インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

旅の効用 人はなぜ移動するのか

昨年ベストセラーになった、ハンス・ロスリング氏の『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』に、「世界はどんどん悪くなっている」と考えてしまう「ネガティブ本能」について書かれた一章がありました。ネガティブなニュースは耳目を集めやすいためどんどん伝わってくるのに対して、ポジティブなニュースはことさらに取り上げられることが少ないため、全体として「昔はよかった」と思い込む一方で未来に対して悲観的な見方をしがちだというのです。

そうした思い込みやバイアスを排して世界を正しく見つめようというのが同書の趣旨なのですが、ロスリング氏と同じスウェーデン人のペール・アンデション氏が書いた『旅の効用』(これまた欧州ではベストセラーになっているそうです)にもこれと通底するような指摘がありました。

憎悪に発展する可能性のある不安の九割は、見知らぬ事柄に対する無知、つまりは、故郷以外の世界を知らない経験不足が原因だと私は確信している。(310ページ)

本当にそうですね。ネットにはレイシストのみなさんがあまた跳梁跋扈していますが、その発言や書き込みを読むと、現地の状況や現地の人々と直に接したことがないのが透けて見えます。いちど旅にでも出てみれば、そして現地の人々と行き会ってみれば、ずいぶん違う印象を持つはず。その上で批判すべきところがあれば批判し、恥じるべき無知は恥じて世界観をアップデートさせればよいのです。

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旅の効用:人はなぜ移動するのか

旅に出てみれば、しかもそれが、何もかもお膳立てされたパックツアーやお金に物を言わせた豪華客船のクルーズなどではなく、可能な限りの少人数(理想は一人)とノープランであればあるほど、それまでの自らの価値観や世界観が大いに揺さぶられるものです。読書にもその「効用」はありますが、やはり実際の旅において、精神だけでなく肉体でも感じられるあれやこれやは、確実に自分の視野を広げ、無知を解きほぐしてくれます。

ペール・アンデション氏はスウェーデンの旅行誌『ヴァガボンド』の共同創業者で、バックパッカー・ヒッチハイカーとして世界各地を旅行してきた人物だそうです。この本にはそんな氏の経験から紡ぎ出された、旅に関する様々なエッセイが収められています。特に「リピーターを笑うな」と題された一節には大いに共感しました。

人は遅かれ早かれ、絶えず新しい場所を訪れようとはしなくなる。ビールのジョッキや各種の鳥をコレクションするように、旅の体験をコレクションしようなどとはしなくなるのだ。そうしたコレクションなど無意味だと、不意に感じるようになるのである。

そうそう。私も以前は、世界中の「ここにも行きたい、あそこにも行きたい」と思い、とはいえそうそう海外に出かけられるわけでもないため一種の焦燥感のようなものにとりつかれていたのですが、最近はかなり旅に対する考え方が変わりました。むしろ同じ場所を何度もたずねて、まるで別の自宅に「ただいま」と戻ってきたかのような感覚を味わうのが楽しくなってきたのです。

しかも事前に入手していた有名な観光スポットの情報やビジュアルを再確認するだけのような旅ではなく、観光地でも何でもないごくごく普通の街の、市井の人々が暮らしているエリアに(できるだけ邪魔にならないように)分け入って、ノープランでただただ流れに身を任せるような旅が楽しいと思えるようになりました。

スケジュールに追われることもなく(とはいえ、始まりと終わりだけはどうしたって決めなきゃならないですが)、誰かにお土産を買わなきゃなどと思うこともなく、観光地ではないので他の観光客ともほとんどすれ違うこともなく、従って観光客目当ての客引きや物売りの人々に旅情をぶち壊されることもなく……現在の感染状況が落ち着いたら、またそんな旅に出かけたいです。

こんなある意味わがままな旅は、やはり同行者がいると実現しにくいです。というわけで、家族には申し訳ないけれど、次回もまた一人で旅に出かけることになると思います。

フィンランド語 87 …日文芬訳の練習・その20

東京という街は、気候的にはあまり過ごしやすい場所ではないと思います。夏は異様に蒸し暑いですし、冬は異様に寒いですし。東京の冬程度で「寒い」などと言ったらフィンランドの人に怒られそうですけど、たしかに屋外の寒さはそれほどでもないものの、屋内が寒い・屋内の快適さに乏しいと思います。

理由はセントラルヒーティングが発達していないから。もちろん床暖房など立派な設備がある建物は別ですけど、私のような一般庶民の「ウサギ小屋(死語?)」の室内は、冬が本当につらいです。かつて過ごしたことのある北京や天津の冬は、厳しかったけれども屋内が天国でした。身軽に過ごせて、かつ洗濯物なんかもすぐに乾いちゃうあのスチームの快適さが恋しいです。

台湾の夏は、気温こそ東京より高い日もありますが、南国特有のカラッとした太陽の光で、あれはあれで「いさぎよくて」好きです。台湾もそこそこ蒸し暑いですが、東京のあの、なんともいえない不快さが少ないように思います。まあこれも「隣の芝生は……」のたぐいで、外国だから贔屓目に感じているのかもしれませんが。

自分で作文をしたときは、「東京の夏」とか「冬」というのを “kesät Tokiossa” とか “talvet”などと複数主格で書いていたのですが、“kesällä Tokiossa on 〜” のように所有文で表すのが普通だと直されました。こういう語感が(当たり前ですけど)まだまだ全く育っていません。

以前、台湾に住んでいました。南国なので夏はとても暑いですが、意外に快適です。私は東京の夏のほうが過ごしにくいと思います。それは暑い上に湿度が高いからです。中国の北方にある北京にも住んでいましたが、冬は川や池が凍るほど寒いものの、やはり意外に快適でした。暖房設備がしっかりしていて、部屋の中はTシャツ一枚で過ごせるほど温かいからです。日本の北海道も同じだと聞きました。私は、暖房の貧弱な東京が日本で一番寒いのではないかと思います。


Ennen minä asuin Taiwanissa. Se on eteläinen maa, ja kesällä oli erittäin kuuma, mutta yllättävän mukavaa. Minusta kesällä Tokiossa on huonompi Taiwanissa, koska sää on sekä kuuma että kostea. Olin asunut myös Pekingissä, joka on pohjoinen kaupunki Kiinassa, ja talvella oli hirvittävän kylmä, kuin joet ja lammet jäätyisivät. Mutta on myös suhteellisen mukavampi viettää kuin Japanissa, koska keskuslämmitykset ovat täydellisiä, ja me voitaisiin asua huoneissa vain t-paidassamme. Kuulin, että talvet Hokkaidossa Japanissa ovat samoissa tilanteissa. Minun mielestäni Tokio on Japanin kylmin kaupunki, koska sen lämmityslaitteet ovat niin puutteellisia.


