「オヤジギャグ」ほどまでには単純化されてはいないので、詳細な注釈とともに読み進めればお若い方でも帯の惹句にもある通り十分に抱腹絶倒できると思います。

東京大学出版会のPR誌『UP』での連載をまとめたものということで、様々な視点から言語学の面白いトピックを語っているのですが、個人的にはチェコ語を学習することになった際に「語呂合わせ」に頼ったというお話にまず惹かれました。チェコ語は英語やフランス語などから縁遠い言語だそうで、単語の類推が効きにくいというの、私がいま学んでいるフィンランド語とよく似ています。それで私もよく語呂合わせで記憶を定着させようともがいています。

qianchong.hatenablog.com

それから、新しい娯楽として氏が発明されたという「変な文探し」。これは例えば「カワイイはつくれる!」とか「遠い国の女の子の、私は親になりました」とか「パンにおいしい」といった、広告コピーやキャッチフレーズなどに見られる文法的に際どい、あるいは意外に深い視点を提供してくれる文を街角に探すという趣味です。実は私も前からやっていて、例えば東京メトロの「ホームドアにもたれかかったり、ものを立てかけるのはご遠慮ください」(「〜たり、〜たり」問題)や、東急の「発車しますと揺れますのでご注意ください」(当たり前過ぎて伝える意味なくない? 問題)などいろいろ採集しては楽しんでいます。

ほかにも「ルー語」に代表されるような「ニセ英語」のお話、それからインターネット上における文章の普及につれて「(笑)」→「w」→「草」と「進化」してきた自己ウケの表記についての考察など興味深いものばかりでした。

言語学の研究対象は「自然現象」として現にそこにある言葉であり、「正しい言語使用」ではないとおっしゃる氏の視点が面白く、うっかりこちらも言語学を志してみようかしらと思ってしまうような魅力がこの本には満ちています。お若い方ならことにそうでしょう。でも氏によれば「言語学勢はけっこう『当たりが強い』」らしく、それを志すのは修羅の道であるそうな。

議論をするときの言語学者は相手(の説)を潰しに行く獣である。それも、学会や研究会だけでなく、大学院の授業のレベルですでに、先輩か後輩か教員か学生かに関係なく、「相手を殺りに行く姿勢」が見られるのだ。(167ページ)

うおお、まさにプロレスの世界。私は頭脳も体力もそこまでタフではないので、これからも氏のご本を通して試合会場の後ろの方からリングを眺めることにしようかな。今回のこの本は「Round1」だそうですから、今後も『UP』での連載は続いて、そのうち「Round2」が出るのでしょう。それを楽しみに待ちたいと思います。

「老害」を再生産させないために

いまのお仕事が定年になったら、そのあと何をしたいですか。先日トレーニングの休憩中に、トレーナーさんからそんなことを聞かれました。そうですねえ、また海外に留学して大学で学んでみたいです、と答えましたが、そうか、そういうことをお若い方から聞かれる歳になったのか、と思いました。

私が現在メインで勤めている職場は60歳が定年となっています。その後も数年は嘱託という形で働き続けることができますし、2013年に改定された高年齢者雇用安定法で、2025年4月からは65歳定年がすべての企業で義務化されるため、定年まであと数年の私は「すべりこみ」で定年の年齢が繰り延べされるかもしれません。

しかし私としては60歳になったら、仕事を完全には辞めないまでも、ぐっと減らせたらいいなと考えています。蓄えはそんなにありませんから働き続けなければなりませんが、それでももう朝から晩まで、月曜日から土曜日まで(副業があって週末も働いているのです)忙しくしている状態からは抜け出したい。というか、身体的にもう無理です。

それにもうひとつ、仮に身体的にはこれまで同様に働けるとしても、それでも60歳になったら第一線を退いて、もっとお若い方々のサポートに回るべきだと考えているからです。どんな業界でもそうですが、いつまでもステージの真ん中で主役やセンターを張っていてはいけません(もっとも私は、いまですら主役でもセンターでもありませんが)。

いくら能力があっても、60歳なら60歳でスパッと第一線から身を退くのが大切ではないかと思うのです。いやいや、凡人はそうだとしても、特別な才能のある人が60歳で有無を言わさず引退させられたら大きな損失ではないか、とおっしゃる向きもあろうかと思います。しかしそれを言っているからいつまでも「例外」が生まれ、しかもその例外が圧倒的多数に及ぶに至って、世の中に「老害」というものを生み出しているのではないかと思うのです。

