インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

フィンランド語 92 …日文芬訳の練習・その24

最初「記事が載っていた」という部分を「記事を見た」ということで“Minä katsoin”としていたのですが、普通は“Minä luin”と動詞“lukea”を使うということで直されました。なおかつ「その記事にはこう書かれている」というのも“Siinä lukee”(そこにそう読める)というような表現にするそうです。

カセットテープにはずいぶんお世話になりました。テープの編集はもちろん、語学学習でウォークマンを「オートリバース」にしながら延々シャドーイングしたり。オートリバースなんて、カセットテープをご存じない世代の方には何のことだかわからないでしょうね。

先日の新聞に小さな訃報記事が載っていました。カセットテープを開発したオランダの技術者、ルー・オッテンス(Lou Ottens)さんが94歳で亡くなったという記事です。私たちの学生時代は、ほぼカセットテープとともにありました。私はよくラジオの音楽番組を録音し、テープを編集していました。「ウォークマン」が世に出たとき、それは学生の必需品でした。本当に隔世の感があります。オッテンスさん、ありがとう。安らかに。


Minä luin äskettäin pienen kuolinilmoituksen sanomalehdessä. Siinä lukee, että 94-vuotias herra Lou Ottens on kuollut. Hän on alankomaalainen insinööri, joka oli kehittänyt kasettinauhan. Omana kouluaikanani kasettinauhat olivat olleet kaikkialla elämässämme. Nauhoitin musiikkiohjelmia usein kaseteille ja muokkasin niitä. Kun WALKMAN-korvalappustereot kehitettiin, kaikkien opiskelijoiden oli pakko ostaa se. Nyt tuntuu siltä, että maailma on todella erilainen kuin silloin. Kiitoksia paljon, herra Ottens. Ja rukoilen sielusi puolesta.


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https://www.irasutoya.com/2013/01/blog-post_6200.html

料理レシピの文体

なぜ料理本やレシピの説明文は命令形ではないのか。英米文学者で文芸評論家の阿部公彦氏のこんなツイートに接しました。

なるほど、指示をする文脈だから命令形でもいいのにね。阿部氏によると、試験問題などでは「解け」のように命令形が見られるそうです。そういえば、はるか昔のNHKの番組に『クイズ面白ゼミナール』というのがあって、司会の鈴木健二アナウンサーが「答えなさい」「書きなさい」などの命令形で出題していました。子供心に「なんか、エラそうだな」と思ったのを覚えています。やはり命令形は上から目線なんでしょうね。

個人的には料理番組などで手順を解説する際に、多くの方が「ほぐします」ではなく「ほぐしていきます」と言うのが気になっています。「切っていきます」「入れていきます」「盛りつけていきます」……なぜ現在進行形なんでしょう。この点を阿部氏はこうおっしゃっています。

なるほど、「ほぐします」だと断定的だけど、「ほぐしていきます」なら徐々にやっていきますよ、慌てなくていいですよ……という感じで、視聴者に対する押し付けがましさが薄まるのかしら。

料理レシピの文章というのは奥が深いものがあって、これだけを専門に解説した書籍もあります。この本を読むと、いかに的確に料理の手順を伝えるかについて、実に細かい配慮がなされていることがわかります。私も料理本を読むのが好きでかなりの数を持っていますが、たしかに書き手によって料理の作りやすさがちがうなあというのは感じます。

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おいしさを伝えるレシピの書き方Handbook

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▲『おいしさを伝えるレシピの書き方Handbook』18ページ。

また、Twitterにも「140字レシピ」というのがあります。これなど、一種の職人芸的な文章センスが必要とされそうです。料理の手順を述べる文章には独特の世界があるんですね。

料理の手順を述べる文章といえば、かつて中国語の学校に通っていたころ、「“把”構文」を学んだときに数多く接しました。中国語は日本語と語順がかなり違い、多くの場合は英語同様に「SVO(主語→動詞→目的語)」なのですが、この“把”構文(ばーこうぶん、と読みます)を使うと、目的語を前に出して「SOV」にできる、つまり日本語と同じような語順にできるため、日本語母語話者にとってはなじみやすい文型です。

しかも“把”構文は別名「処置文」とも呼ばれ、目的語に対して何らかの処置を施したり、影響を与えたりすることを述べる構文です。私はこの構文をもじって「〜をば(把)……する」というように、ちょっと古風な言い方で覚えていました。「〜」に処置される目的語を入れ、「……」にその処置を加える動作を入れるのです。

そしてこれは、料理の手順を解説する文章にうってつけなんですね。というわけで、実際に中国語の文章でも、料理レシピには数多く“把”構文が使われています(少々堅い文体では“將”が使われます)。例えばこれは、“西紅柿炒雞蛋(トマトと卵の炒めもの)”の作り方です。

做法
1、西紅柿後用沸水燙一下,去皮、去蒂,切片待用。
2、雞蛋碗中,加鹽,用筷子充分攪打均勻待用。
3、炒鍋放油3湯匙燒熱,雞蛋鍋中炒熟盛出待用。
4、剩餘的油,下西紅柿片煸炒,放鹽、糖炒片刻,倒入雞蛋翻炒幾下出鍋即成。

