インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

これが「教養」だ

清水真木氏の『これが「教養」だ』を読みました。帯の惹句に「知的興奮の書!」と感嘆符つきで書かれてありましたが、いや本当にその通り。面白くて一気に読み終えてしまいました。なにせ「教養」という概念は本来「古典」とも「読書」とも「博学」とも関係ないものなのだということを、ヨーロッパ精神史の様々な知見とともに解き明かし、なおかつ現代に生きる私たちにも通じる一種の「処世術」(ご本人はそう呼ばれるのをあるいは忌避されるかもしれませんが)にまで落とし込んで語り尽くすのです。

f:id:QianChong:20200809102740j:plain:w200
これが「教養」だ (新潮新書)

じゃあ何が「教養」と呼ばれるべきなのかについて、清水氏のおっしゃることを昨日ブログに書いた『教養の書』の戸田山和久氏がこう敷衍されています。「公共圏と私生活圏との折り合いをうまくつけながら、人格が分裂しないようにいつつ、それぞれの圏にふさわしい行動に切り替えて行きていくための仕掛け(118ページ)」と。清水氏自身は最終章でこんなことを書かれています。

意見の分かれる問をあえて問い、可能な限り合理的な答をその都度丹念に探し出す能力、これは、楽しい生活を送るためには、欠かすことができないものであるはずであります。なぜなら、これは私の想像ですが、自分の行動や判断について、その理由を説明することができず、説明する努力を放棄してしまったような生活は、大変に不快なものでなのではないかと思うからであります。(217ページ)

そうした努力を放棄しないと心に決めて日々を生きている人こそ「教養ある人間」と呼ぶにふさわしいというわけですね。私は昨日、極めて卑近な例として「教養ある人はポイ捨てをしない(はず)」などと書きましたが、ひょっとするとあながち外れてもいなかったのかなと思いました。個としての行動の周りに、自分を遥かに超える(想像することすらかなわない)世界が広がっていることを体感できていれば、自分がすべきことはおのずから定まってくるはずです。

そうなれば、例えば普段の暮らしで実際には面と向かって人に言わないようなことをSNSではいとも簡単にぶちまける(しかも匿名で!)とか、行政に常に不満を抱えていながら投票日に天気が良いとつい遊びに出かけてしまって棄権しちゃうとか、某国の政府が独裁で非人道的な政策を次々に行っているからといきおいその国の人々全てに憎悪を向けるとか、謎の全能感に駆られて等身大の自分でいられずにすぐ全地球大に自己を膨張させて語ってしまうとか、そんな「理由を説明することができず、説明する努力を放棄してしまったような生活」を送ることはないんじゃないかと。

この本には「教養」と注意深く切り分けて扱われる「古典」や「文学」などについてもとても知的興奮を覚える記述がたくさんあります。それらは本書にあたっていただくとして、もう一つこの本で面白いと思ったのは、筆者のその「言文一致ふう」な語り口です。読みながら私は「まるで講談か、落語みたい」と思っていたのですが、はたして「あとがき」にその背景についても書かれていました。清水氏は「ソフトで知的な年寄り」になりたいとの願いがあるそうですが、私も同感です。ソフトで知的で、できればカワイイ年寄りになりたいです。

教養の書

戸田山和久氏の『教養の書』を読みました。主な読者層としてはこれから大学で学び始めようとするお若い方が想定されている本のようですが、むしろ大学を出てからしばらく経って「ああ『学ぶ』ってひょっとしたらこういうことだったのかもしれない」と思い始めた人にこそ心にしみる内容ではないかと思いました。

f:id:QianChong:20200807204855j:plain:w200
教養の書

私も心にしみた箇所がたくさんあったのですが、そのうちからひとつだけ。教養の持つ「自分をより大きな価値の尺度に照らして相対化できること」という側面についてです。戸田山氏は、人類が営々と積み重ねてきた無数の知的遺産によって、自分は今のこの時代に生かされているというその幸せの価値がわかること、それが教養だと言うのです。

そうなんですよね。歴史を学ぶことの意義はそこにこそあるのですし、あらゆる学問や芸術や技芸が先行研究や先人の達成を踏まえて行われるのも、そうやって積み重ねられてきた体系の中に自分をどう位置づけることができるのかを考えるからこそです。

もっと卑近な例でいけば、世の中の秩序を尊重しようとする態度、言いかえれば「公徳心」みたいなものも、同じく「自分をより大きな価値の尺度に照らして相対化できること」の現れかもしれません。教養ある人はポイ捨てなどしない(はず)です。世の中が自分中心に回っていないことを真に悟るための手段が教養なのだと思うのです。

新札と熨斗袋

今朝の東京新聞に落語家の笑福亭たま氏が寄稿されていました(東京新聞はこうして週に一度伝統芸能欄があるから好き)。いわく、落語家の出演料は当日現金払いで、しかも新札で渡すのが礼儀と。

落語家が同業者に共演を頼む場合、いちばん大事なことは「相手に敬意を払う(気持ちよく仕事をしてもらう)」ことである。そのため「本来、貴方にはもっと高額なギャラをお渡ししなければならないのですが、私の精いっぱいの金額がこれなので、せめて新札に致しました」という誠意を表現しているのだ。

f:id:QianChong:20200807055034j:plain:w500

へええ、そうなんですか。キャッシュレス化がどんどん進行する現代、ましてや笑福亭たま氏もおっしゃるようにコロナ禍で濃厚接触が忌避されている昨今。現金での報酬のやり取り、しかも新札で、なんて「ちょっと何言ってるかわからない」と思う方もいるかもしれません。でも、例えば結婚式なんかのご祝儀はお若い方でも新札を用意しますよね。私など、何十年も前にお稽古ごとをしていたときは、親が月謝袋に必ず新札を入れていたことを思い出します。

さすが現金信仰の根強い日本ならでは、なのかもしれません。他の国や文化圏にこうした新札=礼儀みたいな風俗習慣がはたして存在するんでしょうか。海外でお釣りを投げてよこされて、あるいはチップをぽーいっと放り投げててビックリしたという話は聞きますが、基本紙幣や硬貨は何かを手に入れるための価値の代替品だってのがそうした国の人々の認識であり、紙幣や貨幣そのものを押しいただいたり、ましてや新札にこだわったりする文化はあまりないんじゃないかと。

