インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

世界一しあわせなフィンランド人は、幸福を追い求めない

国連による「世界幸福度ランキング(The World Happiness Report)」というのがありまして、今年もフィンランドが第1位になったそうです。4年連続の第1位とか。

toyokeizai.net

このレポートについては、まずもってそれが「幸福」という、そもそも何かの指標で客観的に評価できるのかどうかが難しいと思われることに加えて、考慮されていない指標も多々あるではないかという批判が毎年発表のたびになされているようです。例えばこちらの記事では「幸福度の高さと自殺率の低さに相関関係は見られない」という視点が紹介されています。

toyokeizai.net

確かに、フィンランドは幸福度ランキングで常に上位に入っている北欧諸国の中でも一番自殺率が高いのだそう。う〜ん、長く暗い冬が続く環境が影響しているのかしら。もちろん人が自死を選ぶ要因はそんなことだけではないとは思いますけど。

それはさておき、フィンランド社会福祉の充実、ジェンダー平等、原子力政策、国民の政府への信頼、働き方のスタイル……などなどで、日本人から見れば夢の国のようなイメージがあるからか、フィンランドの良さを解説する本がたくさん出版されています。

私はいま趣味で(というより「ボケ防止」のために)フィンランド語を学んでいます。語学とその国の文化や歴史への興味は不可分なので(その国の個々人への興味とはちょっと違います。ここ、けっこう大事)、ここ数年はフィンランドという国名を冠した書籍はあらかた読んできました。Amazonなどでも「フィンランド」で検索すると、多くのフィンランド関係本、とくにかの国のライフスタイルの魅力を紹介する本がいろいろと見つかります。

フィンランドの幸せメソッド SISU(シス)』、『フィンランド人はなぜ「学校教育」だけで英語が話せるのか』、『フィンランド人はなぜ午後4時に仕事が終わるのか』、『フィンランドの教育はなぜ世界一なのか』、『ほんとはかわいくないフィンランド』、『週末フィンランド~ちょっと疲れたら一番近いヨーロッパへ』、『フィンランド 豊かさのメソッド』……などなど。

私はこうした「フィンランド本」のほとんどを読みました。が、え〜、まことに身も蓋もない言い方になりますが、正直に申し上げてその多くは少々期待はずれでした。もちろん、紹介されるフィンランドの様々な側面がひとつひとつ魅力的に映ることは確かなのですが、じゃあその上で日本に生きるいまとこれからの私たちがどうすべきかという視点になかなかつながらないのです。もっともこれは、それだけ双方の間にある違いが大きすぎるからなのかもしれませんが。

そんな中で今回読んだフランク・マルテラ氏の『世界一しあわせなフィンランド人は、幸福を追い求めない』は、少々変わった雰囲気の本でした。タイトル(邦題)は「いかにも」なフィンランド本ですけど、原題は“A WONDERFUL LIFE : Insights of finding a meaningful existance”、つまり「人生の意味」を見つけるための考察ということですよね。実際そのとおりで、この本にはフィンランド人のライフスタイルとか、北欧デザインの精神みたいな私たちが期待するフィンランドの描写はほとんどなくて、ひたすら哲学的な思索を深めていこうとする内容なのです(それでも読みやすいです。夏目大氏の翻訳が秀逸なのだと思います)。

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世界一しあわせなフィンランド人は、幸福を追い求めない (ハーパーコリンズ・ノンフィクション)

この本で惹きつけられた記述はいろいろとあるのですが、私が特に「おやっ」と思ったのはフィンランドを含む欧州の人々の意識が、かつての宗教的な価値観の枠組みからすでに大きく離れ、きわめて現実的かつ個人的な思考の枠組みにシフトしているという点でした。

ヨーロッパのいくつかの国では、神を信じないことーーまたそれを公言することーーがすでにごく当たり前になっている。チェコはおそらく世界でも最も無神論者の多い国だろう。実に国民の40パーセントが完全に神の存在を否定している。無神論者が2番めに多いのはエストニアだ。フランス、ドイツ、スウェーデンでも、神の存在を確信する人よりも不在を確信する人のほうが多くなっている。(108ページ)

アメリカ合衆国ほどではないにしても、欧州の国々もそれなりに「神がかっている」イメージが強かったので、これは意外でした。そしてこの本では宗教的な価値観からできる限り自由になって、個々人の経験や感覚、それも過去や未来ではなく「いまここ」の経験や感覚を大切にしようと繰り返し訴えるのです。人生を意味深いものにしたいなら(人生に意味があると考えるかどうかが前提になりますが)、「いまここ」で意味があると思える体験をすべき、すべての「いまここ」を大切にすべきだと。

それはとりもなおさず、人生が有限であるということを実感するということだと思うんです。この本には面白いエピソードが書かれていて、それは私も常に思っていることだったので思わず「そうそう!」と言ってしまったのですが……

読める本の数は限られている。それに気づいて、私は自分の命の有限性を実感したわけだが、同じようなことは誰にでもあると思う。たとえば私の友人は、お気に入りのレストランで好きなステーキを食べられる回数があまりにも少ないことに気づいた。その店に彼は年に3回くらい行く。あと30年生きるとしても、ステーキを楽しめる回数はもう100回にも満たないのだ。(130ページ)

