インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

オンライン授業で失われるもの

久しぶりにオンライン授業を担当して、ひどく疲れてしまったーーそんな話をブログに書きました。オンライン授業では、少なくとも語学のそれにおいては、教師と学生の間の、さらには学生と学生の間のインタラクションが希薄になってしまうことが、学習効果を著しく損ねるというのが約三年ほどのコロナ禍における私自身の教訓でした。

qianchong.hatenablog.com

先日、電車の中でYoutubeの動画を見ていたら、メディアアーティストの落合陽一氏と対談されていた声優の緒方恵美氏が興味深いことをおっしゃっていました。コロナ禍で、声優さんたちがひとところに集まって一緒に録音することができなくなった結果、アフレコの質が低下してしまったというお話です。


www.youtube.com

緒方:人間が人間と喋って出す言葉というのは、こういう言葉を喋ろうと思って喋っている人って誰もいないじゃないですか。落合さんと話していて、落合さんがこういうふうに言ってくれたから、それを受けて、その表情とかを見て、自分の心が動いたから、たまたま口から出てきてしまったのがその言葉っていう。


落合:インタラクションと偶発性が非常に重要ですね。


緒方:セリフというのは全てそうなので、つまりはそれを発してくれる人が目の前にいるのといないのとでは全く質が違うものになってしまうということなんですよね。(中略)受ける呼吸の音とか、そこに動いている気配とか、そういうものも全て受けてお芝居というのは成立しているので、本来は。それがなくて音声だけを聞いてやるっていうのも、できなくはないけれど、それとはクオリティがもう全然違うんですよね。

もちろん声優さんのアフレコやお芝居という分野でのお話ですけど、私はこれは人間のコミュニケーション全体に関わる大切な指摘ではないかと思いました。コロナ禍の間に行われたオンライン授業に欠けていて、かつそれがコミュニケーションの質に影響を与えていると私が思ったのは、発話を行う者同士がその場を共有していることの有無でした。他人の気配を肌身で感じながら話すことの大切さが、自分の想像以上に大きいことを実感したのです。

「インタラクションと偶発性が非常に重要」と、落合氏がとても的確なまとめ方をされていますが、参加者全員の顔がグリッド状に並び、発話者以外全員が音声をミュートにしているなかでは生き生きとしたコミュニケーションは生まれにくい。発話したいときには自由にミュートを解除してもよいとはいえ、そのひと手間、ふた手間がインタラクションと偶発性をとことん削いでしまうんです。

とはいえ、私が非常勤で勤めている別の学校では、コロナ禍からこちら、ずっとオンライン授業を継続しており、今後も対面授業に戻す予定はないそうです。この学校は日本全国、さらには海外からも学生さんが参加しているため、学校側はオンライン授業のメリットのほうが大きいと判断しているわけです。また私自身も、自分の勉強のためにオンラインの語学講座を利用し続けていますから、一概にオンライン授業にはデメリットばかりだと言い募るつもりはありません。

それでもオンラインでのコミュニケーションが、なにか人間にとってとても大切なものを失わせているような気がしてならないのです。せっかくこれまでにはできなかったような遠隔コミュニケーションの技術が実用化されたのだから、使わないのはもったいないような気もします。教育以外の分野でも、その利便性は計り知れません。でも、人間はその利便性をいくらか犠牲にしても、めんどくさいリアル空間でのコミュニケーションが一定程度は必要なのではないか。

現在続けているオンラインの語学講座も、一部はリアルな教室の授業(マンツーマン英会話など)に切り替えたほうがいいかなとも思っています。授業の予約から録画から教材から、オンラインのほうがずっとずっと便利なはずなのに、またどうしてもとに戻るのか、退化してしまうのかと言われるかもしれません。でも私はそこには何か大切なものが欠けているような気がするのです。

Adobe Premiere Proで文字起こしができちゃった

仕事柄、通訳教材を作るときや自身の語学の勉強のためにも、よく外語の動画や音声の「文字起こし」を行っています。いわゆる「ディクテーション(中国語:聽寫)」というやつです。その昔は「テープ起こし」などと称していて、文字通りカセットテープに録音された議事録などを文字にする仕事もありました。

ソニーが作っていた「BM-76」というテープ起こし専用デッキ(トランスクライバー)があって、これでカセットテープを再生しては書き取って巻き戻し、再生しては書き取って巻き戻し……という作業を繰り返していたのです。再生と巻き戻しはフットスイッチで行うことができ、スイッチを足で踏んでいる間は再生、足を離すと任意の秒数だけ自動で巻き戻してくれるという機能がついていました。これでハンズフリーになり延々文字を書き取り続けることができるというわけ。


SONY BM-76 - Google 検索

それからほどなくしてパソコン上に「文字起こし」環境を構築できるようになりました。このブログでも何度もご紹介していますが、WindowならフリーソフトのOkoshiyasu2を使って、Macならマクロを使って、いずれもBM-76と同じような環境でディクテーションができるようになりました。これでどれだけの中国語を聴き取ってきたことか。その過程でリスニング力や語彙力が鍛えられたと感じているので、学生さんたちにも絶賛オススメしてきました。

qianchong.hatenablog.com

ところがその後、Google Documentの音声入力機能を使って、自動でディクテーションができるようになりました。パソコンで鳴っている音を認識させるために、WindowsMacともに出入力デバイスを操作する必要がありますが、かなりの精度で文字起こしをすることが可能に。こうなっちゃうともうあの「泥臭い」ディクテーションには戻れなくなってしまいます。よほどの意志がなければ、学生さんだって取り組もうとは思わないでしょう。

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そしてAIの技術が急速に日常のものとなって行きつつある現在、当然のように文字起こしもできるようになっています。ChatGPTに動画や音声のファイルを丸投げして「文字起こししてください」とお願いしても「音声ファイルの変換はサポート外の操作となります」と今のところはやってくれません。でもいくつかのソフトでは可能らしく、例えばこちらの記事ではAdobe Premiere ProでAIを用いた文字起こしができると書かれています*1

toyokeizai.net

Adobe Premiere Proは以前から使ってきたのに、知りませんでした〜! マニュアルをよく読め、ということですね。それで試してみたら、ほんのわずかの手順と時間で文字起こしが終了してしまいました。上述のGoogle Documentを使った方法では、基本的に5分の映像や音声なら聴き取って文字起こしするのも5分かかるわけですが、Adobe Premiere Proの文字起こし機能ではそれが超高速で行われます。

この画面では先日のアメリカ議会上院で行われたSNS上の有害なコンテンツから子どもを守る対策についての公聴会のニュースを試しています。マーク・ザッカーバーグ氏の部分で社名の「Meta」が聴き取れていないなど若干の誤記はありますが、おおむね正確に文字起こしされてしまいました。そう、「されてしまいました」。ここまで来ちゃったんだもの、これでもう未来永劫、学生さんたちは泥臭い作業に勤しむことはなくなるだろうなあ。

かくいう私自身が、趣味と実益を兼ねてあんなに好きだったディクテーションに対して、モチベーションを鼓舞するのが難しいと感じちゃっています。AIが語学に革命を起こしつつあるのは確かなんですけど、それは決してプラスの側面だけではないなと改めて感じています。というか、外語の学び方に対して、これまでとはまったく違う発想のアプローチが求められていくということなのかもしれません。

*1:具体的な使い方については、こちらの記事もとても参考になりました。ありがとうございます。

オンライン授業って何だったんだろう

一昨日の夜から昨日の朝にかけて、東京ではめずらしく積雪がありました。勤務している学校では交通の混乱などを予想して、昨日の授業はすべてオンライン授業に切り替えることを決定。私は火曜日に5コマも授業があるので、急遽Zoomでの出講となりましたが……ものすごく疲れました*1

コロナ禍の頃はこうやって毎日オンライン授業をやっていたわけですが、それからずいぶん時が経ってあらためてやってみると、これはやっぱり難しいなと。留学生のみなさんも、コロナ禍の頃はせっかく日本に留学したのにオンライン授業ばかりの日々という記憶がよみがえったらしく、一様にうんざりした表情を浮かべていました。

