インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

プロに対する「タダでお願い」について

イタリア語通訳者のMassi氏が、こんなツイートをされていました。

いやはや、とんでもないお話ですが、「さもありなん」という感慨もいだきました。ここまで失礼なケースは珍しいとしても、通訳者や翻訳者に「ほんの少しだから(タダで)訳してくれません?」という依頼が舞い込むというの、この業界ではよく聞かれるお話だからです。

いや、語学業界だけではありませんね。この国では、様々な業界のプロにこうした「タダでお願い」が数多くなされており、その都度TwitterなどのSNSではその道のプロの方々から怒りの声が寄せられています。プロのイラストレーターに「ちゃちゃっと(タダで)描いて」、演奏家に「ちょこっと(タダで)弾いて」などと頼むというのが、その典型例です。

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https://www.irasutoya.com/2017/07/blog-post_962.html

私はいま「この国では」と書きましたが、実際のところ、こうした失礼な依頼、言い換えればプロの技術をリスペクトしない(そうした想像力が働かない)態度というのが、日本特有の現象なのかどうかはわかりません。諸外国でも「お友達だから(タダで)やってくれない?」という失礼な人たちはいるのかもしれません。

しかし、医師に「ちゃちゃっと(タダで)診察して」とか、弁護士に「ちょこっと(タダで)弁護して」という依頼が舞い込むというのはあまり想像できません。さするに、イラストレーターや演奏家の技術は、あるいは通訳者や翻訳者の技術は、医師や弁護士などの専門職に比べて簡単に習得できるものという思い込みがあるということなのでしょう。

もちろん医師や弁護士などのように、何かの試験や資格があるわけではないという職業もあるでしょう。通訳者や翻訳者だって、少なくとも中国語の場合にはプロであることを客観的に示すことができるような資格はありません。通訳案内士という国家資格があって、私も持っていますが、数年前からこの資格は「業務独占資格」だったものが撤廃され、有資格者以外も有償で仕事ができるようになりました。

それでも、いや、だからこそ、曲がりなりにもプロとして稼働している方々は、そうした資格などの後ろ盾にも頼らず、実力で仕事を獲得し、業界で働いてらっしゃるのです(私はもうとっくに開店休業常態ですが)。そんな方々に「ちゃちゃっと、タダで」と頼むことがどんなに失礼な行為であることか。

私もかつて、日本のある大企業の社員さんに、まったく悪気のない口調で「通訳さんって楽でいいよね」と言われたことがあります。日本では、通訳を「二つの言語が話せさえすれば、口先でちゃちゃっとできる、簡単な作業」と思われている方が多いのです。身体ひとつで、あるいは道具を使ってもせいぜいメモ帳とペンくらいで「楽な商売だよね」と。だから冒頭のMassi氏に対するあんな失礼な依頼も舞い込むのでしょう。

しかし、こうした風潮が私たちの社会のベースに一定量存在するのだとしたら、それは一部にこうした依頼を受けてしまう中途半端なプロ(と呼べるかどうかはわかりませんが)が一定量存在するということなのでしょう。なかには「まだプロとは言えないけれど、勉強になるから」という理由で受けてしまう発展途上の方も数多く存在するのかもしれません。

その仕事で食べていけるようになるまで、どのように仕事を獲得していくかというのは、私も経験したのでその難しさがよく分かります。勉強のためにタダで、あるいは破格の値段で仕事を受けるという段階も必要だ、という意見もあるでしょう。だからこの問題に対しての根本的な解決策はおそらく存在しないのではないかと思います。今後もこうした失礼な依頼が様々な業界で繰り返されることでしょう。

だから結局は、きわめて迂遠なことではあるけれども、ひとりひとりが他人の職業に対するリスペクトを持つという基本的な生き方の態度を涵養していくしかないのでしょう。特にそれを基礎教育の段階でもっときちんと学んでもらう……と。

語学業界に関してのそうした「基礎教育」を希望するとしたら、このブログでももう何回も申し上げていますが「言語リテラシー」とでもいうべきものをぜひ盛り込んで欲しい。言語とは何なのか、言語や文化の壁を超えるとはどういうことなのか、通訳や翻訳とはどんな作業をしているのか、多言語に分かれているこの世界とはいったいどういうものなのか、そんな世界で異文化間や異言語間のコミュニケーションを行う際にはどんな利害得失があるのか……。

それから、いまここに存在する失礼な態度に対しては、即異議申し立てを行うことです。幸いMassi氏の異議申し立てツイートには現時点で12000近くのリツイートと、32000あまりの「いいね」がついています。こんな態度はおかしいと感じる方がこれだけいらっしゃるというのは、とても心強いことです。