※赤い文字が“把(將)”です。

“把”構文は「主語+把+処理されるもの+動詞」というようにSOVの語順にした上で、動詞に必ず「+α成分(補語など)」が必要です。上掲のレシピでもすべて動詞(青い文字)と+α成分(緑の文字:補語)になっています。たとえば最初の手順では“西紅柿(トマトを「ば」、洗ってきれいにする)”ときれいに「把(將)OV+α(主語は省略されています)」になっています。

私は料理が好きなので、こうやってレシピをたくさん読むことで“把”構文を覚えたのでありました。

BTSとARMY

先日卒業式を迎えたばかりのアルゼンチン人留学生が、進学先の大学に提出する書類の手続きか何かで学校の事務局に寄り、教員室にも顔を出してくれました。彼女はK-POPの熱狂的なファンです。特にBTS防弾少年団)が大好きで、選択科目で韓国語を履修していたくらい傾倒しています。

それで、その日も何かの話の流れで韓国のボーイズグループの話題になりました。私が「日本のアイドルもそうだけど、みんな同じ顔に見える」などと失礼な与太を飛ばしていたら「そんなことないんです!」というわけで、ネットにあった写真を利用して「名前当てクイズ」をやってもらったところ……ほぼ全問正解でした。当然なんでしょうけど、ファンの情熱ってすごいです。

同じ日に、ネットで面白い記事を見つけました。私と同じような50代のオジサンが「BTSの『沼』にハマった」というお話です。
gendai.ismedia.jp

BTSというと、“10代の女の子たちのアイドル”、“K-POP好き、韓国好きな人がハマるもの”という固定概念を持っている人がまだまだいる。しかし、現実のファンダムは驚くほど幅広い。

ファンダムというのは、単に個々人のファンとその行動に留まらず、ファンの人々が作り出す文化までを含めた言葉ですよね。日本でもアイドルのファンや追っかけと呼ばれる人々の行動が時にニュースの話題になり、社会現象になり、時には事件も引き起こすなど大きな影響力を持っています。そうした現象すべてを包括した言葉だと理解(……でいいのかな)しています。

興味を持って、この記事に出てきた『BTSとARMY わたしたちは連帯する』も読んでみました。なかなかに興味深い内容でした。

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BTSとARMY わたしたちは連帯する

私自身はこれまで芸能人やアーティストの誰かにそこまで傾倒したことはなく、かつて台湾エンタメ関係の仕事をしていた時にも、ファンの心理にいまひとつついて行けていない自分を感じていました。でもまあ、そういう一歩引いたスタンスだからこそ仕事ができたのかもしれません。だって、本当のファンだったら、その憧れの人たちを前に通訳や翻訳なんて仕事は手につかないですよね。

この本でも、自らの「推し」であるBTSとその楽曲を世界中でメジャーなものとするために、ありとあらゆる手段を駆使して応援するというライフスタイルが熱を帯びた文章で解説されています。その一方で「K-POPエンターテインメント産業のファンは、推しに関するすべてが消費に換算される消費助長システムの人質に過ぎないという見方も存在する(166ページ)」という批判も紹介されています。

私がエンタメの世界をやや引いたスタンスで見てしまうのは、そういう消費を煽る姿勢に懐疑的だからです。それでもこの本を読んで、これがもう旧来のアイドルとそのファンというありようではなく、SNSが発達し、あらゆる旧態依然とした価値観が見直しを迫られている中での潮流であるということはじゅうぶんに理解でき、少々考えを改めました。

この本で紹介されている、BTSのファンダムである「ARMY」は、例えば「推し」のために同じアルバムを何十枚も購入するような、まさに「消費助長システムの人質」的な存在とはかなり違っています(依然そういう人もいるだろうけれども)。むしろBTSの楽曲や言動に共感し、そこに自分の人生を重ね合わせ、さらにより良い社会を実現するために積極的な働きかけをしていこうとする社会活動家のような側面を持っているのです。そしてBTSのメンバーもまた、そうしたARMYの動きや意見を受け取って、自らの偏見や短見を修正し、成長していくというインタラクションや循環が起こっている。

例えばブラックカルチャーをきちんと理解せずに黒人のスタイルや英語を真似するという態度に関連して、こんな記述があります。

考えてみてほしい。英語圏の人たちがアジアからの移民の英語の発音を真似するのを見たら、どんな気持ちになるだろうか。発音を面白がる裏には、英語がうまく使えない移民にたいする軽蔑と優越感がかすかに存在している。(100ページ)

これについてこの本では「編集部注」としてこんなことが書かれています。「日本のK-POPファンダムにおいても、K-POPアイドルの日本語の発音について、嘲笑したり、「かわいい」と評したりすることがあり、ファンダム内外から指摘する声がある」。こうしたファンダムの思考は傾聴に値します。

このようなBTSとARMYが視野に入れている社会問題には、ミソジニーや黒人差別の問題、性的マイノリティへの視線、異文化間のステロタイプな先入観、さらには日韓関係や過去の歴史問題までが含まれています。例えば、メンバーが着ていたTシャツが問題になった件についても、ARMYが編集・発行した「白書」などの取り組みが紹介されています。こうした場面に関わるARMYの「翻訳家」たちの行動も、非常に興味深いものでした。