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翻訳の授業 東京大学最終講義

「翻訳の正しさは原文とは無関係で、百パーセント現実との照合で決まる」と筆者の山本史郎氏は主張します。つまり原文と訳文の間の語彙や文法などよりも、その二つの文が現出させる世界がぴったりと一致していることが何より大切なことなのだと。

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翻訳の授業 東京大学最終講義 (朝日新書)

ここではもはや「直訳か意訳か」という問いは意味を持たず、原文と訳文の間に横たわる様々な言語的要素(文法・語彙・音韻・文体・意図……)を検討しながら、その間にどれだけの「相似性」を持たせることができるかに翻訳の成否はかかっているというのです。

そしてまた、AIの登場で実務翻訳は限りなく「通訳」の領域に近づいて集約されて行き、しかもその集約されたまるごと全部を近い将来AIによる「訳」が担い、一方で人間がこれからも担い続けるのは文学の翻訳のみであろうという予想も提示されています。

 (文学テクストは)統計的確率を基本原理とし、例の数の多さが適切性の判断の拠り所となる機械翻訳とは、全く逆向きのベクトルを持ったものです。
 これに対して、情報を正確に伝えることが目的の実用テクストについては、近い将来、AIの発達とともに、すべてコンピュータで翻訳の行われる時代が来るでしょう。そして、このような「実用テクストの翻訳」とは、言い換えれば、文書をも含めた意味での「通訳」の領分にほかなりません。つまり口頭・文書をとわず「通訳研究」はAI研究のなかに吸収されてしまうだろう、ということです。(91ページ)

ごくごくシンプルに言い換えるならば、通訳者と実務翻訳者はAIに取って代わられ、文芸翻訳者だけが人間の職業として残るということですね。この見立てに対して、みなさんはどう思われるでしょうか。

私自身は、ことはそう単純ではないのではないかと思いました。口頭における人間の発語は文章ほど整っていないこと(口述された文章ひとつとっても、文章になったものと実際の音声にはかなりの隔たりがあります)、音声の持つニュアンス(高低・速度・間・声色・語気・語勢・滑舌など多くの要素)が発話に大きな意味を与えていることなどからです。またすべての発話が「実用テクスト」と「文学テクスト」に峻別できるのだろうか、きわめて実務的な発話であっても文学的な要素が織り込まれることはあり、むしろ両者はグラデーションを成して存在しているのではないかとも思いました。

それでも、この本で示されている「翻訳観・通訳観」に新鮮な驚きがあったことも確かです。そしてまた、プロの翻訳者がどれほどの精魂を傾けて原文に向き合い、それを上回るほどの精魂を傾けて訳文を(なかんずく日本語を)書いているのかについても圧倒されました。

「AIの普及で通訳者や翻訳者の仕事はなくなってしまうのでしょうか?」と生徒さんによく聞かれるのですが、そんな生徒さんにはまずこの本を薦めてみることにいたしましょう。読んだ上で、それでも通訳者や翻訳者を目指したいと思えるかどうか。もっとも例文がすべて英語なので(山本氏が英文学者なので当たり前ですが)、中国語クラスの生徒さんにはあまりピンとこないかもしれませんけれども。

アップデートされていない

フィンランド語のニュースサイトをのぞいていたら、橋本聖子五輪担当大臣が東京オリンピックパラリンピック組織委員会の会長就任要請をうけたという話題が載っていました。見出しには“joutui vielä selittelemään omaa ahdisteluskandaaliaan(自らのセクハラスキャンダルについて、なおも説明する羽目に陥った)”と大書されています。

www.hs.fi

MYÖSKÄÄN Hashimoto ei ole säästynyt kuprulta. Hän oli keskellä seksuaalisen häirinnän skandaalia vuonna 2014, kun hänestä ja häntä yli 20 vuotta nuoremmasta miestaitoluistelijasta levisi valokuvia, joissa kaksikko halasi ja suuteli.


橋本氏も過ちと無縁ではありません。2014年には、20歳以上も若い男子フィギュアスケート選手に抱きついてキスをしたというセクハラスキャンダルのまっただ中にありました。

日本から遠く離れた北欧フィンランドのニュースでさえ「ハラスメント」が見出しに。諸外国ではこうしたセクハラがどれだけ重みを持って受け止められるかがよくわかります。日本のメディアはこの点にやや及び腰ですが、この件に関する視点があまりアップデートされていないように思えます。本当に恥ずかしい。

そうしたら、自民党竹下亘氏がこの発言です。

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▲今日の東京新聞朝刊より。

「男みたいな」を批判されそうなので「男勝り」にしたと。これでニュートラルな表現に戻したと思っているとしたら、何が問題なのかをいまだにまったく分かっていないですよね。というか、日本語の感覚自体がもう何十年もアップデートされていないようです。言葉の吟味が粗雑すぎます。言論の府たる国会に仕える議員としても失格ではありませんか。

今年の箱根駅伝でも「男だろ」と選手を鼓舞した監督がいましたが、こうした主に中高年のオジサン・ジイサンたちの周回遅れっぷりは本当に腹立たしい。言葉狩りじゃないかって? いいえ、日本語には他にも、人を評価し、鼓舞する言葉があまたあります。自分の言語感覚をアップデートさせ、現代に即した価値観を身につけましょうよ。

大きな声で訳してください

「もっと大きな声で訳してください」。教室で、このフレーズを何度言ったか分かりません。たぶん千回は超えているんじゃないかしら。いえ、これは誇張でも何でもなくて。通訳訓練で、生徒さんの声があまりにも小さくて、すぐそばにいるのに聞こえにくいことが多く、「もっと大きな声で」とお願いするのですが、それを聞き入れて次から大きな声で訳そうと努める方は……ほとんどいません。

「どんなにリスニングができて、脳内に名訳が閃いたとしても、相手の耳に届かなければ通訳として成立しない。そしてクライアント(お客様)は通訳者の話す声(デリバリー)でもって、その通訳者の評価を行う」と私の恩師は言っていました。本当にその通りで、クライアントは通訳者がどうリスニングしているか、頭の中でどう訳しているかは分かりません。ただただ、自分の耳に届いた通訳者の声(大きさ、速度、滑舌、表現……)でのみ訳出の善し悪しを判断している。その声さえも届かないのであれば、これはもうどんなに上手な訳出をしても結果はゼロですよね。

それを授業で何度も伝えます。でもかたくななまでに大きな声で訳そうとしません。恥ずかしいということもあるでしょう。みんなの前で変な訳出をしたら恥ずかしい。人前で話すこと自体が恥ずかしい。でも通訳という作業は、その人前で、他ならぬ自分の訳出を他人の耳に聞かせる作業です。もちろんまだ訓練段階だから、何もかも理想的にできるわけはありません。でも、少なくともそれを目指して進んでいかないと。少しでも大きな声で話すようにしないと。それができないのなら、する気がないのなら、やめるしかありません。