そうだよなあ。おいしいお寿司屋さんで、あと何回食べられるか(1年に1回も行けてない)。旅行にだって、あと何回行けるか(コロナ禍でますます行けなくなった)……。こんなにも短い人生(余生)なのに、自分の今の感覚を大切にせずして、何を大切にするのか。これまでの柵(しがらみ)に囚われてなんていられないし、ましてや神などといった「形而上学的」なことにかかずらわっている暇などないではないかと。

フィンランドの人たちも、そうやって人生の意味を探しているんですね。その点では私たちも同じ。もちろん現実に引き戻されると国のあり方のあまりの違いにため息をつくことも多いですけど、いずこのお宅もそれぞれの事情を抱えているものなのです。フィンランド語の先生など、この点について「フィンランド大使館のTwitterは、いいことばっかり書いてんじゃないよ!」的なことをおっしゃっていました。わははは。実際に住んで、かの国に肉薄してみると、いろいろ違う側面が見えてくるんでしょうね。ま、私だって、実際に住んでみた中国も台湾もそんな感じでした。

とまれ、ほかの「フィンランド本」とはかなり変わったテイストの一冊でした。文中に引用されていた映画『モンティ・パイソン/人生狂騒曲』のエンディングに出てくるという、人生の意味が書かれた「黄金の封筒」の中身がこれまたいいなあと思いました。

いや、特別なことはなにもない。人に親切にし、脂肪を取りすぎないように気をつけ、ときどきは良い本を読み、散歩をし、信条や国が違う人々とも平和に共存できるよう努力する。(102ページ)

100人の本屋さん@松陰神社前

先日の東京新聞朝刊に、興味深い記事が載っていました。小さな本棚を100人に貸し出して、百人百様の小さな小さな本屋さんを作り出しているスペースのお話です。しかもよく読んでみると、自分の家のすぐそばではありませんか。知らなかった〜!

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▲紙面の写真は「100人の本屋さん」Facebookページより。

というわけで、記事を読んですぐに店主の吉沢さんにメールを差し上げ、私も棚をひとつお借りして本屋さんを開店(?)することにしました(棚主:たなぬし、と呼ばれます)。これまでにも自分が読み終わった本は人に差し上げたり、Amazonマーケットプレイスで売ったり、ネットの古本屋さんに買い取ってもらったりしてきました。でも、こうやって地域密着型のと〜っても「ゆるい」(褒め言葉です)スペースで、お金儲けとかそんなこととはまったく違う営みの中で本が回遊していくほうが、なんだかすてきです。

というわけで、きのうは自分が読み終わった本のうち、古本屋さんに売るよりはどなたかにオススメしたい! という本を自分の棚に並べました。基本的にこの棚で儲けようなどとはまったく考えないので、値段も周りの棚を拝見しながら適当につけました。こういう作業をこういう共用スペースでやっているだけで楽しいです。はるか遠い昔の、大学のサークル室でいろんなことをしていた時代を思い出しました。つぎは、自分にとっての「神本」の数々をもう一度購入して、オススメ割引価格で並べたいと思っています。

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この場所にはコワーキングスペースもあるので、きのうはフィンランド語のオンライン授業もここで受けてみました。時々ワイワイと騒がしいこともあるけれど、それもまた「ゆるい」感じでとてもいいです。なにより、自分の住んでいる地域で、なにか新しいことを始めることができたというのが、私にとってはとても新鮮で、大きな収穫でした。

私はいまの住所になんの縁もゆかりもない人間ですが、それでももう6年くらいは住んでいます。東京に、ということであれば、30年はゆうに超える時間をここで過ごしています。そして東京はそんな人が数多く集まっている街なんですよね。今後もっと地域の人たちとつながることができたら、新しい発想が生まれたらいいなと思っています。

shoin-wakamatsu.sakura.ne.jp

フィンランド語 94 …日文芬訳の練習・その26

先日ブログに書いた内容を、フィンランド語の作文にしてみました。先生によると、フィンランド語で「さっぱりわからない」ことの代名詞がヘブライ語なのは、たぶんフランス語からの影響ではないかとのことでした。

qianchong.hatenablog.com

「さっぱりわからない」ことを英語でなんと言うでしょうか。答えのひとつは「ギリシャ語みたい(It's Greek to me!)」です。この図によると、多くのヨーロッパの言語では「中国語みたい」と言うそうです。中国語や中国文明は、おそらく欧州から見るととてもエキゾチックなのでしょう。いくつかの北欧言語、たとえばノルウェー語やスウェーデン語では、英語同様に「ギリシャ語みたい」だそうですが、フィンランド語では「ヘブライ語」だそうです。とても興味深いです。


Miten sanotaan “En voi ymmärtää ollenkaan, mitä sinä sanot.”englanniksi? Yksi vastauksista on “It's Greek to me! (Se on kreikkaa minulle!)”, tässä kreikan kieli merkitsisi vaikeuksia. Tämän kaavion mukaan monilla Euroopan kielillä sanotaan “Se on kiinaa minulle”. Kiinan kieli ja kiinan kulttuuri ovat mahdollisesti niin eksoottisia eurooppalaisille. Useilla pohjoismaisilla kielillä, esimerkiksi norjalla tai ruotsilla, kreikka myös merkitsisi vaikeuksia kuten englanniksi, mutta suomeksi se on “Heprea”. Olen erittäin kiinnostunut siitä.