その翻訳に関連して、BTSが韓国語での楽曲発信にこだわりがあり、それが欧米、特にアメリカの人々の外国語観、異文化観に影響を与えているという部分は、これまでになかったすごいことだなと感じます。どちらかというと内向き、あるいは逆に初手から英語で発信しなきゃと思い込んでいる(かつアジアにはあまり目が向いていない:目を向けられてはいるけれど)日本のエンタメの状況と引き比べてみると、その特異性が浮かび上がってくるような気がします。

ただしその一方で、説明が不十分で背景がよく分からない事例もありました。例えば……

伝説のラッパー、クーリオがBTSのメンバーを前に「ラッパーがステージで言う『Turn up』の意味を知っているか?」とたずねる。メンバーたちは冗談交じりに「Let’s go party?」と答えるが、クーリオのこわばった顔を見て口をつぐむ。(101ページ)

……というエピソードが紹介されたあとにその解説がほとんどないので、黒人文化の背景知識がない読者は「どういうことだったんだろう」と隔靴掻痒感におそわれます。たぶん紙幅の制限もあったのでしょうし、この本がとりあえずはまずこの現象の全体像を描くという所に力点を置いているからかもしれません。

ともあれ、BTSとARMYが向けている「より良き世界」への視線には共感する点が多々ありました。私はBTSの楽曲といえば“Dynamite”しか知らないのですが、他の作品も聴いてみようと思います。上掲のオジサンのように私も沼にハマるでしょうか。


BTS (방탄소년단) 'Dynamite' Official MV

同性婚も選択的夫婦別姓も

同性婚の否定は違憲とする初の司法判断が示されました。G7の中で唯一同性婚が法的に認められていないとされる日本においては画期的な判断です。もっとも、これだけ世界の人権意識に関する潮流から後れを取っている私たちの日本は「G7=主要七カ国」の一員だなんて恥ずかしくてとても言えませんけど。

www.bbc.com

これを機に、もっともっと世論を喚起して、台湾に続いてアジア圏では二番目の同性婚合法化を成し遂げた国になってほしいですね。「生産性」発言にも見られるように、世間にはまだまだ無知と無理解が多いですが、若い人たちを中心にこれからどんどん変わっていくでしょう。ほんとうにもう動きがまどろっこしくて切歯扼腕するばかりですけど。

選択的夫婦別姓も同じです。昨日は岡山県議会で自民党の県議主導による反対決議の報道がありました。

www.asahi.com

「家族の絆や一体感を危うくしてしまうおそれがあるばかりか、親子で異なる姓を名乗ることは、子どもの福祉にとって悪影響を及ぼすことが強く懸念される」。いったい何を言っている(つもりになっている)のでしょうか。法律で夫婦同姓を強制しているのは世界でも日本だけだというのに。しかも選択的夫婦別姓で、自分の権利が制限されるわけではなく、ただ選択の範囲を広げようというだけなのに、根拠のない理由を振りかざして反対する人々のなんと醜悪なことか。

「人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ」という都々逸があります(私は「人の恋路を邪魔する奴は三代先まで祟られる」とどこかで読んで覚えていましたが)が、私も一つ呪詛の言葉を吐いていいですか。私たちは、生きているうちが花なのです。同性婚に反対し、選択的夫婦別姓に反対し、個々人が今生でより幸せに暮らしたいという願いを踏みにじる人たちは、ろくな死に方をしないでしょう。他人の生き方に口出しして、その人のかけがえのない人生を生きにくくするという行為が、どれほど罪深いことであるのかに気づくべきです。

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https://www.irasutoya.com/2017/05/blog-post_316.html

Dr. Capital氏が解説する「BON DANCE」

いつもYouTubeで楽しみにしながら視聴している、Dr. Capital氏の音楽解説。最新作はmillennium paradeの「BON DANCE」でした。


millennium parade の BON DANCE - Dr. Capital

いやあ、いいなあ、これ。私は常々、ポップスをはじめとする歌詞のある音楽って、どうして「Aメロ→Bメロ→サビ→ラスト」みたいな構成ばかりなんだろう、どうして愛や恋や異性のことばかり歌うんだろうと思っているのですが、この「BON DANCE」は全く違う作りになっていると。


millennium parade - Bon Dance (Live at Tokyo International Forum Hall A)

もちろんmillennium parade・常田大希氏のクリエイティビティが光っているわけですが、それを解説+カバーするDr.Capital氏がまた天才的です。特に「BON DANCE」のメロディー進行やコード進行を「サウナと水風呂」や「万華鏡」に例えて解説するところなど、いつものように唸りました。

私はDr. Capital氏の動画で、Jason MrazKing GnuOfficial髭男dismやKing & Princeなどの優れた楽曲を知り、楽しんで聴くようになりました。それ以前から好きで聴いていた楽曲も、氏の解説でより深く楽しめるようになりました。今回も本当に面白かった。YouTubeの氏のチャンネルによると、近日中に「Dr. Capitalチャンネルメンバーシップ『キャピ友』」を始められるよし。公開されたら参加しようかなあと思っています。

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「ちんぷんかんぷん」をめぐって

Twitterでこんなツイートを読みました。


この図が面白いですねえ。多くの言語から矢印が集まっているギリシャ語は、ようするに「ちんぷんかんぷん」というニュアンスを与えられているんですね。

いっぽうで、欧州の諸言語から中国語に矢印が集まりまくってるのも面白い。やはり中国語や中国文明というのは、欧州から見るととてもエキゾチックで自分たちとは全く異なるもの、というイメージなんでしょう。バルトークの『中国の不思議な役人』を思い出しました。もちろんこういうレトリックって、差別的な言辞と紙一重ではあるんですけどね。