先日の東京新聞朝刊に、作家の広小路尚祈氏がこんなコラムを書かれていました。「自称イケオジの98%は勘違い」。そうそう、私たちの年代って、自分はまだまだイケてると勘違いしている方が多い、というか、圧倒的多数なんですよね。だから歳をとってもなかなか身を退こうとしない。

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広小路氏は現在49歳で、ご自身を「老害適齢期」と書かれています。自分はまだまだ「イケてる」と勘違いしていると。私はかつて48歳の時にそれまで務めていた職場を引責辞職することになり、求職活動をしました。そのときの私はまさに自分がまだ「イケてる」と思い込んでいて、いまから考えると恥ずかしさで本当に冷や汗モノですが、いくつかエントリーした会社のいずれからも好反応を得られると自負していました。これだけのキャリアを持つ自分を欲しがらないところなどないだろうと。

それまでにも若い頃から何度も転職をしたことがあって、もちろん首尾よく行かなかった経験もたくさんあったのですが、たいがいはどこからかお声がかかって、なんとか働き続けることができ、それなりにキャリアも積み重ねてきた。だから今回も「楽勝でしょ」くらいに自惚れていたのです。でも結果は、どこも不採用でした。不採用どころか、まったく反応のなかった(返事すら来なかった)ところもありました。自分がすでにそういう年齢になっていたことをうっかり自覚せずに来てしまっていたのでした。

その後私は、ご縁あっていまの職場に仕事を見つけることができましたが、このときの経験はそれまでの職業人生における自分の心性を大きく変えてくれたと思っています。もう自分は人生の下り坂に入っていて、もっとお若い世代の方々にいろいろなものをバトンタッチしていかなければならないのだと強く自覚するようになりました。人生百年時代の到来などと言われているのに、なんとも気の早いことと思われるでしょうか。でもこれくらいの時間のスパンで準備していかなければ、世に再生産され続けている老害を減らすことはできないのではないかと思うのです。

広小路氏は「いつまでも柔軟な考えを持っていられるよう、努力したい」と書かれています。私も同感ですが、ただそれが非常に困難なミッションであることは、自分の周囲(家族、親戚、職場、コミュニティ……)を見回してみれば明らかです。よほど気をつけ、よくよく努力しなければ容易に堕ちてしまうのが老害というダークサイド……であればこそ、制度としてある年齢でスパッと線を引くことはやはり必要なのではないか。その後のセカンドライフをどう生きていくか、その準備をさせるためにも、と思います。

フィンランド語 121 …日文芬訳の練習・その43

Tシャツの上に「〜と書いてあります」というのを、“kirjoittaa(書く)”ではなく“lukea(読む)”を使ってみました。「Tシャツの上に○○と読める」という方が「ネイティブっぽい」と以前教わったので。それから「人に聞かれる」というのも“minulta kysytään”、つまり「私から聞き出される」みたいな「ネイティブっぽい」(これも以前教わった)書き方にしてみました。

ネットでこんなTシャツを見つけました。「怒っているわけじゃありません。これが私の『フィンランド人顔』なんです」と書いてあります。私も、普通にしていてもよく「怒ってる?」と聞かれるので、共感を覚えました。フィンランド人は無口で人見知りだと聞いたことがあるので、こんなTシャツが作られたのかと思いましたが、さらにネットで検索してみると様々な国のバージョンが見つかりました。人は誰しも見た目で判断されることに悩んでいるのかもしれません。


Minä löysin netistä tällaisen t-paidan, jossa lukee:“En ole vihainen. Tämä on vain minun suomalainen naamani”. Tunsin sille empatiaa, koska minulta kysytään usein: “Oletko vihainen minulle? ”, vaikka olen vain normaali. Olen kuullut, että suomalaiset ovat ujoja ja vähäpuheisia, joten luulin, että tuo tuote oli tehty. Mutta olen myös löytänyt netistä eri maiden versioita. Kaikki voisivat olla huolissaan siitä, että heitä arvioidaan vain ulkonäöltään.


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https://veryfinnishproblems.com/collections/t-shirts-1/products/finnish-face-male-unisex-t-shirt

メダルをめぐる「気持ち悪さ」

名古屋市長の河村たかし氏を五輪選手が表敬訪問してメダル獲得の報告をしたところ、河村氏がメダルにかじりついたとして問題になっていました。

news.yahoo.co.jp

私自身は五輪に何の興味もありません。それどころか近代五輪はすでにその役割を終えたので廃止すべきだと考えていますし、現在のような利権と醜聞にまみれた五輪になぜアスリートが、そして市民の多くが熱狂し崇拝するのかもまったく理解できません。というわけで、五輪でメダルを獲得した選手が出身地の自治体の首長を表敬訪問するという出来事自体にもなかなか理解が進まないのですが、まあとりあえず人の持ち物にかじりつくというのがきわめて礼を失したはしたない行為だなというくらいは分かります。

