インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

生きるための筋肉

筋トレをするのは「生きるための筋肉」が必要だからーー。雑誌『CREA』のweb版で、作詞家/ラジオパーソナリティ/コラムニストのジェーン・スー氏がそう書かれていました。心から同感です。私もこのブログで同じことを伝えたいと駄文を少なくとも10本は書き連ねてきましたけど、それらとはまったく違って、ジェーン・スー氏のこの文章は簡潔にして訴求力抜群(つまり読んでいて楽しい)。プロの書き手の文章とは、こういうものなのですね。

crea.bunshun.jp

これが老化か、と伏し目がちに生きていたら、ダンサーだった女友達が知らないうちにパーソナルトレーナーになっていた。そして、思い通りにならない体を持て余す私にド正論を吐いた。「ムキムキになるためじゃないよ。スタイルをよくするためでもない。これからの私たちには、明日を生きるための筋肉が必要なんだよ。もっと切実な話なの」。

不定愁訴に悩まされQOLがだだ下がりになって、やむにやまれず筋トレを初めて三年あまりになります。「これからの私たちには、明日を生きるための筋肉が必要なんだよ。もっと切実な話なの」。私の言いたいことはこのフレーズに集約されています。

慢性的な肩こりや腰痛に始まり、身体のあちこちに痛みか、痛みとまでは行かなくても違和感がつきまとう。階段を上るのが面倒になり、パクパクとたくさんの量を食べられなくなり、少しの酒量で酔ってしまい、眠りが浅くなり、トイレが近くなる。眠気にダルさに膨満感。四十肩から五十肩、原因不明の(レントゲン写真を撮っても何も見つからない)腕の痛み……。

もちろん個人差は大いにあると思います。そんな諸症状とはまったく無縁だよという方もいらっしゃるのかもしれません。でも中年にいたって自分の身体に次々と現れてきた、こうした一連の変化(弱化?)は本当に予想外のものでした。いや、でも、実は世の中の多くの人がバリエーションやラインナップの差こそあれ、同じような変化(老化?)を経験しているはず。そして、そのなかの少なからぬ人がそうした貴重な経験を発信し、警告を発していたはず。

なのに若い頃の私は、そうした警告なり警句なりに一切気づくことなく中高年にまで至ってしまったわけです。いや、たまさか気づいても、その重要性を認識できなかったということなのかもしれません。「また年寄りが何かブツブツ言っているな」といった感じで、心の底にまでは届いていなかったんでしょうね。結局人間は「我がこと」とならなければ物事の真意をまともに受け止めることはできないんでしょう。でもそれじゃあまりにも愚かすぎる。

その意味で、ジェーン・スー氏のこの文章が、まだ変化や弱化や老化をみじんも感じていない年齢層の方々に届けばいいなと思いました。私はいまでは毎日一時間は身体を動かしていますが、なにせ始めたのは50歳を過ぎてからです。何事も始めるのに遅すぎることはないとはいえ、これだけはちょっと遅すぎたと後悔しています。せめてあと10年、いや5年早く始めていたら、もう少し違っていただろうな。そう思っても詮ないことですが。

というわけで、40代のみなさん、ぜひ運動を。できれば筋トレを。お節介であることは重々承知していますが、それでも。

f:id:QianChong:20210513153829p:plain
https://www.irasutoya.com/2013/03/blog-post_5566.html

薙刀でした

先日いくつかの新聞朝刊に載った、この宝島社による全面広告。共感を寄せる声がある一方で、写真の出典や写真とコピー(文章)の齟齬などをめぐって、疑問の声にもいろいろと接しました。疑問の声を総合してみると「この写真は1941年の太平洋戦争開戦前に撮影された薙刀訓練のようすであり、戦争末期に空襲や本土決戦に竹槍で挑もうとした『愚行』に今次の行政によるコロナ禍対応の杜撰さを重ねるのは安易ではないか」という感じです。