オンライン授業への取り組みと、そこで気づいたこと、なかんずくその弊害についてはこのブログでもずいぶんたくさんの文章を書いてきましたが、あらためて思いました。オンライン授業は、少なくとも今のようなシステムで行うかぎり、語学の授業としてはかなりつまらないものになってしまうと。

qianchong.hatenablog.com

一対一のオンライン英会話みたいな授業ならまだしも、一対多で、通信への負荷への懸念から教師以外全員の学生が音声をミュートにして行うそれは、通常の教室であれば自然に発生する“互動(インタラクション)”が決定的に欠けています。教師対学生間の“互動”だけでなく、同じクラスにいる学生同士の“互動”も消えてしまう(ブレイクアウトルームのような手段もありますが)。これがいかに学習効果を損ねるかを、約三年ほどのコロナ禍の間に痛感しました。

思い返せばコロナ禍でオンライン授業が始まったころ、一部の識者は教育の革命だ、学校というシステムが根本からひっくり返る、無能な教師が淘汰され、優秀な教師に多数の学生がオンラインで繋がり、これまでは不可能だった夢のような教育環境が実現する……といったような言辞をふりまいていました。そうした言辞にのせられ、ふりまわされ、現場にはものすごい圧力がかかっていました。アレは何だったんだろうといまにして思います。

たしか内田樹氏がおっしゃっていたことだと思いますが、「学校教育をビジネスの言葉づかいで論じてはならない」というのは、本当にそうだなあとコロナ禍におけるオンライン授業の顛末を体感してきたものとしては思うのです。そしていままた、ChatGPTに代表される生成AIをめぐる識者の意見や議論にも同じような「匂い」を感じます。


https://www.irasutoya.com/2015/11/blog-post_578.html

教育が変わる、学校が変わる、教師が変わる……ビジネス誌やネット動画などでは盛んにそういう声が喧伝されています。シンギュラリティは予想より前倒しになる、いやもうシンギュラリティは来ている。教師がいらなくなり、世界最高の知性からあまねく人は学べるようになる……。私は個人的な興味からそういう声にもできるだけ接して自分なりに考え、かつAIのサービスにも手弁当で課金したりしていろいろと試してみてはいます。でもその一方で、教師の端くれとして、決して浮足立ってはいけないと自分に言い聞かせてもいるのです。

*1:とはいえ、収穫もありました。ブレイクアウトルームに分かれた状態でホストが一斉アナウンスをしたり、動画を共有したり、その間に共同ホストの教師が各ルームを見て回って指導したり。これはなかなか便利だと思いました。欲を言えば、ホスト自身も動画を共有しつつ各ルームを見て回れるといいんですけど。現段階では各ルームに入ろうとすると、共有を終了するよう促されます。

音声認識の進化と人間の役割

人工知能(AI)の技術が進化するなかで、機械翻訳の精度も向上しつつあります。そうした文字ベースの言語変換は実用に耐えうるようになってきた一方で、音声ベースの変換はまだまだ難しいという認識がありました。

特に生身の人間は必ずしも明瞭な発話をするわけではないので、そうした曖昧さを含んだ音声の認識にはまだまだ困難が伴うのではないかと。またその発話された音声の内容には明確に含まれていない背景知識や暗黙知みたいなものまで織り込んで別の言語で発話を紡ぎ出すのもかなり困難ではないかと想像していたわけです。

ただ、昨年あたりからChatGPTに代表されるAIの技術が格段の進歩を遂げ、音声通訳の精度も急激に上がっていくのではないかという予想がなされるようになりました。例えば昨年の5月ごろに報じられていたこのニュース。Googleが動画の自動吹替と「リップシンク」を行うAIを開発中というニュースです。

gigazine.net

そういえば昨年はいわゆるディープフェイクという形で、例えば政治家が普段とは真逆の主張をするような映像が取り沙汰されていたような記憶があります。またその少しあとには、YouTubeがAIによる「自動翻訳吹き替え」機能を搭載するというニュースが報じられました。

gigazine.net

つまり機械翻訳ではなく「機械通訳」が早晩実現するというお話です。こうなると、あとはどれくらいの精度でそれらが実現できるのかという話です。こうした技術は各国がその開発にしのぎを削っているようですから、最初は多少ぎこちなくても、技術の進歩でどんどん「洗練」されていくかもしれません。

先日は、勤務先の学校の留学生(スペイン語母語です)から、こんな動画を教えていただきました。Luisito Comunicaという、スペイン語圏では非常に有名なYoutuberだそうで、彼がサンパウロの街を紹介している動画なのですが……なんと上掲の記事でも紹介されていた「自動翻訳吹き替え」らしい音声トラックが7つもついていて、その中にはなんと日本語もあるのです(動画の下にある歯車マークから選べます)。


www.youtube.com

言語をいくつか選んで視聴してみて驚きました。オリジナル音声であるスペイン語で話しているLuisito Comunica(Luis Arturo Villar Sudek)氏の口調の雰囲気を残しつつ他の言語で話していることがその理由です。もちろんよく聞いてみると、例えば日本語ではかなり奇妙なところがたくさんあります。「大通り(おおどおり)」を「だいどおり」と言っているようにへんてこりんな日本語が頻出しますし、数字のところは意味が通らないほどに無茶苦茶だったりします。これはYoutubeの自動字幕機能で翻訳された日本語をそのまま音声に変換して流しているのかな?

でも英語の方はものすごく自然に話しているように聞こえます(私の英語力による判断はあまりあてになりませんが)。スペイン語からは「距離」の離れた日本語はちょっとまだ難があるにしても、スペイン語と英語くらいの距離であれば、もうこれくらいのレベルで自動通訳ができるのか! と衝撃を受けました。くだんのスペイン語母語の留学生も「すごい!」と驚いていました。

でも私はこの英語のあまりの自然さにちょっと疑問を持って(言語を学ぶ人間の立場としてはちょっぴり悔しさもあって?)、少しネットで調べてみました。そうしたらこんな記事がありました。

isamarcial.com.mx

記事の最後にある「まとめ」部分をGoogle翻訳で読んでみたのですが……

• El trabajo de doblaje está hecho por él mismo, es decir, es él hablando en inglés
吹き替え作業は彼自身が行っており、英語で話しています。

なるほど、英語はAIによる機械通訳ではなく、吹き替えだったのですね。機械通訳が現段階ではまだ実用に耐えうるほどではないのかなと確認できたわけですが、そんなことで溜飲を下げている場合ではありません(だいたいスペイン語を読むのだってGoogle翻訳に頼ってる)。上述したように、こうした技術は今後もますます進歩していくでしょう。翻訳者のみならず通訳者の役割もかなり限定されたものになっていくかもしれません。

今のところの私の予想としては、生身の人間による翻訳や通訳はおそらく「ハイエンド」の需要については今後も残っていくだろうけれど、ミドルレンジの部分は壊滅的に淘汰が進むのではないかと思います。つまり私のような中途半端な二流や三流の通訳者・翻訳者はその波をモロにかぶるということですね。

ハイエンドというのは、きわめて複雑で精緻な内容を訳すというシーンに加えて、生身の人間によるサービスが何らかの付加価値を持つシーンが考えられるでしょうか。例えば観光案内などはやはり人間にやってもらったほうが楽しいよね、といったような。AIが進化すればするほど、わざわざ人間が行うサービスがより「贅沢」なものになっていくのかもしれません。

AIを使って英語や中国語の会話を練習する

ChatGPTは文字でやり取りするほかに音声でもやり取りできる……ということで、ChatGPTと会話の練習をしてみようと思いました。やりかたはネットや既刊本にさまざまな方法が書かれています。まずはパソコンのChrome拡張機能の“Voice control for ChatGPT”を入れて、英語や中国語、さらには日本語でも会話をやってみました。

気軽なおしゃべりでもよかったのですが、せっかくならいろいろ試してみようと思って、まず英語はいつもオンライン英会話でやっているengooのニュース記事を元に英語の会話をしてみました。谷口恵子氏の『AI英語革命』の記述を参考にプロンプトを作ります。

英語で会話をしましょう。
・あなたの名前はMaryです。
・私の名前はKeiです。
・1回の会話は50ワード以内にしてください。
・以下の【Article】の内容に関して、英語で会話をします。
・あなたは【Article】の下にある【Discussion】の番号順に質問をしてください。
・私が英語のミスをするたびに、どんなミスをしたのか、どう直せばいいのか教えてください。
・ミスの指摘のあとは、また英語で会話を続けてください。
・あなたはMaryとしての発言だけをしてください。
それではあなたから英語の会話を始めてください。

このプロンプトの下に【Article】と【Discussion】を ’’’ ’’’ で挟んでおいておきました。

結果は、こちらの発音の悪さからか、意味の通らない単語について直してくる場合が多かったです。また「番号順に質問してください」としてあるので、ひとつの質問について会話が深まる前に次の質問に行ってしまいます。こちらからも質問を返してみても、反応することもあればサラッと無視されることもありました。