そう思ってネットで「新札 海外」などのキーワードで検索してみたら、なんと新札をありがたがる風習、ありました。ただしそれは偽札を警戒するとか、あまりに汚いお札は交換不可能になる可能性が高いので忌避されがちとか、そういう文脈ででした。上掲のような「相手への敬意を払うために新札を用いる」という文化は、海外にあるのかなあ。こんど留学生のみなさんや外国籍の同僚に聞いてみたいと思います。

かくいう私は、普段の暮らしのほとんどすべてがキャッシュレスになっていて、現金はめったに使いません。ときどき「うちは現金払いのみ」というお店に出くわすので数枚の紙幣はいつも財布に入っていますが。ただし、能のお稽古の月謝だけは毎回現金で、それももちろん新札で用意して手渡しです。私は銀行もすべてオンラインで、通帳というものを持っておらず、銀行の窓口に行くのは一年に一回あるかないかなのですが、それは手持ちの旧札を新札に変えてもらうためです。この先一年分か二年分ほどの月謝をまとめて新札にして引き出しに保管しているのです。

キャッシュレス化大賛成の私としてはかなり矛盾しているのですが、お稽古の月謝はなんとなく現金、それも新札で手渡しがいい……というかそこまでオンラインで振込みとかにしちゃうと、なにか大切なものが失われてしまうような気がするのです。いや、まったく説得力がありませんが。笑福亭たま氏は新札を手渡すことが「敬意の見える化」だと結論づけてらっしゃいますが、そういうところに愛おしさを感じるからこその伝統芸能じゃないか、とも思うのです。

お稽古の月謝はいつも簡素な「熨斗(のし)袋」に入れています。上掲の記事で笑福亭たま氏が手にされているようなものです。先日はその残りが少なくなってきたので、都内の某書画用品店に出向いて補充してきました。季節ごとにこういうのをあれこれ選ぶのも、無駄と言っちゃそれまでですけど(茶封筒でもいいかもしれません)、やっぱり何か大切なものがこもっているような気がするのです。

f:id:QianChong:20200807133716j:plain:w500

稽古場でこうした月謝袋を手渡しするときには、正式には稽古扇を少し開いて、そこに熨斗袋を乗せ、そのまま相手に差し出すんですよ(と師匠に教わりました)。受け取った方は熨斗袋を収め、扇を閉じ、要の部分を相手に向けて返すのです。普段はここまで正式な方法を取らずに単に手渡ししていますが、いや、これもやっぱり大切なような気がします。次回からはそうしよう。せっかく熨斗袋や新札まで用意して臨んでいるのですから、こうなったらとことん伝統を楽しまなければと思うのです。

f:id:QianChong:20200807142655j:plain:w500

低糖質高蛋白の外食って意外に少ない

私は外食というものをほとんどしない人間です。以前はお昼ごはんだけ職場近くの「丸亀製麺」などに行っていたのですが、コロナ禍でこの店が閉店して以降、お弁当を持っていくようになり、結局三食すべて自分でまかなうようになってしまいました。いまや、外食するのは一ヶ月に一度あるかどうかというところです。

先日ジムでトレーナーさんと「外食の選択に困りますよね」という話になりました。筋トレなどをして効率よく低糖質高蛋白の食事をしようと思っても、それを満たしてくれるお店がほとんどないと。若い体育会系の大学生やアスリートなどは、とにかく消費カロリーが半端ではないので、糖質を気にせず「メガ盛り」の丼ものや定食などを食べられるものの、もう少し歳が上がってアラサーとかアラフォーとか、さらに私のような中高年になると、炭水化物=糖質はそれほどたくさん詰め込みたくない。でも外食は基本、炭水化物の割合がかなり高いというのです。

確かに、手軽に食べられる外食はその多くが炭水化物メインです。そばやうどんにしても、ラーメンにしても、丼ものや洋食系にしても、結局はかなりの糖質がベースになっていて、さらに脂肪がけっこう多い。野菜は少ないし、蛋白質も少なめ。ステーキでも食べれば別でしょうけど、ランチでそれはちょっと重いですし、チャーシュー麺みたいなのでも肉の量はそれほど大したことありません。刺身定食なんか良さそうですけど、これも蛋白質の総量はけっこう少なめです。

それで筋トレする人はプロテインを好むんですね。また最近はヨーグルトやシリアルなどにもプロテイン増量みたいな製品が増えてきました。でもそれを一食に代えるのはちょっと……ということで、トレーナーさんたちも外食を減らして自炊する人は多いようです。毎回トレーニングの合間に、「鶏むね肉を美味しく食べる方法」とか「赤身のひき肉だけでハンバーグを作る」とか「足りない蛋白質は卵や納豆で補う」とか、どうやって良質のタンパク質を取るかという、そんな話ばかりしています。

炭水化物と脂質少なめで蛋白質多めの外食、それもランチでいいのはないかなと言っていたら、トレーナーさんがあの有名なお店を紹介してくれました。お通しでプロテインが出てくるという人気のお店です。それで先日所要で渋谷に出かけた際に行ってみたのですが……うーん、たしかに鶏むね肉や赤身肉メインで蛋白質をたっぷり食べられて、少なめご飯は玄米も選べたりなんかして面白いと思いましたが、お味はちょっと、いや、かなり……。立ち食いで有名になり急拡大したあのステーキ屋さんでも思いましたが、いくら低糖質高蛋白でも、これはちょっとつらいです。

f:id:QianChong:20200806114147j:plain

というわけで、コロナ禍下のソーシャルディスタンスも手伝って、ますます外食から遠のくことになってしまうのでした。

見知らぬ方に勝手に呼び名をつける

平日の朝はだいたい出勤前ジムに寄っていますが、フリーウェイトのコーナーではいつも顔を合わせる方々がいます。とはいえ、お互いに面識はなく、言葉を交わしたこともありません。「あ、あの人、また来てる」と思うだけで会釈さえしないのはなんとなく気持ち悪いんですけど、ジムではみなさん自分の課題に黙々と取り組んでらっしゃるので、なぜか声がかけにくいんですよね。ましてや今はコロナ禍の最中で、ジム内ではマスク着用が求められていて、表情に乏しい上に「会話はお控え下さい」と注意書きが貼られていますし。