英語の慣用句“All Greek To You”は「ちんぷんかんぷん」とか「さっぱり分からない」という意味で、シェイクスピアの台詞にも登場し、おそらくそれ以前から使われていた古い言い方だとこちらの記事に載っていました。

www.vocabulary.com

この図では、フィンランド語における「ギリシャ語」にあたるものは“Hebrew(ヘブライ語)”となっています。それでフィンランド語のネット辞書で“heprea(ヘブライ語)”を引いてみたら、まさに「ヘブライ語 · ちんぷんかんぷん · 美辞麗句」と載っていました。ノルウェースウェーデンなど他の北欧諸語はギリシャ語に矢印が向いているのに、フィンランド語はなぜヘブライ語に向いているんでしょう。これも深く調べてみると面白そうです。

ところで日本語にはそういう表現はありませんよね。日本語にとっての「それ」は何語かな。「ちんぷん漢文」でやっぱり中国語ですか。

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フィンランド語 91 …日文芬訳の練習・その23

酔漢 (id:suikan)さんのお勧めに従って、ストッケ(ヴァリエール)のバランスチェアを買いました。フィンランド語では“polvituoli(膝椅子)”と言われているようです。

「とはいえ両腕が疲れるので」という部分を最初“Käsivarret olivat kuitenkin väsyneitä”として、“A olla B”の“A”が“käsivarret(両腕)”と複数主格なのに“B”をなぜか“väsyneitä(疲れる)”と複数分格にしていたのですが、これは複数主格の“väsyneet”に直されました。複数分格だと「いくつか」という意味になっちゃうんですね。自分の両腕以外にも他にいくつか誰かの腕があるみたい?

ちょうど授業で、複数形名詞の扱いを学びました。

Nämä kengät ovat valkoiset.
この靴は白いです。
※“nänä”は「これら」だけれど、靴は左右で一足なので、“valkoiset”と複数主格を使って「一足」を表します。
Nämä kengät ovat valkoisia.
これらの靴は白いです。
※“valkoisia”は複数分格で、この場合は何足かの靴があるという意味になります。

バランスチェアを使って、はたして頑固な腰痛が去ってくれるでしょうか……。

腰痛がなかなか治ってくれません。長時間のデスクワークが影響しているようです。そこでよい姿勢を保つために、特別なスタンドを買いました。これを使えば、ノートパソコンの画面を目の高さに合わせることができるのです。とはいえ両腕が疲れるので、外付けのキーボードとトラックパッドも買いました。その上、オフィスの椅子はバランスボールになり、さらに「ストッケ」のバランスチェアと取り替えました。腰痛対策のためにこんなにたくさんお金を使うはめになりました。私の机まわりは職場でもひときわ異彩を放っています!


Minulla on ollut alaselkäkipua, joka ei ole mennyt pois. Luultavasti on huono istua työpöydällä pitkään. Sitten ostin erityisen telineen, jonka avulla saan olla mukavassa työasennossa. Jos käyttäisin sitä, kannettava tietokoneen näyttö olisi aina silmien korkeudella. Käsivarret olivat kuitenkin väsyneet, etsin myös ulkoisen näppäimistön ja ohjauslevyn. Lisäksi työtuolini muuttui tasapainopalloksi, myöhemmin se on korvattu jälleen “Varier”-polvituolilla. Jouduin jo maksamaan niin paljon rahaa alaselkäkivuista. Ja kuinka työpöytäni alue loistaa niin omituisesti työpaikalla!


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還暦以上は口を出すな

宮城県女川町中心街の復興に際して、町会長がおっしゃったという「還暦以上は口を出すな」。テレビの報道番組を見ていたらこんな言葉が紹介されていました。

復興計画では、10年前の大津波のような災害が再び起こったときに備えて、巨大な防波堤などを建設する自治体が多かったそうですが、その反面街から海が見えなくなるなど景観が損なわれてしまうケースも多いのだとか。

そんななか女川町では、災害を完全に防ぐことは難しいとして、万一災害が起こった際には確実に避難できることを優先し、あえて巨大な防波堤などを作らず景観を大切にし、街もコンパクトに再生させようとしたのだそうです。女川町のウェブサイトにある「復興計画」でも、景観にも配慮した復興を進めると謳われています。そこには若い世代の人たちの声が積極的に反映されてきたとか。

「還暦以上は口を出すな」。つまりお年寄りは出しゃばらずに、若い人たちの意見を聞けということですよね。過激に聞こえるけれど、いい言葉だと思います。ネットで検索してみると、実際にそこまで過激なセリフだったかどうかはさておき、「20年後に責任がとれる30代、40代にまちづくりをまかせて、還暦以上は全員顧問になって、若い人たちをサポートしたい」という体制を取ろうとした、ということのようです。

suumo.jp

ここにはもちろん、女川町という街の規模や、その土地の精神風土みたいなものも関係しているのでしょうから、これをあらゆる自治体や団体・組織に敷衍して語ることができるようなものではないと思います。それでもこうやって「還暦以上は口を出すな」と、みずからピシャリと言い切って線を引き、一線を退いてオブザーバーに徹するというの、そして若い人たちを信じて任せるというの、いまの私たちの社会に欠けていることだなと思いませんか。


