インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

子どもが「タブルリミテッド」になる心配はない?

偶然立ち寄った書店でこの本を見つけました。ビオリカ・マリアン氏の『言語の力』です。副題には「『思考・価値観・感情』なぜ新しい言語を持つと世界が変わるのか?」とあります。これはおもしろそう! そして実際、とてもおもしろく刺激的な一冊でした。これだから本屋さんをうろつくのはやめられません。ネット書店でもいろいろリコメンドしてくれますが、読んでよかった・読めてよかった〜とあとから思うような本は、私の場合、リアルな本屋さんで偶然手に取ったものが多いです。モノとしての「本に呼ばれる」ということがあるんですよね。


言語の力 「思考・価値観・感情」なぜ新しい言語を持つと世界が変わるのか?

この本は、基本的には複数の言語を使えるようになる、つまりバイリンガルマルチリンガルになると世界の認知の仕方が変わる、それもより豊かな方向に変化していく……ということをテーマにしています。でもそれだけではなくて、サピア=ウォーフの仮説から人間の言語獲得、音象徴に関して有名な「ブーバ/キキ実験」、指示の不可測性にまつわる「ガヴァガイ問題」、さらには翻訳や同時通訳の実際にいたるまで、有名どころの話題がわかりやすく解説されていて、言語学、とりわけ認知言語学の入門書のようなおもむきもあります。

グーグル翻訳やDeepL、さらにはChatGPTなどの登場で、もはや苦労して外語を学ぶ意味はなくなった、あるいは早晩なくなるのではないかという人がいます。そこまで極端ではなくても、少なくともこれからの外語学習や通訳・翻訳においては、これまでとはかなり異なる環境が生まれつつあるというのは、語学界隈をなりわいとしている自分としては、いまいちばん関心のあるトピックです。なので、この本も非常に大きな関心をもって一気に読み終えてしまいました。

この本の監訳と解説を担当されている今井むつみ氏は帯の惹句で「ChatGPTの翻訳はますます巧みになっていくだろう。そんな時代に、外国語を学習する意味は何か」と書かれています。私はこの本を読み終えて、外語(外国語)を学ぶ意味と意義を再確認することができました。AIを始めとするテクノロジーが言葉の壁を乗り越えつつあるからこそ、私たちはいままでにも増して外語を学ぶべきなのだと。

この本の著者ビオリカ・マリアン氏は、バイリンガルマルチリンガルであることの魅力を「これでもか」とばかりに語り倒します。そのとてもポジティブかつオプティミスティック(楽観的)な語り口は、解説の今井むつみ氏をして「本書で描かれているバイリンガルバイリンガルステレオタイプと思わないほうがよい。すぐにでも自分の子どもにマルチリンガル教育を始めなければならないとやみくもに焦る必要もない」と言わしむるほどです。

そう、私も、この本はたしかに刺激的で知的興奮に満ちた一冊ではあるけれど、日本人(日本語母語話者)としては、ChatGPTなどAIテクノロジーの急激な進歩に漠然とした不安を抱えている状態の中でいったん落ち着いて、さてこれからの世界に自分はどう関わっていこうかと考えるためのベースとして読まれるべきだと思いました。早期英語教育のいっぽうで手薄になっていると思われる、そも言語とはなにか、言葉の壁を超えるとはどういうことか、外語や異文化を学び理解するとはどういうことかという、いわば「言語リテラシー」を育むための一冊ではないかと。

そうした根っこの部分をすっとばして、幼少時から母語の涵養もそこそこに英語教育に狂奔するその「後押し」としてこの本に述べられているバイリンガルマルチリンガルの魅力が受け取られてしまうとすれば、今井先生だけでなく私も「ちょっと待って、落ち着いて」と言いたい気持ちになります。

私は、特に子どもが母語と外語の「虻蜂取らず」状態になっているいわゆるダブルリミテッド(セミリンガル)に陥る危険性について、このブログでも何度となく懸念を示してきました。

qianchong.hatenablog.com

それは自分の仕事の現場でそういう子どもに数多く接してきたからでもありますが、この本にはこういう記述があります。

2つ以上の言語や方言が使われる環境で育つことが子どもの発達に悪い影響を与え、コミュニケーション能力が阻害されるという証拠は1つも存在しない。(123ページ)


もちろん、2つ以上の言語を話す環境で育った子供がコミュニケーションや学習で困難を抱える例も数多くあるが、その比率はモノリンガルの子供に比べて高いわけではない。そういった子どもたちは、どんな言語環境で育っていても、同じような困難を抱えることになっただろう。(124ページ)


バイリンガルで育てるのは子どもの発達に悪い影響を与えるという「常識」は、実は間違っている。近年になって、その事実がようやく浸透してきた。しかもそれだけでなく、2つ以上の言語が使われる環境で育つことは、子供にとって生涯にわたる利点があるということも実証されてきている。(同)

おお、そうなのか! だとすれば、私がこれまでダブルリミテッドに対して持ち続けてきた懸念は、かなり的外れであったことになります。最近読んだ、ふろむだ氏の『最新研究からわかる学習効率の高め方』第3巻にはこうありました。

人間の直感は、「直感的に正しいと感じる間違ったこと」が正しいとしか思えないんだ。どんなに客観的なデータを突きつけられても、「自分の『間違った直感』が正しい」としか思えないんだ。

うわあ、自分はまさにそんな状態だったのかもしれない……と衝撃を受けつつも読み進んでいくと、ビオリカ・マリアン氏は後段でこう書かれていました。

複数の言語を話すことが認知機能に影響を与える仕組みについては、まだ詳しいことはわかっていない。さらに研究を進めれば、バイリンガルであることのどの側面が、実行機能のどの側面を変化させ、どんな条件下でその現象が起こるのかといったことが解明されてくるだろう。それはまた、研究によってモノリンガルとバイリンガルの違いの大きさにばらつきが出る理由の解明にもつながるはずだ(マルチリンガルとモノリンガルを比較する研究で、マルチリンガルのほうが実行機能のタスクを行う能力が優れているわけではないという結果になったものもあるが、その場合の成績はどちらも同じくらいで、マルチリンガルのほうが劣っているわけではない)。(143ページ)

ここでちょっと肩透かしを食らいます。結局のところ、子どもがダブルリミテッドに陥る危険性はあるのかないのか、よく分からなくなってくるではありませんか。

でもこの点についても今井氏が解説できちんと「著者はあくまで『統計上の傾向』に基づいて話をしている」と解きほぐしてくださっています。またひとくちにバイリンガルマルチリンガルと言ってもいろいろな種類があること、その国や社会の言語環境によってもその意味合いは違ってくること、さらに日本においては「日本語を第二言語として学び、日本の学校で教科の学習をしている子どもの困難をつきとめ、学習をサポートすることも必要だ」とも補足されています。

ビオリカ・マリアン氏のこの著書は、今井むつみ氏の解説を得て、日本の私たちにとってもより有益な一冊になったのではないでしょうか。私としては、ダブルリミテッドの問題、さらにはバイリンガル教育についてさらに学んでみようと思いました。とりあえずはこの2冊から読んでみようと思っています。


完全改訂版 バイリンガル教育の方法


バイリンガルの世界へようこそ:複数の言語を話すということ