でもほとんど毎日見かける方々なので、気がついたら勝手に呼び名をつけてしまっていました。私は昔からそういう、知らない人に呼び名をつける癖があって、最寄り駅の向かいのホームで毎朝見かけるサラリーマンとか学生さんとかも、その外見から勝手に「ひょろりさん」とか「薄眉くん」などと呼んだり、勝手なイメージで「斎藤さん」とか「渡辺さん」などと呼んだりしているのです。あ、もちろん声には出しません。心のなかで呼ぶだけですが、こういう変な癖があるのは私だけなんでしょうか。

と思っていたら、そうだ『マンガ サ道』のタナカカツキ氏が同じようなことをされていたのを思い出しました。ドラマにもなりましたからご存じの方もいると思いますが、『サ道』ではタナカカツキ氏がサウナでよく見かける人々のことを「偶然さん」とか「イケメン蒸し男」とか「蒸しZ」などと呼んでいるのです。いずれも本名はまったく知らずに、でもそのうちの何人かとは会話を交わす仲にまでなっているという……。

f:id:QianChong:20200805115333j:plain:w500

f:id:QianChong:20200805114658j:plain:w200
マンガ サ道~マンガで読むサウナ道~(1) (モーニングコミックス)

私はフィンランド人並みに人見知りで、知らない方と話をするのが苦手なので、自分が勝手に呼び名をつけている方々と会話したことは一度もありません。特にジムのフリーウェイトコーナーにいらっしゃる方々は、みなさんけっこうコワい雰囲気なので……。でもパーソナルトレーニングのトレーナーさんに聞いた話では「そういう人が意外に優しくて、筋トレのフォームを教えてくれたりするんですよ」とのこと。でもちょっと声はかけにくい……というか、向こうだって私のことを「コワい、声はかけにくい」と思っているかもしれません。

今日も今日とて、新しい呼び名を考えつきました。「落武者太郎」さん。だって、その方は髷を落としたあとみたいに両脇の髪が長くてザンバラになっていて、てっぺんは……いや、単に失礼な野郎ですね、私。

「まだこんなことやっていたのか」と呆れる

少し前のことですが、今年三月の都議会で「なぜツーブロックはだめなのか」と池川友一都議が質したところ、都の藤田裕司教育長が「外見等が原因で事件や事故に遭うケースがあるため」と答弁して話題になっていました。くだんの都議ご自身がTwitterでもツイートして紹介されたので、ご存じの方も多いと思います。

池川氏もおっしゃるように、本当に「驚愕」の理由なんですけど、こういう意味のないルールや校則のたぐいは私が中高生だった何十年も前から存在していましたから、その意味では驚きというより「まだこんなことやっていたのか」という呆れの感情のほうが強く湧いてきました。

私が中高生の頃は、まだ体罰もおおっぴらに行われていた野蛮な時代でした。制服について細かな規定があったことはもちろん、課外活動などで制服を着ないときにすら(つまり私服にまで)色々と指図をしていました。現代では考えられない……と思いきや、ツーブロック程度でもこのような見解が教育長という立場の人間から堂々となされるのですから、本当に呆れてしまいます。

f:id:QianChong:20200804114325p:plain
https://www.irasutoya.com/2013/06/blog-post_6118.html

先日の東京新聞には、世田谷区のとある都立高校が生徒と保護者、教職員による三者協議会での討論を経て、ツーブロックの禁止を校則から削除することに成功したという記事が載っていました。しかしそれでも「教職員の一部に反対意見はあった」というのですから、これまた呆れます。こうした教職員は、どういう世界観や社会認識や教養のもとで、意味のない校則に固執し続けるんでしょうね。

www.tokyo-np.co.jp

私も教職員という立場を、気づけばかなり長い間勤めてきましたが、義務教育や高等学校とは違う職場なので「子供から青少年にかけての時期における教育とは質が違う」と反論されるかもしれません。でもより広く世界に目を向けてみれば、日本の青少年教育におけるこうした数々の制限が、単に多様性のある社会を知らない・多様性の大切さを知らないことに起因するのは明らかです。

自慢じゃないですけど、学生の全員が留学生であるうちの学校なんて、本当に多様性の見本のようなものですよ。年齢的には高校を卒業してすぐの学生も多いですが、国籍も民族も言語も宗教も生活習慣も肌の色も、そして髪の毛の質も様々。こうやっていちいち列挙するのもバカバカしいくらい当たり前のことです。髪型はもちろん、ファッションもピアスなどのアクセサリーも、さらにはタトゥーも……私はそういう学生のみなさんが授業の合間ごとに廊下を行き交う姿を眺めているだけで、その多様性、その豊穣さにうっとりします。

意味のない校則に固執し続けるのは、端的に言って無知だからです。多様なこの広い世界を知らないから。でも無知であれば、知ればいいのです。私が中高生だった何十年も前(スマホもパソコンもインターネットもなかった)とは違って、現在はこの世界を知ろうと思えばはるかにたやすく知ることができる。それでもなおも知ろうとしないのであれば、それは教育者として、いや、人間としてかなり「イタいなあ」と思います。

「肥大」にやるせなさを感じる

えー、尾籠なお話で大変恐縮ですが、半年くらい前から尿に「赤いもの」が混じるようになりまして。といっても血尿というわけじゃないんです。細かな赤い粒といいますか、赤ワインの瓶の底に溜まる澱や酒石みたいなのがときどき尿に混じるのです。最初はたまに混じる程度で老廃物の一種かしらとあまり気にしていなかったのですが、だんだん混じる頻度が高くなるに従って怖くなりました。

こういう症状をネットで検索するのは禁物で、検索したが最後、恐ろしい症状や病名の数々が現れて夜も寝られなくなります。それでもこれは膀胱癌じゃないだろうかとか、腎臓に問題があるのだろうか、ついにオレも透析生活か……などなどと次々によからぬ不安が頭をもたげます。さいわい自宅近くに泌尿器や腎臓専門のクリニックがあったので、ネットで予約して受診することにしました。