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留学生からの哀れみの視線が耐えがたい

新しい年度に入って、新学期からの授業の準備をしています。他に事務作業も大量にあって、まずは新入生の名簿を作るなどしているのですが、4月のこの時点になっても何人かの留学生がまだ来日できていません。

すでにうちの学校に在籍していて、一時帰国した際にコロナ禍の影響を受けて再入国できず、そのまま休学していた留学生は、入国を認められました。が、今年から新規に入学してくる留学生は、現在のところ一律に入国の許可が下りていない様子です。私が担当している学科は二年制なので、もとから日本に在住している留学生も多く、まだましな方です。でも一年とか半年のカリキュラムで留学生を受け入れている日本語学校は、どこも学生さんが払底しているそう。当面はオンライン授業で対応するようですが、長期化するようだと「日本に留学する」ことそのものの意義が問われる事態になりますよね。

だいたい、台湾とか中国とか韓国からの新規留学生に日本政府からの入国許可が下りないって……政策が奏効してほぼ完全に抑えきったそれらの国に対して「日本よ、お前が言うか」という感じです。一年以上経っても、感染症抑制のための「検査と隔離」を真剣に行わず、ワクチン開発では完全に他の先進国の後塵を拝し、第四波の懸念が高まる中「まんぼう」「まんぼう」とばかり言っているうちの国に、それでも留学してくれようとしている学生さんたちなのに。

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https://www.irasutoya.com/2016/04/blog-post_66.html

国の要路にあるお年寄りたち、特にジイサンたちは未だに気づいていないかもしれませんけど、日頃から国際的なやりとりをしている業界の私たちにはひしひしと感じられる一つの感覚があります。それは「日本はもう、東アジアの中でも非常に情けない国に落ちぶれてしまった」という感覚です。留学生のみなさんと日々接していても、「日本のセンセ方もいろいろ大変っすね」という哀れみとも同情ともつかない視線を感じることがとみに多くなりました。

コロナ禍への対応もそうですけど、デジタル化(というのも陳腐ですかね。でもこの国は「デジタル庁」の新設などという、半ば意味不明なフレーズをもてあそんでいる段階です)ひとつとっても、日本は台湾や中国や韓国などの国々に大きく水をあけられています。例えばうちの学校では新しく入ってきた留学生に「学籍カード」なるものを記入させるのですが、未だに手書きで、しかも書類に顔写真と外国人登録証のコピーを取って「糊」で貼り付けるなんてことをやらせています。

留学生のみなさんはとても「大人」ですし、基本的に日本が好きで留学してくださっている人たちなので、はいはいと快く応じてくれますが、内心は「日本ってこんなに遅れてたっけ?」と不可思議に思っているはず。私としてはそういうアナクロな作業を留学生にお願いするたび、上述したような哀れみとも同情ともつかない視線を投げかけられるのが……も〜耐えられません。いいかげん、前に進みましょうよ。

仕事とは別の居場所を見つける

私はこれまでに何度か失業したことがあります。でも不思議なことに、若い頃は失業中もあまり不安に感じたことがありませんでした。もちろん、いくつも面接に出かけて行っては「お祈りメール」をもらう(その昔はメールではなくお手紙でしたが)たび、落ち込んではいましたけど、どこかで何とかなると思っていました。未来を楽観していたのです。

ところが40歳代も終わり頃になって失業したときは、それまでとはずいぶん様相が違っていました。何とかなるという自分の若い頃からの思い込みが通用しない年齢になっていたことに気づいていなかったのです。もちろん仕事は年齢とは関係なく、その人に何ができるかだという理想論はあります。また仕事を選ばなければいくつになってもいろいろと働ける場所はある。

でも、それまでに自分が積み上げてきたものを活かして、ということになると、年齢のハードルが重くのしかかってくるのです。いまの職場に仕事を得る前にいくつかうかがった面接先で、それを痛感しました。

qianchong.hatenablog.com

そしてこの先は、もっと困難になるでしょう。自分が積み上げてきたものを活かして仕事を続けていくことが。だったら、いまから別のものを積み上げていく必要があります。そう考えて、ここ数年はこれまでの自分の本分だった領域以外のいろいろなことを学ぼうとしてきました。それらが何か新しい仕事につながるかどうかは全くの未知数ですし、仕事というものはそういう頭の中で組み立てた筋書きとはまったく見当違いの方向から飛び込んでくるものでもあるので、いかにも心許ないのですが。

そしてこれからは、さらに自分が住んでいる地域の中に、いろいろな人間関係を見つけていきたいと思います。私の実家は九州にあるのですが、私自身はほとんど住んだことのない土地で友人や知人もほとんどいません。いま住んでいるのは東京の区部ですが、ここも本来はまったく縁のない土地です。だけれども、この先も数年は東京で働いていくはずなので、とりあえずはここで、いまの仕事とは別のフィールドを探していこうと。

私は極端な人見知りで、地域に溶け込むなんてことはほとんどできそうにありませんけど、でもよくよく考えてみたら、もう東京に何十年も住んでいて、いまの場所にも七〜八年は住んでいるというのに、自分が住んでいる地域のことをほとんど知りません。単に仕事に出かけ、仕事から帰ってくる場所であるだけで。

でも、私はよそ者ではあるけれど、この東京に多少の縁はあるといっても許されるでしょう。だったらとりあえずはここで、自分の別の居場所を見つけていってもいいかなと考えているのです。その先に何があるのか(あるいはないのか)はまったく分からないですけど。