アスリート自身が自分が獲得したメダルを噛むという「風習」はけっこう昔からあったような気がします。ネットで検索してみると、日本だけの風習ではなく、海外のアスリートもやっているそう。ちょっとその「お行儀の悪い」行為がマスコミで報道される際に「映える」ということなんでしょうか。

私の記憶ではノーベル医学・生理学賞を受賞した山中伸弥氏が記者会見で記者からメダルをかじるよう要望され「そういうことはできません」と断ったことがあったような……ということで、検索してみたら、ありました。あと、宮崎駿監督も何かの受賞の折に同じような要望を受けて断った会見があったような記憶があるのですが、こちらは検索しても見つかりませんでした。

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https://www.irasutoya.com/2014/11/blog-post_364.html

それにしても、なんでしょうか、この今回のメダル騒動につきまとう一種の気持ち悪さは。いえ、河村氏の行為が気持ち悪いというより(まあ気持ち悪いけど)、氏の行為に対する広範な層からの激烈な反応がより気持ち悪いです。五輪のメダルって、そんなにも至高の、かけがえのない価値を持つ物体なのかと。どこまでメダル至上主義に染まりきっているのかと。

今回、河村氏による椿事のあとに多くのアスリートが意見表明をしていたのには少々驚きました。こういう言い方は意地悪かもしれませんが、コロナ下で強行される矛盾だらけの東京五輪には一切意見を表明しないのに、ことメダルになるととても積極的に発言されるんですね。

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▲記事切り抜きは今朝の東京新聞より。

アスリートに限らず、私たちが現在の五輪のあり方をきちんと見つめ、本当にこれがその高らかに唱えられる理念に合致した存在であるのかどうかを吟味してみれば、答えは自ずから明らかだと思います。それでもなぜ多くの人々が、そしてとりわけアスリートがここまで五輪とそのメダルを崇拝しているのか……そう考えて、ふと「そうか、これは信仰みたいなものだからか」と思い至りました。

人々は、そしてアスリートは五輪という宗教を信仰していると考えると、傍目には不可解な行動や言動のあれこれが理解……はできないまでも、その人々にとってはそういうものなのかもしれないという一応の着地点を見いだすことができます。そう思ってオリンピック憲章を読むと、その高邁な文言の一つ一つが「教義」のように読めてきます。特に「オリンピズムの根本原則」など、これはもう「お筆先」みたいなものですよ。

私は親の影響で十代の多感な時期をとある新興宗教の価値観のなかで過ごしました。その頃に毎日音読していた「教義」の本があって、その内容は何十年もたった今でも折に触れて諳んじることができる(なにせ毎日音読ですから)くらいなのですが、その文体がオリンピック界隈の物言い(オリンピック憲章しかり、今次の東京五輪における数々の「ポエム」しかり)によく似ていると改めて気づきました。

qianchong.hatenablog.com

この宗教は常にお守りのような物(「おひかり」と呼んでいました)を肌身離さず首からかけていることを求めるのですが、その扱いにはきわめて慎重かつ丁寧な作法がありました。これがまた五輪のメダルに対する人々のあまりの崇拝っぷりにオーバーラップしました。

そういえばいま思い出したんですけど、この宗教のお守りは確かそれこそ五輪のメダルよろしく三段階に分かれていて、入信時には「光」と書かれた(教祖が書いたということになっている)紙が中に入っており(中身をあばくことは固く禁じられていました)、信仰の進み具合によってそれが「光明」、さらに「大光明」へとアップグレードするのだと聞かされていました。この宗教の価値観にどっぷりと浸っていた当時の私は、子供心に「いつかはその『大光明』を」と思っていたのです。

私は大学生の時に自力でこの宗教の洗脳から逃れることができました。アスリートのみなさんもぜひ、利権にまみれ、アスリートファーストですらなく、すでに存在意義を失った五輪のメダルなどに至高の価値を置かず、スポーツ本来の創造性とダイナミズムを発揮できる次のステージに移って行っていただきたいと思います。

画面を共有すると一発で伝わる

はてなブログで、興味深い記事を読みました。英語が苦手とおっしゃる筆者氏が、英語ばかりの環境の職場に入って駆使してきた「バッドノウハウ」を紹介するという記事です。バッドノウハウとは筆者氏によると「本質的には生産性はないものの、問題解決のために必要になってしまうようなノウハウのこと」だそうです。

