インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

エンパシーという知的作業

ブレイディみかこ氏の『他者の靴を履く』を読んでいたら、SNSについてこんなふうに書かれている一節がありました。

SNSがふだんの生活では信じられないような非人間的な言葉が渦巻く場所になってしまうのは、匿名で書けるからというより、あまりにピュアに「見られることがすべて」の「表舞台」なので、他者を一人の人間として見られなくなり、エンパシーが機能不全になるからではないか。(60ページ)

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他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ

なるほど。私はこれまで「現実の社会で相手に面と向かって言わないことはネットでも言わない」というスタンスで現実社会とSNSとで「裏表」を作らないことが、SNSにおける失礼な言動や、ひいては罵詈雑言・誹謗中傷のたぐいを少しでも低減させるために有効ではないか、そのためにもSNSはできる限り実名で使うべきと考えていました。

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ところが氏は、匿名・実名によらず、SNSにおけるコミュニケーションの基盤は「印象操作」であり、そこでは誰もが他者の目に映る自分の姿をプロデュースすることに腐心していて、決して「舞台裏」の自分をそのままさらけ出しているわけでもないし、ましてや他者の「舞台裏」については想像が及びにくい、つまりエンパシーが機能しにくいと言うのです。

エンパシーとシンパシーは時にどちらも「共感」などと訳されてしまうことがあり、その違いが私にとってはやや曖昧だったのですが、この本では冒頭に、エンパシーは能力として身につけるもの、シンパシーは感情として内側から湧いてくるもの、という分かりやすい説明がなされています。

シンパシーはかわいそうだと思う相手や共鳴する相手に対する心の動きや理解やそれに基づく行動であり、エンパシーは別にかわいそうだとも思わない相手や必ずしも同じ意見や考えを持っていない相手に対して、その人の立場だったら自分はどうだろうと想像してみる知的作業と言える。(15ページ)

確かにSNS、例えばTwitterでは「リツイート」や「いいね」によってシンパシーを寄せる行為は無数に見られますが、「その人の立場だったら自分はどうだろう」という知的作業としてのエンパシーを発揮する行為は非常に少ないように思います。むしろ何かの問題に対して自らの旗幟を鮮明にすることやマウンティングを取ることこそ知的だと思われているふしがあり、その帰結として自らの立場や意見と異なる相手に対しては容赦のない批判や冷笑の応酬が行われ、ますます分断が進んで殺伐とした場所になっていく……。

いっぽうで、リツイートや「いいね」や、あるいは支持や同意を示すコメントなど、シンパシーをより多く集めることができれば「承認欲求」が満たされます。そしてそのために「誰もが他者の目に映る自分の姿をプロデュース」しようとする。かくいう私だって、実名でTwitterを使っており、「現実の社会で相手に面と向かって言わないことはネットでも言わない」というスタンスでつぶやいてはいますが、そこの自己プロデュースがないかといえば多分にあると認めざるを得ません。

アカウントに使うアイコン、プロフィールの説明文、そうした自分の職業や年齢や居住地などプロフィールの背景設定とそれに合わせた文体や語彙の選択、絵文字や顔文字の使用頻度、他者のツイートに対するリツイートや「いいね」やコメントなどでの「絡み具合」……。ブレイディみかこ氏は「それぞれが自らの印象のトータル・プロデュースに忙しい空間」と書かれています。そして「エンパシーの荒野になりがちな場所」とも。SNSは「トータル・プロデュース」された統一的な自分を演じる場所になっており、それがゆえに自分の別の多様な側面は意図的に隠され、同時に他者の多様な側面も見えなくなって、エンパシーが機能しにくくなる……ということでしょうか。

学生時代に、いまは懐かしい「一般教養」の授業で法学の講義を受講していたとき、いわゆる全共闘世代とおぼしき講師の先生がこんなことを言っていたのを思い出しました。「デモを排除する警察や機動隊の人たちはまさに鬼のような『敵』にしか見えないけれども、そんな警察官たちも家に帰れば下着姿でビールと枝豆を楽しみ、子煩悩な一面も持つオトウサンかもしれない」。

当時の私は「まあそりゃそうでしょうね」くらいにしか思わなかったのですが、いまから思えば先生は、そんな人間が立場と状況によっては自分と近しい存在にも、果てしなく遠い存在にもなり得る、その人間をそういう立場と状況に置かせる背景にあるものは何かを考えよ、と言っていたのかもしれません。それを考えることがエンパシーを発揮するという知的作業であると。