インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

翻訳AIの進化と言語学習の意義について考える

Google翻訳やDeepLなどの機械翻訳、またChatGPTなどの生成AIによる翻訳が実用に供され、その能力がどんどん上がっていると喧伝されているなか、もう翻訳を学ぶ意味はなくなってきたのではないか、さらには外語学習自体が陳腐化していくのではないか……そんな声が職場の内外で多く聞かれるようになりました。同僚と話すこともありますし、学生さんから聞かれることもあります。

私は通訳はともかく、翻訳に関してはもうずいぶん前に「ご飯を食べる手段」としては廃業してしまいましたので、その視点、つまり翻訳で稼げるのかという視点からの質問には答える資格がなさそうです。

それでも機械やAI(というかネットとコンピュータとそこで動いているシステム)がどこまで翻訳の精度を上げられるのか、外語学習が本当にいらなくなるのかについてはとても興味があって、これまでにもいろいろな書籍を読んできました。またそうした書籍を読みながら実際にGoogle翻訳やDeepL、さらにはChatGPT(GPT‐4に課金もしています)も使って、その「実力」を体感してきました。

端的に申し上げて、それらのサービスの実力は飛躍的に向上し続けていると思います。文脈や文化背景などを考慮しない珍訳が生成されるとか、難しい部分をすっとばして訳してくるとか、すました顔をして間違った情報を入れてくるとか、こうしたサービスに否定的な方はとかく「粗(あら)」を指摘したがりますけど(かつての自分もそうでした)、それらが急速に改善されて行っていると。

特にこうしたサービスを牽引している英語の世界においては、英語のインプットとアウトプット双方で、とても頼れる存在になっています。例えばGoogle翻訳で日本語と英語の文章を比較してより自分の意図に沿った文章を作るとか、それをDeepLでも検証してみるとか。日本語と英語を入れ替えつつ何度も校正することで、ああなるほど、ここはこういう英文を使えばいいのかというのがわかってきたりします。またChrome拡張機能に入れているGrammalyは、Google翻訳で英文を書いているそばから綴りや文法や記号の使い方の間違い、さらにはより自然で流暢な文章にするための提案などもしてくれます。

当初私は、こんなに至れり尽くせりのサービスを使っていたんじゃ英語の力なんてつかないんじゃないか、というか「バカになっちゃう」とさえ思っていました。要は自分で考え、身につけるべきところをそうしたサービスの機能に任せているわけで、一時期はこうしたサービスをまるで一度ハマったら抜けられないドラッグみたいなものとして認識していたこともあったくらいです。

ただGoogle翻訳にせよ、DeepLにせよ、ChatGPTにせよ、そこに言葉を打ち込み、そこからの反応に対して考慮を行い、取捨選択をするのは自分です。その考慮や取捨選択を行うためには、言葉に対する知識や、その言葉が表そうとしているものの意図、感情、目的、その背景となる文化や世界観……要するに豊かな教養が必要なのではないか。だから自分はこうしたサービスを使う際に必要となるそうした知識や教養を育むことにこれからも専念すればよく、一方でこうしたサービスの便利なところはどんどん活用させてもらうというスタンスでいればいいのかもしれない、と思い直してずいぶん心境が変わりました。AIが生成した文章を「すごい」と思えるためには、自分の側にもそれを「すごい」と思えるだけの力が必要なのだと……あとから思い返せば実に甘い考えだったとなるかもしれないけれど。

先日読んだ山田優氏の『ChatGPT翻訳術』では、そうした自分の側に必要な力を端的に「メタ言語能力」だと定義しています。


ChatGPT翻訳術 新AI時代の超英語スキルブック

メタ言語能力とは、言葉について疑問を感じることができる能力と、それについて説明できる能力のことです。ChatGPTを使う際には、より有効で高品質な回答を得るために、いかに適切な指示(プロンプト)を出せるかが大切だと言われますが、メタ言語能力とはそうしたプロンプト作成のために必要な知識とも言えます。