もうひとつ、Twitterのタイムラインで拝見したこちらのツイート。


なるほど。宝島社って、私が若い頃には「別冊宝島」シリーズでずいぶん面白い本を出していたような記憶がありますが、最近はかなり怪しげな本ばかり手がけている印象ですよね。そんな出版社が今回のこのセンセーショナルな意見広告。写真のテキトーな扱い方と相まって、これも一種の自社プロモーションなのかしら、陰謀論のメンタリティと大差ないのかもしれない……と思わせるだけの要素が満載なようにも見えます。

私は最初「竹槍じゃなくて薙刀だ」というツッコミに「んな、重箱の隅つつきじゃないか。政府のコロナ禍対策がこの一年後手後手に回ってきたのは事実でしょ」と反感を抱きました。でもそのあとすぐにこうした意見に接して「なるほど」と、立ち止まって別の視点で捉えることができました。

こういうところはSNSの長所なんですよね。ただ一方で、先日書いた「Twitter内外の温度差」という問題もありますから、ようはSNSも実社会も、できるだけたくさんのソースに接して自らのバイアスを不断に修正していく作業が必要なんでしょう。少なくとも「わーっ」と脊髄反射的に反応しない、一旦深呼吸してよく考えることが大切、と。

f:id:QianChong:20210512091136j:plain

ところで、話の本筋には全然関係ないんですけど、趣味でやっている能の稽古は「船弁慶(キリ)」の仕舞に入りました。この舞はいつもの扇に加えて、薙刀を使うのです。薙刀を持って舞うと、特に薙刀を両手で持つと、身体の向きが固定されてしまうため、身体の向きを変えるときは腰から身体全体を動かさなければなりません。扇だけ持っているときのように、腕や肩から先に回ろうとする「悪癖」が封じ込められるような感じ。

それに扇に比べて薙刀はかなり重いです。それでも稽古で使うのは木刀みたいな模造の薙刀ですから、本物の刃がついたそれよりはずいぶん軽いそうですが、まだなかなか慣れません。とりあえず師匠からこの稽古用の薙刀を借りて練習しています。いつもと違う身体の使い方をしているからから、なんとなく身体のあちこちが悲鳴を上げているような感じです。


www.youtube.com

遠い北の国でも報じられて

“Kannustushuutojakin kuultiin, mutta ne oli etukäteen nauhoitettuja(歓声も聞こえたが事前に録音されたものだった)”。フィンランドの国営放送Yleのニュースサイトで、そんな記述を見つけました。先日、5月9日に新国立競技場で行われた、東京オリンピックパラリンピックのための陸上競技テスト大会に関する報道です。
yle.fi
現在オンラインで通っているフィンランド語の教室では、先生が毎回「この三つをしっかりやってくださいね」と繰り返しおっしゃいます。「大事なことですから二度言いました」どころではく、毎回、それも繰り返しおっしゃるのですから、これは「超大事」なことに違いありません。その三つとは、これです。

1.単語:単語を覚える。
2.文法:言語の仕組みを理解し、どの語形になるかを知る。
3.語形変化:必要な語形を自分で作れるようにする。

1.は、どの言語でも同じですよね。語彙量を増やしていくのは永遠の課題です。2.については、フィンランド語は語順で話す言語ではないので、文型(肯定・否定・疑問文や命令形・条件法などなど)や、動詞がどの格を要求するかなどの知識が中心になると思います。そして3.は、複雑極まりない動詞の活用(人称・単複・時制など)と格変化(単複合わせて30通り)を素早くできるようになること、変化したあとの形から素早く原形(辞書に載っている形)に戻せることなどでしょう。

毎日仕事に追われてなかなか学習がはかどりませんが、単語は通勤電車の中で覚えています。あと教科書の音声を聞いて、できるだけシャドーイング。文法と語形変化は作文と読解。特に読解は、出てくる単語一つ一つについて、愚直に「原形はこれで、これこれこういうふうに変化している」と確かめて行くことをやります。やります……って、私はあまりできていなくて、毎回の授業で先生がやってみせるのをあっけにとられて見ているばかりなのですが。

