インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

平成史ーー昨日の世界のすべて

区分された時代というものに、あまり意味を見いだせないと思っていました。例えば昭和や平成という元号で区切ったり、「19✗✗年代」のように10年ごとに時代を区切ったりして、「この時代は……」「この世代は……」などと論じるというやり方ですね。特に元号は単に天皇の代がわりで名づけられているだけで、その一人が交代したからといって、社会のあり方が一新するわけでもないことは自明でしょう。

さまざまな人がさまざまなタイミングで生まれ、暮らし、死んでいく、そうした人生が折り重なるようにして紡がれながらこの社会も織り上がっているだけであって、そうした多種多様な人生の一点を横断するように「ここまで」「ここから」などと時代を区分されても困ります。

それでも私を含めて多くの人が何らかの時代区分に従って過去を腑分けしたがるのは、そこになにか自分の人生を整理して(肯定的に)理解したい、ここまではこうだったけれど、ここからはこうなったと記憶を定着させるよすがにしたいと考えるからなのかもしれません。そうしたポイントのようなものがないと、自分のこれまでの人生がなにかとても茫漠としたもののように思えて不安になるからなんでしょう。

そんなことを與那覇潤氏の『平成史ーー昨日の世界のすべて』を読んで感じました。1989年から2019年までの「平成」の30年間を、主に政治や思想史の側面から描き出す一冊です。

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平成史―昨日の世界のすべて

私はちょうど1989年に大学を卒業したので、社会に出てからこれまで仕事をしてきたほとんどの時間が平成史とかぶっていて、年を追って記述される平成のできごとに、自分が当時どこで何をしていたのかを重ね合わせながら読みました。その意味では個人的にはなかなか贅沢で感慨深い読書体験になりました。時代区分に意味を見いだせないなどと思っていながら、しっかり・たっぷりと、その時代区分の妙味を堪能してしまったわけです。

しかしながら、読後感はあまりよくありません。よくないというより、なんだかひどく心許ない気持ちにさせられます。せっかく個人的にもまとめて「振り返りがい」があり、整理して納得のしやすい平成というスパンの時代の回顧を提示されながら、結局この時代は何だったのか、ひいては自分が社会に出てからこれまでの時間は何だったのかという一種虚しい空気が漂ってしまうのです。

那覇氏はこの本の終章で「歴史が歴史でなくなってゆく時代だった平成のあとに、残るものはなんなのか」と記しています。

過去からの歩みをなぞることがそれこそエスカレーターのように、人類や社会の「進歩」を描くことと等価だった時代は、とうに去りました。そして平成期に私たちが直面した挫折や幻滅は、「あの選択が間違っていただけで、この路線をとっていれば解決した」といった形で処理できるものではありません。(542ページ)

うーん。個人的にはそれなりに一所懸命に生きてきましたし、30数年前と現在を比べれば私はいまがいちばん幸せです。30数年前のようなあんな「野蛮」な時代を懐かしくなんか思いませんし、その意味では人類や社会は「進歩」してきたと思いたいですし、これからの時代に対しても「なんとかなるだろう」と楽観している部分はあります。

それでもどこか虚しい気持ちになってしまうのは、ひとつにはこの本で詳述されている平成史があまりにも「実りのない」ものであること、そして昨今のコロナ禍と直近の政治や社会の状況がその平成史以上に「実りがなさすぎる」どころか、幻滅と諦念をこれでもかとばかりに突きつけてくるからなんでしょうね。私はこの本をきょう一日で読了してしまったのですが、ちょうど夏休みでよかったです。明日が出勤だなんて日に読んでいたら、たぶん仕事に行きたくなくなるんじゃないかと思います。