私の発言についてはすごく“polite”に(?)褒めてくれますし、ChatGPTなりの視点もまとめて言ってくれますが、総じていずれも優等生的というか、平均的というか、あまり個性的なものは感じませんでした。ChatGPTが煎じ詰めて言えばものすごく高性能な「次の単語予測機」である以上、世の中の平均的な言葉の並びに近づくのも無理はないと思いますが。

1回の発言を50ワード以内にしてくださいと書いておいても、ChatGPTの答えがだんだん長くなっていき、また質問も複雑になっていくようでした。これはオンラン英会話でもよくある、先生ばっかりが長々としゃべってちっともこちらに話させてくれないパターンに似ています。それで30ワードにして試してもみたのですが、最初はそれを守っているChatGPTも、会話が少し進むと発話がどんどん長くなっていくようでした。

全体的に英語がどんどん長く・難しくなる(自分にとっては)傾向がありそうなので、プロンプトで私の英語レベルを指定してみたこともあります。

・私の英語は初中級レベルで、CEFRのレベルはB1程度です。このレベルの英語話者に合わせて英語で会話をしてください。

こうしておいてもけっこう難しいことを言ってくるので、このあたりのプロンプトの調整はなかなか難しいなと思いました。やはり生成AIをうまく使いこなせるかどうかは、使う私たちの側の知恵にかかっているんでしょうね。

同じようなことを中国語や日本語でも試してみましたが、英語に比べると音声がかなり平板で機械的でした。英語の音声は自然ですが、それでも長く聴いていると単調に聞こえてきます。またポーズが一切ないので、かなり早口でまくし立てられているような感じになる。そもそも英語じたいもかなり速くて、これは語速を指定できるようになったらいいなと思いました。

ちょっとすごいな・おもしろいなと思った点としては、私が会話の中で“bullshit jobs(ブルシット・ジョブ:クソどうでもいい仕事)”というお下品な言葉を使ったら、「ブルシット」の部分が“*****”と表示されたことと、英語の中にフィンランド語の単語を混ぜて話したとき、ChatGPTは聴き取れていなかったものの(“yellow capaloma yoga”と意味のない英語に変換されました)、その後にある私の“it means football national team of Finland”という説明から推測してフィンランド語の "jalkapallomaajoukkue(サッカーフィンランド代表チーム)" を返してきたところです。

というわけで、音声の扱いはまだ発展途上なのかなという感じでした。生身の人間の“passion”があまり(中国語や日本語はまったく)感じられないので、やはりもうしばらくオンライン英会話や中国語会話のお世話になりそうかな。プロンプトを細かくいじってみると毎回違った結果になるみたいなので、また色々と試してみたいと思います。

……ところが。


https://www.irasutoya.com/2018/01/ai_67.html

少し前にブログ記事の下書きを上記のように書いていたのですが、ここ数日スマホアプリでの音声入出力機能がついたGPT-4Vを試していて、ちょっと衝撃を受けています。

細かい使い方などは、これもネットに記事が動画がすでにたくさんありますので、そちらを徴していただくこととして、私が驚いたのは英語のみならず、中国語や日本語の音声もかなり自然になっていることです。しかも「えー」とか言い淀みみたいなきわめて人間的な癖も織り込んで話してきます。人間の感情を感じさせるイントネーションがちょっと怖いくらいで、実際中国語の男性音声は私のとある友人にかなり似ている声だったので、最初は「うわあ」と声が出てしまったくらい。これまで不満だった“passion”の部分がどんどん改良されているのです。

私はまだ簡単な会話しか試していないので、このスマホアプリ版のChatGPT4Vで、上述したようなニュース記事を前提にディスカッションするようなことができるのかどうかはわかりません*1。ただ「文法的な間違いを直して」とか「1回の発言は30字以内にして」などの指示はちゃんと守ってくれました。また英語も中国語も、こちらの拙い発音を汲み取りつつ自然に会話してくれます(その意味では発音矯正にはならなさそう)が、そのために頓珍漢な受け答えになることもあります。

また英語の中に日本語を入れて話すようなマルチリンガルな状況にも対応してくれました。例えば“How can I say Japanese word「石の上にも三年」in English?”みたいな聞き方もできると。これからいろいろ試してみたいと思っています。あと、通信環境によっては会話にスムーズさが欠けたり、途中で中断してしまったりもしますが、これもこの先技術の進歩でどんどん解消されていくのでしょう。


▲しゃべった内容は文章でもスマホ上に残るので、あとから確かめることもできます。

試してみて、現段階でもここまでできるようになっているということは、これから先はもっとすごいことになるんじゃないかと、ちょっと恐ろしくなりました。オンライン英会話やオンライン中国語会話よりずっと安い価格で(ChatGPT4は20ドル/月)、いつでもどこでも外語の会話練習ができてしまうのです。それにオンライン英会話の先生には正直申し上げて「あたりはずれ」がありますけど、AIならプロンプトの入れ方次第でかなりこちらの要求を満足してくれそうです。

う〜ん、今後語学教師の仕事は、まったくなくなってしまうとは言えないかもしれないけれど、かなり大きな影響を受けることになりそうです。

*1:追記:後日やってみました。スマホアプリの入力欄に文章で指示を入れて、その後に“article”や“discussion”をペーストし、それらの内容に従って話してくれるように頼みます。最初は文章で返してきますが、その後音声入力に切り替えると向こうも音声で返してくるようになります。結果はChromeの画面でやっていたときと大同小異で、順番に質問してといえば順番に質問してきます(そのぶん会話は深まらないのも同じ)。そしてだんだんAI側の発話が長くなっていくのも同じでした。50ワードとか、30ワード以内とお願いしていても、どんどん長くなっていく傾向にあるみたいです。「絶対に」とか制限をかけるとまた違うのかしら。またいろいろ試してみたいと思います。

AIの進化と人間の役割

先日AIを使った語学学習や翻訳について考えていた際、このブログに「自分はこうしたサービスを使う際に必要となるそうした知識や教養を育むことにこれからも専念すればよく、一方でこうしたサービスの便利なところはどんどん活用させてもらうというスタンスでいればいいのかもしれない、と思い直してずいぶん心境が変わ」ったと書きました。

qianchong.hatenablog.com

ChatGPTなどのAIが私たちに見せつけるその驚異的な生成能力は、それがきわめて「人間っぽい」思考や認識を持っているように見えるがゆえに、いきおい「もう外語学習なんかしなくていい」とか「通訳者や翻訳者の役目は終わった」、「イラストレーターもプログラマーも全員失業だ」などの極端な結論に走ってしまいそうになります。正直に申し上げて、私もChatGPTが登場してからのこの1年あまり(2022年11月30日に公開)というものは、いろいろと心が揺れ動いていました。

でもそこはそれ、落ち着いてさまざまな専門家の意見や見解に耳を傾け、関連するいろいろな本を読みながら実際に使って試しているうちに、上述のような心境になりました。こんなことができるのか! あんなこともできるかも! と興奮することしきりである一方で、なるほど、だったら人間である自分の役割はこういうところにあるのだな……というのもまたおぼろげながら分かってきたという感じです。

先日も、とあるYoutubeの動画を視聴していたら、ChatGPTとは何かについて「たてはま / CGBeginner」さんがわかりやすい解説をされていました*1


www.youtube.com

この動画では、現在のChatGPTが煎じ詰めていえば単なる「次単語予測器」であること、しかし単に次の単語を予測しているだけなのにそこにあたかも意志や人格を感じさせるようにふるまうこと、しかもそのふるまいの理由は解明されていないことなどが語られています。しかもひょっとするとそのブラックボックスのような構造が、実は私たち人間の思考という現象そのものではないのかという疑問まで……なかなか怖い、けれどもとても興味深いです。

とくにChatGPTは「くだらない質問にはくだらない回答が返ってきやすい」、「論理的で的確な質問には論理的で的確な回答が返ってきやすい」というのは、やはりどんなにAIが進化発展しても、結局はそれを使う人間の資質が問われるということなのだと深く納得しました。

オンライン英会話のレッスンで使っているengooの記事に、AIに対して世界でいちばんナーバスになっていないのは日本人だというのがあって、私は当初それをとてもネガティブに捉えていました。日本人はとかく保守的だから、技術先進国を自負しているくせにキャッシュレス化はなかなか進まないし、FAXをいまだに使っているし。そんな我々は結局、AIとは何か、AIに何ができるのかをまだあまりよく理解できていないんじゃないかと。


https://engoo.com/app/daily-news/article/japan-least-nervous-about-ai-in-international-survey/dUAnHk2fEe6PZ_do2bzYMQ