あっけにとられて見ているばかりではいけないので、上掲の一文を「読解」してみました。

Kannustushuutojakin kuultiin, mutta ne oli etukäteen nauhoitettuja.
Kannustushuutojakin:kannustus(励まし)+ huuto(叫び声)→ huuto i a → huutoja(複数分格)+ 強調の kin。
kuultiin:kuulla(聞く)→ kuullaan → kuultiin(受動態過去形)
mutta:しかし
ne:それら nämä nuo ne
oli:olla動詞過去形
etukäteen:あらかじめ、前もって
nauhoitettuja:nauhoittaa(録音する)→ nauhoitetaan → nauhoitettiin → nauhoitettu(受動態過去分詞)、oli nauhoitettu で受動態過去完了形。
直訳「励ましの叫び声だって聞こえたが、それらは以前に録音されたものだった」

無観客試合で観客の声を録音で流す」というのはテニスの全米オープンなどでも行われたそうですが、なんだか星新一氏や筒井康隆氏のショートショートにでも出てきそうな、ディストピア小説的しかけですね。アスリートはそれでも鼓舞されて嬉しいのでしょうか。東京オリパラに関しては、無理に無理を重ねているために、こんなたぐいの椿事が出来(しゅったい)しまくっています。それがこうして、遠い北の国でも報じられて……。恥ずかしいことこの上ありません。

f:id:QianChong:20210512082706j:plain
https://yle.fi/urheilu/3-11924942

Twitter内外の温度差

東京五輪をめぐるドタバタが連日のように話題に上っています。私は近代五輪はすでにその役割を終えたと考えているので、いまのような状況下ではもちろん、平時であっても金輪際五輪を行うことに反対ですが、Twitterではこんなリプライ(リツイート)をもらいました。


なるほど、「Twitter内外の温度差」と。それは確かに「大あり」ですね。私が以前のようにTwitterFacebookなどのSNSにのめり込まないようになったのは、時間をどんどん取られるからという理由も大きいですが、それ以外に「世の中の動きをSNSの中だけで感じているのはよくない」と思ったからです。

当たり前のことですが、世の中にはTwitterなどのSNSをやっていない人の方が多いです。Twitter社は2017年以降アカウント数に関する発表を行っていないそうで、詳しいことは分かりませんが、MAU数(月間アクティブユーザー数)はいま現在でだいたい4500万人ほどいるとか。けっこう多いと思うかもしれませんが、これは有権者数の四割ほどです。それに、文字通り私的なことを「つぶや」いているだけという方も多く、政治や経済や社会の問題に対して積極的かつ具体的に発信している方ばかりではありません。私の家族だって、誰ひとりTwitterをやっていません。

加えて、Twitterのタイムラインは、自分がフォローした人やその人の考えに連なる人のツイートが圧倒的に多いので、ついつい世の中の大きな流れがここにあると勘違いしてしまいます。実際には、上掲のリツイートで指摘されているように、かなり温度差があるんでしょうね。

f:id:QianChong:20210510101109p:plain
https://www.irasutoya.com/2018/04/blog-post_33.html

私の職場の同僚も、誰ひとりTwitterをやっていません(匿名でやっている人や、鍵アカの人がいるかもしれませんが)。そして、雑談から判断する限り、今次の五輪については私同様に「とんでもない」「もってのほか」と思っている人が多いようですが、それでももう少し細かいところに分け入ってみると、アスリートのありようであったり、為政者の施策であったりにはずいぶんと意見に温度差があるように感じます。ましてや世間全体のスケールで見てみれば、もっと多様な温度差、つまり意見の差があるはず。