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新年度を控えて途方に暮れる

2020年度が終わります。私の職場は学校なので、仕事の区切りは毎年4月から翌年3月までの1年間で、明日からは2021年度の仕事が始まります。先日は、コロナ禍への対応に明け暮れた2020年度の苦労をねぎらおうということで、職場の同僚と乾杯しました。といってもこのご時世、居酒屋などに繰り出すのはさすがに憚られるので、近くのコンビニでスパークリングワインとチーズを買い、教員室でお互いに距離を取りながら一杯だけ飲みました。

2021年度もコロナ禍への対応は続きそうです。でも今年度の経験をふまえて、もう少しスマートに対応できるかもしれません。その分だけ、少しは仕事がラクになるかも……と考えるのですが、ここのところ、いままでのような仕事の仕方をやめてしまいたいという衝動を抑えきれなくなっています。ああ、あと数年で定年を迎えますし、いまさら新しいことにわざわざチャンレンジするなどというリスクを冒す必要もないなずなのに。

でも、このまま半ば固定したルーティンのまま仕事を続けていったら、きっととんでもない老後が待っているような気がするのです。私の仕事の大部分はひとさまに何かを「教えること」ですが、周囲の同僚に比べるとそのキャリアは短いほうだとはいえ、そこはそれもう十数年もやっているのでそれなりに「そつなく」こなせるようにはなっています。でもそれが危ないんじゃないかと。

最初にこの仕事を始めたときのような、かなり不安かつ向こう見ずな気持ちで教室に向かったような、ああいう感覚を自分に取り戻さなくては。実はすでに新年度の授業に向けて、いくつかの学校の教案をかなり作りためてきているんですけど、いまにわかに、それらを全部ボツにしてまったく違うやり方をしたくなっている自分をみつけて、ちょっと途方に暮れています。

でもこういうふうに考えてしまうのは、教えることがイコール「自分が学ぶこと」でもあるからでしょう。固定したルーティンに埋没してしまったら、自分が学ぶ楽しみもほとんど失われてしまうんです。その意味ではかなり身勝手な考え方です。だって学生さんにどう教えるかよりも、自分がどう楽しく学ぶかに意識が向いているんですから。ただ……これはまだうまく言語化できないけれど、教師がとにかく楽しくそれを学んでいる姿を端から見て、はじめて学生さんは自分も学ぼうという気になるんじゃないか。そんな気がしています。

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ロジカル筋トレ

筋トレをしているとき、そのトレーニングが「効いている」か「効いていないか」が分かることがあります。効いているときは、鍛えた身体の部位が「じわーっ」と疲労しているのが感じられたり、見た目にもその部位が張って膨らんでいたり(いわゆる「パンプアップ」という状態)します。そういう状態は、プロのトレーナーさんについてもらうパーソナルトレーニングの際には必ず感じられますが、自分一人でトレーニングしているときには感じられたり感じられなかったりとさまざま。

つまりは、効いていることが感じられないときには、そのトレーニング方法にどこか間違っていたり、理想的ではなかったりする部分があるということなんでしょう。そう思えるようになったのは、やはりパーソナルトレーニングを始めてからです。トレーニング時のちょっとしたフォームの違いや、意識の向け方の違いで、効果がまったく違うということが分かったのは、プロのトレーナーさんに一対一で教えてもらったからです。

ずっと以前に、一度も教えてもらうことなく自己流でトレーニングをしていたときには、だからまったくといっていいほど効果はなく、身体にも変化は現れませんでした。やはり独学というのは、特にこうした身体の動かし方という分野の独学というのは、かなり成立しにくいものなのかもしれません(語学もある意味身体トレーニングなので同じようなところがあると思います)。

そうした自己流でちっとも効果が上がらない「ざんねんな筋トレ」と、なぜそれをするのか・どうやってそれをするのかを論理的に考えた上で行う筋トレとの違いを明快に示した、清水忍氏の『ロジカル筋トレ』を読みました。書店で偶然見つけて手に取った本でしたが、全篇とても腑に落ちる説明ばかり。読みながら、本が付箋でいっぱいになりました。

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ロジカル筋トレ 超合理的に体を変える (幻冬舎新書)

これだけ筋トレがブームなどと言われながら、それでも清水氏のこの本が世に問われなければならなかったということは、いかに「ざんねんな筋トレ」をしている方が(かつての自分も含めて)世の中に多いのかということですよね。そこには、ひょっとしたら私たち日本人特有の「いちど始めたらなかなかそのやり方を変えられない」物事の進め方とか、スポーツ界に根深く潜んでいる根性論や「いいからやれ」「つべこべ言わずにやれ」的な精神論なども見え隠れします。

この本ではそれらに対して「リーズン・ホワイ(reason why)」を繰り返し問いかけています。なぜそれをするのかを常に自分に問えと。また人に指導する場合にもそれを明確に言語化して伝えよと。これもまた、語学においてもまったく同じことが言えるのではないでしょうか。筋トレにとどまらず、あらゆるトレーニングに敷衍できる考え方を示している貴重な一冊だと思いました。

国立能楽堂の楽屋

東京は千駄ヶ谷にある国立能楽堂。これまで能の公演を見に来たことは何度もありますが、楽屋に入れていただいたのは初めてです。五月にここで温習会(発表会)があり、今日はその申し合わせ(リハーサルのようなものです)があるのです。

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楽屋は広々としていて、お師匠から「時間があったら探検してみてください」と言われていたので、申し合わせにお付き合いいただく玄人の先生方や、本舞台での申しわせを待っている方々のじゃまにならないよう、こっそりと「探検」してきました。劇場の楽屋というと、電球の着いた鏡のある席がずらっと並んでいるような印象ですが、国立能楽堂の楽屋は和室がいくつか連なっているだけで、とてもシンプルかつ簡素です。