▲AIに対して、日本人はダントツで「ナーバスになっていない」です。

でもこの間考えてきた「AIとのつきあい方」という観点からすれば、そうネガティブにとらえなくてもいいのかもしれないと思うようになりました。もしかすると私たちは、AIは夢のようなことを叶えてくれるすごい存在だけど、それをどう使いこなすのかは人間の側に託されていること、あるいはAIに全面的におんぶにだっこでは自分も成長できないことをよく分かっているのかもしれません。

というのも、これもYoutubeの動画でどなたがおっしゃっていたことなんですけど(ごめんなさい、どの動画だったかが思い出せません)、私たちは子供の頃から『ドラえもん』とか『鉄腕アトム』なんかに親しんでいて、「あんな夢こんな夢」を「不思議なポッケで叶えてくれる」AI(搭載のロボット)との親和性が高いというんですね。

なるほど、のび太くんは毎回ドラえもんに泣きついて助けてもらうけれど、予期せぬ結果を招き寄せてしまってその都度後悔したり教訓を得たりしています。あれはもしかしたら我々にAIとのつきあい方、なかんずくAIがどんなに素晴らしくても結局はAIを使う人間の側が問われるのだということを教えていたのかなと思うわけです。上掲の動画ではこう述べられています。

残酷なもので、ChatGPTはすべての人を助けるツールではなく、GPTにロジカルで適切な指示が出せない人間には冷酷なほど力になってくれず、的確な指示が出せる人間にとってはきわめて強力なツールになるということです。

うおお。もっと本を読もう、勉強しよう……と思えてくるではありませんか。

追記

自分の写真をもとに「『ドラえもん』のアニメ調のイラストを生成してください」とAIにお願いしてみました。

ええ〜、予想したのとぜんぜん違います。やはり的確な指示が出せないと力になってくれません。

翻訳AIの進化と言語学習の意義について考える

Google翻訳やDeepLなどの機械翻訳、またChatGPTなどの生成AIによる翻訳が実用に供され、その能力がどんどん上がっていると喧伝されているなか、もう翻訳を学ぶ意味はなくなってきたのではないか、さらには外語学習自体が陳腐化していくのではないか……そんな声が職場の内外で多く聞かれるようになりました。同僚と話すこともありますし、学生さんから聞かれることもあります。

私は通訳はともかく、翻訳に関してはもうずいぶん前に「ご飯を食べる手段」としては廃業してしまいましたので、その視点、つまり翻訳で稼げるのかという視点からの質問には答える資格がなさそうです。

それでも機械やAI(というかネットとコンピュータとそこで動いているシステム)がどこまで翻訳の精度を上げられるのか、外語学習が本当にいらなくなるのかについてはとても興味があって、これまでにもいろいろな書籍を読んできました。またそうした書籍を読みながら実際にGoogle翻訳やDeepL、さらにはChatGPT(GPT‐4に課金もしています)も使って、その「実力」を体感してきました。

端的に申し上げて、それらのサービスの実力は飛躍的に向上し続けていると思います。文脈や文化背景などを考慮しない珍訳が生成されるとか、難しい部分をすっとばして訳してくるとか、すました顔をして間違った情報を入れてくるとか、こうしたサービスに否定的な方はとかく「粗(あら)」を指摘したがりますけど(かつての自分もそうでした)、それらが急速に改善されて行っていると。

特にこうしたサービスを牽引している英語の世界においては、英語のインプットとアウトプット双方で、とても頼れる存在になっています。例えばGoogle翻訳で日本語と英語の文章を比較してより自分の意図に沿った文章を作るとか、それをDeepLでも検証してみるとか。日本語と英語を入れ替えつつ何度も校正することで、ああなるほど、ここはこういう英文を使えばいいのかというのがわかってきたりします。またChrome拡張機能に入れているGrammalyは、Google翻訳で英文を書いているそばから綴りや文法や記号の使い方の間違い、さらにはより自然で流暢な文章にするための提案などもしてくれます。

当初私は、こんなに至れり尽くせりのサービスを使っていたんじゃ英語の力なんてつかないんじゃないか、というか「バカになっちゃう」とさえ思っていました。要は自分で考え、身につけるべきところをそうしたサービスの機能に任せているわけで、一時期はこうしたサービスをまるで一度ハマったら抜けられないドラッグみたいなものとして認識していたこともあったくらいです。

ただGoogle翻訳にせよ、DeepLにせよ、ChatGPTにせよ、そこに言葉を打ち込み、そこからの反応に対して考慮を行い、取捨選択をするのは自分です。その考慮や取捨選択を行うためには、言葉に対する知識や、その言葉が表そうとしているものの意図、感情、目的、その背景となる文化や世界観……要するに豊かな教養が必要なのではないか。だから自分はこうしたサービスを使う際に必要となるそうした知識や教養を育むことにこれからも専念すればよく、一方でこうしたサービスの便利なところはどんどん活用させてもらうというスタンスでいればいいのかもしれない、と思い直してずいぶん心境が変わりました。AIが生成した文章を「すごい」と思えるためには、自分の側にもそれを「すごい」と思えるだけの力が必要なのだと……あとから思い返せば実に甘い考えだったとなるかもしれないけれど。

先日読んだ山田優氏の『ChatGPT翻訳術』では、そうした自分の側に必要な力を端的に「メタ言語能力」だと定義しています。


ChatGPT翻訳術 新AI時代の超英語スキルブック

メタ言語能力とは、言葉について疑問を感じることができる能力と、それについて説明できる能力のことです。ChatGPTを使う際には、より有効で高品質な回答を得るために、いかに適切な指示(プロンプト)を出せるかが大切だと言われますが、メタ言語能力とはそうしたプロンプト作成のために必要な知識とも言えます。

それはいわば言葉に対する自分ならではの気づきであり、「この気づきを言語化してAIに指示や質問をできることが重要です(51ページ)」。ただの「教えて君」ではだめで、そこにはやはり問う側の工夫が必要なんですね。そしてその工夫をするためには知識や教養が要るのだと。山田氏は「英語力より、言葉の問題に気づける能力(メタ言語能力)のほうが大事(61ページ)」とまでおっしゃっています。また「実務レベルで活用していく場合、適切な回答を得るための指示・質問を行うため、一定の知識やスキルが求められる(38ページ)」とも。

作業をAIに丸投げすることですべてが済むかというともちろんそんなことはなくて、AIに作業をさせる前と後の作業を人間が知識や教養やスキルを活かして十分に行うことで、より良い成果が得られるということですね。この本の主題であるChatGPTを用いた翻訳であれば、その前工程と後工程で指示(プロンプト)を出すことが人間の役割であり、的確な指示を出すためには知識・教養・言語力などがいる。というわけでこの本では、その前工程と後工程における具体的なテクニックが多数紹介されています。

こうしたテクノロジーが今後も発展し続けていく未来において、翻訳や通訳、あるいは外語学習そのものの意義が問われるような事態に立ち至るのだろうか……という疑問に関しては、この本の最終章にいくつか筆者の回答が記されています。山田氏は「テクノロジーの恩恵を受けてグローバルコミュニケーションが容易になったからこそ、すべての人類が、一定程度の外国語リテラシーや英語力を獲得するほうがよいと考えます(223ページ)」と述べておられます。

それは例えば、機械翻訳やChatGPTが生成する自然で流暢な翻訳から学ぶという新しいアプローチの仕方です。私もそれは大賛成ですし、上述したように実際そんなことをやりつつあるのですが、ただ「このようなツールを利用しながら翻訳活動を行う人口は増え、結果として翻訳市場全体が拡大する可能性があります(230ページ)」とおっしゃっている部分はちょっとうまくそのイメージが掴めませんでした。

またこれは本書の範囲を超えたもっと巨大かつ漠然とした疑問(というか不安)ですが、こうしたテクノロジーの発展が最終的に人類にどんな未来をもたらすのかについてまだ私はかなり懐疑的で、だからこそいまのように手探りであれこれ試しつつ進むしかないと思っています。ただ少なくともこうしたテクノロジーが「なかったこと」にはできない以上、とりあえずは試してみよう・学んでみようと。