ご本人は「小手先」の知恵みたいなものと書かれていて、確かに「志(こころざし)低そう」な感じで書かれているのですが、読んでいくと「けっこう志高そう」と思えてくるのが素晴らしいです。外語を使って仕事をすることに果敢に挑戦されていますよね。そして、外語を使って仕事をしたことがある方なら、多かれ少なかれここに書かれているようなノウハウを自分なりに開発して奮闘しているんじゃないかなと。

knqyf263.hatenablog.com

全編おもしろくて興味深いのですが、なかでも「画面共有しまくる」という項目にひかれました。「英語のみで全てを説明するのは大変です。ですが、画面共有をして"This!"とか言っておけば一発で伝わります」。これ、パワポ資料を使った通訳でレーザーポインターを持っていると、多くの固有名詞を代名詞に置き換えられてラクというのに似ているなと思ったのです。

たとえばこんな図面を前に通訳をしている時(図はあくまでもイメージです)。

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ここで技術者が例えば「復水貯蔵タンクから高圧注水系の高圧注水ポンプを経て蒸気ドラムに入ったのち原子炉に至ります」などと発言したとして、これを英語や中国語ですべて話すのは大変です。もちろん通訳者としては話せて当然ですし通常は話すでしょうけど、何時間もある技術会議で体力を温存するためには、こういう言い方はなんですが「省力化できるところは省力化したい」。

そんな時にレーザーポインターがあれば、複雑な専門用語や技術用語の多くが代名詞で置き換えられます。画面をポイントしながら「ここからこう来て、ここを通ってここに入り、最後にここです」のように話すことができるのです。もちろん毎回これをやっているとこちらの能力を疑われますし、そもそも画面の表記に英語や中国語が添えられていないと(あるいは訳されていないと)使えない「ワザ」ですが。

ちょっと状況は違いますが、留学生に何かを説明する際に、資料や図解をプロジェクターで投影して説明するのと、純粋に口頭だけで説明するのとでは、情報の伝わり方が全く違うという話にも通じます。留学生のみなさんは(もちろん人にも、日本語の習熟度にもよりますが)口頭だけで説明していると「ふんふん」と聞いているようで、実は全然伝わっていなかったということがよくあります。聞き取れないことが恥ずかしいという心理も手伝って、あえて確認しない人もいますからなおさら。それが画面を見せながらポイントして話すと、当たり前ですけど理解度がぐっと上がり、一発で伝わるんですね。

あと、蛇足ながら「強めの"は?“に備える」にも笑いました。「自分が何か発言した時に結構強めに“は?“と言われて精神がやられる時があります」。わははは、これ、中国語の“あ゛ぁん!?”と同じですね。私もこれでずいぶん精神をやられ、そのおかげでのちにはとても精神が強くなりました。

qianchong.hatenablog.com

エンパシーという知的作業

ブレイディみかこ氏の『他者の靴を履く』を読んでいたら、SNSについてこんなふうに書かれている一節がありました。

SNSがふだんの生活では信じられないような非人間的な言葉が渦巻く場所になってしまうのは、匿名で書けるからというより、あまりにピュアに「見られることがすべて」の「表舞台」なので、他者を一人の人間として見られなくなり、エンパシーが機能不全になるからではないか。(60ページ)

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他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ

なるほど。私はこれまで「現実の社会で相手に面と向かって言わないことはネットでも言わない」というスタンスで現実社会とSNSとで「裏表」を作らないことが、SNSにおける失礼な言動や、ひいては罵詈雑言・誹謗中傷のたぐいを少しでも低減させるために有効ではないか、そのためにもSNSはできる限り実名で使うべきと考えていました。

qianchong.hatenablog.com

ところが氏は、匿名・実名によらず、SNSにおけるコミュニケーションの基盤は「印象操作」であり、そこでは誰もが他者の目に映る自分の姿をプロデュースすることに腐心していて、決して「舞台裏」の自分をそのままさらけ出しているわけでもないし、ましてや他者の「舞台裏」については想像が及びにくい、つまりエンパシーが機能しにくいと言うのです。

エンパシーとシンパシーは時にどちらも「共感」などと訳されてしまうことがあり、その違いが私にとってはやや曖昧だったのですが、この本では冒頭に、エンパシーは能力として身につけるもの、シンパシーは感情として内側から湧いてくるもの、という分かりやすい説明がなされています。

シンパシーはかわいそうだと思う相手や共鳴する相手に対する心の動きや理解やそれに基づく行動であり、エンパシーは別にかわいそうだとも思わない相手や必ずしも同じ意見や考えを持っていない相手に対して、その人の立場だったら自分はどうだろうと想像してみる知的作業と言える。(15ページ)