Twitterに代表されるSNSは、権力も何もない一般の私たちが社会に向かって主張できる大切なルートではあるけれど、そしてそれらがなかった昔に比べればずっと進歩したのではないかと思うけれど、だからといって過度な幻想を抱いてはいけないと思いました。ここ数日の菅首相の会見や答弁を聞いても、目を覆いたくなるような醜態がさらされていて、Twitterでは大炎上していますが、それでも下がったとはいえ政権支持率はそこそこあり、支持政党は自民党が圧倒的で、選挙になっても投票に行かない有権者の方が多い。それが私たちの国の現状です。

東京五輪に関しては、その当初から「ネットと世論の乖離」が様々な方面から指摘されてきました。こちら↓はもう六年も前の記事ですが、いまでも傾聴に値すると思います。

news.yahoo.co.jp

質問する奴は偉い

「最初に質問する奴は偉い」。Twitterのタイムラインにこんなツイートが流れてきました。いやあ、本当に素晴らしい。同感です。

本邦では「同調圧力」ないしは「空気を読む」などのお家芸(?)のおかげで、最初に質問したり意見を言ったり、つまり「口火を切る」ことがはばかられるような雰囲気があります。でも、自分が教える立場に立ってみると、学生さんからまったく質問が出ないというのは、本当に寂しいことなんですよね。ほとんど心が折れそうになるくらいに。

だから、クラスにとても活発に質問をしてくれる学生さんがいると、それだけでこちらも救われるというか、やる気が出ます。Zoomなどのオンライン授業では、学生さんは基本音声をミュートにしていますから、ただでさえ質問や意見が出にくい環境です。そんな環境で、何も反応のないたくさんの顔が写ったグリッドを前に延々ひとりで喋っているのは、本当に辛いです。

もちろん、質問が出るような魅力的な授業をしていないからじゃないかというご批判は甘んじて受けます。それは今後とも精進いたします……ということで。ただ一方で、だから自分が生徒の側になった場合にはできるだけ質問や意見を出そう、自分から口火を切るようにしようと心がけてはいます。

f:id:QianChong:20210509115750p:plain
https://www.irasutoya.com/2018/02/blog-post_163.html

中国語に“拋磚引玉”という成語があって、私は大好きな言葉なのですが、これは自ら先に“磚(れんが)”を投げ込んで、他の人の“玉(ぎょく)”、つまり貴重な意見を引き出すという意味です。つまりまずは僭越ながら議論のたたき台となるような稚拙な意見を申し上げますから、ぜひみなさまのご高見をお聞かせ願いたいという謙遜の表現なんですね。

現在通っているフィンランド語の教室も、コロナ禍のあおりを受けて全面オンライン授業です。私はもちろん基本的には音声をミュートにしていますが、それでも先生が説明するたびになるべく大きくうなずいたり、「○○ですよね」などとクラス全体に呼びかけられた際には、スペースキーでミュートを一時解除にして「はい」とか「わはは」か「そうですね〜」などと声を出すようにしています。

また数人ずつブレイクアウトルームに分かれて、文章の読解をする時間もありますが、そのときも率先して「はい、じゃあ始めましょうか」とか「じゃあ〇〇さん、どうぞ」とか発言するようにしています。以前は私も「人並み」に空気を読んで慎ましやかにしていたのですが、そうするとみなさん本当に空気を読み合って、誰も何も言葉を発しないという時間が生まれたりするのです。実際には数秒から十数秒ですけど、私はその無言の重みにちょっと耐えられません。

……しかし。

もうひとつ、Twitterのタイムラインでよく見かけるのが「語学教室における中高年男性のマウンティング問題」です。「自分は語学ができるアピール」なのか、やたら質問をしたり、講師に挑んだり、クラスの場を仕切りたがったりする中高年男性が「ウザい」と。う〜ん、私もフィンランド語教室ではこれに似た存在のように思われているのかしら。難しいなあ……。

中国語で読む数式

通訳をしているときの「鬼門」とでも呼ぶべきものは多々ありまして、例えば中日通訳では“中國有句古話說……(中国の古い言葉にいわく……)”などといって漢詩や成語、古典の引用などをされる、というのがその代表格です。漢籍の素養などほぼ無きに等しい私など、このフレーズを聞くたびに心のなかで「や〜め〜て〜!」と叫んでいます。