またChatGPTの回答は、これまで人類が積み上げてきた言語の資源から言葉や表現を引っ張ってきているわけですが、人類の大半がChatGPTなどのAIから教えてもらうようになると、人類全体の言語能力や資源はそれ以上膨らまなくなり、最終的にはやせ細って退化して行きはしないだろうかという疑問もあります。

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大規模言語モデルは、単語と単語の関係だけしか学んでいないので、人間のように、音、視覚、匂い、肌触り、過去の体験などの身体性に基づく情報と結びつけて言葉の意味を学習していないという、批判的な見方も存在します。(45ページ)

なるほど、私たちが「退化」しないためには、つねに「メタ言語能力」を磨き、身体性に基づいた新たな創造をし続けていかなければならない、そこにこそ生身の私たちの価値があるということなんでしょうね。もっとも、現時点でさえ音や視覚についてはすでにどんどんAIにとって代わられつつあるよう(音楽生成や画像生成など、どんどん新しいサービスが登場しています)ですから、これもあとから思い返せば実に甘い考えだったとなるかもしれないけれど*1

*1:ちなみに、この記事のタイトルは「はてなブログ」の「AIタイトルアシスト」が考えてくれました。私は最初「ChatGPTと翻訳」としていたのですが、AIが考えてくれた「翻訳AIの進化と言語学習の意義について考える」のほうがよほど記事の内容を的確に反映していると思います。

オンライン中国語会話

オンライン英会話を1年続けてほぼ習慣化できたようなので、今度はオンライン中国語会話もやってみようと思いました。私はおおよそ30年前から中国語を学び始め、20年くらい前からは仕事で中国語を使ってきました。が、あろうことかあるまいことか、いまだに自分の中国語力、とくに“說”(スピーキング)と“寫”(ライティング)、つまりアウトプットにまったく自信が持てません。

くわえて、数年前から心身ともに衰えが激しくて、中国語の能力も若い頃に比べて衰えているのを自覚できるようになってきました。自覚できるようになったということは、もうずいぶん以前から衰えは始まっていて、それが自分でも認識できるレベルにまで顕在化してきたということです。自然な加齢にあらがうのはみっともないような気がしますが、これからも働いて食べていかなければならない以上、ちょっとなんとかしなければと思うようになりました。

さいわい現代は英語と同様に、中国語の学習環境もネットを中心にかなり充実しています。ですからこれまでも、例えばネット動画、それもYoutuberのおしゃべり系など「ではない」少し真面目な内容の講演やインタビューや、あるいはニュースなどを利用して聞き取りを行い、それを“聽寫”(ディクテーション)し、音読し、シャドーイングし、リプロダクションし、さらには通訳してみるみたいなことはやってきました。

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それでもリアルな中国語母語話者の方を相手に、その場その場で言葉を紡ぎだす機会が、とくにコロナ禍以降かなり減っていました。とりわけ、気軽なおしゃべりなど「ではない」少し真面目な内容をロジカルに中国語で話すことができていないのです(コロナ禍以前だって、そんなにできていなかったような気もしますが)。職場には中国語母語話者の同僚や学生さんもいますが、それぞれご自身の業務や勉強で忙しいので、つきあってもらうわけにはいきません。それでオンライン中国語会話のサービスを利用してみようと思ったのです。

最初に利用してみたのは、オンライン英会話でも有名な某社のサービスでした。こちらは英語に比べればかなり少ない人数ですが、中国語のレッスンも可能という講師が在籍されていて、そのうちのおひとりにレッスンを申し込んでみました。アメリカ在住の方で、この会社のオンラインレッスンシステムを使って30分ほど中国語で話をしました。この方は文章の添削などはやるけれども……とおっしゃりつつ、私のようなニーズに沿うレッスンをどのように提供したらいいか、ちょっと戸惑われているようでした。

もうひとつ試してみたのは、台湾に本拠地がある某社のサービスでした。こちらは1回のレッスン時間が50分で、スカイプを利用しています。独自のホワイトボードを共有画面にして、中国語の漢字と読みが表示されるようになっています。漢字は簡体字繁体字、読みは“拼音”(ピンイン)と“注音”(ボポモフォ)好きな方が選べ、さらに教える中国語も「中国大陸ふう」か「台湾ふう」(?)か選べると言っていました。台湾の会社ですけど、講師はすべてどちらにも対応できるようにされているんだそうです。

こちらの先生も、私のニーズにちょっと戸惑いながらも、「じゃあきょうは試しにこういうことをしてみましょうか」といろいろな話題を振って私に話させてくださいました。例えば最近の話題で、台湾の大統領(総統)選挙について日本人としてどう思うかとか、能登半島地震自衛隊の関わりについてとか、自衛隊がらみで憲法改正についてどう思うかとか。


先生は私の発話を聞きながら、気になった表現を指摘したり、別の言い方を提案したり、一生懸命対応してくださいました。レッスンの最初に「話す内容に関して、主義主張や政治的な立場は考慮したほうがいいですか」と聞かれたのも面白いと思いました。私は「言葉の練習ですので、考慮しなくてだいじょうぶです。いっさいのタブーなしでお願いいたします」と申し上げました。

というわけで、次回からはオンライン英会話でやっているように、私が新聞記事を選んで、それについてディスカッションするという形式でやってみようと思っています。自分で記事を選ぶと、あらかじめ言うことを準備できるので難易度は下がるような気がしますが、まずはそのへんから。そのうち講師の先生に記事を選んでいただいて、「ぶっつけ本番」で議論するようなレッスンにしてもらってもいいかもしれません。

蛇足ながら、オンライン中国語会話各社のサービスを比較検討していて思ったのですが、講師には「日本語可」という方がかなり多いです。私が見たところでは講師の7割くらいは日本語が話せるとか日本に留学や仕事で住んでいたという方で、これはオンライン英会話の環境とはかなり異なります。私としては逆に日本語を解さない方のほうが「容赦なさそう」でいいような気もするのですが、そうするとレッスン可能な時間帯がかなりが限られてしまいます。そのあたりが悩みどころです。

失敗の科学

先日の新聞に気になる記事が載っていました。1月2日に羽田空港で起きた飛行機の衝突事故に関して「調査による原因究明と捜査による責任追及が並行して進」んでいることに疑問を呈した記事です。大きな事故が起こると、日本ではその原因究明が行われる一方でとかく「犯人探し」にいそしむ傾向があるのではないか、なにより優先すべきは再発防止のための原因究明ではないか、事故記録を捜査や裁判に利用するのは国際的な条約からも逸脱しているのではないか……という内容です。

事故の調査を通じて責任の所在をあきらかにするのは当然ではないか、と思われるでしょうか。しかし刑事捜査を事故調査に優先させれば、事故の当事者や関係者は必然的に口をつぐみ、事故の真相があきらかにならない方向にことが進むようになります。この記事にもあるように「捜査に利用される恐れがあるとして、調査への証言を拒まれたら再発防止につながらない」のです。

私はこの記事を読む直前に、偶然マシュー・サイド氏の『失敗の科学』を読んだところでした。個人の責任を問えば問うほど、真相は闇に紛れていき、結局は誰も得をしないーーこの一見(とくに私たち日本人には)分かりにくい理屈を分かりやすく説いている好著だと思います。


失敗の科学

帯の惹句に「組織の話なのに小説のように面白い!」と書かれているとおり、この本にはさまざまな興味深い失敗とその後の対応に関する事例が紹介されています。詳しくはぜひ本書にあたっていただくとして、ひとつだけ。アメリカでは回避可能な医療過誤によって、年間40万人以上が死亡しているそうです。その一方でジェット旅客機の事故率は、100万フライトあたり0.23回。IATA加盟の航空会社に絞れば830万フライトあたり1回という驚異的な低率です。

飛行機は「最も安全な乗り物」と言われます。医療業界と航空業界のこの圧倒的な差はどこから生まれているのかについてこの本では、様々な失敗や過誤を闇に葬らないこと、失敗や過誤から学び、それを業界全体で共有して次に活かす態度やシステムの有無が指摘されています。つまりは失敗しないことや失敗の責任を個々人に課すのではなく、なぜその失敗が起きたのかを積極的にあきらかにするようなインセンティブを個々人に与えることで、安心や安全を究極まで高めていくことができるんですね。

個人の責任逃れマインド、あるいは事なかれ主義が極限にまで亢進して、街中に注意書きやアナウンスがあふれる日本の状態を私は「巨大な思考停止」ではないかと常々感じています。そんな思考停止状態では物事は何も好転せず、永遠に失敗し続けるであろうことをこの本は教えてくれます。そしてまた医療過誤や航空機事故のような重大な失敗だけではなく、私たちの暮らしや仕事における小さなミスや不具合についても、同じような視点を持たなければ改善はおぼつかないということをも気づかせてくれるのです。

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40歳がくる!