女川駅前商業エリア開業1周年 地元市場ハマテラスグランドオープン

かつて故・永六輔氏の講演を聞いたときのあるエピソードを思い出しました。劇団文学座で、故・杉村春子氏が当たり役のブランチ(テネシー・ウィリアムズ作『欲望という名の電車』の主人公)を長年担っていることに対して、「老境に入って、いつまでも主役を張るな。若い俳優に任せて脇役に回れ。脇役で、ほんの少しの出番であっても、そこはそれ『さすがは杉村春子』と言わしめるようなピリッとした演技を見せるほうが、よほどカッコいいではないか」と、まあ概略そんなお話でした。

年寄りを邪険に扱えというわけじゃないんです。巷間喧しい「老害」といったような罵倒語とも違う。年寄りは年寄なりの「分」をわきまえよう、そしてこの社会の世代交代に進んで手を貸そう、新陳代謝を促そうということだと思うんです。

私もあと数年で還暦を迎えます。還暦とは干支が60年で一周して生まれたときの年にもどるということです。一周したんだから、二週目は新たな気持ちでまったく別のことをしたい。すくなくとも今の自分のありようを延命させることばかりに汲々として、そのあげくに若い人たちの邪魔をするような存在にだけはなりたくない。そう思っています。

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母語話者に母語方向の訳出を教えるプレッシャー

通訳や翻訳の授業で、自分の母語方向への訳出を教えるのは大変だーーそんな一種の「お悩み」を、中国語母語話者の先生方から聞きました。学年末に例年開催している教師ミーティング(反省会)でのお話です。

私が勤めている学校のうちのひとつは、学生さんが全員外国人留学生です。日本語はいまだ発展途上であるため、例えば私が主に担当している「中国語→日本語」という訳出方向の通訳や翻訳の授業では、基本的にそういう「お悩み」は発生しません。私のような日本語母語話者は「その表現は不自然ですね」とか「そういう言い方はしません」などとなかば断定的に学生の訳出を評価することができるからです。生殺与奪の権利を持っているようなものですね。

それに比べて「日本語→中国語」という訳出方向の通訳や翻訳では、先生も学生もともに中国語母語話者であるため、生徒側も「一家言」持っています。先生が示した訳例やコメントなどに「そうかなあ」とか「私はそんな言い方をしないけど」などの留保をつける余地があるんですね。もちろん先生方は日本語の理解や運用においても、学生の一歩も二歩も先を行っています。また母語であってもその運用能力には「レベル」というものがある。だから学生がつける留保の九割九分までは「身の程知らず」なんですけど、それでも実際に感じるプレッシャーというものはあります。特に先生が自分より若かったりすると、とたんに斜に構える学生もいます。

まあ当たり前といえば当たり前の現象なんですけど、私が最初にこの傾向に気づいたのは、中国語母語話者の先生が担当されている翻訳の授業にオブザーバーとして参加したときでした。ふだん私の「中国語→日本語」の授業ではほとんど発言しない学生さんの何人かが、中国語母語話者の先生に対して「けっこうな口の利き方」をしていたのです。なるほど、同じ母語話者の学生からだと、こんな感じのプレッシャーを受けるものなのだな、と思いました。

しかしそうした学生の「けっこうな口の利き方」をよくよく聞いてみると、自分の母語レベルがそれほど高くないがための牽強付会であることがほとんどです。「私はそんな言い方をしないけど」は、実は母語話者ではあるけれどもそうした言い方や表現を知らないというだけのことだったりするのです。母語にもレベルがあるというのは、ご本人にとってはなかなか受け入れがたい(そして気づきにくい)ことかもしれませんが、これはもう厳然としてあるのです。自分の母語のレベルを過信してはいけないですね。

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https://www.irasutoya.com/2018/04/blog-post_91.html

ところで私も、別の学校では中国語母語話者と日本語母語話者が半々で在籍しているクラスで「中国語→日本語」の通訳訓練を受け持っています。そこでは、中国語母語話者以上に深く細かく中国語を理解し、かつ日本語母語話者を納得させられるだけの訳出なり説明なりをしなければならない、というプレッシャーを感じています。もとより私には荷が重すぎるのですが、仕事である以上できる限りの準備をして授業にのぞみます。

そうしたプレッシャーを感じる授業で、ときに中国語母語話者が気づいていない中国語のニュアンスを指摘できたり、日本語母語話者が探し当てられなかった当意即妙の訳を思いついたりしたときは、すごくうれしいです。そういう瞬間はそんなに多くないですけど。

フィンランド語 91 …分詞構文

教科書は新しい課に入って、「分詞構文」という文法事項が出てきました。これは書き言葉で圧倒的に多く用いられるものだそうです。分詞構文は二つあって、現在分詞の分詞構文と過去分詞の分詞構文をそれぞれ習いました。この構文は、口語では“että(英語の関係代名詞 that みたいなもの)”を使って言っていた文を書き言葉的に表すものらしいです。

Seppo sanoi, että Pekka on kotona.
ペッカは家にいるとセッポは言いました。
= Seppo sanoi Pekan olevan kotona.