それはいわば言葉に対する自分ならではの気づきであり、「この気づきを言語化してAIに指示や質問をできることが重要です(51ページ)」。ただの「教えて君」ではだめで、そこにはやはり問う側の工夫が必要なんですね。そしてその工夫をするためには知識や教養が要るのだと。山田氏は「英語力より、言葉の問題に気づける能力(メタ言語能力)のほうが大事(61ページ)」とまでおっしゃっています。また「実務レベルで活用していく場合、適切な回答を得るための指示・質問を行うため、一定の知識やスキルが求められる(38ページ)」とも。

作業をAIに丸投げすることですべてが済むかというともちろんそんなことはなくて、AIに作業をさせる前と後の作業を人間が知識や教養やスキルを活かして十分に行うことで、より良い成果が得られるということですね。この本の主題であるChatGPTを用いた翻訳であれば、その前工程と後工程で指示(プロンプト)を出すことが人間の役割であり、的確な指示を出すためには知識・教養・言語力などがいる。というわけでこの本では、その前工程と後工程における具体的なテクニックが多数紹介されています。

こうしたテクノロジーが今後も発展し続けていく未来において、翻訳や通訳、あるいは外語学習そのものの意義が問われるような事態に立ち至るのだろうか……という疑問に関しては、この本の最終章にいくつか筆者の回答が記されています。山田氏は「テクノロジーの恩恵を受けてグローバルコミュニケーションが容易になったからこそ、すべての人類が、一定程度の外国語リテラシーや英語力を獲得するほうがよいと考えます(223ページ)」と述べておられます。

それは例えば、機械翻訳やChatGPTが生成する自然で流暢な翻訳から学ぶという新しいアプローチの仕方です。私もそれは大賛成ですし、上述したように実際そんなことをやりつつあるのですが、ただ「このようなツールを利用しながら翻訳活動を行う人口は増え、結果として翻訳市場全体が拡大する可能性があります(230ページ)」とおっしゃっている部分はちょっとうまくそのイメージが掴めませんでした。

またこれは本書の範囲を超えたもっと巨大かつ漠然とした疑問(というか不安)ですが、こうしたテクノロジーの発展が最終的に人類にどんな未来をもたらすのかについてまだ私はかなり懐疑的で、だからこそいまのように手探りであれこれ試しつつ進むしかないと思っています。ただ少なくともこうしたテクノロジーが「なかったこと」にはできない以上、とりあえずは試してみよう・学んでみようと。

またChatGPTの回答は、これまで人類が積み上げてきた言語の資源から言葉や表現を引っ張ってきているわけですが、人類の大半がChatGPTなどのAIから教えてもらうようになると、人類全体の言語能力や資源はそれ以上膨らまなくなり、最終的にはやせ細って退化して行きはしないだろうかという疑問もあります。

qianchong.hatenablog.com

大規模言語モデルは、単語と単語の関係だけしか学んでいないので、人間のように、音、視覚、匂い、肌触り、過去の体験などの身体性に基づく情報と結びつけて言葉の意味を学習していないという、批判的な見方も存在します。(45ページ)

なるほど、私たちが「退化」しないためには、つねに「メタ言語能力」を磨き、身体性に基づいた新たな創造をし続けていかなければならない、そこにこそ生身の私たちの価値があるということなんでしょうね。もっとも、現時点でさえ音や視覚についてはすでにどんどんAIにとって代わられつつあるよう(音楽生成や画像生成など、どんどん新しいサービスが登場しています)ですから、これもあとから思い返せば実に甘い考えだったとなるかもしれないけれど*1

*1:ちなみに、この記事のタイトルは「はてなブログ」の「AIタイトルアシスト」が考えてくれました。私は最初「ChatGPTと翻訳」としていたのですが、AIが考えてくれた「翻訳AIの進化と言語学習の意義について考える」のほうがよほど記事の内容を的確に反映していると思います。