先日、仕事帰りに本屋さんへ立ち寄って新刊本をあれこれ立ち読みしていたら、真っ赤な表紙の目立つ本が平積みされているのに気づきました。書名は『40歳がくる!』で、アラフォーを迎える方のエッセイかな、自分も40歳を迎えたころは「不惑」と言いつつあれこれ惑いっぱなしだったものな……などと思いつつ手には取らなかったのですが、うちに帰ってきて Hatena Blog の文章をいろいろと読んでいたら、だいさん(id:GOUNN69)のブログ『片道書簡→』にその本のことが書かれていました。

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おお、なんというシンクロニシティ……と思って、さっそくAmazonで購入(経堂の三省堂書店さん、ごめんなさい)。雨宮まみ氏のこの本、恥ずかしながら私は氏のこともこの本の内容もまったく知らずに読み始めたのですが、その文章についつい引き込まれて、そのまま最後まで読んでしまいました。


40歳がくる!

「なんでこんなに40歳について、何も考えず、何の覚悟もしていなかったんだろうか」と冒頭で述べられている通り、雨宮氏は迫りくる人生の節目に対してなかばおののき、なかば自棄(ヤケ)にもなりながら、それでも自分の来し方行く末をていねいにすくい取ろうとしています。それでもその思考と行動は、ちょっと危うさが漂っているように読みながら感じていました。

著者のことをまったく存じ上げずに読み始めた私ですが、目次のところで多くの方の寄稿文が並んでいるのを見て「ああ、これはおそらく……」と察していました。それでもネットで検索したりすることなく最後まで読み切り、それから寄稿文のひとつひとつを読み始めたところでその「察し」がその通りだったことを知りました。雨宮氏は40歳になったその年になくなられていたのです。まことにうかつなことに私は、帯に「遺稿」とあるのさえ見逃していました。

私自身が40歳を迎えた頃は、超遅咲きの通訳者デビューをしたばかりで、台湾でとにかくてんてこ舞いの働き方をしていて、アラフォーに対して感慨を抱く暇さえありませんでした。むしろそのあと50歳を迎える頃、前の職場で大問題を起こして辞職せざるを得なくなったときに、再就職しようとして履歴書を送ったすべての会社から反応がなかったことでようやく「ああ、自分はもう必要とされていないのか」と悟ったくらいの間抜けでした。

そして還暦を迎えようとしているいまは、とにかく心と体の衰えがひどくて、これまでとはまったく違った、ほんとうにほんとうに異なる質の不安や懸念が頭をもたげてきています。若い頃の想像力では到底わからなかった精神と肉体のリアルがぐいぐい迫ってくるのです。雨宮氏はこう書かれています。

一度通り過ぎてきた、もう片をつけてきた、答えを出してきた、そうした20代や30代前半の「練習問題」よりハードな「本番」が、四十歳前後でやってきた、というのが私の正確な実感だ。(138ページ)

この文章は恋愛について書かれた一節ですから、雨宮氏の実感をそのまま自分と引き比べるのは無理があるかもしれません。それでも歳を取って、それまでは心と体の余裕にかまけてなんとなくクリアしたつもりになっていたあれこれが、どんどん抜き差しならない状況に追い込まれているという焦りのようなものが自分の中に確実にあります。そんな手前勝手な共感を抱きながらこの本を読みました。

雨宮氏は40歳という節目を前にして、むしろそれまでの自分から抜け出して新たなことをはじめ、蛻変していこうとされていたようです。私は逆に去年、精神と肉体のリアルが「本番」を迎えたことを悟って、いろいろなことから「降り」ました。さまざまな会員登録やサブスクを解約するのに始まって、SNSのたぐいもこの Hatena Blog 以外はやめましたし、自宅近くのコワーキングスペースでやっていたマイクロ書店もたたみました。

趣味で長らく続けてきたフィンランド語の勉強とお能の稽古も、それぞれ学校の先生とお師匠に「しばらくお休みさせてください」と申し上げました。このブログも2018年から約6年半毎日何らかの文章を書いていたのですが、それもストップしました。いずれもかなり寂しいことではありますけど、いつまでも同じペースであれもこれもと欲張っていたら、おそらく死んじゃうだろうな自分、と思って。

雨宮氏がなくなられた経緯については伏せられているようですので、私も詮索は慎もうと思います。でも自分がある年齢に達しようとするときにある種の感慨が押し寄せてくるその「抗えない感」や「なされるがまま感」みたいなもの、つまりは自分の意志や努力などではどうしようもないという無力感の数々、そんなこんなに精神と肉体が苛まされる感覚というのは、私のような平凡な人間であってもよく分かるような気がしました。

台湾の選挙における“Frozen Garlic!”

きょう1月13日は台湾の大統領(総統)選挙と立法委員選挙の投票日です。台湾の選挙は在外投票や期日前投票ができないそうで、この時期は海外に住む台湾人が大挙帰省して、それぞれの地元で投票をすることになります。私が勤めている学校にも台湾人留学生がいますが、冬休みを少し延長して台湾にとどまり、投票を済ませてから日本に再入国するという人もいるようです。

台湾と日本では政治の仕組みが異なりますから、ひとしなみに語ることはできないのですが、毎回大統領選挙のこうした盛り上がりぶりを見ていると、いろいろな感慨を抱きます。特に、普段はそれほど政治的なことに関心がなさそう(失礼)に見える留学生のみなさんも、こうやってぜひとも投票に参加したいという行動を示すこと自体、彼我の違いを感じざるを得ません。日本の選挙における低投票率は、留学生のみなさんの間でもつとに有名ですから。

もちろんなかには、自分はそれほど政治に関心はないけれど、親や親戚、あるいは地域コミュニティの手前、この大切な選挙をスルーするわけには行かないという同調圧力が働いて、という人もいるのかもしれません。またとある私の知人(台湾人)が語ってくれたように、毎回選挙に大量の人々が動員され、まるでお祭り騒ぎのような選挙運動や “造勢會(支持者を集めての選挙集会)” が繰り広げられることを「社会のリソースを蕩尽しすぎでは」と捉える人もいると聞きます。

ところで、きのうNYTのウェブサイトを眺めていたら、この台湾の選挙に関する記事が出ていました。大見出しには “Frozen Garlic!” とあります。見出しだけ読んでいた英日通訳クラス担当の同僚が「なんだろうと思った」と言っていたので少しご説明申し上げましたが、これは台湾の “造勢會” などでよく叫ばれている “凍蒜!” ですね。


Taiwan Democracy Is Loud and Proud - The New York Times

漢字の意味はまんま「凍ったニンニク」ですけど、これは台湾語の「ドンスァン」に漢字を当てたもので、中国語(國語/台湾華語/北京語)にすれば “當選(当選)” です(NYTのこの記事にも解説が書かれています)。選挙集会などで “◯◯◯(候補者名)凍蒜!” などとシュプレヒコールを上げるわけです。↓これはきのうのテレビニュースですが、0:15あたりで “凍蒜!” が連呼されています。


www.youtube.com

“造勢會” では、候補者や支援者の演説中に「効果音」が入ることがあって、これも台湾ならではの雰囲気だなと思います。NYTの記事でも紹介されていますが、たいていエレクトーンやドラムなどの奏者がいて、演説の内容に合わせて即興で音を入れ、集会をさらに盛り上げるんですよね。「まっとうな政治を取り戻そうではありませんか!そうでしょう皆さん! ♫ ちゃらららっらら〜ん! ♫ ドドン!」みたいに。

「政治に熱くなり過ぎでは」という台湾の知人の嘆きも分からなくはないのですが、それでも政治に対してこれだけ熱くなれること自体、低投票率と白けたあきらめ感ばかりが漂う本邦の状況とのあまりの違いに、ため息とも羨望の嘆息ともつかぬ声をついつい漏らしてしまうのでした。

子どもが「タブルリミテッド」になる心配はない?