これは知らなかったら、分からなかったら「即アウト」というたぐいの言葉ですが、その意味では人名や地名などもそうです。華人留学生の通訳クラスで試してみると、例えば“文在寅”→「ムン・ジェイン」とか、“耶路撒冷”→「エルサレム」など、さっと日本語で言える方はかなり少ない。もちろん日本語母語の学生さんが中国語でさっと言えるかというと、これもけっこう心もとないです。

来日歴が長い華人でさえ、例えば“廣東省”を「こうとうしょう」と言ってしまう方は存外多いです。基本的に漢字の音読みという原則に従えばそうなりますけど、これは習慣的に「かんとんしょう」と言っていますよね。北京や上海なども習慣的に「ぺきん」や「しゃんはい」と読みますけど、そういう「有名どころ」はともかく、普段あまり口になじませていない固有名詞は、けっこうな鬼門になり得ます。

固有名詞と同様に、数字も鬼門です。これはともにその言葉の前後、つまり文脈に関係しない独立した情報ですから。

2017年における中国の実質GDP成長率は6.7%でした。
2016年におけるベトナムの実質GDP成長率は6.2%でした。

実際には「2017」と「2016」を聞き逃したり、「中国」と「ベトナム」を取り違えるなんてことはないでしょうけど、「6.7」と「6.2」あたりになると記憶だけに頼るのはちょっと不安(少なくとも私は)ですし、聞き落としたら「即アウト」になります。だから通訳者のみなさんは、なにはともあれ固有名詞と数字はメモしろとおっしゃるんですね。

数字といえば、数式も鬼門です。バリバリの文系人間である私などは特に。数式なんか通訳することあるの? とおっしゃるかもしれませんが、私の経験だとけっこうあります。例えばこれは以前に私が何度か担当したとある理系学会のシンポジウムで使われたスライド資料ですが、数式がたくさん出てきて困じ果てました。まず日本語で(というか英語で?)どう読むのかもわからないですし、中国語はもっとわかりません。

f:id:QianChong:20210508084004j:plain:w500

もっとも実際には、研究者の方々がこうした数式を説明するときはたいがい英語でおっしゃることが多いですし、この仕事の場合には事前のブリーフィングで「こうした式は全部説明しませんから」と言われていたので少しは安心できました。

それでも、簡単な計算の過程を述べる場合に、四則演算とか少数とか分数などを中国語と日本語ですらすらと言えたほうがいいでしょうし、あとギリシャ記号(δ,Δ:デルタとか、σ,Σ:シグマとか。これは華人もそのままおっしゃいます)みたいなのも、できれば知っておくと多少は不安が和らぎます。

そこで自分の備忘録として数式の読み方を整理してみました。ベースにさせていただいたのは「例文集.net」さんに載っている「数式の英語」です。はてなブログで数式を書く方法については「七誌の開発日記」さんの記事と、「ano3のブログ」さんの自動変換フォームを利用させていただきました。感謝申し上げます。
reibunshu.net
7shi.hateblo.jp
ano3.hatenablog.com
なお、以下の読み方は私個人が覚えているもので、たぶん「両岸三地」で微妙に異なる言い方もあると思います。「私はこう読む」というのがあれば、ぜひご教示いただければと思います。

f:id:QianChong:20210509100806p:plain
https://www.irasutoya.com/2016/04/blog-post_157.html

記号

たす(足す)/プラス
ひく(引く)/マイナス
かける(掛ける)
÷ わる(割る)
〜は/イコール 等於

「+」と「−」はカタカナで「プラス」「マイナス」とも言いますけど、「✕」と「÷」はカタカナで言いませんね。しかも後で出てきますが、これらを混在させておっしゃる方も多いです。