……というようなことを、以前は教室でエラソーに言っていました。もっと以前には「大きな声は出せません」という生徒さんに「でもあなたの家が火事になったら大声で『火事だ!』とか『助けて!』とか言うでしょう? 大きな声が出せないなんてウソです」などと迫ったりもしていました。でもいまはもうそんなことは言いません。昨日のエントリでも書きましたが、結局はご本人の学びの姿勢いかんであり、その人の生き方の問題なんです。それにきょうび、こんな態度で授業にのぞめば、きっとパワハラで訴えられることでしょう。

それにオンライン授業では、逆に大声を出すことが求められません。また逐次通訳ならともかく、マイクを通して訳す同時通訳でもそれほど大きな声は必要ありません。そう考えると、ただやみくもに「大きな声で」と求めるのも間違っているような気がします。要するに、場に応じた声の大きさを使い分けられることが求められるのでしょう。

あ、生徒さんの声が聞こえないのは、私の耳が遠くなっているからという可能性もあります。……が、いちおう今のところは健康診断でも「所見なし」ですから、それはないと思います。たぶん。そして、授業が終わって休み時間になると、みなさんものすごい大声で楽しそうにしゃべっているのです。

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https://www.irasutoya.com/2014/04/blog-post_3366.html

試験も評価もやめてしまいたい

学年末が近づいてきまして、私の奉職している学校でも期末試験が始まりました。進級や卒業がかかっているので留学生のみなさんもかなり真剣です。私は自分の担当科目の試験問題を作ったり、他の科目の試験監督を請われたり、試験後は採点に追われたりと、この時期はかなり忙しいです。

一定数の学生がいればカンニングなどの不正行為も起こりうる、ということで、教師のみなさんも防止策にあれこれ頭を使ってらっしゃいます。試験教室に持ち込める資料を制限したり、スマホをしまうよう指示したり……。私も長年そんな感じで試験に臨んできましたが、ここ数年はちょっとある種の「むなしさ」を覚えるようになり、もうこういうのは一切いらないんじゃないかと思い始めました。

もちろん学校である以上、それも卒業すると公的な資格が付与されるという枠組みの学校である以上、試験を行い、単位を認定し、卒業資格を満たしていることを客観的に示すことが求められます。だから実際には試験も評価も行わないというわけにはいきません。いっぽうで学生さん(うちの場合は全員外国人留学生です)も「いかに少ないリソースで最大限のリターンを得るか」という原理で動いている方が多いように見受けられますから、試験に臨むときだけ目の色が違うというのも当たり前すぎるほど当たり前であって、今さら私が嘆いてみせるようなことでもありません。

だいたい、うちの学校は義務教育でもないし、ご本人が学びたくて自分から入学してきた学校です(ま、中には親御さんの意向でという方もいるかもしれませんけど)。学びたい人は学べばいいし、学びたくなければ学ばなければいい。自分で精一杯学んで、その実力を測るのが試験なんですから、ふだんの授業は適当に流しておいて、試験の時だけ真剣になるというのもねえ……。もちろん、そんな学ぶ意欲に充分応えられるほどの教材や教案を、ふだんからお前は提供しているのかという批判は甘んじて受けるつもりですが。

というわけで、今回の期末試験は「なんでも持ち込み可」にしました。CALL教室で一斉に音声と映像を流して、長文逐次通訳を行うという試験です。内容はいま大きな問題になっている「海洋ゴミ」に関する話題の講演で、事前に背景知識をじゅうぶんに学び、講演の際に使用されるスライド資料も配付し、各自グロッサリー(専門用語集)を作るということもやりました。要するに実際に通訳者がこの仕事を承けたとしたらやるであろう作業を行ったのです。

その上で逐次通訳することを期末試験として課したわけですが、いまのこの時代、講演の音声や映像はインターネットで探そうと思えばすぐに見つかります。学生さんがその気になれば、あらかじめすべて視聴した上で全訳を作り、試験の時にはただ読み上げるだけというのも可能です。でも、それだっていいじゃないかと思うのです。

そんなことをしても自分自身の通訳技術向上には意味がないと思う人はまっとうに準備して実力で試験を受ければいいし、徹底的にラクをしようと思えば全訳を持ち込んでもいい。人それぞれの選択です。それにラクをしようと全訳を作るというのだって、けっこうな勉強になります。もちろん「少ないリソースで最大限のリターン」を徹底する方は、何人かで手分けして全訳を作って負担を減らすという挙に出るかもしれませんが。

いちおう教師の立場上、そして通訳訓練の意義という点からも、「そういうこと」をしていては実力の練磨にならないことだけは伝えますけど、あとはその人次第です。本当に学びたいのかどうか、自分を高めていきたいと思うのかどうかの問題、その人がどう生きて行きたいかの問題なんです。

もちろん「そういうこと」をしようとする人は少数派で、多くの留学生のみなさんはとても前向きに取り組んでいますが。とにかく、試験というシチュエーションで、学生と教師がお互いに戦々兢々として監視したりされたりというの、不毛だなあ、やめたいなあと思うのです。やはり私は教師という仕事に向いていないのかもしれません。

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https://www.irasutoya.com/2015/10/blog-post_205.html

遺言未満、

紙の新聞って、すっかりお年寄り向けのメディアになっちゃいました。いつも職場の図書館で新聞各紙を読んでいるのですが、まずそこに載っている広告の、ほとんどが中高年やお年寄り向けだなあと思います。そして気がついてみれば基本的な事実を述べる記事(基本的な事実さえ述べない大手メディアも多いですが、ここでは触れないこととして)以外の文化欄や家庭欄などは、すでにして若い人が読むことをほとんど想定されていない記事ばかりです。

日経だけは現役のビジネスパーソンも多く読んでいるからか、ちょっと記事や広告の毛色が違いますが、それでも紙面から、お若い人が積極的に読みそうな気配は伝わってきません。それに、かつて台湾に住んだときに強く感じたのですが、日本の紙の新聞って、とてもシンプルというか地味な作りなんですよね。台湾の大手各紙は表紙も中身も色刷りが多く、ビジュアルに訴える割合が随分高いように感じたものでした。

それはさておき、紙の新聞で毎週楽しみにしているのは「書評欄」です。大手各紙の書評欄を読んでいると、読みたい本が次々に出てきて困るのですが、書籍にだけはあまりケチらしないようにしています。それでも新聞の書評欄だけで本を選んでいると、やはり中高年の読者を想定した本、あるいは中高年の心により響く内容の本に偏ってしまうような気がしています。

もちろんいい本はどの年代の方が読んでも心に響くものですが、なにせ選ぶこちら側もすでに中高年なのです。中高年向けの新聞で、中高年の読者の心に響く本を多く紹介している読書欄を読んで、中高年の私が選ぶのですから、どうしたって「そういう本」ばかり発注することになる。そしてまた、そういう本がやけに心にしみてくるから困ったものです。

椎名誠氏の『遺言未満、』も、新聞の書評欄で知って読んだ本でした。私は氏がお若い頃からの活躍を雑誌や本で読んできた世代です。ただ個人的には、氏が世界中の大自然を相手に繰り広げてきた元気いっぱいの冒険譚をやや斜に構えて読んでいたところがあり、特に氏と氏の仲間たちの間で繰り広げられるホモソーシャルな関係性にはちょっと苦手意識を持っていました。