クリニックでは、尿検査・血液検査のほかに、膀胱のエコー検査をしてくれました。診察室の椅子自体が後ろに倒れるとベッド代わりになり、下腹部をエコーで診断して、その画面がすぐにモニタに表示されます。しかも画像から膀胱に残っている尿の体積まで瞬時に計算されちゃう。しかもそれを自分も見ながら医師の説明を聞くことができるのです。尿検査も専用のトイレで楽に行えますし、普通の検査以外に「尿の勢い」なんてものを検査する機能もついたハイテク仕様です。

f:id:QianChong:20200803113238p:plain
https://www.irasutoya.com/2014/06/blog-post_2822.html

で、結果は、腎臓はいたって健康でなんの問題もなし。膀胱・前立腺ともに癌の可能性はなし。ただ、尿の出方が悪くなっていて、そのために老廃物が排出されにくくなっているのだろうとの見立てでした。その原因は「前立腺肥大(の傾向)」。何のことはない、加齢に伴う男性特有の、ごくありふれた症状とのことでした。うーん、ホッとしましたが、一抹のやるせなさも感じます。やはり順当にというか、相応にというか、着々と歳を取っているんですね。

とりあえず排尿をよくする薬を服用して様子を見ましょうということになりました。医師からは「特に大きな副作用はありませんが、射精障害が起きる可能性があります」とハッキリ顔を見据えて言われました。「でも特に身体に悪い影響はありませんから」。えーと、このシチュエーションでは……なんと返したらいいのかわかりません。

処方箋をもらって、帰りに調剤薬局に寄りましたが、いまは「お薬手帳」もスマホアプリになっていて処方箋と連動しており、アプリからデータを送ると薬局ではすでに調剤ができているというシステムになっています。もちろん病院のデータやこれまでの処方履歴もすぐにわかります。

ありがたいことに、私これまで病院や薬局とはほとんど無縁の暮らしを送ってきた(家族のために通ったことは多いですが)のですが、いや、病院や薬局って知らぬ間にこんな進化を遂げていたんですね。

「キャンパスから学生を締め出している」をめぐって

衆議院議員細野豪志氏が、Twitterで「リスクを回避する大学の姿勢が、学生の学ぶ機会を奪っている」と主張したことに対し、大学関係者や学生など多くの人から賛否両論の声が上がっています。大まかな事の顛末はこちらのBLOGOSの記事が参考になります。

blogos.com
f:id:QianChong:20200802093517p:plain:w500

私も昨日Twitterでこの議論の推移を眺めていた一人ですが、確かに教職員としての立場からすれば「やりたくてやってるわけじゃない」と言いたくなる気持ちはわかりますし、一方で学生さんがキャンパスで得られるものが損なわれているという意見にも首肯できる部分があります。

というか、この問題はすべてを一緒くたにして「オンライン授業か対面授業か」と語ってもあまり意味がないように思います。大学や専門学校で行われている教育には様々なものがあり、オンライン授業に向くものもあれば、向かないものもあるからです。今年に入って、特に春以降オンライン授業への対応でてんてこ舞いの日々を過ごしてきた私個人の感想としては、少なくとも手を動かす実習系の授業は、やはりオンライン授業ではどうにもならない、というのが正直なところです。

学校当局としては、キャンパスから集団感染が出たらマスコミや地域社会からバッシングされるので、いっそ一律にキャンパスを閉じちゃえということになっちゃいます。少なくともうちの学校の、第一波が来たときの対応はそうした「一斉対応」だったように思います。「とにかく学校は閉鎖だ、だけど授業は続ける、どうやって? それは現場が考えて♡」という感じ。

それに対して現場の私たちも色々と声を上げましたが、学校当局にはあまり届きませんでした。そしてその学校当局にしたって、文科省から具体的な指針や補償などが示されなければ、上述したバッシングも含めてリスクを負いきれません。結局しわ寄せは現場の教職員と学生さんたちに集まる結果に。今回細野氏の発言に多くの教職員が反感を持ったのは、このときの無念とそれが理解されていない無念の相乗効果によるものでしょう。

学校現場はいま夏休みに入っているところが多いと思います(授業時間を取り戻そうと補習を続けているところもあります)が、秋以降の学校のあり方についてはもう少し熟慮と細やかな対応が必要ではないかと思います。上述したように大学や専門学校の現場は千差万別で、授業ごとに大量の学生や教職員が縦横無尽に動き回ります。それはやはり小学校・中学校・高等学校とはかなり異質の現場なのです。

そうした様々な状態に応じて、学校ごと、いや学科ごとにオンライン授業と対面授業を柔軟に組み合わせるべきで、そうしたことを行える体制づくりを夏の間にしておかなければと思います。政府はそのために学校への補助(対面授業のために必要なコスト)を拡充する、マスコミも感染状況を一律にセンセーショナルに報じないなど、社会全体で対策を考えないと。ひとり学校現場が単なる怠慢で学生から学びを奪っている(と取られかねない)ツイートを書いた細野氏は、その点では批判されるべきだと私は思います。

私の職場は実習も多いカリキュラムなので、秋以降は分散登校や時間差通学、教室を増やしてのソーシャルディスタンスの確保など色々知恵を絞らないといけないと思いますし、学校側にも提言していこうと思っています。ともあれ、こういう問題は何もかもを一緒くたにして雑駁に語って、「一斉に施策をどん!」というのがいちばん愚かだと思います。

トラムの旅

何気なく録画予約しておいた、NHKの『ヨーロッパ トラムの旅』という番組を見ました。ベルリンのトラム(路面電車)から見える車窓の風景や、沿線の街並みなどが、音楽に乗って淡々と映されていくだけの番組。ナレーションは一切なく、テロップや字幕のたぐいもほとんど出てきません。

www4.nhk.or.jp

これですよ、これ。長年NHKの衛星契約で受信料をぽかすか振り込んできた甲斐がありました。こういう、延々風景が映されていくだけのほとんど「環境ビデオ」みたいな番組は公共放送でなければ実現できません。個人的には音楽も要らなくて、ただただトラムが線路を滑っていく音や雑踏音だけが入っているだけで十分ですが、そこまでぜいたくは申しません。