ノットイコール 不等於
ニアリーイコール 約等於
だいなり(大なり) 大於
しょうなり(小なり) 小於
だいなりイコール 大於等於
しょうなりイコール 小於等於

四則演算

“加減乘除”と“等於”で四則演算が言えます。

1+2=3
いちたすにはさん
一加二等於三

「いちプラスにイコールさん」のようにおっしゃる方もいます(以下省略)。

3−4=−1
さんひくよんはマイナスいち
三減四等於負一

負の数は日本語では「マイナス」としか言えないですよね。

5✕6=30(5*6=30/5・6=30)
ごかけるろくはさんじゅう
五乘以六等於三十

“乘”と“除”は、それぞれ“乘以”“除以”と言うことの方が多いかもしれません。“加以”“減以”はあまり言わないような(いや言う、という方、ぜひご教示ください)。また「九九」を諳んじるときは“得”を使いますね。

2✕2=4
ににんがし
二二得四

この「ににんがし」とか「はっぱろくじゅうし」みたいな言い方は日本で小学校に通ったことがある人でないと、たぶんスラスラと出てこないでしょうね。

7÷2=3...1(7/2=3.1)
ななわるにはさんあまりいち
七除以二等於三余一

「あまり(...)」は中国語では“余”ですか。もちろんこれは小数点を使っても言えます。

7÷2=3.5
ななわるにはさんてんご
七除以三等於三點五

括弧

( )
カッコ(小カッコ)
{ }
中カッコ
[ ]
大カッコ

カッコ(括弧)はけっこう複雑です。中国語でも“小括號/中括號/大括號”と言いますけど、確か{ }が“大括號”で、[ ]が“中括號”だったはず。日本語と逆です。これはなぜなんでしょう。あと日本語では「カッコ……カッコ閉じる」といいますけど、中国語は? 私は“左括號……右括號”と言っていましたが、ネットで検索すると“前半括號……後半括號”とか“括號……括回”というのも見つかりました。

\displaystyle{
\left[\left\{(a+b)+\frac{c}{2}\right\} * 3\right] / d=e
}
大カッコ 中カッコ 小カッコ a プラス b 小カッコ閉じる プラス 2分のc 中カッコ閉じる かける 3 大カッコ閉じる わる d イコール e
左大括號 左中括號 左小括號 a 加 b 右小括號 加 二分之 c 右中括號 乘以 3 右大括號 除以 d 等於 e

実際にこんな式が出てきたら、いちいちこんなふうに言わずに「この式」で済ませちゃうとは思いますが、もし言うとしたらこんな感じになるのでしょうか。ちなみに「例文集.net」さんによれば、いちいち大中小を言わずに「カッコ カッコ カッコ a プラス b ……」のように言うこともあるそうです。

\displaystyle{
(1+3) / 2=2
}
カッコ 1 たす 3 カッコ閉じる わる 2 は 2
一加三的和除以二等於二

簡単な式だと、こんなふうに“括號”を使わずに言うこともあります。

小数

0.2
れいてんに
零點二
3.14
さんてんいちよん
三點一四
0.02+1.08=1.1
れいてんれいに たす いってんれいはち イコール いってんいち
零點零二加一點零八等於一點一

小数点以下は「つぶ読み」で同じです。0は中国語では“零”ですけど、日本語では「れい」とも「ゼロ」とも読まれますよね。1.08 を「いってんゼロはち」とか。あと中国語の「つぶ読み」で部屋番号などは1を“yāo”と読むことがありますが、小数点以下の場合にはないような。でも留学生に聞いてみたら「そう言う人もいる」とのことでした。

分数

\displaystyle{
\frac{1}{4}=0.25
}
よんぶんのいちイコールれいてんにいご
四分之一等於零點二五

分数は“分之”で。細かいですけど 0.25 は「れいてんにご」と発音されます。

\displaystyle{
8 \frac{1}{2}
}
はちとにぶんのいち
八又二分之一

中国語の帯分数は“又”を使います。日本語は「と」ですけど、私が子供の頃は「か」と教わりました。「はっかにぶんのいち」。フェデリコ・フェリーニ監督の同名映画は今でも「はっかにぶんのいち」と発音されますよね。