この『遺言未満、』にも、そんなホモソーシャルな関係性の一端が顔を出します。けれども、70歳代半ばに達した氏の文体は、わずかに往時の「昭和軽薄体」が感じられるものの、以前よりずっと穏やかで円やかなものになっていました。そして自らの老いと死をどう受け入れ、最後にどうしたいのかについての考察には共感する部分がたくさんありました。

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遺言未満、

世界中を旅してきた椎名氏だけに、世界中の異なる文化や宗教のもとでの「葬送」の方法について紹介し、考察が加えられています。日本で一番ポピュラーである、カロウト式(墓石の下の骨箱に遺骨を納める方式)の墓に眠るのはイヤだというの、私も全く同じ気持ちなので特に共感を覚えました。

世界の葬送を俯瞰してみれば、この日本式の葬送が決して普通ではない、いや、もっとありていに言ってしまえばあまり根拠のない、その意味では本当に個人の供養になっているのかも疑わしい、そして何より死んでいく自分自身にとってもとても理想的と言えるものではない……ということごとが分かってきます。

いろいろな葬送の方法とその死生観の中で、私はチベットの鳥葬に惹かれました。もちろん鳥葬そのものはそのビジュアルを想像するだけで少々たじろぎますが、その背後にある死生観には惹かれます。椎名氏のお連れ合いが実際にチベットで鳥葬に立ち会ったことがあるそうで、そのあらましが紹介されているのですが……

 読経のなか、三人の遺体は一時間もたたないうちにあとかたもなくたいらげられてしまった。獲物がなくなるとハゲワシらはさっさと空の彼方に飛んでいってしまう。あとには骨の一片すらのこらない。(中略)弔いの期間に故人を偲ぶ品物、日記のたぐい、写真、大切にしていたものなどはすべて廃棄、焼かれてしまう。この世に生きていた痕跡をそっくり無くしてしまうのだ。「転生」のためだという。これは徹底していて家族で写した写真などは故人の顔だけ丸く切り取ってしまう。
 これには驚いたが、その人の死というものをこの世からすっかり消してしまうから、いろいろさっぱりする。当然仏壇もないし、戒名なんてのもハナから論外だ。このチベットの葬送を理解すると金ばかりかかる日本の葬儀がいかに歪んでいるか、ということが感覚的にわかってくる。鳥とともに天空に消えていく故人に「あこがれ」のような感覚を抱いてしまう。(158ページ)

死んだあとは、この世に一切の痕跡を残さないというの、いいではありませんか。私も死期が迫ったら、このチベットの死生観に倣って身の回りのものを整理したいです。もちろんこのブログもSNSもすべて削除して、持ち物もどんどん減らして。鳥葬……というわけには行かないでしょうから、椎名氏が希望されているのと同じように、火葬してもらって海に散骨というのがいいなと思っています。 

その外語を学んで楽しい?

中国の中学生や高校生に、日本語学習者が急増している理由は? 答えは「大学入試で受かりやすいから」。先日の東京新聞朝刊に興味深い記事が載っていました。

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「漢字が共通して発音も難しくない日本語学習は『最初のハードルが低い』」ため、英語で大学入試に挑むよりも得点がとりやすいのだそうです。へええ、そうなんですか。でも記事では「日本語受験で大学に入ったものの、入学後に学習を放棄する学生も珍しくない」、「学習者の増加に教員の養成が追いつかず、日本語人材の増加に結びつかない」、「日本への留学を希望する中国人は急増しているが、大学に入れる日本語レベルの学生は増えていない」と、その問題点も指摘されています。う〜ん、色々と考えさせられます。

語学にはもちろん「道具(ツール)」の側面もあるから、大学入試の道具に使って何が悪いと言われれば、返す言葉はありません。でもそういうふうに外語を学んで、はたして楽しいのかな。もとより入試に楽しさなど求めてない? それはそうかもしれませんが……。

以前、通訳の仕事で、ある企業の中国人職員研修にお邪魔した際、そこにいたエリート中国人社員がこう言っていたのを思い出しました。「俺は本当は日本になんて来たくなかったんだ。アメリカに行きたかったんだけど、日本企業に就職してしまったものだから……」。彼はそこそこ日本語が話せるようでしたが、もしかするとこの新聞記事に出てくる学生さんたちと同様のネガティブな理由で日本語を選んだおひとりだったのかもしれません。

でもまあ、そんな「本当は日本になんて来たくなかった」さんはともかく、最初はそうやってツールとしか見ていなかった日本語になぜかハマって、日本を深く理解したり、日本に別の視点で色々と言ってくれたりする人が出てくるかもしれないので、日本語を学ぼうとする人が増えること自体はいいことですよね。コロナ禍で中国を含め海外からの留学生が極端に減っている日本語教育機関や学校にとっても、これは以外な「朗報」になるでしょう。

ただ、記事にある「(日本の)大学に入れる日本語レベルの学生は増えていない」というのは、自分の周囲からの実感としても頷けます。漢字が共通しているからラク、というスタンスで学んでいると本当に伸びません。これは中国語圏に留学する日本語母語話者にも共通することかな、と思います。私は、英語が苦手だから中国語「でも」という高校生や、高校生の親御さんからの相談を受けたこともあるのですが、そこには上掲の記事と同様の心性があると感じます。

あくまで私の周囲で十数年観察してきた上での感慨に過ぎませんが、華人留学生の多くは日本に留学しても音声のインプット・アウトプットが手薄になりがちです。このあたり、非漢字圏・非中国語圏の留学生ときわめて明確なコントラストを成しています。これは私の仕事における大きな課題の一つです。

qianchong.hatenablog.com

外語を学ぶ目的は人それぞれで、それが大学入試突破のための「踏み台」であろうと、少しでもラクをしようという「経済効率性」からであろうと、私がとやかく言うことではありません。ただ、外語学習という膨大な時間と手間を費やさなければモノにならないような代物に、あたら青春の貴重な時間を捧げちゃうのはすごく虚しいような気がします。理想論かもしれませんが、やっぱり本当に好きなことを学ばないと。あるいは少しでも好きなことを学べる方向に一歩でも二歩でも歩み寄っていかないと。

こう言うとみなさん「またまた〜嘘でしょ」と信じてくださらないのですが、かつて私が中国語を学ぼうと思ったとき、それが経済発展著しいかの国で仕事になるとか就職に有利などとはまったく考えていませんでした。ただただ中国語の音がきれい! 簡体字が妙ちくりんで面白い! というオタク的な趣味で。

もちろん、しばらく学んでから「あ、これは仕事に使えるようになるかも」とは思いました。でも中国語学校のクラスメートとは「仕事にしちゃったら、もう楽しめないよね」と話し合っていました。彼は今でも中国語オタクのまま思う存分楽しんでいます。仕事にしちゃった私は……う〜ん、たぶん今現在はそこまで楽しめてはいないかもしれません。