でも廊下には作り物(大道具)などがたくさん並んでいて、たしかに能楽堂のバックステージという感じ。私は今日は能の地謡が二番と、自分の舞囃子に出ます。申し合わせは客席に誰もいないのでまだ緊張はしない……はずですが、お囃子や地謡の先生方は全員は玄人ですから、それなりに緊張します。初めて国立能楽堂の本舞台に立ってみましたが、見所(客席)は意外に狭くーー自分が客席にいて見ているときの感覚よりもーー感じました。

見るレッスン

映画評論家でフランス文学者の蓮實重彥氏が、ご自身でこれが最初で最後だとおっしゃる新書による執筆。映画史に関する「講義」ですが、これがめっぽう面白かったです。蓮實氏の本といえばどこか重厚なイメージが私などにはありますが、この本の語り口はいたって軽快です。はっきりとは書かれていませんが、あとがきから推察するに口述筆記かインタビューを編集者がまとめる形で書かれたものではないかと思います。

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見るレッスン~映画史特別講義~ (光文社新書)

映画について言及されるその範囲がとても広くて、日本映画はもちろん、戦前の無声映画もトーキーも、ハリウッドもヌーベル・バーグも、フィルム・ノワールもドキュメンタリーも、とにかくあらゆる映画の(氏が評価するところの)名作が次々に語られます。アジアの映画については言及がほとんどありませんが、それでも韓国映画や、ウォン・カーウァイエドワード・ヤンの名前は登場します。

また作品や監督のみならず、キャメラ(氏は「カメラ」と言わず「キャメラ」と言う)、脚本、プロデューサー、配給、音楽、ナレーションなどなど、およそ映画に関するすべてに触れたい、触れざるを得ないという蓮實氏の旺盛な意気込みも伝わってきます。人は年齢で推し量ることはできませんが、それでも老境にいたってこの活力と言ったら。いきおい余って「○○を観ずして映画を語るな」などとおっしゃるのはご愛嬌としても、「〇〇を評価するなど反日的だ、非国民だ」などとまで口走るのはちょっといただけませんが。

ともあれ、私が一番共感したのは、映画というものが、やはりそれが「画」である限り、画面の力や画面の描写が何よりも問われるべきだと主張している部分です。「被写体である対象の気配を『色気』として画面に定着できる」こと、その「存在の色気」が驚きを生むのであり、映画を見るのはその驚きを得たいからだと。その画面の色気が最も欠けているものとしてディズニーの諸映画を挙げているくだりにいたって、私は快哉を叫びました。

そうなんですよねえ。ディズニー映画もそうですけど、あの世界各地にあるテーマパークも私にはのっぺりとした単調な空間に感じられます。蓮實氏は「ディズニーなどなくなったほうが、世の中にとっては健全だと本当に思います」と言っていて、まあ私はそこまでは言いませんけど、あの単一の色ですべてを塗り込めてくるような世界観からは一歩も二歩も退いていたいなと思っています。

フィンランド語 93 …日文芬訳の練習・その25

先日、札幌地裁で、同性婚の否定は違憲とする判断が示されました。G7の中で唯一同性婚が認められていない日本においては画期的な判決です。約十年前に、ニュージーランドの国会でこの件が議論された際、モーリス・ウィリアムソン議員は「この法案が可決されても、明日も太陽は昇ります。関係する人にはすばらしく、関係ない人は今まで通りの生活が続くだけです」と演説しました。その通りです。いまのところアジアでは台湾だけが同性婚を認めていますが、日本もこれらの国に続くべきだと思います。


Viime viikolla Sapporon käräjäoikeus antoi, että samaa sukupuolta olevien avioliittojen kieltäminen olisi perustuslain vastaista. Se on ensimmäinen ja ihmeellinen tuomio Japanissa, koska Japani on ainoa G7-maa, jossa ei myönnetä sitä. Noin kymmenen vuotta sitten, kun Uuden-Seelannin parlamentissa väiteltiin samasta asiasta, parlamentin jäsen Maurice Williamson sanoi: “Vaikka tämä laki hyväksytään, aurinko nousee myös huomenna. Se on hienoa ihmisille, joihin se vaikuttaa, mutta muille meille elämä jatkuu entiseen tapaan.” Sanopa muuta! Tällä hetkellä Taiwan on ainoa aasialainen maa, jossa myöntää sitä. Minä ainakin sitä mieltä, että meidän pitäisi seurata heitä.



Maurice Williamson's 'big gay rainbow' speech

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https://www.irasutoya.com/2016/02/blog-post_755.html

「この世には本当にバカがいるもんだ」をめぐって

カズオ・イシグロ氏へのインタビュー記事が話題になっていました。

toyokeizai.net

ブレグジットにしても、トランプ主義の台頭にしても、中には半分ジョークを交えながら、「この世には本当にバカがいるもんだ」と怒る人もいます。しかし、私たちはその先にあるものを考えないといけません。そこで起こっている重要なことに気がつかないといけないのです。


俗に言うリベラルアーツ系、あるいはインテリ系の人々は、実はとても狭い世界の中で暮らしています。東京からパリ、ロサンゼルスなどを飛び回ってあたかも国際的に暮らしていると思いがちですが、実はどこへ行っても自分と似たような人たちとしか会っていないのです。