偶然立ち寄った書店でこの本を見つけました。ビオリカ・マリアン氏の『言語の力』です。副題には「『思考・価値観・感情』なぜ新しい言語を持つと世界が変わるのか?」とあります。これはおもしろそう! そして実際、とてもおもしろく刺激的な一冊でした。これだから本屋さんをうろつくのはやめられません。ネット書店でもいろいろリコメンドしてくれますが、読んでよかった・読めてよかった〜とあとから思うような本は、私の場合、リアルな本屋さんで偶然手に取ったものが多いです。モノとしての「本に呼ばれる」ということがあるんですよね。


言語の力 「思考・価値観・感情」なぜ新しい言語を持つと世界が変わるのか?

この本は、基本的には複数の言語を使えるようになる、つまりバイリンガルマルチリンガルになると世界の認知の仕方が変わる、それもより豊かな方向に変化していく……ということをテーマにしています。でもそれだけではなくて、サピア=ウォーフの仮説から人間の言語獲得、音象徴に関して有名な「ブーバ/キキ実験」、指示の不可測性にまつわる「ガヴァガイ問題」、さらには翻訳や同時通訳の実際にいたるまで、有名どころの話題がわかりやすく解説されていて、言語学、とりわけ認知言語学の入門書のようなおもむきもあります。

グーグル翻訳やDeepL、さらにはChatGPTなどの登場で、もはや苦労して外語を学ぶ意味はなくなった、あるいは早晩なくなるのではないかという人がいます。そこまで極端ではなくても、少なくともこれからの外語学習や通訳・翻訳においては、これまでとはかなり異なる環境が生まれつつあるというのは、語学界隈をなりわいとしている自分としては、いまいちばん関心のあるトピックです。なので、この本も非常に大きな関心をもって一気に読み終えてしまいました。

この本の監訳と解説を担当されている今井むつみ氏は帯の惹句で「ChatGPTの翻訳はますます巧みになっていくだろう。そんな時代に、外国語を学習する意味は何か」と書かれています。私はこの本を読み終えて、外語(外国語)を学ぶ意味と意義を再確認することができました。AIを始めとするテクノロジーが言葉の壁を乗り越えつつあるからこそ、私たちはいままでにも増して外語を学ぶべきなのだと。

この本の著者ビオリカ・マリアン氏は、バイリンガルマルチリンガルであることの魅力を「これでもか」とばかりに語り倒します。そのとてもポジティブかつオプティミスティック(楽観的)な語り口は、解説の今井むつみ氏をして「本書で描かれているバイリンガルバイリンガルステレオタイプと思わないほうがよい。すぐにでも自分の子どもにマルチリンガル教育を始めなければならないとやみくもに焦る必要もない」と言わしむるほどです。

そう、私も、この本はたしかに刺激的で知的興奮に満ちた一冊ではあるけれど、日本人(日本語母語話者)としては、ChatGPTなどAIテクノロジーの急激な進歩に漠然とした不安を抱えている状態の中でいったん落ち着いて、さてこれからの世界に自分はどう関わっていこうかと考えるためのベースとして読まれるべきだと思いました。早期英語教育のいっぽうで手薄になっていると思われる、そも言語とはなにか、言葉の壁を超えるとはどういうことか、外語や異文化を学び理解するとはどういうことかという、いわば「言語リテラシー」を育むための一冊ではないかと。

そうした根っこの部分をすっとばして、幼少時から母語の涵養もそこそこに英語教育に狂奔するその「後押し」としてこの本に述べられているバイリンガルマルチリンガルの魅力が受け取られてしまうとすれば、今井先生だけでなく私も「ちょっと待って、落ち着いて」と言いたい気持ちになります。

私は、特に子どもが母語と外語の「虻蜂取らず」状態になっているいわゆるダブルリミテッド(セミリンガル)に陥る危険性について、このブログでも何度となく懸念を示してきました。

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それは自分の仕事の現場でそういう子どもに数多く接してきたからでもありますが、この本にはこういう記述があります。

2つ以上の言語や方言が使われる環境で育つことが子どもの発達に悪い影響を与え、コミュニケーション能力が阻害されるという証拠は1つも存在しない。(123ページ)


もちろん、2つ以上の言語を話す環境で育った子供がコミュニケーションや学習で困難を抱える例も数多くあるが、その比率はモノリンガルの子供に比べて高いわけではない。そういった子どもたちは、どんな言語環境で育っていても、同じような困難を抱えることになっただろう。(124ページ)


バイリンガルで育てるのは子どもの発達に悪い影響を与えるという「常識」は、実は間違っている。近年になって、その事実がようやく浸透してきた。しかもそれだけでなく、2つ以上の言語が使われる環境で育つことは、子供にとって生涯にわたる利点があるということも実証されてきている。(同)

おお、そうなのか! だとすれば、私がこれまでダブルリミテッドに対して持ち続けてきた懸念は、かなり的外れであったことになります。最近読んだ、ふろむだ氏の『最新研究からわかる学習効率の高め方』第3巻にはこうありました。

人間の直感は、「直感的に正しいと感じる間違ったこと」が正しいとしか思えないんだ。どんなに客観的なデータを突きつけられても、「自分の『間違った直感』が正しい」としか思えないんだ。

うわあ、自分はまさにそんな状態だったのかもしれない……と衝撃を受けつつも読み進んでいくと、ビオリカ・マリアン氏は後段でこう書かれていました。

複数の言語を話すことが認知機能に影響を与える仕組みについては、まだ詳しいことはわかっていない。さらに研究を進めれば、バイリンガルであることのどの側面が、実行機能のどの側面を変化させ、どんな条件下でその現象が起こるのかといったことが解明されてくるだろう。それはまた、研究によってモノリンガルとバイリンガルの違いの大きさにばらつきが出る理由の解明にもつながるはずだ(マルチリンガルとモノリンガルを比較する研究で、マルチリンガルのほうが実行機能のタスクを行う能力が優れているわけではないという結果になったものもあるが、その場合の成績はどちらも同じくらいで、マルチリンガルのほうが劣っているわけではない)。(143ページ)

ここでちょっと肩透かしを食らいます。結局のところ、子どもがダブルリミテッドに陥る危険性はあるのかないのか、よく分からなくなってくるではありませんか。

でもこの点についても今井氏が解説できちんと「著者はあくまで『統計上の傾向』に基づいて話をしている」と解きほぐしてくださっています。またひとくちにバイリンガルマルチリンガルと言ってもいろいろな種類があること、その国や社会の言語環境によってもその意味合いは違ってくること、さらに日本においては「日本語を第二言語として学び、日本の学校で教科の学習をしている子どもの困難をつきとめ、学習をサポートすることも必要だ」とも補足されています。

ビオリカ・マリアン氏のこの著書は、今井むつみ氏の解説を得て、日本の私たちにとってもより有益な一冊になったのではないでしょうか。私としては、ダブルリミテッドの問題、さらにはバイリンガル教育についてさらに学んでみようと思いました。とりあえずはこの2冊から読んでみようと思っています。


完全改訂版 バイリンガル教育の方法


バイリンガルの世界へようこそ:複数の言語を話すということ

ネットの口コミはあてにならない?

オンライン英会話のCambly、初めてレッスンを受けたのが昨年の1月4日でしたから、ようやく1年が経過しました。週に3回、それぞれ30分の受講なので、すべての受講時間を合計してもたいしたことはありません。それでも、まったく得意ではない英語をマンツーマンで聞き・話すのを続けられただけでも、個人的には収穫でした。

一番最初にレッスンを受けたときはかなり緊張していて、しかもそのときは仕組みもよくわかっていなかったので、オンラインになっている講師に直接コールする形で受講しました。ボタンを押すまでにかなり逡巡があったことを思い出します。いまではそんな無謀なことはせず、事前に教材を用意して予習して、話す内容のメモも作った上でレッスンの予約をしています。

レッスンを始める前には、ネットで評判や口コミみたいなのもずいぶん読みました。賛否両論あってそれなりに参考になりましたが、こうやって1年間続けた上で改めて思うのは、ネットの評判や口コミはあまりあてにならないということです。当たり前ですけれど、あたっているところもあれば、あたっていないところもある。そりゃそうです。受講する側も英語へのニーズや英語のレベルは様々ですから、みんなに共通して誰もが納得する「ここが良い」や「ここが悪い」はないんですよね。

Camblyはどちらかといえば中上級者向きだと評されるみたいです。それは講師が全員英語の母語話者で、その点初心者にとっては「容赦ない」ところがあるからでしょう。たしかに、英語がメインで話されていない(けれども観光関係ではけっこう通じる)国ではけっこう役に立っていた自分の英語が、英語母語話者がほとんどの国(アメリカなど)だと逆に歯が立ちません。それは向こうが英語に対して容赦ないからだろうと思います。