確かにSNS、例えばTwitterでは「リツイート」や「いいね」によってシンパシーを寄せる行為は無数に見られますが、「その人の立場だったら自分はどうだろう」という知的作業としてのエンパシーを発揮する行為は非常に少ないように思います。むしろ何かの問題に対して自らの旗幟を鮮明にすることやマウンティングを取ることこそ知的だと思われているふしがあり、その帰結として自らの立場や意見と異なる相手に対しては容赦のない批判や冷笑の応酬が行われ、ますます分断が進んで殺伐とした場所になっていく……。

いっぽうで、リツイートや「いいね」や、あるいは支持や同意を示すコメントなど、シンパシーをより多く集めることができれば「承認欲求」が満たされます。そしてそのために「誰もが他者の目に映る自分の姿をプロデュース」しようとする。かくいう私だって、実名でTwitterを使っており、「現実の社会で相手に面と向かって言わないことはネットでも言わない」というスタンスでつぶやいてはいますが、そこの自己プロデュースがないかといえば多分にあると認めざるを得ません。

アカウントに使うアイコン、プロフィールの説明文、そうした自分の職業や年齢や居住地などプロフィールの背景設定とそれに合わせた文体や語彙の選択、絵文字や顔文字の使用頻度、他者のツイートに対するリツイートや「いいね」やコメントなどでの「絡み具合」……。ブレイディみかこ氏は「それぞれが自らの印象のトータル・プロデュースに忙しい空間」と書かれています。そして「エンパシーの荒野になりがちな場所」とも。SNSは「トータル・プロデュース」された統一的な自分を演じる場所になっており、それがゆえに自分の別の多様な側面は意図的に隠され、同時に他者の多様な側面も見えなくなって、エンパシーが機能しにくくなる……ということでしょうか。

学生時代に、いまは懐かしい「一般教養」の授業で法学の講義を受講していたとき、いわゆる全共闘世代とおぼしき講師の先生がこんなことを言っていたのを思い出しました。「デモを排除する警察や機動隊の人たちはまさに鬼のような『敵』にしか見えないけれども、そんな警察官たちも家に帰れば下着姿でビールと枝豆を楽しみ、子煩悩な一面も持つオトウサンかもしれない」。

当時の私は「まあそりゃそうでしょうね」くらいにしか思わなかったのですが、いまから思えば先生は、そんな人間が立場と状況によっては自分と近しい存在にも、果てしなく遠い存在にもなり得る、その人間をそういう立場と状況に置かせる背景にあるものは何かを考えよ、と言っていたのかもしれません。それを考えることがエンパシーを発揮するという知的作業であると。

結局、ウナギは食べていいのか問題

土用の丑の日」というのがありますね。つい最近も7月の末にありました。近所のスーパーではその前の週あたりから「ウナギの蒲焼」に関するPOPが登場し、当日前後は蒲焼きの屋台が出るだの、どこどこ県産のブランドウナギが入荷するだのといった宣伝が行われていました。そして当日、鮮魚売り場には大量のうなぎの蒲焼が並び、店内放送でも客の購買意欲をもり立てるような紹介が繰り返し行われていました。

私自身はもうこの数年、ウナギに手を出していません。それはニホンウナギを始めとするウナギの生態が危機的な状況に陥っていることを知ったからであり(すでに国際自然保護連合によって絶滅危惧種に区分されています)、またウナギの捕獲や流通において、かなりダークな業界のありようを知るようになってきたからです。

しかしながらそれらの知識は、新聞やSNSなどで断片的に見聞きしたものばかりで、実際のところはどうなのかという詳細まではよく理解していませんでした。もとよりウナギは高価なので、うちの家計に見合った支出ではないとほとんど食指が動かなかったということもあります。

それでも今年の土用の丑の日に、近所のスーパーの鮮魚売り場で、普段の販売ケースの大半を特売用に動員して大々的にウナギの蒲焼が売られているのを見た時、なんだか得も言われぬモヤモヤとした「嫌悪感」みたいなものがこみ上げてきました。これは牽強付会かもしれませんけど、コロナ下に五輪を強行して、それまでとは打って変わった様子で拍手喝采を送っている多くの人々を見ているという今現在の「嫌悪感」とどこかでリンクしたような気がしたのです。

でも、先日も書きましたけど、周囲の人々が「衆愚」に見えだしたら個人的には要注意だと思っています。世の中そんなに単純じゃないはず。だったらこのウナギに群がる人々への嫌悪感についてももう少し冷静に分析が必要かもしれないと思ってネットを検索すると……もう本当に「どんぴしゃり」の情報(Twitterのツイート)と書籍を見つけました。なぜ今まで知ろうとしなかったのかと己の不明を恥じました。まずそのツイートはこちらです。