この一段は、私にもとても腑に落ちる意見でした。私もまさに、私の周囲の人々と一緒になって、そうした世界情勢について「この世には本当にバカがいるもんだ」と揶揄し合って溜飲を下げてい(る気になってい)た一人だったからです。イシグロ氏は、こうも言います。

私たちはなんとかしてコミュニケーションの手段を考えないといけないと思います。これまで自分と考えが違う人は見えない人、存在しない人だったかもしれませんが、私たちは世界の多くの人々だけなく、自分が住むコミュニティの中でさえ自分とは違う世界があることをもっと強く認識しなければならない。芸術やジャーナリズムにかかわる人はもっとこのことを意識すべきです。
(中略)
私たちにはリベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術も必要です。つまり多様性ということです。これは、さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人がそれぞれの経験を語るという意味の多様性ではなく、例えばトランプ支持者やブレグジットを選んだ人の世界を誠実に、そして正確に語るといった多様性です。

つまりは、リベラルと呼ばれる(あるいは自称する)人々と、それとは相容れない考え方の人々との間に、とてつもなく大きな断絶が生じているということですよね。そしてそれを多少なりとも埋め戻す、あるいはお互いに架橋する手段を考えなければ、世界はもっと悪い方向に向かっていくかもしれないと。「この世には本当にバカがいるもんだ」などと言っている場合ではないと。

このインタビューに関しては、白饅頭こと御田寺圭氏が「現代のリベラリストや人文学者たちが陥っている自己矛盾」を指摘したものだと評する文章を発表されていました。

gendai.ismedia.jp

リベラリストが考える「多様性」に含まれないものは、社会的に寛容に扱われる必要もないし、内容によっては自由を享受することも許されるべきではない――それが彼らのロジックである。今日のリベラリストは「多様性」や「反差別」を謳うが、その実自身のイデオロギーを受け入れない者を多様性の枠組みから排除する口実や、特定の者を排除しても「差別に当たらない」と正当化するためのロジックを磨き上げることばかりにご執心のようだ。

これも非常に考えさせられる指摘です。「この世には本当にバカがいるもんだ」と切って捨てる態度には、この世の多様性について想像する努力を自ら放棄する身勝手な態度がセットでくっついている。イシグロ氏の言う「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人の世界を誠実に、そして正確に語るといった多様性」への理解、そのための努力を最初から放棄しているわけですね。

私はこの二つの文章を読んで、たまたま同じ日に読んでいた井上純一氏のマンガ『がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか』にもこれと通底する話が出てきたことに驚きました。それはトマ・ピケティ氏が「いまの世界には二つの勢力がある」と主張するところの「バラモン左翼」と「ビジネスエリート右翼」です。いずれも大衆から離れたところにある左右のエリート層への大衆からの反発(特に経済的に冷遇されていることに対する反発)がトランプ現象やブレグジットの背景にあると。そしてまた、大衆から遠い一部エリートの理想から繰り出される経済政策に大多数の人々が影響を受けるのだと。

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▲『がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか』144〜145ページ

この「バラモン左翼」というネーミングは、大衆から遊離したインテリの形容として本当に秀逸だなあと思いました。ピケティ氏はこの言葉を登場させた論文『Brahmin Left vs Merchant Right: Rising Inequality & the Changing Structure of Political Conflict』を2018年に発表していて、日本でもあちこちで話題になっていたそうですが、私は不明にして初めて知りました。ネットの情報によると邦訳が現在進行中だそうです。英語で読む力は私にはないので、出版が待ち遠しいです。

そしてまた、この「バラモン左翼」という視点を加味して、自らの社会や政治や経済に対するスタンスや立ち位置を見直してみることはとても大切ではないかと思った次第です。また読みたくなる本がいろいろと増えました。まずは先日購入して積ん読になっているカズオ・イシグロ氏の新作『クララとお日さま』から始めることにします。

「LOUIS VUITTON &」展

表参道のルイ・ヴィトンは一種の美術館だから、ぜひ定期的に見に行くべきーー。ずっと以前にどこかのブログでそんな意見を見かけて以来、何度か足を運んでいます。私自身はこのブランドの商品を買ったことはありません(というか、高すぎて買えません。ごめんなさい)し、正直に申し上げてあの定番である「モノグラム」や「ダミエ」と呼ばれる茶色と金色のプリントが施されたバッグを持つこと自体がどこか恥ずかしいと考えるような人間です。

しかし、そうした個人的な趣味とは切り離したところで、ハイエンドなブランドの商品や、お店のディスプレイなどを鑑賞するのは好きです。鑑賞ーーそう、こうしたブランドの商品は私にとっては買うものではなく、鑑賞する美術作品みたいなものです。ものすごくスノッブで趣味が悪いんだけど(大変失礼)、そこに一種の芸術的魅力が漂っていることは認めざるを得ません。それがブランドという、一種の幻想の上に成り立っているものだとしても。

当のルイ・ヴィトン自身も美術作品としての自社商品というコンセプトは大切にされているようで、様々な美術作家とコラボレーションした商品のラインナップも展開しています。村上隆氏や奈良美智氏などとコラボした商品が話題になったこともありますよね。

