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村上春樹の世界

一昨年に亡くなった文芸評論家の加藤典洋氏による村上春樹作品の評論集です。村上氏のデビュー作『風の歌を聴け』から2017年の『騎士団長殺し』まで、長編・短編を含めて時代を追う形で作品論や書評が収められています。

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村上春樹の世界 (講談社文芸文庫)

私自身、学生時代から村上氏の作品を読みついできたので、それぞれの時代の空気なども思い出しながらこの本を読みました。そしてその学生時代からいまに至るまで、村上作品をことのほか愛好するする人がいる一方で、心底嫌っている人にも出会ってきたことを思い出しました。

ある作家の作品が人によって評価が分かれるのは当たり前ですが、村上氏ほど様々な場で、つまり文芸誌のみならず、若い世代向けの雑誌で、あるいは語学や翻訳という切り口で、さらには諸外国における研究者によってーー論じられてきた作家というのは珍しいかもしれません。

加藤氏による作品論は、特に村上氏の初期作品に対する分析においては、正直、作者自身も果たしてそこまで考えていたのだろうかと思えるほど徹底した掘り下げと考察と、ある種の謎解きが行われています。つい牽強付会なのではないかとも思ってしまうのですが、これは本書の解説を書かれているマイケル・エメリック氏がおっしゃるように「全力で世界を感受しようとするセンシビリティー」のなせる技だったのでしょう。

マイケル・エメリック氏が引用されていますが、この本の冒頭にこんな記述があります。

私がこれまで読んだ村上の小説の中で一番好きなのは、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のうちの「ハードボイルド・ワンダーランド」の部分の主人公「私」が、もう自分の生命がなくなるとわかってからの一日を、静かに過ごすくだりである。そこに漂っている寂しさをさして、わたしは先の言及個所に、世界感情と書いた。きっと年のせいかもしれないから、人には強く薦めない。しかし元気のないときには、これは読んで心に沁みる小説である。

わたしもこのくだりは大好きで、しかも「年のせい」どころか二十歳代の学生時代に読んだときすでにこの風景に一種のあこがれのようなものを抱いていました。こうやって静かに人生を終えることができたらいいだろうなと。どなたの何という小説作品だったか思い出せないのですが、子供の頃に縁側に干された布団の上に寝そべって、このまま一生の時間が過ぎてしまったらどんなにいいだろうかと思った、という述懐があって、それに心底共感してしまうような若者だったのです。

そしてまた年をとったいま、人生で何度目になるでしょうか、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を読み返していますが、加藤氏がおっしゃるようにこの小説は心に沁みます。しかも若いときはやや退屈に感じられもした「世界の終わり」のパートがより沁みるようになりました。

この『村上春樹の世界』の最後に付された加藤氏の遺稿「第二部の深淵」も非常に読み応えがありました。ここでは加藤氏おっしゃるところの、村上作品における「建て増し」問題が論じられています。これは『ねじまき鳥クロニクル』や『1Q84』のように、まずいったん完結した形で作品が発表・公刊されたあと、さらにその続きが発表されるという過程をたどったいくつかの作品についての問題です。

こうした形をとった作品は他にほとんど類例がなく、しかもそれが海外で翻訳版として出版される際にはそうした過程が見えなくなってしまい、まるごと全体が最初から一つの作品として提示されたかのような「誤解」をもたらしてしまうというのは鋭い指摘だと思います。それは作品や作家を研究する上でも大きな欠陥になってしまうのではないかと。

もうひとつ、加藤氏のこの本を読んで奇妙な符号を感じたのは、私自身『騎士団長殺し』以降は村上作品にあまり食指が動かなくなってしまったことです。過去の作品は未だに読み返してその度に新しい発見があるのに、あれだけ毎回楽しみにしていた新しい作品の刊行に(同時代に生きる幸せだとさえ思っていました)あまりときめかなくなったのはなぜなのか。これもまた年のせいなのか、それはわかりません。

蛇足ながら、この本は文庫(講談社文芸文庫)ながら税込みで2200円もします。文庫本で2000円超というのはちょっとした驚きで、最初は見間違えではないかと思ってしまったくらい。文庫が廉価だと思えた時代もまた過去のものになってしまったのかなと、ここでもちょっとしみじみとしてしまったのでした。