下の文が分詞構文ですが、“että”が消えて、目的語が属格になり、動詞が現在分詞の対格になっています。この構文は動詞の目的語が“että”以下になっており、かつ肯定文でしか使えないそうです。だから例えば“Minua suututtaa se, että 〜”みたいな文章には使えません。しかも“että”以下の時制は動詞と同じか新しくなければいけません。“että”以下の時制が動詞よりも古い場合は、過去分詞の分詞構文を使うそうです。

Seppo sanoi, että Pekka on ollut kotona.
= Seppo sanoi Pekan olleen kotona.

さらに“että”以下の主語が人称代名詞のときには注意が必要です。

Antti uskoo, että hän tekee oikein.
アンッティは「彼」が正しいと信じています。
= ① Antti uskoo tekevänsä oikein.
= ② Antti uskoo hänen tekevänsä oikein.

分詞構文にしたとき、人称代名詞の属格“hänen”を入れるか入れないかで意味が変わります。①は「アンッティは彼(自分)が正しいと信じています」で、②は「アンッティは彼(アンッティ以外の誰か)が正しいと信じています」となるんだとか。しかも“että”以下の主語が人称代名詞の時は、分詞に所有接尾辞をつけるんですね。

Minä tiedän että minä olen oikeassa.
私は自分が正しいことを知っています。
= Minä tiedän minun olevani oikeassa.
= Minä tiedän olevani oikeassa.

この“minun”は「自分か、自分以外の誰か」という選択がありえないので、あってもなくてもよいそうです。

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Minä luulin hänen asuvan Tampereella.

2011年3月11日のツイート

「3.11」から10年ということで、報道各社が特集を組んでいます。新聞やテレビなど、数日前からそうした報道特集のいくつかに接してきましたが、当時を思い出して様々な感慨にふける一方で、どこか違和感のようなものも拭えませんでした。特に「復興」とか「教訓」とか「明日に向かって」のようなフレーズが強調されているものに対して。もちろんそれらも大切な言葉ではありますが、なにかこう、もう過去のこと・終わったこととして扱うようなスタンスを嗅ぎ取ってしまうのです。

実際には復興への注力もそこそこに、そして福島第一原子力発電所事故についてはその後始末もまだ端緒についたばかりであるのに、「アンダーコントロール」とかなんとか言っちゃって、オリンピック・パラリンピックに税金を含む巨費を投じてきたあげくにこのコロナ禍。現時点ではまだ福島から聖火リレーを始めようとしているようですし、あの日々の痛みを何かで急速に上書きして小綺麗なものにしてしまおうとするような不謹慎さを感じます。まだまだ震災被害は終わっていないし、原発事故の責任の所在も明らかにされていません。

そんな中で、薄れつつある当時の記憶を思い起こすために、当時Twitterでつぶやかれたツイートを地図上にマッピングするプロジェクトについて紹介した記事を読みました。

www.nhk.or.jp

当時のツイッターには、その時その時の人々の心が写しとられた状態で残っています。自分が忘れかけていたその日の出来事と接続して、リアルにその時を思い出せるようなトリガーになるものが多かったので、それをより多くの人に伝わりやすい形で提供できないかなって考えたのが、作るきっかけです。

なるほど。確かにTwitterのつぶやきは、とてもリアルな心のうちを示しているものかもしれません。特に当時はまだTwitterが使い始められてから日が浅く、現在のような「バズりネタ」重視やマウンティング目的のツイートで騒々しい場所というよりは、かなり素朴でまさに「つぶやき」という言葉がよりフィットするような場所だったような気がします。

じゃあ自分はどんなことをつぶやいていたのかと気になって、「twilog」で2011年3月11日のツイートを確認してみました。

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当時は飯田橋にある職場にいて、徒歩で西早稲田の自宅まで帰りました。Twitterがずっと機能し続けていてくれて、とても頼もしいなと思ったことを覚えています。部屋は13階にあったので地上より大きく揺れたのか、中はぐちゃぐちゃになっていました。そういえば13階まで階段を上ったのでした。そして、この時点では大津波のことも原発事故のこともまだほとんど知らない状態でした。それからの日々はいまでも深く印象に残っています。特に原発事故が深刻化してからは、かなりじりじりとした数日間を過ごしました。不思議に慌てたり取り乱したりはしませんでしたが。

こうやって当時のツイートを読んでいると、深い印象に残っているはずなのに忘れてしまっていた細々とした記憶がよみがえってきます。もう一度当時の気持ちに戻ってこの震災と原発事故を考えるよいきっかけになりました。14:46には私も職場で黙祷をしようと思っています。

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校則で下着の色を決める?