私は同じNHKの『世界ふれあい街歩き』が大好きで毎回録画しているのですが、あの番組で一番いただけないのは「ナレーションの過剰」です。旅情を味わえるのが番組最大の魅力であるはずなのに、毎回俳優さんやタレントさんなどが芝居がかった大げさなナレーションでその旅情を一色に染め上げてしまうのです。私は本当にこれが残念でしつこくNHKに投書しているものの、一向に変化がありません。粘着質が怖い?……そりゃまあそうですか。

qianchong.hatenablog.com
qianchong.hatenablog.com

でもこの『トラムの旅』は、過剰な情報の押しつけがほとんどないので、そのぶん見る側が自由に想像を膨らませ、それぞれの旅情に浸ることができます。素晴らしいです。急いでネットで検索してみたら、主にBS8Kで放送されている番組のよう。そんな高級受像機、うちにはありませんが、時々はBS1や地上波でもやっているみたいです。とりあえず近日中に放送されるものは録画予約しました。今度はフィンランドヘルシンキ編が登場するので楽しみです。

トラムっていいですよね。都市の中心部への、自動車の流入を抑えることができますし、温室効果ガスの排出も抑制できます。かつては日本でも東京をはじめ様々な都市でトラムが走っていたのに、高度経済成長期に次々に姿を消してしまいました。本当にもったいなかったと思います。路面電車って、その軌道はかなりシンプルにできていて、インフラとしてもとても経済的な交通機関らしいんですけどね。

ヨーロッパの都市でトラムに乗って感じるのは、その快適さとほんの少しの不自由さ。どこにでも停留所があるわけではないから、目的地に最短距離で到達することはできないけれど、その分ゆったりとした時間の流れを感じることができます。都市の中心部が自動車でごった返していて、空き地があればすぐにコインパーキングに変身しちゃうという今の東京都心部のあり方はあまり好きではありません。

東京には現在トラムが二路線だけ残っていて、私はそのうちの一つの沿線に住んでいます。往年の路面電車とはかなり違って、ほとんどが専用線を走るいわゆる「軌道線」というやつですけど、そのこぢんまりした車体とゆったりしたスピードは、別に鉄道オタクでもなんでもない私でも愛着を感じます。

世界ふれあい街歩き』は時々日本の街編をやっていますけど、『トラムの旅』でも日本のトラムを取り上げてくれるといいですね。

f:id:QianChong:20190811191014j:plain
エストニア・タリンのトラム
f:id:QianChong:20190813190335j:plain
フィンランドヘルシンキのトラム

オンライン授業に足りないもの

新型コロナウイルス感染症の第二波(とあえて言いましょう)が来てからこちら、またまた始まったオンライン授業(遠隔授業)。私は現在、講師としても学生としてもオンライン授業に参加していますが、それぞれに疲れる点があるなと感じます。講師として一番疲れるのは、カメラを切っている(ミュートにしている)学生に話しかけ続けることです。まるで山奥の湖畔で鏡のような水面に一人小石を投げ込み続けているような感じで、これを毎日やっていると、ちょっと心を病みそうです。

生徒として一番疲れるのも、やはりインタラクションのなさです。そもそも講義型の授業を何時間も聞くのだってしんどいのに、オンラインだとそれが倍加する感じがします。動画サイトのレクチャーだって、私は一時間も聞いてられません。というかいつも早送りして見てる。でもリアルタイムのオンライン授業ではそれすらできません。授業の種類にもよると思いますけど、受け身ではなくて講師とインタラクションしながら学びたい者にとって、オンライン授業はどうしても壁を感じます。通信環境改善のために通常音声ミュートにしていて、質問するときだけオンにするというのもけっこう面倒で、授業への関与がだんだん消極的になるような気がします。

ネットにはこうした自律性・積極性が求められるオンライン授業の特性を踏まえて「これで本来の、真に学びたいものだけが学ぶ学校になる」という意見もあります。確かにそうかもしれないとは思いつつも、じゃあ大学を始めとする学校ってもともとそんな合目的性に特化した場所だったのかしらという思いもあります。学業以外にも、人との出会い、損得を忘れて空想する、社会に出る前の貴重なモラトリアム……色々あったじゃないかって。

同期型(リアルタイム)のオンライン授業も疲れますが、非同期型の課題も学生によってはひどく疲れるのだそうです。これも自己管理が絡んでいるのですが、非同期型の課題を中心た授業は、その自己管理が対面授業以上に求められるからです。時間割に沿った対面授業なら、とりあえず学校に来てしまえば受け身の学生も何とかついて来られる(クラスメートとの私語もできる)けど、非同期は一人きりで時間の使い方が自由な分、強固な自律が求められるんですね。

意外だったのは、真面目な学生ほど押し寄せてくる課題全てに全力で向き合って消耗し、燃え尽きかかってることです。時間割に沿った授業なら、授業終了で「はい提出して〜!」などと打ち切ることができますが、一人きりの課題はやろうと思えば締め切り間際までとことんやれます。学習上は一見いいことのように見えますが、完璧を目指して自縄自縛になる学生もいる。

押し寄せてくる課題をさばききれなくなり、ちょっと休ませて……と休学を申し出てきたり、「こんなんじゃ学びにならない」と留学を切り上げて国に帰る学生も出たり。過渡期でオンラインの実践経験が足りないという批判は甘んじて受けますけど、確実に傷ついていく人が増えていっている印象です。学生もですけど、教員も。

qianchong.hatenablog.com

総じて私は、オンライン授業には学生も講師も新しい学びの可能性があると希望は持っているのですが、実習を伴う型の授業だけはちょっとどうにもならんというのが正直な感想です。通訳実習にしても、音声と映像を共有し、インタラクティブに情報が行き来するだけでは何か足りないものがあるのです。身体性というか、空気感というか。まだ雑駁な物言いしかできないのですが、同じような感慨を持ってらっしゃる同業の方はいないかしら。

f:id:QianChong:20200731121859p:plain
https://www.irasutoya.com/2016/03/ar.html

経営難に陥る学校が増えるかもしれない

夏休みを前にして、うちの学校では早くも来年度の学生募集に向けて動き始めておりまして、昨日は学校説明会が開かれました。とはいえコロナ禍の現状を踏まえ、Zoomによるオンラインでの学校説明会です。私も自分の所属する学科の説明で駆り出されたので、研究室のパソコンから参加しました。

うちの学科は外国人留学生が対象で、そもそも海外から留学生なんて入って来られないんじゃないかと思われるかもしれません。ところが、日本国内の日本語学校に在籍している留学生の皆さんは、いま母国へ帰ってしまったら次はいつ来日できるかわかりませんし、とりあえず日本国内で進学をと考えている方が多いんですね。それで学校説明会にも参加するというわけです。さらに昨日は海外からの参加者もいました。来年の春にはこの状況も収束しているだろうという見込みなのかもしれません。