最近私がフィンランド語に「逃避」しているのは、きっとそんな理由だからだと思います。とにかく中国語とは全く違う雰囲気の言語を楽しんで学びたかった。入試や就職などの「現世利益」的な理由でフィンランド語を選ぶ人は、多分ほとんどいないんじゃないかしら。……などと言えば、フィンランド語でお仕事をされている方々には大変失礼かもしれませんが。

五輪を弔う

森喜朗氏の女性蔑視発言に端を発する五輪組織委員会のゴタゴタが尾を引いています。思い起こせばこの五輪、その招致時から賄賂疑惑や「アンダーコントロール」の吹聴など数多くの問題があり、招致が決まってからも新国立競技場の建設、エンブレムの盗作疑惑、「炎天下のタダ働き」ボランティア、酷暑への対応によるマラソンの札幌移転、コロナ禍による延期や開会式の演出変更、そして今回の会長辞任と、常に問題が起こり続けてきました。

当初の「コンパクト五輪」という目標も、実際には税金を含めて3兆円(!)以上のお金が投入され、さらに今後も増え続けて行こうとしています。福島第一原発事故の収束も全く見通せない中での「復興五輪」というフレーズも噴飯ものですし、「人類がコロナに打ち勝った証として」も、いや、全然打ち勝ってないどころか、今夏までに「打ち勝つ」見込みも見えないですから。ここまで問題が噴出し、もはや異形のなにかに成り果ててしまった東京五輪に対して、スポーツ教育学者で元ラグビー日本代表平尾剛氏が、こんなツイートをされていました。

平尾氏は以前から「過剰な勝利至上主義がスポーツの創造性やアート性を損なってしまっている」と、五輪の問題を指摘してされていました。このツイートに続くスレッド全体をぜひお読みいただきたいと思います。私は平尾氏の主張に心から同意するものです。

qianchong.hatenablog.com

特にスレッドの最後で平尾氏は、「スポーツと五輪を切り離し、肥大化した五輪を適切に弔う」必要を訴えています。「五輪を弔う」。近代五輪はすでにその役割を終えたのにも関わらず、ずるずると商業主義で延命を図った結果、まるで『千と千尋の神隠し』に出てくる肥大化したカオナシみたいな存在になってしまっています。

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スタジオジブリのフリー素材からお借りしました。

私はいま、近代五輪はすでにその役割を終えたと書きました。フランスのピエール・ド・クーベルタン氏が古代ギリシャの祭典を再興したスポーツ大会開催を提唱し、1896年にギリシャアテネで第1回大会が開催されてから120年あまり。商業化に舵を切ったといわれる1984年のロサンゼルス大会で決定的に変質してしまった五輪は、2004年のアテネ大会あたりで「一巡」ってことで、きっぱりやめておけばよかったと思います。平尾氏も指摘するように、すでに五輪は「『平和の祭典』という建前で一部の人達が私腹を肥やしてきた商業イベント」になり、アスリートにとっても観客にとっても、また開催国や開催都市の住民にとっても「興醒め」の存在になっています。

しかも、私はこれを最近知って自分の不明を恥じたのですが、クーベルタン氏の提唱に始まる近代五輪の「オリンピック憲章」にある根本原則、そこに謳われている「いかなる差別をも伴うことなく」という高らかな宣言とは裏腹に、そもそもそのクーベルタン氏自身が女性蔑視思想や優生思想の持ち主であったという事実(それが当時の上流階級の通念だったとはいえ)。今回の森喜朗氏の発言は、その意味では近代五輪が根本的に抱え続けていた問題の系譜にまっすぐ連なるものだったのかもしれません。

mainichi.jp

千と千尋の神隠し』で、油屋の従業員である青蛙を飲み込んだのを契機に、大量の料理を暴飲暴食して巨大化し、次々に従業員を飲み込んで膨れ上がっていったカオナシのような五輪。私たちはいま、カオナシが飲み込んだものをすべて吐き出させ、銭婆の所に送って弔ってあげなければいけません(私はあのシーンを「鎮魂」と読み解きました)。もはや金儲けが目的の人以外には何の意義も持たなくなった五輪を弔う。きちんと弔うことは大切です。そうしないと、今後も化けて出ますから。

フィンランド語 86 …日文芬訳の練習・その19

森喜朗氏は五輪組織委員会の会長を辞任しましたが、その後継を巡っても引き続きドタバタしています。つくづく、今回の問題は森氏ひとりの資質のみならず、この国の政治や社会のあり方全体が問われているように思います。人間の資質はもちろん年齢だけで判断できるものではありませんが、もっと早くから次の世代、若い世代に引き継いでいくことを考えていかないと、それをきちんとした制度としても確立していかないと、と思いました。

作文では「隣の芝生は……」を最初““Naapurien ruohot ovat aina vihreämpää(隣の芝生はいつもより緑色に見える)”と書きました。ネットで検索すると英語の“The grass is always greener on the other side”の対訳というか定訳として“Ruoho on aina vihreämpää toisella puolella”が紹介されていたのですが、あえてそれを使わずに自分で考えて書いたのです……が、添削では案の定直されました。成語や慣用句に徒手空拳で挑むのは十年早いっちゅーことですね。

先週、日本の森元首相の女性蔑視発言がありました。「女性の発言時間が長すぎて、なかなか会議が終わらない」と。このニュースは世界に広がり、英語でも中国語でも報じられました。フィンランドの国営放送局Yleもフィンランド語で詳しく紹介しており、とても恥ずかしく思いました。フィンランドは閣僚の半数以上が女性で、35歳未満の大臣も4人いるそうです。「隣の芝生は青く見える」と言いますが、ちょっと青すぎて目が眩みそうです。


Viime viikolla Japanin entinen pääministeri Mori halveksii naisia : Kokouksissa naiset puhuvat kauemmin kuin miehet, kokousta on vaikea lopettaa. Tämä uutinen levisi maailmaan, sekä englanniksi että kiinaksi. Suomalainen Yle esitteli myös laajasti suomeksi, minua hävetti hirveästi. On sanottu, että Suomen hallituksessa on yli puolet naisministereistä, lisäksi heillä on myös neljä alle 35-vuotiasta ministereitä. “Ruoho on vihreämpää aidan toisella puolella”, mutta he ovat häikäisevän kirkkaita, koska minusta se on liian vihreää.