そしてこのツイートの動画で紹介されていた書籍がこちら。もう、そのまんまズバリのタイトルです。しかも帯の惹句は「そのモヤモヤにお答えします」。これは買って読むしかありません。

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結局,ウナギは食べていいのか問題 (岩波科学ライブラリー)

買って一気に読み終えました。内容としては上掲の「WoWキツネザル🦸🏻‍♂️🌍🦸🏻‍♀️」氏が簡潔にまとめてくださっているトークでほぼ網羅されているのですが、より詳しい政治的社会的背景と詳細なデータが載せられており、さらには流通の最下流にいる私たち消費者が取るべき・取ることのできる行動についても明確な提言がなされています。少なくともウナギをめぐる現状が決して「持続可能」な状態にはない、というか持続可能であるかどうかを検証することさえ事実上棚上げに近い形なのだということがよくわかります。

行政と政治の役割についても「忖度」のない意見が表明されています。特にこの一節。

水産行政の科学的知識の欠落は、科学的な知見に基づいて問題を解決しようとする姿勢が欠けている、という根本的な問題も関係している可能性がありますが、おそらくは主に、人員というリソースの不足によるものでしょう。人員が十分にそろっていなければ、科学的な知識や他国における保全の動きを把握することは不可能です。(中略)行政がウナギの問題に正面から取り組むためには、予算や人員、法令の整備といったリソースの提供が欠かせません。これを提供できるのは、政治です。つまり、ウナギ問題の解決には政治の力が欠かせないのです。そもそもウナギの問題は、漁業管理、生息環境の回復、密猟や密売など違法行為の監視といった、多様な要素を含んでおり、水産行政が対応可能な範囲を超えていることは明らかです。(98〜99ページ)

今時のコロナ禍への対応や五輪の強行にも通底する行政や政治の機能不全が、ウナギ問題にも現れていることが分かります。そしてそんな行政、ひいては政治を変えるのはやはり私たちひとりひとりであることは間違いありません。筆者の海部健三氏は、こう書かれています。

日本は民主主義国家であり、議会選挙や首長選挙における投票によって、有権者は自らの意思を表示することができます。しかし「ウナギの保全と持続的利用」が選挙の争点になることは考えにくく、選挙を通じてウナギ問題を解決に向かわせることは困難でしょう。(中略)より手軽な方法としては、新聞やインターネットの記事を読むこと、SNSで興味のある記事を紹介することなどが考えられます。例えば、シラスウナギの違法な流通の問題を報じる記事へのアクセス数の増大や、SNSによる拡散が発端となり、最終的に立法府、行政府における当該問題の優先順位が上昇する、というケースも想定できます。ウナギに関する情報により多く触れ、それぞれの立場で考え、多くの人々と共有することが重要です。(104ページ)

う〜ん、迂遠すぎるほど迂遠なようですけれど、結局はそこから始めるしかなさそうです。とりあえず私個人としては、こうやってブログに書くことでその一歩を踏み出そうと思いました。それともうひとつ、ここまで知ってしまった以上、やはり「土用の丑の日」の大騒ぎにはこれまで同様、乗っかることはとてもできないです。

ワクチンの1回目を打つ

先日、ようやく新型コロナウイルス感染症のワクチン、1回目を打つことができました。私は東京都の世田谷区に住んでいるのですが、接種券が届いたのが約ひと月ほど前。すぐにネットの予約サイトに登録して直近で接種可能な場所を探しましたがどこも満員で、結局自宅から電車で5〜6駅ほど離れた場所にある集団接種会場をおさえることができました。

会場では、受付・問診・接種・待機ととてもスムーズに進み、あっという間に終わってしまいました。私は仕事帰りに寄ったためワイシャツ姿で、ワクチンを上腕に打つために脱がなければいけませんでした。医師は「急がなくていいですよ」とおっしゃってくださいましたが、次回はTシャツやポロシャツみたいなので行こうと思います。動線もよく考えられていて、会場で混乱している方はまったく見かけませんでした。医師や看護師のみなさん、それに自治体スタッフのみなさん、本当におつかれさまです。

接種後も身体に特に変わったことはなく、接種した箇所がかすかに痛む程度でした。特に何も注意はなかったので普通に夕飯を食べましたし、軽くビールも飲みました(接種当日の飲酒はあまり推奨されていないみたいですが)。翌日は軽い筋肉痛みたいになっていましたが、腰痛予防のために通っているジムのパーソナルトレーニングにも行きました。第2回目も問題なく終えられるよう願っています。