今回のこのコロナ禍は教育現場に大きな影響を与えつつあります。教育内容もさることながら、学生募集に関しても。うちの学校だって、来年度辺りまでは上述したように日本国内で進学を考える留学生がまだ一定数存在するからいいようなものの、その先、二年、三年経ったあとではどうなっているかわかりません。

それでなくても日本の大学や専門学校は、少子化に伴って外国人留学生の受け入れ枠を増やしてきたのです。というか、そうしないと経営が持たないという学校もあるはず。なのに最悪の場合は留学生の来日が激減、ないしは全くなくなってしまう可能性だってあるわけで、これは長期的にかなりボディブローが効いてくるような気がしています。昨日も大学の経営状況が悪化するかもしれないというニュースに接しました。

news.yahoo.co.jp

SNSでは大学だけがオンライン授業を続けていることに対して、大学生やその親御さんたちが「小中高は対面授業を再開させているのに、なぜ大学だけ?」という疑問の声が多く見られました。私も、この春からオンライン授業を続けてきて、一方的な講義ならともかく、実習を伴うようなカリキュラムでは、すべてをオンライン授業で代替させるのは無理があると考えています。それでも夏休み以降も感染者の増加が止まらないようであれば、多くの学校がオンライン授業の継続を決定するでしょう。しかしそれは、退学者の増加を招くのではないかと思っています。

実際いまの段階でも、オンライン授業だけでは十分な学びができないと日本での学業を諦め、帰国する留学生が出始めています。また慣れない異国での生活に加えてオンライン授業による孤独感がかさなり、精神的に不安定になっている留学生もいます。感染の拡大を防止するすべは最大限尽くす必要がありますが、それと同時に本来の状態に少しでも戻すべく、分散登校や時間差登校などを含めて対面授業を復活させ、来日後の待機期間なども設定しつつの留学生受け入れを再開していかないと、数年後にはかなりの数の学校が経営に行き詰まるのではないかと危惧しています。

f:id:QianChong:20200730113246p:plain
https://www.irasutoya.com/2016/11/blog-post_175.html

新手のタバコ広告

東京メトロの構内で配布されている『メトロミニッツ』というフリーマガジンがあります。
www.ozmall.co.jp
f:id:QianChong:20200726152816j:plain:w200
先日手にしたこのフリーマガジンには、「IPPUKU@HOME」という記事が載っていて、「夏の『一服』にぜひ取り入れたいのが、爽快感を与えてくれるアイテム」としてミントティーと「Ploom S 2.0」が紹介されていました……って、これ、加熱型タバコの宣伝じゃないですか。

f:id:QianChong:20200728145746j:plain

諸外国の中でも際立って規制のゆるいうちの国のタバコ広告ですが、それでも紙面の何割かには警告文を入れるなどそれなりに厳しい決まりがあります。私の若い頃は都心の繁華街などあちこちにタバコの巨大看板が立っていたものですが、そういうのもなくなってかなり進歩してきました。ところがその一方でこうした、一見「快適な暮らしをご提案」みたいなロハスっぽい記事に擬態した広告が登場しつつあるわけです。

社団法人日本たばこ協会は「製造たばこに係る広告、販売促進活動及び包装に関する自主規準」を策定しているのですが、そこにはこうあります。

c. 新聞、雑誌又は類似の印刷出版物(以下、出版物という。)による製品広告は、次による。
① 以下の事項について、合理的な根拠がない場合には、当該出版物に広告を掲出しない。
(a)成人の読者が読者全体の75%以上であること。
(b)未成年者の読者数が未成年者総数の10%未満であること。
(c)女性の読者が読者全体の50%未満であること。
② 一般読者向け出版物の包装あるいは外表紙を広告に使用しないこと。
③ 未成年者向けに特に訴求する記事等に隣接する場所に意図して広告を掲出しないよう合理的な措置を講ずること。
(以下略)

地下鉄の構内で誰もが入手できるフリーマガジンという媒体という点を考えると、この自主基準にも抵触するような気がしますけど、どうなんでしょうね。記事に載っているQRコードを読み取ると、こちらのウェブサイトが現れます。
ploom.clubjt.jp

日本は加熱式タバコの普及率が非常に高いとされており、「たばこに寛容、ガジェット好き、空気を読むなど、日本人の国民性がマーケティングに利用された結果、アイコスは日本で大成功し、世界の実験場になった」という記事を読んだことがあります。確かに、路上喫煙の禁止など自治体の規制も強くなってきている最近では、この加熱式タバコを往来で吸っている人をかなり見かけるようになりました。
media.moneyforward.com
私はこの加熱式タバコ、「グレーゾーン」的なその存在が、往来での喫煙やそれに伴う受動喫煙、さらには喫煙習慣の広範囲への再拡散などを後押しするという点で、従来のタバコよりたちが悪いと感じています。Ploomの「よくあるご質問」にはこうあります。

Q.蒸気(たばこ葉由来成分含む)の、タール・ニコチン値はどのくらいか?
A.火を用いず、たばこ葉を燃やさないという製品特徴から、燃焼によるタール・煙は発生しません。ニコチン量は、プルーム・テック10パフ(吸引回数10回)でおおよそ0.1~0.3mgです。 ※紙巻たばこのTN測定法(ISO法)で測定した数値となります、また吸引条件により値は異なります。
Q.なぜタール・ニコチン値が書かれていないのか?
A.プルーム・テック専用のたばこカプセルは「加熱式たばこ」に分類されます。加熱式たばこは、確立された測定法が存在していないことから、タール・ニコチン値の記載はしていません。
Q.プルーム・テックには、健康へのリスクがあるのか?
A.プルーム・テック専用のたばこカプセルには、たばこ葉を使用しています。このため、プルーム・テックの使用は健康へのリスクを伴います。

やっぱり、従来のタバコと変わらないじゃないですか。結核予防会結核研究所名誉所長の森亨氏はこうおっしゃっています。

世界保健機関(WHO)は電子タバコについて「大半の国で規制のはざまとなり,医薬品としての規制を逃れ,タバコ製品に対する規制を回避している」とし,「健康上の利益,被害削減,または禁煙に対する有用性などの主張は,科学的に証明されるまで排するべきである」としています。
https://jata.or.jp/rit/rj/374-27.pdf