ルート・冪乗

\displaystyle{
\sqrt{2}=1.41421356 \cdots
}
ルート2/2のへいこうこん(平方根
根號二/二的平方根

ルートは“根號”ですか。“開方”とか“開根”も聞いたことがあるような。

\displaystyle{
a^{2}+b^{2}=c^{2}
}
a のにじょう(二乗/じじょう:自乗とも)プラス b のにじょう イコール c のにじょう
a 平方加 b 平方等於 c 平方

冪数は“次方”で、例えば2の4乗は“二的四次方”、9の2分の1乗は“九的二分之一次方”。でも二乗(自乗)と三乗はそれぞれ“平方”“立方”ということもあります。

\displaystyle{
\sqrt[3]{8}=2
}
8の三乗根(立方根)イコール2
八開三次方等於二

ここまでのまとめとして、懐かしい「二次方程式の解の公式」を言ってみると……

\displaystyle{
x=\frac{-b \pm \sqrt{b^{2}-4 a c}}{2 a}
}
x イコール 2aぶんのマイナスb プラスマイナス ルートbにじょう マイナス 4ac
x 等於 2a 分之負 b 加減根號 b 平方減 4ac

……ですか。もっと他の言い方もできると思いますが、いずれにしても中国語だとかなり短く言えますね。

おまけ:総和

一度だけ「Σ(シグマ)」を使った式を訳したことがあります。こんなの、日本語でも言えません。

\displaystyle{
\sum_{k=2}^{n} 1=n-1
}
シグマ k イコール 2 から n の 1 イコール n マイナス 1
Sigma k 從 2 到 n 的 1 等於 n 減 1

……でしょうか。ああ、私にとって数式は永遠の鬼門です。でも、こうした鬼門を避ける「必殺技」が一つだけあります。それは数式を読まずにレーザーポインターを使って指し示して「これ」とか「この式」と言っちゃうことです。もちろん毎回それをやっていると気まずいですし、そもそもスライド資料などが投影されていなければ使えない「技」ですが。

フィンランド語 100 …日文芬訳の練習・その30

最初、冒頭を“Minä rakastan käydä saarilla”としていたのですが、“rakastaa(愛する)”は“käydä(訪れる)”という動詞の原形を取れないということで、下のように直されました。言われてみればそうですね。“haluta(〜したい)”などと同じような感覚で書いてしまっていました。

私は島を訪れるのが大好きです。ほとんど人が行かないような離島が特に。コロナ禍の前は、毎年のように台湾に行っていました。台湾はもとより島国ですが、そのまた離島に行ってのんびりと過ごすのです。船やプロペラ飛行機で離島に渡るのはとても楽しくスリリングです。島によっては、アジアなのにヨーロッパみたいな村の風景もあります。台湾にはまだ行ったことのない離島がいくつかあります。たぶん今年は無理ですが、来年の夏にはまた行ってみたいと思います。


Minä rakastan saarille käymistä, varsinkin hyvin pienillä ulkosaarilla, joihin ihmiset eivät niin uskalla mennä. Ennen koronavirus oli levinnyt, kävin Taiwanissa vuosittain. Tietysti Taiwan itsekin on saarivaltio, mutta vierailen myös sen ulkosaarillakin ja vietän aikaa niin mukavasti. Minulla on hauskaa ja jännittävää, kun menen ulkosaarille laivalla vai potkurikoneella. Joskus sillä on maisemia kuten eurooppalaisia kyliä, vaikka se onkin Aasiassa. Taiwanissa on vielä pari ulkosaaria, joilla en ole käynyt. Ehkä en saa mennä niille tänä vuonna, mutta haluaisin mennä taas ensi kesänä.