ところで一緒に接種券がとどいた妻は、いまのところワクチン接種を控えるという選択をしています。自分なりに色々と考え、本を読み、人の意見なども聞いた上で決めたそうです。私個人の本音としては感染リスク(自分のみならず社会全体も)の低減を考えれば接種した方が良いと考えますが、そこは個人の自由なので妻の選択も尊重したいと思っています。

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https://www.irasutoya.com/2016/02/blog-post_117.html

「この国」という主語の大きさについて

五輪関係の情報に一切接していません。もともと五輪には興味がなくて歴代の大会もほとんど見ていないのですが、今回はもう見ることそのものが自己欺瞞のような気がして、意識的に遠ざけています。新聞の五輪関連(メダルの数がどうしたこうした、日本選手が活躍した惜敗したのたぐい)は一切読みませんし、テレビニュースも五輪関連になるとすぐに消すようになりました。

それにしても報道各社の「手のひら返し」は尋常ではありません。開催前には批判的な報道もしていたいくつかの新聞も、コロナ禍の報道の隣で破格の紙面を割いていますし、テレビニュースも感染者数の増加や医療現場の逼迫などを重い口調で伝えた次の瞬間、「さあ、ここからは五輪です!」音楽も照明もキャスターの顔色や服の色まで打って変わって、ひたすら無邪気かつ明るい口調でメダルラッシュなど伝えている……その感性にものすごい違和感を覚えます。

だいたい五輪のメダル獲得は開催国が有利というのはよく聞く話ですけど、実際にそうだとしてもそこは「言わぬが花」みたいな慎みはないのでしょうか。ましてやコロナ下+炎天下での開催で、オリンピック憲章が掲げるフェアプレーの精神からはほど遠い現状なのに、選手も関係者も観客もなぜこれほど熱狂し感動できるのか、私にはさっぱり分かりません。

www.joc.or.jp

どうしてこの国は、ここまでひどい状態になってしまったのか。思い返せば同じようなことを学生時代にも感じていました。いろいろな欺瞞が社会中に満ちていて、ここまでひどい国は世界中見渡してもあまりないのではないかとすら思え、この国が嫌で嫌で仕方がありませんでした。外語を学び、海外へ留学しようと考えたのもそんな気持ちからでした。もうこの国は捨てて「グローバル」な世界の中に飛び込みたいと思っていたのです。

ところが、外からこの国を見つめ直して、考え方がずいぶん変わりました。そこには確かに問題がたくさんあるけれども、他の場所に行っても他の場所なりに問題はまたたくさんある。そしてこの国にも真っ当に生きようとしている人たちがたくさんおり、愛おしむべき歴史も文化も自然もまだまだある。当たり前のことにようやく気づいたのでした。

それは要するに、問題を考える際の「この国」という主語があまりにも大きすぎることが問題のひとつだと気づいたのです。さらにはかつて「この国」というものをあんなに嫌っていた自分の見方・考え方が、その実、東京など大都市における感覚だけで形作られたものであり、大きなバイアスがかかっていたことも。言い換えれば視野があまりにも狭いと感じたのでした。今現在で言えばTwitterなどSNSの中の感覚もそのバイアスのひとつではないかと思います。

ひとくくりに「この国」と言ってしまえるような国は実はなく、どこの国にもその社会の隅々には一所懸命に生きている人たちがおり、そのそれぞれの人たちが決して一面ではない多様な振る舞いをその時々でとりながらこの社会が、ひいてはこの国が織り上がっている。そんなひとりひとりのの努力や営為を一切合切ひっくるめて「この国は……」、「この国の人は……」などと語るのはあまりに雑駁すぎ、世界の多様性と複雑さを無視した極論ではないかとも思えるようになりました。

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https://www.irasutoya.com/2019/04/blog-post_9.html

先日、政治学者の白井聡氏が『現代ビジネス』に舌鋒鋭い記事を寄せられていました。
gendai.ismedia.jp

当り前のことだが、日本人選手が五輪で健闘することと、菅政権/自公政権の有能さや政治的正統性との間には何の関係もない。この二つの事象を関連づけるのは、論理破綻である。しかし、ともかくも菅はこの論理破綻に勝負の賭金を置いている。要するにそれは、今日の日本人はそのような国民――何の定見もなく、その時々のムードに流され、わずか数カ月前の記憶すら脳内にとどめることができず、論理的思考能力はゼロの群衆――でしかないとの前提に立った戦略である。