『メトロミニッツ』のこの記事は、まさにこのような規制を回避している「記事に見せかけた広告」だと思いました。こうした新手の広告にも規制が必要ではないかと思います。

詩の引用がカッコいい

しつこく能『融』と中国の詩についてです。この能には、もうひとつ中国の詩が引かれています。それは賈島の『題李凝幽居』に出てくる“鳥宿池中樹/僧敲月下門(鳥は宿す地中の樹/僧は敲く月下の門)”です。 

賈島「題李凝幽居」 相原健右・訳   

閑居少鄰竝  静かでわびしい住まいに隣り合う家はなく
草径入荒園  草の小道は荒れ放題の庭へと続く
鳥宿池中樹  鳥は池辺の木にとまっている
僧敲月下門  僧侶は月明かりの下、門をたたく
過橋分野色  橋を過ぎても野原の気配を続かせ
移石動雲根  雲のわく石を山中から移し据えている
暫去還来此  しばらく離れていたが、私はまたここにやってきた
幽期不負言  あなたとの約束、決して言に違うことはない
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/radio/r2_koten/archive/koten19_13.pdf

作者の賈島が、洛陽の都大路をロバに乗りながらこの詩を作っていて、「僧は敲く」にしようか「僧は推す」にしようか迷っていたところ、韓愈という高官の行列にも気づかず、通常なら無礼に当たるものの、詩人としても名高い韓愈が事の次第を聞いて「敲く」が良いとアドバイスした……「推敲」という言葉の元になった故事とともに有名な詩です。

能『融』では、かつて融の大臣(おとど)と言われた源融が宴をたびたび開いたという籬が島(まがきがしま)を、地元で汐汲みをしているという老人(実は融の亡霊)が旅の僧に紹介するシーンでこの詩が出てきます。僧が島の樹の枝にとまってさえずる鳥や月影の映る門などを思い浮かべつつ古人の心に思いを馳せると、老人は「それはひょっとして賈島の詩のことでは?」とそのココロを察し、この詩の一節を引いて「鳥は宿す池中の樹」と水を向けるや、僧が即座に「僧は敲く月下の門」と返す……って、ちょっとちょっと、ふたりとも教養ありすぎ、かつカッコよすぎます。

そしてまた、当時の観客もこのシーンを見ながら「ああ、賈島のあの詩ね」とか「推したり敲いたりという『推敲』の比喩がなんとも秋の暮の心もとない雰囲気に重なって味わい深いよね」などと深く得心していたのかしらと考えると……こちらもまたクールでカッコいい。

現代の私たちに例えて言えば、別れのシーンで「I’ll be back!」と言えば「おお、ターミネーターね」とニンヤリするとか、片方が“Life is like a box of chocolates.(人生はチョコレート箱のようなもの)”と言えばもう片方が“You never know what you're gonna get.(開けてみるまで何が入っているかわからない)”と返すようなものですか。……う〜ん、ぜんぜん違うか。とにかく漢籍の素養がほとんどない私のような人間にはちょっと信じられないような教養人の愉楽なのです。

この詩は仕舞『東北』をお稽古したときにも出てきました。和泉式部にゆかりのある東北院(東北地方の東北ではなくて、京の都の東北=鬼門を鎮めるための寺院)で和泉式部(の亡霊)がかつての有様を語りつつ舞う場面で「鳥は宿す池中の樹/僧は敲く月下の門」が引用されているのです。この部分の謡は「鳥は宿す地中の/樹僧は敲く月下の門」と変なところで切って謡いがちなので注意するように、と教わりました。「樹僧」ってなんだ、というハナシですよね。

f:id:QianChong:20200728111209p:plain
https://www.irasutoya.com/2013/02/blog-post_1501.html

能『融』と蘇軾の『水調歌頭』

昨日書いた能『融』の舞について、続きです。能の終盤に出てくるこの舞(早舞)は、秋の月光に照らされながら源融(みなもとのとおる)の亡霊が月を愛でつつ舞うというシーンで、静かに「遊興」の境地を楽しむような風情を感じさせる(師匠の受け売りです)と書きました。私はこの風情に、中国文学の精華とも称される蘇軾(蘇東坡)の詩(宋詞)『水調歌頭』に通じるものを感じます。

『水調歌頭』は蘇軾が密州(現在の中国山東省諸城市)に官吏として赴任していた頃、中秋の名月をうたった詩です。弟の蘇轍も官吏として別の地に赴任しており、七年間ほど会っていなかったとか。その弟と同じ月を見ているのだろうなあとうたう最後の一節“但願人長久,千里共嬋娟”が特に有名です。この「千里離れていても同じ月を見ている」というシチュエーションがなんだか遠距離恋愛を想起させるからか、鄧麗君(テレサ・テン)がこの詩をまるごと歌にしてヒットし、さらに王菲フェイ・ウォン)等によってカバーもされ、中国語圏では老若男女を問わず知らない人はいない名曲になっています。


鄧麗君 但願人長久

王菲 - 但願人長久 (官方版MV)

この『水調歌頭』、私は中国に留学しているときに授業で教わったのですが、その美しさに震えました。しかも自分の母語ではない言語でそこまでの感動を覚えたのが初めてだったこともあって、深く印象に残っています。外語というものは、母語とは違ってどこかいつも霧がかかったような状態で、どこまで行っても隅々までクリアに開けた風景にはならないもの(私だけかもしれませんが)ですが、この詩については、特にそこで語られている哲理については、私は「そうだ」と深く得心することができた(ような気がする)のです。

蘇軾「水調歌頭」 佐藤保・訳

明月幾時有    名月よいつからこの世にと
把酒問青天    杯あげてあおい夜空に問いかけた
不知天上宮闕   はてさて天上の宮殿では
今夕是何年    今宵はいかなる年にあたるのやら
我欲乘風歸去   風にのり帰りたいとは思うものの
唯恐瓊樓玉宇   月宮の玉の楼閣
高處不勝寒    高さも高く凍えはせぬかと心はにぶる
起舞弄清影    たちあがり影を相手にひとさし舞えば
何似在人間    人の世かはたまた月の世界か
轉朱閣      あかい閣をめぐり
低綺戶      戸口のとばりに低くさし
照無眠      眠れぬ人を照らし出す月影
不應有恨     恨みの情のあるはずもないのに
何事長向別時圓  なぜか別れのときにはいつも円い月
人有悲歡離合   人には悲しみと喜びと別れと出会いと
月有陰晴圓缺   月にはくもりとはれと満ち欠けと
此事古難全    ともに昔に変わらぬ有為転変のことわり
但願人長久    ただ願いは一つたとい千里をへだつとも
千里共嬋娟    いつまでもこの麗しい月影をともに眺めること