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https://yle.fi/urheilu/3-11776952


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https://www.kaleva.fi/paaministerin-henkilolla-on-valia-hallituksen-julk/1650741

フィンランド語 85 …動詞の変化ワークシート

フィンランド語の教室はオンラインでの授業が続いています。ここのところは授業の最初に「基本に戻って復習しましょう」ということで、私たち生徒が2〜3人ずつZoomのブレイクアウトルームに分かれて、動詞の復習をしています。誰かが動詞の日本語を言って、他の人がフィンランド語で答えるという、一種のクイックレスポンスです。

単に動詞を言うだけじゃなくて、時には「過去形で」とか「一人称から三人称まで単数・複数をセットで」とか「受動態の過去分詞で」などの注文もつけます。なかなかスリリングですが、先日も動詞の変化がすらすらと出てこなくて、冷や汗をかきました。最近忙しさにかまけて、動詞の変化をあまり練習していなかったのです。

これではいけないと思って、また動詞の練習を習慣化するべく頑張っているのですが、人称と時制と単数複数をすべてやっていると、膨大な量の動詞をなかなか消化できません。ということで、以前自分でもブログに書いた能動態と受動態の現在形・過去形・過去分詞だけ作るワークシートを作ってみました。ひとつの動詞に対して、こういうバリエーションを作ります。

能動態(主語あり) 受動態(主語なし)
現在形 現在形
過去形 過去形
過去分詞 過去分詞

過去分詞ができれば、過去形の否定・現在完了形・過去完了形まで一気に作ることができますから、とりあえずは動詞の原形が与えられたら、即座にこの6つを作ることができるかどうかが大切ということで、当分はこれでどんどん数をこなしてみようと思います。例えば「lukea(読む)」が与えられたら……

luen luetaan
luin luettiin
lukenut luettu

「nukkua(眠る)」が与えられたら……

nukun nukutaan
nukuin nukuttiin
nukkunut nukuttu

……と、作っていくのです。やってみると、変化の規則がうろ覚えになっているところがかなりあります。あああ。

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さよなら、男社会

読みながら、ずっともどかしい気分に囚われていました。ときにそれは軽い「吐き気」を催すような居心地の悪さでもありました。尹雄大氏の『さよなら、男社会』の読書感です。もどかしい気分になるのは、自分の中ににも確実にある「男性性」の正体がなかなかつかめない、つかめそうでつかめないからで、吐き気を催したのはそんな男性性がもたらす「ホモソーシャル」なあり方と自分のこれまでに体験してきた様々な「いやなこと」(それはまさしくホモソーシャルな環境がもたらしたものでした)が次々に身体の中に蘇ってきたからです。

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さよなら、男社会

ご本人の家庭環境や生い立ちに深く降りて行きながら、そこで育まれた男性性について分析しているので、正直に申し上げてそれほど読みやすい本ではありません。男性性、それも私たちにとって明らかに有害な男性性について考えるのであれば、太田啓子氏の『これからの男の子たちへ』のほうがずっと読みやすい。でも私はこの本を読みながら、どうして私たちはここまで「気づき、変わる」ことができないんだろうという、その困難さをあらためて恐ろしく感じました。

折しも森喜朗氏(東京オリンピックパラリンピック組織委員会会長)のあからさまな女性蔑視発言が問題になっているところです。今日時点では組織委も政府もこの問題を早くやり過ごそうとしています(森氏の進退について明日の会議で検討されるという報道もありますが)。今朝は東京新聞の一面に経済界からも批判の声が上がっているという記事が出ていましたが、いずれも「遺憾であり残念」に終始していて、問題の重大さを本当に分かっているのだろうかと疑問をいだきます。

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「遺憾」や「残念」じゃないでしょう。特に五輪のスポンサー企業はなぜもっと強く「このまま幕引きを図るならスポンサーを降りる」などと言わないんでしょう。形だけのコメントはかえって企業のイメージを損ねると思います。この気付きのなさ。そして変わることができない頑迷さ、あるいは鈍感さ。ちょっとした絶望感すら覚えるほどの困難を感じるのです。

『さよなら、男社会』で印象的だった一つのエピソードは、尹雄大氏が主宰されている読書会での一場面です。チョ・ナムジュ氏の『82年生まれ、キム・ジヨン』をめぐる討論で「ある男性がこういった趣旨の発言をした」というのです。

「自分がこれまで自然と身につけた考えが女性に対して抑圧的ではないかと思うと怖い。なにが問題かをその都度教えてほしい」(174ページ)

この発言に対して会場から(特に女性から)いくつもの疑問が呈されたといいます。尹氏はこう書いています。

この「教えて欲しい」という要望が対話のスタートラインだと思っている男性は彼に限らずいる。だが、これこそが先述した謙虚から程遠い態度なのだ。いくら好意的に解釈しても、最後に示されるのは傲岸さなのだ。(177ページ)

ここにもまた、男性が主体的に男性性を理解し、読み解き、克服していくことの困難が示されているように思います。そしてそれはたぶん、私にとっても他人事ではないはず。昨日も書きましたが、私はこうしたことに対してフラットな考え方を持っている・持つように努力しているという自負はありますし、つねにアップデートを怠らないつもりでもあります。それでもなお「傲岸さ」が抜け切れていない部分があるのではと、心許ない気持ちになるのです。

それはこの本で尹氏が繰り返し掘り起こそうとされるご自身の家庭環境や生い立ち、その中で刷り込まれてきた男性性にまつわるエピソードからも感じます。それらは多かれ少なかれ私の周辺にも確実にあったことで(プロフィールを拝見すると、尹氏は私より少しだけお若いようですが、ほぼ同年代の社会環境で生きてこられた方です)、私にも確実に刷り込まれているであろう男性性を克服するのは、自分が今まで思っていたよりも、もっとずっと困難なのかもしれない、と思いました。

尹氏は、男性の、特にホモソーシャルな関係性が濃厚ないわゆる体育会系的な環境における男性の、女性に対する態度について「考えなさ過ぎだ」とも書いています。女性に対して発せられる「すごいですね」という言葉の裏に「女性の割には」というニュアンスを感じ取ることに「考え過ぎだ」という人たちに対して。こうしたニュアンスについて「考えなさ過ぎだ」だというの、どこかで既視感が……と思ったら、今回の森氏の発言の通奏低音になっているのもこれなんですよね。

 女性っていうのは優れているところですが競争意識が強い。誰か1人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです。結局女性っていうのはそういう、あまりいうと新聞に悪口かかれる、俺がまた悪口言ったとなるけど、女性を必ずしも増やしていく場合は、発言の時間をある程度規制をしておかないとなかなか終わらないから困ると言っていて、誰が言ったかは言いませんけど、そんなこともあります。
 私どもの組織委員会にも、女性は何人いますか、7人くらいおられますが、みんなわきまえておられます。みんな競技団体からのご出身で国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです。ですからお話もきちんとした的を得た、そういうのが集約されて非常にわれわれ役立っていますが、欠員があるとすぐ女性を選ぼうということになるわけです。
森喜朗会長の3日の“女性蔑視”発言全文 (スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース

この森発言は「ニュアンス」どころか極太サインペンで書いたような明確さですけど、自分の中にも「女性の割にはすごいですね」について「考えなさ過ぎ」の部分があるかもしれない。だから考え続け、変えて行かなければと思ったのでした。

qianchong.hatenablog.com

ダークサイドに堕ちているかもしれない

あからさまな女性蔑視発言をして世界中から顰蹙を買い批難を浴びているのに、ちっとも反省の色が見えない森喜朗氏。氏のみならず、首相も与党幹部も、財界からも擁護なり黙認なりの声が次々に伝わってきて、本当に情けなく恥ずかしい気持ちです。女性蔑視発言って、国際的にはものすごい過ちと見なされる類いのもので、そんなことを公言したら二度と公の場に出られなくなるくらいのインパクトだと思うのですが、なぜかこの国では軽くスルーされようとしている……こんな言葉はあまり使いたくありませんが、これが私たちの「民度」というものなのでしょうか。

そんな中、JOCの理事である山口香氏の発言は光っていました。記事のタイトルは「天敵」などと戯画化した調子で、事の重大さがいまひとつ分かっていない空気も漂ってはいますが。

www.tokyo-sports.co.jp

一応、発言を撤回、謝罪していましたが、心から謝ってはいないですよね。というか、もともと何が悪かったかを理解していないと思います。これって自分の生きざまや成功体験と結びついている気がするんです。自分はこうやって生きてきて、こういう考えでやってきたから「今」がある。そんな確固たるポリシーがあるから新しい考えを受け入れられない。だから謝れないんですよ。謝罪したら過去の自分を否定したことになるので。

これ、本当に怖いです。誰にでも、いえ、私にもこういうダークサイドに堕ちる可能性はじゅうぶんにあると思うからです。特に「自分はこうやって生きてきて、こういう考えでやってきたから『今』がある。そんな確固たるポリシーがあるから新しい考えを受け入れられない」という部分。いまの仕事の中で、自分はそんなふうに振る舞ってはいないだろうかと考えました。

……たぶん、そんなふうに振る舞ってる。

もちろん、今回の問題の根底にあるジェンダーや性差に関する部分ではフラットな考え方を持っている・持つように努力しているという自負はありますが、根拠のない自負ほど危ういものはありません。さいわい職場では私を除いてほとんどの職員が女性という環境なので、今回の問題を機に改めて「何か気になることがあったら、ぜひ『わきまえない』で指弾して!」と懇願しました。みなさんからは「任せといて! ぜったいに『わきまえない』から!」との力強いお言葉を頂きました。

しかし、自分の本務である語学の授業についてはどうだろう。私は中国語を主な仕事の道具として使っていますが、中国語や通訳翻訳の技術を学んだのはもうずいぶん前のことです。もちろん語学は学んだらそれで終わりというものではないので、いまでもふだんに学び続けているつもりではありますが、ついつい自分が学んだ当時の経験や、留学した当時の中国や、仕事をしていた当時の中国や台湾での経験がベースになっていることは否めません。

しかしそれらはもう何年も何十年も前の経験です。その後もアップデートしてきたとはいえ、少なからず現代の状況とズレている部分はあるはず。特に、確認して改善することが必ずしも簡単ではない「個人的な感覚や感性」の部分で、自分にはアップデートし切れていない部分があるのではないかと考えると、少々心許ない気持ちになりました。

そんなことを考えていたら、たまたまTwitterのタイムラインで、作家・ルポライター安田峰俊氏がこんなツイートをされていました。


わははは。確かにこういう方はけっこういます。しかしすぐ、ひょっとすると私もそこに連なっているのではないかと思い直しました。私が中国にいたのはもっと時代が下ってからですから「量産型80年代中国バックパッカー」ではないのですが(むしろそれをまぶしく仰ぎ見ていた世代)、それでも現代とはかなり違う中国を知っている世代ではあります。だから、ついつい昔を思い出して隔世の感に浸ることがあります。例えば「外貨兌換券」とか「自転車王国」とか「学生食堂で使っていた食券」とか「カウンターに店員がいて背後にある本棚から本を撮ってもらう書店」とか……。敦煌にも行きましたし、当時は切符を買うのが大変というのも体験しています。

そうしたあれやこれやを、授業の「ネタ」として使うことが私にも時々あります。留学生のみなさんは、そのほとんどが自分が生まれる前の話ですから逆に新鮮な(?)驚きを持って聞いてくれますが、しかしこれ、ひょっとして老人の、若い人たちに対する「マウンティング」にもなり得るんじゃないでしょうか。「自分の国のことなのに、そんな直近の歴史も知らんのか。全く最近の若いもんは……」になっていないか。

昔話がすべて老人のマウンティングにつながるとは思いません。けれど、両側はダークサイドの深い谷になっているかなり危うい橋を渡っていることだけは確かなんじゃないか。山口氏と安田氏のお話を読んで、そんなことを思いました。

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https://www.irasutoya.com/2015/08/blog-post_36.html

語学で身を立てる

語学関係者ならページをめくるたびにいちいち頷き、付箋を貼りまくり、「そうそう! この本に書かれていることは、この業界ではごくごく当たり前のことばかりなのに、一般に広く知られていないのはなぜだろう?」としみじみ思うはずです。

通訳者や翻訳者がやっていること、語学を少々かじっただけで翻訳「でも」やってみようかとなる心性、いわゆる「ネイティブ信仰」の落とし穴、英語という言語の特殊性、理想的な語学習得の方法、語学の「素質」について*1……。もう二十年近く前に出版された本ですが、内容はほとんど古びていません。それだけ語学の本質は変わらないということでしょうか。

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語学で身を立てる (集英社新書)

特に通訳者や翻訳者を目指す方に向けては、かなり厳しい言葉が並びます。

日本語の文章表現力が不足している人は、翻訳の仕事をするにあたっては手の施しようがありません。(中略)私の経験では二十五歳以上の人で、日本語の表現センスが大幅に改善された例を見ないからです。(21ページ)

語学ができる人は、しばしば自信過剰だったり、プライドの高かったりする人が多いのですが、つまらないプライドや見栄といったものは、特にこの仕事にはマイナスに働きます。(28ページ)

外国語がどのくらい習得できるかは、日本語がどれだけできるかにかかっている、といっても過言ではありません。(56ページ)

私はしばしば二流の通訳の人が、自分の勉強している言語を母国語とする国の地理や歴史、文化などについて、あまりにも無知なのに驚くことがあります。(73ページ)

私が教えた生徒の中には、語学のセンスがとてもよいのに、この雑学の知識が非常に浅く、即戦力となれない人がかなりいます。実にもったいない、残念なことだと思います。(85ページ)

熟年になると、自分が若い頃学んだメソッド、教科書や辞書に愛着があるので、どうしてもそれにしがみつきたくなります。現代は語学教育業界も十年一昔であり、どんどん新しい理論や優れた辞書が世に出されています。このような新しい情報に常にアンテナを張って、自分の中にどんどん取り入れていくフレクシビリティが必要です。(196ページ)

どうですか、ああ、耳が痛い。でもこうした物言いは、語学学校や通訳翻訳学校のバックヤードではごくごくお馴染みのもの。もちろん私は、そうした語学の性質に気づくことが大切なのであって、そういう意味ではこれらを「激励」として受け止めるべきだと思っていますが。特に最後の一節なんて、「昔取った杵柄系」に陥りがちな中高年にさしかかった私にとって、とりわけ身にしみます。

