インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

舞の寸法と見計らい

漫才師・ナイツのお二人に『棒君ハナワ』という漫才があります。「暴君」じゃなくて「棒君」。刑事ドラマに客演した塙宣之氏のセリフが「棒読み」だとネットで叩かれたことをネタにした作品です。


ナイツ - - - 「棒君ハナワ」/『ナイツ独演会「エルやエスの必需品」』より

塙:違うんだよ。俺たち役者に上手い・下手とかいう概念はないの。俗に言う上手い役者ってのはゴマンといるよ。だけど、それは逆に言うと印象に残らないの。あえて平坦に読むことによって、味を出していくというか、人間を出していくというか。


土屋:一回極めたみたいな言い方しちゃダメだから。役者じゃないでしょ、あなた。何なのその言い方。申し訳ないけどハッキリ言うよ。塙さんね、棒読みなんだよ、棒読み。

わはははは。ナイツの漫才にはこういう塙氏が「エラソー」なことを言って土屋氏にツッコまれるというパターンが多くて、以前にもアニメ『アンパンマン』で声の出演をしたときに、塙氏が「声優の芸ってのはね……」と語り始めて土屋氏から「セリフ三行だけだろ」と突っ込まれるひとコマがありました。

ちょっとかじっただけでその道を語っちゃうというのは、いかにも恥ずかしいです。以て自戒とせねば、と思ったら、このブログで私はけっこう「能楽」について語っちゃってるではないですか。読み返してみるとかなり恥ずかしい。

でも、ズブの素人でも素人なりの新しい発見があるのがこういう芸事の面白いところというか、懐の深いところでありまして、またそういう小さな新しい発見が次々にあるからこそ、長く楽しめる趣味になるのかなとも思います。その道を極めようとされている玄人(プロ)の方々には申し訳ないような気もしますけど。

いまは秋の温習会(発表会)に向けて『融(とおる)』の舞囃子をお稽古しているのですが、途中に差し挟まれる「早舞(はやまい)」について、その奥深さにたじろぎつつも、何かをつかみかけているようなもどかしい感じが続いています。この舞は、笛が通常の「黄鐘調(おうしきちょう)」という調子よりも一段高い「盤渉調(ばんしきちょう)」で演奏され、しかも最初は「黄鐘調」で始まるものの、舞の途中からその調子が変わります(……と、最近知りました)。

この舞は、秋の月光に照らされながら源融(みなもとのとおる)の亡霊が月を愛でつつ舞うというシーンのようで、このあとに続く謡の終盤部分は、お弔いのときに「小謡」としても謡われるそうです。が、舞や謡にそこまでの湿っぽさはなく、むしろ静かに「遊興」の境地を楽しむような風情すら感じさせる曲です。

遊興の舞であればそれなりの余裕というか軽やかさというか、逆に言うと「必死で舞っている」感がないのが理想だと思うのですが、いまのところまだ「行き道(舞の順番)」と「拍子」を踏むところを外さないように気をつけるのが精一杯で、余裕や軽やかさとは程遠いです。まさに「月とスッポン」ですね。

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https://www.irasutoya.com/2019/06/blog-post_52.html

しかも私の舞にはあまり「緩急」がありません。お囃子に合わせて、正しい行き道をたどり、しかるべき場所で拍子を踏めば、いちおうは舞えるとしても、それだけではなんだか味気ない。何度も指導してくださる師匠の言葉をかなり卑近かつ自分なりに解釈すれば、舞全体の世界や空気感を「舞の寸法を知って見計らい、それらを弁えて舞っている感」、あるいは「わかっていてあえて溜めたり開放したりしている感」が備わっていないのです。いや、これもそうした「感」が表に出すぎていると、自分は気持ちよくても傍目には単に嫌味な感じになりそうな気がしますが。

やはりこれは、身体に染み込むまで何度も稽古をしてはじめてじわっと体感できてくるステージなんでしょうね。そういえば「守破離」という言葉がありました。最初は教えの型を忠実に守り、その後その型を破り、最後には型そのものに囚われなくなる……おっと、つい私も芸を語ってしまいました。ナイツの土屋氏から「一回極めたみたいな言い方しちゃダメだから」とツッコまれそうです。