そんなルイ・ヴィトンというブランドの創業から現在までを紹介するという展覧会が原宿で開かれていて、昨日観に行ってきました。ブランドの宣伝という側面もあるのか、太っ腹なことに入場無料です。ただし混雑を避けるため時間指定であらかじめ申し込んでおく必要があります。

www.louisvuittonand.com

いや、この展覧会、とても見応えがありました。様々な美術作家とのコラボレーションも面白いですけど、その過剰なまでに悪趣味な世界(またまた大変失礼)がどこまでも非日常的で、思わず引き込まれるのです。しかも単なるゴージャスなファッションの世界というだけではなく、精緻な美術工芸品的側面も存分に堪能できます。そう、お能の装束なんかもそうですけど、こういう美術工芸品の世界って、とにかくゴージャスで絢爛豪華で、その意味では悪趣味とほんの紙一重の世界なんですよね。でもそれがいいのです。

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これなんか、モノグラム柄のサンドバッグですよ。ああ、ここまで浮世離れしていると、いっそ清々しいというか。この展覧会、ぜひ予約して観に行くべきです。

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あ、私はルイ・ヴィトンの製品を買ったことはありませんが、むかし妻からもらったネクタイを一本だけ持っています。遠目にはただのシンプルな水玉模様ですが、よくよく見ると紺の生地にモノグラムが織り込まれているという。これだったらまず誰も気づかないので、とても気に入っています。

「煮豚の牛肉版」ローストビーフ

筋トレを始めて三年あまり、体格はそれなりに良くなってきた……と言いたいところですが、中高年男性特有の「ぽっこりお腹」はあまり変わっていません。これではいくら筋肉をつけても体格の「コントラスト」がつかないではないですか。残念すぎる。というわけでトレーナーさんに聞いてみました。

端的に言って、もう少しお腹を凹ますためには何をすべきですか?

トレーナーさんのお答えは、①体幹を鍛えて横隔膜を上に引き上げるような形に持っていく。②食事に気をつける。特に揚げ物などの油を控え、低カロリー高蛋白の食事にする。③有酸素運動で脂肪を燃焼させる。

う〜ん、①②③いずれもすでに取り組んで久しいのです。それでも「ぽっこり」がそれほど解消されないとしたら、これはもう「年相応」ということになるのでしょうか。分をわきまえよと。分不相応な若作りはおやめなさいと。

とはいえ、②の食事についてはもう少し取り組んでみる余地がありそうです。普段から間食はほとんどしませんし、糖質もかなり少なめ(減らしているというわけではなく、単に年をとってそんなに食べられなくなった)。蛋白質を多めに摂取するということでは、納豆や豆腐などを普段から多く摂っています。ヘルシーすぎるくらいヘルシーですが、最近ローストビーフをよく作るようになりました。

ローストビーフなんて超贅沢&脂質満載というイメージでしょうか。しかし私が作るのは赤身のもも肉でサシはおろかほとんど脂身がない、しかもスーパーでかなりお安く売られているオージービーフです。これを、よしながふみ氏のマンガ『きのう何食べた?』第9巻に出てくる作り方でローストビーフにするのです。

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いや、これ、ローストビーフというよりは、よしながふみ氏も言っているように「煮豚の牛肉版」です。これが非常に簡単で、かつ、ものすごくおいしいのです。ジムのトレーナーさんに紹介したら「これは、良質の蛋白質が手軽にかつたくさん摂れますね」と大絶賛してくれました。トレーナーさん宅でも定番のメニューになったそうです。

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ようするに「醤油0.9:酒1:水1+にんにくひとかけで、牛かたまり肉の側面を1分45秒ずつ煮て、煮汁ごと一晩寝かせておく」だけ。私はもう何回も作っていますが、失敗したことは一度もありません。マンガではサシの入った上等な和牛を使っているみたいですが、牛脂が苦手な中高年は赤身でじゅうぶん、かつこっちの方がおいしくいただけます。タリアータみたいにバルサミコ酢を煮詰めたソースと粉チーズ(お金がある方はパルミジャーノを削って)でサラダみたいにするのもおいしいです。

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その語学における勘所みたいなもの

先日フィンランド語教室のオンライン授業に参加しようとZoomで待機していたら、いつも授業が始まる前に映っている共有画面にこんなことが書いてありました。

1.単語:単語を覚える。
2.文法:言語の仕組みを理解し、どの語形になるかを知る。
3.語形変化:必要な語形を自分で作れるようにする。

おお、これはいつも先生がおっしゃっている、授業以外で自助努力すべきことを箇条書きにしたものですね。

フィンランド語は、例えば動詞が現在形・過去形・現在完了形・過去完了形・能動態・受動態・条件法・命令形……と様々に変化し、名詞や形容詞は単数・複数合わせて30もの「格」に変化する、語形変化がとにかく激しい言語です。その代わり英語や中国語ほど語順は厳格ではありません。

そのフィンランド語の特徴を踏まえて、先生が初中級段階の私たちに対して自助努力を求めるとしたら最低限これ、というのを箇条書きにしてくださっているわけ(……と私は受け取りました)です。

1.の単語は、いまのところ出てきた単語を片っ端からExcelでデータにして、それをQuizletに流し込んで、毎日50個ずつ繰り返して覚えるようにしています。2.の文法は、毎週作文をして提出し、添削してもらっています。3.の語形変化は、とりあえず毎日10個ずつ動詞の現在形・過去形・過去分詞を能動態と受動態で作るワークシートをやっています。忙しい毎日の中で、隙間時間を見つけてできるのはこれくらい。

あとは朝活のジムで教科書の音声をずっと聞き流している程度で……。本当はもっと色々やりたいのですが、趣味の範囲だとこれくらいが限界かなと。

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https://www.irasutoya.com/2014/04/blog-post_324.html