だからある程度英語が話せる人にとってはCamblyが良くても、まったくの初心者にとっては悪くなり得ます。結局は、しばらく受講してみて自分で判断するしかありません。人は自分の思いを強化するような意見ばかり集めてしまう確証バイアスがあるようですから、Camblyあるいはそのほかのオンライン英会話をやるにせよ、やらないにせよ、結局はその気持ちをあと押してくれる情報ばかり探してネットをうろうろし、ますます決心がつかなくなります。その意味でもネットの口コミを渉猟するのはそこそこにしておいて、やってみるしかありません。

なので、これ以上贅言を弄する必要もないのですが(だいたい私のこの文章だってネットの口コミみたいなものです)、ただ私と同じくらいの初級から中級レベルにある方に、ひょっとすると参考になるかもしれない点を少しだけ書いておこうと思います。

まず、講師の「当たり外れ」はあります。私の場合、最初の頃はいわゆる「ドタキャン」が割とよくありました。なぜか最近はまったくなくなったのですが、これは単に偶然なのか、それともCamblyがドタキャン対策のテコ入れをしたのか(たとえば講師に対するペナルティ強化とか)はわかりません。

ドタキャンほどひどくなくても、ときにはかなりローテンションな方、教えることに対してとても情熱があるとは思えない方、あるいは生徒そっちのけで自分ばかり話したがる方など、語学の講師としてはどうかしら、と思う方に当たることもあります。Camblyには講師の評価システムがあって、5つ星のスコアとして表示されており、とくに高い評価を受けている講師には「スーパー講師」という称号も用意されています。ただスーパー講師でも上述のような「語学の講師としてはどうかしら」という方はいます。

私が講師を選ぶときは、スーパー講師ないしは5つ星に近くて、なんらかの教員資格を持っていらして、かつプロフィールページで「◯◯講師が教えているコース」に初中級のコースが含まれているかどうかを参考にしています。


Camblyにはコースと呼ばれるオリジナル教材*1があって、そのうち初級や中級もコースを教えている講師なら、おそらく私のような初中級レベルでも対応してくれるだろうと*2

受講してみた結果がよかったら、お気に入りの♥をつけることができ、次から講師を選ぶときは一番上に表示されるようになります。逆に「この講師はちょっと」と思ったら、表示されないようにすることもできます。

この1年間で、受講を申し込んだ講師から「君はまだ英語のレベルが低いからだめ」とキャンセルされたことが1度だけありました。逆に「また私のレッスンを受けませんか」とインビテーションを受けることもあります。私はいまのところ、ほぼ毎回新しい講師にレッスンをお願いしていますが、そのうち♥をつけた講師やインビテーションを受けた講師の範囲でローテーションしながら受講しようと思っています。

*1:使うかどうかは自由です。私は最初の頃は使っていましたが、いまは自分でニュース記事を用意して、それを教材として使っています。

*2:講師の絞り込み機能で初級や中級だけを選ぶこともできるのですが、そうするとほとんどの講師が該当しなくなっちゃいます。

十二世紀ルネサンス

伊東俊太郎氏の『十二世紀ルネサンス』を読みました。この書名を見て、疑問を覚える方もいるかもしれません。ルネサンスといえば14世紀から16世紀の文化運動じゃないの、ギリシアやローマの文化を復興しようということで、ダ・ヴィンチとかミケランジェロとかが活躍したイタリアはフィレンツェなどを中心とする「あれ」でしょうと。

ルネサンスという言葉については、私もそういう雑駁な理解しかなかったのですが、先般中田考氏の『イスラームの論理』を読んでいたら、伊東俊太郎氏のこの『十二世紀ルネサンス』が引用されていて、そこにはこんな記述がありました。

我々は、西欧文明というと、ユークリッドアルキメデスや、アリストテレスくらいは、はじめから知っていた、早くからギリシア科学、ギリシア文明はヨーロッパに入っていただろう、と思いがちなんですね。よくヨーロッパの学者は、ギリシア以来三千年の西欧文明とか言うわけですが、とんでもないことで、そこのところに、実は大きな断絶があるのです。


十二世紀ルネサンス

実のところ、ギリシア文明の学術的遺産はほとんどローマには受け継がれず、その大半がビザンティン文化圏からアラビア文化圏に伝えられたということなんですね。つまりいま我々が「中東」として認識しているトルコからシリア、イラク、イラン、イスラエルパレスチナ、そういった地域へアラビア語などに訳されて伝わり、さらなる成熟を遂げていた。それが十二世紀になってようやくアラビア語などから、あるいは直接ギリシア語からラテン語訳されることで西欧世界に伝わったのだと。それを十二世紀ルネサンスと言っているわけです。

かつてアラビア語圏が学術の一大センターであったという事実は、例えば「アラビア数字」とか「アルゴリズム*1などといった言葉*2の存在からなんとなく理解しているつもりではいましたが、あらためてその歴史の流れを解説した本書を読んで、西欧文明ひいては私たちの現在の暮らしに、アラビア文化圏の歴史がどれだけ巨大な影響を与えているのかを考えさせられました。

中東あるいはイスラームと聞けば、かなりステレオタイプな世界観や価値観しか想起できない人が私を含めてほとんどではないかと思います。それは近現代におけるかの地の歴史や政治の情勢に依ってはいるわけですが、そういったステレオタイプなものの見方を改める一助として、この一冊はとても大きなインパクトを持っていると思います。

また個人的には、ギリシア語からアラビア語あるいはシリア語へ、さらにラテン語へという一大翻訳活動の流れと検証についての記述が非常に興味深いものでした。インドから中国さらに日本へと伝えられた仏典の翻訳、とりわけ鳩摩羅什玄奘らの漢訳について概説している『仏典はどう漢訳されたのか』と同じような興奮を味わいました。無数の翻訳者たちが活躍して人類の知的好奇心を満たしてきた歴史が垣間見えるからです。

*1:9世紀にイラクバグダードで活躍した数学者アル=フワーリズミーの名前からきているそうです。

*2:主なアラビア語起源の言葉にはまだまだこんな身近なものがあるそうです。→ アラビア語起源の単語

米原万里氏のことば

年末、北九州市の実家に帰省して、年末のうちに東京へ戻ってきました。せっかく帰省したんだから家族や親戚とゆっくり年越しすればいいのにと友人には言われます。でも、高齢の親にとっては逆に負担になりますし、私も年末年始のラッシュに巻き込まれるのはもう身体的にも精神的にもムリなので、ここ数年はこうした「前倒し」が続いています。

東京へ戻る前の日に、北九州駅前のショッピングモール「SAINTcity(セントシティ)」に入っている無印良品に行ったら、無印良品セレクトの本を売っているコーナーがありました。そこで『人と物6 米原万里』という文庫本をみつけたので、帰りの飛行機で読もうと買い求めました。

私は寡聞にして知らかなったのですが、無印良品ではひとりの人物にフォーカスしてその人の言葉と物をつなぐ文章をまとめたこの「人と物」シリーズを、もうずいぶん前から刊行しているそうです。ロシア語通訳者で文筆家でもあった米原万里氏をテーマにしたこの一冊も、奥付を見ると2017年の発行でした。


人と物6 米原万里

150ページほどの薄い文庫本ですから、北九州から羽田までの1時間あまりのフライトで十分に読めてしまいました。私はかつて米原万里氏の『不実な美女か貞淑な醜女か』を読んで通訳者を志して以来、氏の著作はあらかた読んできましたので、この一冊に収められた文章もそのほとんどが既読のものでした。それでもあらためて氏の文章を読んで、その稀有な文才と文体の妙に魅了されました。

そして何より、いまの自分における物の見方や考え方、特に言語にたいするそれは、米原万里氏のお考えから多大な影響を受けていることをあらためて感じました。影響というか、ほとんど氏の受け売りと言ってもいいのかもしれません。このブログに書いている文章だって、その根っこの大半は、氏の著作にあるんだなあと。

この薄い一冊にはしかし、生前米原万里氏が大切にされていた物の写真とそのエピソード、さらには貴重な写真の数々とその解説、収められた文章に関する簡単なブックガイドもついていて、とても読み応えがありました。2006年に氏が亡くなって17年あまり。もうそんなに経つのかという思いとともに、いまの私よりも若い年齢で亡くなられていることに複雑な思いがします。

氏と自分を比べるのも僭越きわまりないのですが、じゃあ自分はどれだけのことを成してこられたのか、これからどう生きていけばいいのかを弥が上にも考えさせられるからです。