本当にその通りです。私はこの記事における白井氏の主張に共感しますし、もっともっと怒りの表明をしなければならないとも思います。ただ私は、上述したような自分の経験から、周囲の人々が衆愚に見え出したら要注意だとも思っています。例えば「何の定見もなく」という点では、選挙における異様なほどの投票率の低さに毎回天を仰いでいる私ですが、だからといって「バカばっかり!」とつぶやいてみても詮無いことではないかと。

どうすれば私たちの「この国」はもう少し真っ当な方向に梶を切っていけるのか。そのためには世の中は、そして個々人さえもが想像以上に複雑な存在だということを受け入れるところから始めなければならないという気がしています。国も国民もひとくくりにして語ってしまえばそこには分断しか残らないように思うのです。

普段「中国は……」、「中国人は……」という「ひとくくり」に対してはすぐその欺瞞に気づくことができ、反論することもできる自分が、こと自分たちの「この国」や「この国の人々」については(身内だからからか)一刀両断的な思考を安易に選んでいるかもしれない。そんなことを考えました。これからも考え続けます。

フィンランド語 120 …日文芬訳の練習・その42

「ヨーロッパの街を(歩いていた)」を最初は“Euroopan kaupungeissa”としていたのですが、内格の“kaupungeissa”だと「街(複数)の中で」で、所格の“kaupungeilla”にすると「街(複数)の通りで」というニュアンスになるそうです。ということで“Euroopan kaupungeilla”に直されました。

先だってIOCトーマス・バッハ会長が「日本人」を「中国人」と言い間違えたというニュースがありました。ネットでは多くの人が憤慨していましたが、私は憤慨の後ろに蔑視が隠れているのではないかと思いました。私はかつてヨーロッパの街を歩いていた時に、すれ違いざまに「中国人!」との声を浴びせられたことが何度かありました。そうした時、「中国人『なんか』じゃない」と反論したくなった自分の中に、小さな差別意識を発見したことを思い出しました。


Äskettäin tuli uutisen, että Kansainvälisen olympiakomitean puheenjohtaja Thomas Bach kutsui japanilaisia virheellisesti kiinalaisiksi. Verkossa oli monia ihmisiä raivoissaan, mutta mielestäni raivon takana olisi piilevää halveksuntaa. Monta vuotta sitten kävellessäni Euroopan kaupungeilla, päinvastaisesta suunnasta tulevat ihmiset sylkäisivät minulle "kiinalainen!" Juuri niillä hetkillä halusin vaistomaisesti sanoa heille, etten ole kuten kiinalainen. Muistin, että samalla löysin sisäisen pienen rasismiani.


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失礼なメッセージはそっとミュートする

長い間TwitterのようなSNSやブログを使っていると、ときどき知らない方からメッセージを受け取ることがあります。それらはつぶやきやエントリについての感想であったり、ご意見であったりしてとてもありがたいのですが、実際にはそういうありがたいメッセージは少なくて、圧倒的に多いのは罵詈雑言のたぐいか、おっしゃっていることがいまひとつ分かりかねる奇矯な主張です。

私は基本的に、例えばTwitterでそういうメッセージを受け取ったときなど、その方を即座に「ミュート」することにしています。なかにはとても失礼なメッセージもあって、そんなときは「ブロック」すべきなのかもしれないとも思います。でもブロックは、これはこれで意思表示になります。失礼なメッセージに対するこちらからの反応が伝わって、コミュニケーションが成立することすら厭わしいので、基本「無視」をして、そっとその存在が眼に入らないようにするのです。

失礼なメッセージを送ってよこす人のほとんどが「匿名」であることも、基本的に無視することにしている理由のひとつです。現実の社会で、例えば道を歩いていて通りすがりの人にいきなり罵声を浴びせられたら誰だって不快だと思います。それがネットでは「匿名」の後ろにかくれて姿すら見せないんですから、卑怯なことこの上ありません。SNSだって社会の一部です。「現実の社会で相手に面と向かって言わないことはネットでも言わない」というのを基本的なスタンスにしている私としては、匿名の方からいきなり届く失礼なメッセージに反応する義務も必然性も感じません。

先日Twitterで、岡本悠馬氏がこんなツイートをされていましたが、同感です。リンク先の有料記事も読みましたが、こちらも首肯することしきりでした。

Twitter上ではいろいろな理由で匿名にされている方も、最初にダイレクトメッセージを送ってこられるときは「○○こと××と申します」のようにご本名を名乗られる方がほとんどです。当たり前の礼儀ですよね。たまに匿名のままダイレクトメッセージを送って来られる方もいますが、もちろん無視して、そっとフォローを外します。

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https://www.irasutoya.com/2018/07/blog-post_889.html