それにしても語学の先生がふと示してくださるこうした学習の指針というか、学びの勘所みたいなのって、とても貴重です。今回も先生はZoom授業の待機中に、たまたまこの共有画面を出していらしたわけですが……生徒としてはそういう先達が何気なく披露されているポイントを拾いに行くのがけっこう大切だと思っています。教師が「ここ、試験に出ます」と言い、生徒が必死でそれをメモする……というような学びの環境とはまったく違うんですよね、おとなの学習環境は。

僭越ながら、中国語でこういう箇条書きを作るとしたらどうなるかな。

1.発音:ピンインを読めて書けるようにする(きちんとした先生について。独学は勧めない)。
2.文法:主語と動詞を先に出す語順感覚と、特に動詞にまつわる補語とアスペクトに習熟する。
3.単語:語彙量を増やす。

こんなところかしら。

プロに対する「タダでお願い」について

イタリア語通訳者のMassi氏が、こんなツイートをされていました。

いやはや、とんでもないお話ですが、「さもありなん」という感慨もいだきました。ここまで失礼なケースは珍しいとしても、通訳者や翻訳者に「ほんの少しだから(タダで)訳してくれません?」という依頼が舞い込むというの、この業界ではよく聞かれるお話だからです。

いや、語学業界だけではありませんね。この国では、様々な業界のプロにこうした「タダでお願い」が数多くなされており、その都度TwitterなどのSNSではその道のプロの方々から怒りの声が寄せられています。プロのイラストレーターに「ちゃちゃっと(タダで)描いて」、演奏家に「ちょこっと(タダで)弾いて」などと頼むというのが、その典型例です。

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https://www.irasutoya.com/2017/07/blog-post_962.html

私はいま「この国では」と書きましたが、実際のところ、こうした失礼な依頼、言い換えればプロの技術をリスペクトしない(そうした想像力が働かない)態度というのが、日本特有の現象なのかどうかはわかりません。諸外国でも「お友達だから(タダで)やってくれない?」という失礼な人たちはいるのかもしれません。

しかし、医師に「ちゃちゃっと(タダで)診察して」とか、弁護士に「ちょこっと(タダで)弁護して」という依頼が舞い込むというのはあまり想像できません。さするに、イラストレーターや演奏家の技術は、あるいは通訳者や翻訳者の技術は、医師や弁護士などの専門職に比べて簡単に習得できるものという思い込みがあるということなのでしょう。

もちろん医師や弁護士などのように、何かの試験や資格があるわけではないという職業もあるでしょう。通訳者や翻訳者だって、少なくとも中国語の場合にはプロであることを客観的に示すことができるような資格はありません。通訳案内士という国家資格があって、私も持っていますが、数年前からこの資格は「業務独占資格」だったものが撤廃され、有資格者以外も有償で仕事ができるようになりました。

それでも、いや、だからこそ、曲がりなりにもプロとして稼働している方々は、そうした資格などの後ろ盾にも頼らず、実力で仕事を獲得し、業界で働いてらっしゃるのです(私はもうとっくに開店休業常態ですが)。そんな方々に「ちゃちゃっと、タダで」と頼むことがどんなに失礼な行為であることか。

私もかつて、日本のある大企業の社員さんに、まったく悪気のない口調で「通訳さんって楽でいいよね」と言われたことがあります。日本では、通訳を「二つの言語が話せさえすれば、口先でちゃちゃっとできる、簡単な作業」と思われている方が多いのです。身体ひとつで、あるいは道具を使ってもせいぜいメモ帳とペンくらいで「楽な商売だよね」と。だから冒頭のMassi氏に対するあんな失礼な依頼も舞い込むのでしょう。

しかし、こうした風潮が私たちの社会のベースに一定量存在するのだとしたら、それは一部にこうした依頼を受けてしまう中途半端なプロ(と呼べるかどうかはわかりませんが)が一定量存在するということなのでしょう。なかには「まだプロとは言えないけれど、勉強になるから」という理由で受けてしまう発展途上の方も数多く存在するのかもしれません。

その仕事で食べていけるようになるまで、どのように仕事を獲得していくかというのは、私も経験したのでその難しさがよく分かります。勉強のためにタダで、あるいは破格の値段で仕事を受けるという段階も必要だ、という意見もあるでしょう。だからこの問題に対しての根本的な解決策はおそらく存在しないのではないかと思います。今後もこうした失礼な依頼が様々な業界で繰り返されることでしょう。

だから結局は、きわめて迂遠なことではあるけれども、ひとりひとりが他人の職業に対するリスペクトを持つという基本的な生き方の態度を涵養していくしかないのでしょう。特にそれを基礎教育の段階でもっときちんと学んでもらう……と。

語学業界に関してのそうした「基礎教育」を希望するとしたら、このブログでももう何回も申し上げていますが「言語リテラシー」とでもいうべきものをぜひ盛り込んで欲しい。言語とは何なのか、言語や文化の壁を超えるとはどういうことなのか、通訳や翻訳とはどんな作業をしているのか、多言語に分かれているこの世界とはいったいどういうものなのか、そんな世界で異文化間や異言語間のコミュニケーションを行う際にはどんな利害得失があるのか……。

それから、いまここに存在する失礼な態度に対しては、即異議申し立てを行うことです。幸いMassi氏の異議申し立てツイートには現時点で12000近くのリツイートと、32000あまりの「いいね」がついています。こんな態度はおかしいと感じる方がこれだけいらっしゃるというのは、とても心強いことです。