個人的には「英語の特殊性」に関する指摘が興味深かったです。いわく「現在の英語は他の西洋言語に比べて著しく語形変化が少なくなっている」と。

こうして英語は、語形変化や活用による、主語や目的語といった分の要素を明確に表す方法や、動詞の人称や数を細かく表す方法を失ってしまいました。それを補うために、語順がやかましくなり、動詞にはまめに主格人称代名詞をつけることになりましたが、全体的にはただ単語を並べているだけという印象を受けるようになります。実際、動詞の活用の複雑なラテン系言語の話し手や、ロシア語やドイツ語のような格変化が複雑な言語の話し手にとっては、特にそういう印象が強いことでしょう。(77ページ)

なるほど。私はいま英語とフィンランド語という全く違う体系の言語を同時に学んでいますが、これは日々感じていることでした。例えば一番簡単な例でいえば、英語では一人の「あなた」も複数の「あななたち」も同じ “you” で表したりしますよね。そして猪浦氏は「そうした英語の特殊性を知らずに語学学習をしているとどうなるかというと、文の構造や論理を考えられなくなってしまうのです」と述べます。

ここだけを抜き出すと、すぐに「そんなことはない」と反論されそうですが、確かに文を論理的にとらえ、分析するという態度は昨今の英語学習には著しく欠けている部分ではないかと思います。いわゆる「訳読」スタイルの学習法もずいぶん攻撃されていますし。

でも私はフィンランド語を学んでみて、この論理的な分析(主軸となる動詞はどれか、時制は何か、格は何でどこに掛かっているか、単数と複数、可算と不可算などなど……)と、その分析的な態度ないしは感覚を身につける(つまり、毎回う〜んと唸って文を見つめなくてもそれが体感できる)ことがいかに大切か、それは英語でも同じだということを悟りました。

げにげに語学というものは奥深く、面白いものであることよ。「語学で身を立てよう」とまでは思っていない方にもお勧めです。

*1:私はこれを「向き不向き」と呼んでいます。

ウイルスの世紀

新型コロナウイルスに対するワクチンの接種、日本は非常に遅れているという報道に接しました。

news.yahoo.co.jp

いつの間にか、「日本は医療や医薬に関して世界でも最先端の体制を整えている」という自負のようなものが私たちにはあったと思うのですが、それは一面で幻想だったということですね。あるいはこの数十年の間でそれが幻想となりつつあったのに、気づかずにここまで来てしまったと言うべきか。

こちら ↓ は去年3月の記事ですが、日本の製薬企業やバイオ企業は「ワクチンの研究開発基盤を有して」おらず、「選択と集中を進める中で重点疾患領域から感染症を外しているといった事情がある」のだそうです。

bio.nikkeibp.co.jp

選択と集中」。つまりワクチンの研究開発などというものは儲からないので、そういういざというときに対応できるような基礎研究は脇に置いてきたということなのでしょう。そういう点では、今の日本の現状をよく反映している状況なんだなと思います。しかしかつては、日本もこうしたワクチンの研究開発において大きな貢献をしていた時代があった。それを図書館で偶然見つけて読んだ山内一也氏の『ウイルスの世紀』で知りました。

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ウイルスの世紀――なぜ繰り返し出現するのか

新型コロナウイルスのワクチンをいち早く開発して接種を始めている中国。そのワクチンの一つを生産しているSINOVAC(シノバック)の製品写真がネットにありました。箱を見ると「Vero细胞(Varo Cell)」と書かれています。この「ヴェーロ細胞(ベロ細胞)」は1960年代に日本で作られた細胞株で、エボラウイルスなど多くのウイルスを、そして今回の新型コロナウイルスをも分離するのに使われています。ウイルスの分離だけでなくワクチン製造にも広く利用されているとのこと。

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https://www.nikkei.com/article/DGXMZO62965490T20C20A8EAF000/

この本は、20世紀の後半以降に次々出現してきた新しいウイルス(エマージングウイルス)について紹介し、なぜそうした状況が生まれたのか、私たちはそんな状況に対してどう向き合っていけばいいのかを考察しています。マールブルグ病、ラッサ熱、エボラ出血熱、ウエストナイル(西ナイル)熱、SARS、MARS、そして新型コロナウイルス。名前だけは知っていて、漠然とした恐怖だけを抱いて眺めていたそれらウイルス症について、基本的な知識を学ぶことができました。

筆者は、こうした「ウイルスが現代社会に侵入してきているというよりも、むしろ、人知れず存続してきたウイルスを、現代社会が新たに招き入れている(35ページ)」と述べています。「人間の活動が野生生物の生息環境に、つまりウイルスの生息環境に入り込んでいくことによって、エマージング感染症が多発する結果となっている(139ページ)」とも。これまでにもくり返し言われてきたことですが、人間の生活環境の変化と拡大、そして人や物の移動の高速化と広範化がこうした新たな感染症を呼び寄せているのですね。

一方でこの本は、人類とウイルスの戦いの歴史を追っているので、その意味では(こういう形容は変ですが)スリリングで知的好奇心を刺激される一面も持っています。多くのウイルスは古代から自然界の奥深くに生息する動物の体内で人知れず連綿と受け継がれてきたものです。そうしたウイルスを体内に共生させながら自身はほとんど発症しない動物を「自然宿主(しぜんしゅくしゅ)」と言いますが、なぜ多くのウイルスでコウモリが自然宿主になるのかという疑問についてもこの本でその答えを知りました。コウモリは自力で飛翔できる唯一の哺乳類であること、大きな群れで生息する習性があること(だからお互いに感染しやすい)、寿命が平均二十年と長いこと(だから長く温存されやすい)。そして同じ哺乳類という種であるだけに多様な哺乳類、なかんずくヒトに対して伝播しやすいのだと……(148ページ)。なるほど。

こうしたことが抑制された筆致で書かれていて、それまで漠然と抱いていたウイルス感染症に対する恐怖を客観的に見つめることができるようになった気がします。よく言われる「正しく知り、正しく怖がる」というのは、こういう姿勢のことを言うのかもしれません。日本の要路にある人たちも、ぜひこの本を読むべきだと思います。

追記

余談ですが、この本では書き出しの文にも少々驚きました。

私が研究対象としてのウイルスに最初に出会ったのは、六四年前、二十四歳の時のことである。

ええっ……ということは、山内氏は卒寿(90歳)に近いお年なんですね。先日の森喜朗氏(東京オリンピックパラリンピック組織委員会会長)の酷すぎる発言の数々に、年老いた「ジイサン」の頑迷さをあらためて苦々しく思っていたところですが、もちろんお年を召しても頭脳明晰な方はいらっしゃるわけです。

ライターで編集者の望月雄大氏がTwitterで「老害」という言葉を使わないとツイートされていましたが、私もこれに大いに共感しました。うんうん、ほんとうに、年齢は関係ないですよね。