名月を眺めているうちに、風にのって月の世界まで行ってしまうという空想の壮大さ。なのにあちらは高いところにあるから寒いだろうなあと尻込みするやけに現実的な卑小さ、そのコントラストにまず心が和みます。続いて、酔いにまかせて月の光と戯れるように舞っていると“起舞弄清影/何似在人間”、つまり「ここはどこ? わたしはだれ?」的なトランス状態に陥るんですね。

真ん中にある三文字ずつの“轉朱閣/低綺戶/照無眠”は、留学当時に説明してくださった中国人の先生によると、月の光が刻々とその角度を変えて行くさまを表しているとのことです。そして「別れのときには決まって美しく丸い姿をしている月」に対するどこか恨み言めいた感慨と、その後ろにある諦念。そこに「人には“悲歡離合”があり、月には“陰晴圓缺”がある」という人生を透徹した眼差しで見つめる深い哲理が現れるのです。

この現世に生きる人間ならではの複雑で矛盾したような心境と、月の光に自分を託して何か吹っ切れたような清々しい境地。遠く離れた人と会えずにただ同じ月を眺めているという、言ってみればとても寂しいシチュエーションであるのに、ここには己の人生への肯定と、努めて前を向こうとする健全な人間の精神が表れているような気がします。わたしはそこに『融』における遊興の境地をも重ねて見てしまうのです。

f:id:QianChong:20200726131954p:plain:w500
f:id:QianChong:20200726132015p:plain:w500
▲留学しているときによく読んでいた蔡志忠氏のマンガです。

舞の寸法と見計らい

漫才師・ナイツのお二人に『棒君ハナワ』という漫才があります。「暴君」じゃなくて「棒君」。刑事ドラマに客演した塙宣之氏のセリフが「棒読み」だとネットで叩かれたことをネタにした作品です。


ナイツ - - - 「棒君ハナワ」/『ナイツ独演会「エルやエスの必需品」』より

塙:違うんだよ。俺たち役者に上手い・下手とかいう概念はないの。俗に言う上手い役者ってのはゴマンといるよ。だけど、それは逆に言うと印象に残らないの。あえて平坦に読むことによって、味を出していくというか、人間を出していくというか。


土屋:一回極めたみたいな言い方しちゃダメだから。役者じゃないでしょ、あなた。何なのその言い方。申し訳ないけどハッキリ言うよ。塙さんね、棒読みなんだよ、棒読み。

わはははは。ナイツの漫才にはこういう塙氏が「エラソー」なことを言って土屋氏にツッコまれるというパターンが多くて、以前にもアニメ『アンパンマン』で声の出演をしたときに、塙氏が「声優の芸ってのはね……」と語り始めて土屋氏から「セリフ三行だけだろ」と突っ込まれるひとコマがありました。

ちょっとかじっただけでその道を語っちゃうというのは、いかにも恥ずかしいです。以て自戒とせねば、と思ったら、このブログで私はけっこう「能楽」について語っちゃってるではないですか。読み返してみるとかなり恥ずかしい。

でも、ズブの素人でも素人なりの新しい発見があるのがこういう芸事の面白いところというか、懐の深いところでありまして、またそういう小さな新しい発見が次々にあるからこそ、長く楽しめる趣味になるのかなとも思います。その道を極めようとされている玄人(プロ)の方々には申し訳ないような気もしますけど。

いまは秋の温習会(発表会)に向けて『融(とおる)』の舞囃子をお稽古しているのですが、途中に差し挟まれる「早舞(はやまい)」について、その奥深さにたじろぎつつも、何かをつかみかけているようなもどかしい感じが続いています。この舞は、笛が通常の「黄鐘調(おうしきちょう)」という調子よりも一段高い「盤渉調(ばんしきちょう)」で演奏され、しかも最初は「黄鐘調」で始まるものの、舞の途中からその調子が変わります(……と、最近知りました)。

この舞は、秋の月光に照らされながら源融(みなもとのとおる)の亡霊が月を愛でつつ舞うというシーンのようで、このあとに続く謡の終盤部分は、お弔いのときに「小謡」としても謡われるそうです。が、舞や謡にそこまでの湿っぽさはなく、むしろ静かに「遊興」の境地を楽しむような風情すら感じさせる曲です。

遊興の舞であればそれなりの余裕というか軽やかさというか、逆に言うと「必死で舞っている」感がないのが理想だと思うのですが、いまのところまだ「行き道(舞の順番)」と「拍子」を踏むところを外さないように気をつけるのが精一杯で、余裕や軽やかさとは程遠いです。まさに「月とスッポン」ですね。

f:id:QianChong:20200726113303p:plain
https://www.irasutoya.com/2019/06/blog-post_52.html

しかも私の舞にはあまり「緩急」がありません。お囃子に合わせて、正しい行き道をたどり、しかるべき場所で拍子を踏めば、いちおうは舞えるとしても、それだけではなんだか味気ない。何度も指導してくださる師匠の言葉をかなり卑近かつ自分なりに解釈すれば、舞全体の世界や空気感を「舞の寸法を知って見計らい、それらを弁えて舞っている感」、あるいは「わかっていてあえて溜めたり開放したりしている感」が備わっていないのです。いや、これもそうした「感」が表に出すぎていると、自分は気持ちよくても傍目には単に嫌味な感じになりそうな気がしますが。

やはりこれは、身体に染み込むまで何度も稽古をしてはじめてじわっと体感できてくるステージなんでしょうね。そういえば「守破離」という言葉がありました。最初は教えの型を忠実に守り、その後その型を破り、最後には型そのものに囚われなくなる……おっと、つい私も芸を語ってしまいました。ナイツの土屋氏から「一回極めたみたいな言い方しちゃダメだから」とツッコまれそうです。