先日Twitterで見かけて、思わずリツイートしてしまったこちらのツイート。

「校則で下着は白と決まって」いるって、まだそんなブラックな校則が残っているのかと思いきや、残っているどころか地域によっては大勢を占めているみたいです。

www.yomiuri.co.jp

髪の毛の色もそうですけど、こんな不可思議な校則が現代でもまかり通っているなんて、学校現場はかなり狂っていますね。世上よく学校のセンセは世間知らずだからなどという物言いがあって、教師の端くれである私などは少々反発するところもあるんですけど、こんな校則が現存しているようじゃ、やはり世の中の見方考え方が世間とは乖離しているといわざるを得ません。

学校の先生方、それも多感な中高生を相手にしている先生方からすれば、髪型やファッションを野放図に認めてしまえば学校現場が「荒れる」という懸念があるのだと思います。でも本当にそうなのでしょうか。私が中高生の頃はまさにそんな「荒れた」学校現場が社会問題化していた時代でしたが、あの時代に比べたら現代の中高生はとっても大人しいと思います。むしろ、例えばかつての「ツッパリ」みたいなのって、却ってダサい、と思っているんじゃないでしょうか。

まあ私は主に東京の中高生しか見ていませんから地方の状況はどうだか分かりませんが。でも私の実家のある北九州市は、それこそむかし懐かしいツッパリスタイルをさらに極限まで進化させたようなド派手な格好をする成人式で有名な土地柄(?)ですが(すべての若者がそうではありません)、北九州の中高生だって、外見からみる限り昔に比べて一回りも二回りも大人しく洒脱になったように思います。

思うに、今でもブラックな校則が残っているのは、昔の「荒れた」学校現場を体験した世代の年配の先生方が、その恐怖体験に今も縛られているからじゃないでしょうか。少しでも緩めたら、またあの悪夢が再現される……というトラウマに囚われているのかもしれないと。でももうそんな時代じゃないのではないか。

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私がいま勤めている学校など、外国人留学生ばかりでそれはもう個性豊かな人ばかりです。ファッションはもちろん、髪型も、髪の色も、メイクも、アクセサリーも本当に色とりどりで華やか。今年はオンライン授業が多かったので学校はとても静かな日が多かったですが、普段なら、それも休み時間などになると、廊下はもう百花繚乱といった状態を呈します。見ていて眩しいくらい。私はそういう学生が行き来する様子を眺めながら、いつも「いいなあ……」とつぶやくのです。

いろいろな価値観・社会観・宗教観を持つ人たちが大勢集まっているので、髪の色だの服の色だのを云々すること自体ナンセンスというか、むしろしちゃいけない・すべきでない、という雰囲気です。それが当たり前だし、それでいいのです。ブラックな校則は「せーの」で全部やめてみたらどうでしょう。いっときは「ぶわーっ」と極楽鳥みたいな生徒が増殖するかもしれないけど、やがてみんなそれなりに収まって、あとには個性豊かな学生がいるだけ、という状態になるでしょう。楽観的に過ぎる? いえ、それでも個人の髪型や下着を他人がどうこう言うこと自体が許されないのです。ぜひうちの学校に見学に来てください。

腰痛は能のお稽古で治す

週末に自堕落な生活態度で読書三昧していたら、ひどい腰痛がぶり返しました。ちょっと歩いていても「カクッ」と腰折れしてしまいそうな勢いです。こういうときは、とにかく安静第一……ではありません。腰痛は動かして治す! 受け身の安静や湿布薬やマッサージでは、腰痛に土俵際まで寄り切られてしまいます。ここは能動的に攻めて腰痛にバックドロップをかますのです。というわけで、昨日の月曜日は予定通りお能のお稽古に行きました。

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https://www.irasutoya.com/2016/03/blog-post_821.html

いま五月の発表会を控えて『邯鄲』の舞囃子をお稽古しています。途中で舞えなくなったらそこで師匠にわびて中座しようと思っていたら、二回舞ううちに腰痛を忘れていました。とても腰が軽いです。師匠によれば、頭の上に糸がついていて、天井からまっすぐ吊り下げられているようなイメージで「ストン」と立つのが基本の構えのお能は、腰にも負担をかけないものらしいです。しかも帯を巻いてその上に袴の紐もキリッと締めれば、腰を固定するコルセットみたいになりますしね。

現在放映中のドラマ『俺の家の話』は能楽師一家のドタバタを描いたホームコメディですが、先週の最新話では素人のお弟子さんがお稽古をしているシーンがありました(このお弟子さんが実は……おっと、ネタバレになるのでやめておきましょう)。私は常日頃から能楽を観るだけではなくてお稽古する人がもっと増えないかなあと思っているのですが、「腰痛は能のお稽古で治す」というの、キャッチフレーズにしてはいかがですかね。

烟囱漫画集

美術を学んでいた頃、石膏デッサンが嫌いでした。西洋の古典的な彫刻の一部をかたどったもの……にコピーにコピーを重ねて、まるで室温に30分ほどおいたバターみたいに形の輪郭が緩んだ石膏像を、木炭や鉛筆で描くアレです。

絵画や彫刻を志す者であれば必須とされていた石膏デッサン。確かに陰影やマッス(物体の量感や立体感)を表現する技術を習得するために必要なプロセスなのだろうということは理解できましたが、あの黒々とした世界に何時間も何十時間も没頭していると、とても鬱々とした気分になりました。単に私には向いていなかったということなのでしょうけど。

そんな鬱々とした気分が画面いっぱいに展開されていながら、しかしかつて石膏デッサンを書いていたときにはついに自分で掴むことができなかった墨一色の魅力を発散している作品集に出会いました。中国の漫画家・烟囱氏の『烟囱漫画集』です。

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作者や作品の背景についてほとんど知らないままで読み始めたのですが、読んでいてかなり懐かしい気持ちになりました。ひとつにはその画風がマンガ雑誌『ガロ』などで活躍したつげ義春氏や菅野修氏などを彷彿とさせるからです(果たして、あとがきで菅野氏の名前が挙げられていました)。

とはいえ、描かれているのは紛れもなく現代の世界で、例えば冒頭に収められている『從北京到香港,從香港到台北。』では、ドブ川で拾ったシェア自転車の鍵をスマホで開けるシーンが出てきます。その一方で、ごくごく普通の北京の街角を描いているひとコマひとコマが、ものすごく懐かしい。それも“胡同”など古い街並みの懐かしさではなくて、高速道路脇の落書きとか、ほったらかしにされている大量の電線とか、野外にうち捨てられたソファとか、北京に住んだことがある人なら「あるある! こういう風景! これこそ北京!」と思えるような風景なのです。

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PM2.5のスモッグにけぶる世界を描いた“霧霾”など、コマによってはほとんど墨一色で塗り込められていて(この作品は絵の具で描いているよう)、何がなんだかよくわからないけれど、妙に実感があります。そういえば北京の、それも冬の北京の印象といえば、こうした墨(石炭)が圧倒的な存在感を持っているんですよね。

売店の情報によれば、この作品集は鉛筆など墨の質感を再現するために、墨と銀のインクを使って「デュオトーン(二色刷)」で印刷されているそうです。一見地味そうに見えて、凝った作りです。

その昔、マンガ雑誌にイラストなどを投稿する際「鉛筆ではなくペンで描くように」という注意書きがありました。鉛筆の線は印刷にうまく出なかったんですね。でもいまでは、例えばほしよりこ氏の『きょうの猫村さん』や、東京新聞に連載されている柘植文氏の『喫茶アネモネ』のように、鉛筆書きの線で描かれるマンガもあります(柘植氏は鉛筆で描いた線をスキャンして、そこにパソコンで色を乗せているそう)。

マンガ表現の多様性を感じる一冊。ただし物語の作風はかなり特異なので、読者を選ぶかもしれません。

フィンランド語 90 …「文法訳読」が楽しい

フィンランド語の先生が「フィンランド語の文章は、『簡単/難しい』という区別がなく『できる/できない』という区別があるだけです」と言っていました。とにかく語形の変化が激しいこの言語は、どんなに単純な文章であっても規則通りに変化が起こり、その意味では子供向けの文章であろうと、大人向けの文章や学術書であろうと、同じだと。

その一方で、そうした語形変化を起こしている規則を理解していなければ、それがいくら子供向けの易しい本であっても読めないと。なるほど。もちろん語彙の専門性や難解さに差はあるのでしょうが、とにかく規則(=文法)を理解していないと、語形が作れない。語形が作れなければ、読めない、話せないということなんでしょうね。その意味では、私たちが語学でよくやる「まずは子供向けの絵本などから読んでみよう」というのがフィンランド語ではあまり有効ではないようです。初手から普通の大人向けの本を読んでも、語形変化の多様さという点で、その読解のハードルは絵本となんら変わるところがない。

というわけで、私たちは毎週の授業で、えんえん文法事項を学びながら、ひたすら読解を続けています。会話練習はまったくありません。昨今きわめて評判の悪い「文法訳読」の世界そのもの。こんなに学んできているというのに、まだ大したことを口頭では話せませんし、リスニング力もお寒い限りです。他の言語の一般的な語学教室だったら「お金返せ!」の世界かもしれません。いや、実際そういう授業に飽きてしまうのか、辞めてしまう人もけっこういます。文法訳読が「できる」ようになるための学習ばかりやっているのですから。

それでもいま私が通っている教室のメンバーは、毎週もくもくとこの文法訳読を続け、けっこう楽しそう。私も楽しいです。そしてそういうメンバーが固定してきました。これはたぶん先生の「フィンランド語は語形変化こそその本質」とでもいうべき考え方に共鳴しているからだと思います(私もです)。文法を一通りさらって、なおかつ語形変化の規則を体に叩き込まなければ、話したり聞いたりすることがかなり難しい言語なんですね。

フィンランド語をはじめた当初は、「そのうち『ムーミン』の物語でも読んでみたいな」などと思っていました。でもトーベ・ヤンソンスウェーデン語系フィンランド人なので、同作のオリジナルはスウェーデン語なんですよね。さらに先生によると現地での『ムーミン』は、子供向けのおとぎ話というよりは、大人向けのかなり哲学的な内容の本だと認識されているよし。

フィンランドの書店で「これなんか易しそう」と思って買ってきた『Lasten oma aapinen』という子供のための童話集も、最初から大人向けの本同様に語形変化しています。当たり前ですけど、子供向けの本だから語形変化が少ない、なんてことはないんですよね。変化するものは、子供向けだろうが大人向けだろうが、必ず同じように変化するのです。

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いろいろ当てが外れました。そりゃフィンランド語にだって決まり文句みたいなのもありますし、それを暗記して口の端に登らせたりもしますけど、それだけじゃどうにもならない。語形変化が激しすぎるがゆえに、文の組み立てができるようになるまで、それも口頭でできるようになるためには、膨大な訓練が必要なようです。「悪魔の言語」と呼ばれるのも宜なるかな。でも、それが楽しいのです。

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