f:id:QianChong:20210508152906p:plain

コロナ禍におけるお稽古

日本経済新聞のネット記事に、コロナ禍は伝統芸能にも少なからず影響を与えているという記事が載っていました。リンク先は会員限定なのですが、私は職場でとっている「紙」の方で読みました。

www.nikkei.com

落語など演芸の寄席でも興業の中止がかなり深刻な影響になりつつあるようですが、能楽は他の伝統芸能、例えば歌舞伎や文楽などとは違って、基本的に一日一回限りの上演という形式がほとんどなので、かなり苦しい状況に追い込まれているものと想像します。

また、能楽師の方々の収入では、我々のような素人がお稽古するときの謝礼も大きなものがあると聞いていますが、コロナ禍で稽古を休んだりやめたりする方も増えている模様。私の師匠のところでも、稽古場ではなくオンラインでの稽古を希望する方もいるそうです。私自身は、広い能舞台で、師匠と私二人だけなので「密」とはほど遠いかなと考え、いまも通っています。が、それでもマスクはしたままお稽古しています。本当は外すのが作法なんでしょうけど……。

さらに記事では「教え子も減っている。高齢者が謡などを習いに来る能楽では、オンラインでの稽古を嫌がってやめていく人が少なくないのだという」とも書かれていました。なるほど、確かにオンラインで謡や舞の稽古をしても、何かこう物足りない感じはしますね。謡はともかく、舞は「極狭物件」の私の家では物理的に不可能です。

f:id:QianChong:20210507170633p:plain
https://www.irasutoya.com/2018/10/blog-post_83.html

能楽は、江戸時代の幕藩体制が崩壊した際に、それぞれの藩のお抱えであった能楽師が一挙に路頭に迷うという一大危機の時代がありました。そこからの再興において大きな力を発揮したのは、趣味で謡や舞をお稽古していた広範な一般の人々の存在であったと言われています。能楽が、ひとり玄人(プロ)だけのものではなかったからこそ、広く社会に文化として根づいていたからこそ、生き延びることができたわけです。

今次のコロナ禍は、ひょっとするとその当時にも匹敵するような危機なのかもしれません。私はこれからも、細々ながらお稽古を続けていこうと思っていますが、全体的な大きな流れとしてはかなり厳しい状況にあることは間違いないようです。どうすればこの危機を乗り越えていけるのか……あまり具体的なことは思いつきません。

趣味で能楽に親しむとしても、それなりにお金がかかる(やりようによって、ですが)というのは一つネックになっているような気がしますが、だからといってお安くして裾野を広げるというのも、これだけ多種多様な娯楽がそろっている現代ではあまり建設的ではないかもしれません。それに能楽師のみなさんの収入が減っては元も子もないですし。

それにしても、記事にあった「高齢者が謡を習いに来る能楽」って……。やっぱり能楽はお年寄りの趣味というイメージなんですね。いや、年配の方が多いのは、というかほとんどの方が私より年配の方ばかりというのは確かなんですが。それに私自身だって紛う方なき「アラカン(around 還暦)」なんですから、高齢者そのものです。傍目には「なんか渋い趣味やってる、くたびれたオッサン」という感じで映っているのかなあ……。

能『楊貴妃』の物語設定

能の曲(演目)に『楊貴妃』というのがあります。日本の伝統芸能である能に中国のお話が出てくるのは不思議だと思われるかもしれませんが、実は能には「中国物」と呼ばれる、中国の古典に取材した演目が数多くあります。能が成立した室町時代の日本人が、いかに中国の古典を敬愛し受容していたかが分かろうというものです。

能『楊貴妃』は白楽天白居易)の『長恨歌』をベースにしています。さらに『長恨歌』から影響を受けた『源氏物語』の「桐壷」からも和歌などが取り入れられています。なんというか、古典への造詣に乏しい私としては、ただただ圧倒されるばかりの詞章(セリフや謡の文章)なのです。

東京都に緊急事態宣言が発出されたあおりを受けて五月の発表会は中止になり、練習してきた舞囃子もいったん「お預け」となりました。というわけで、お稽古では新しい舞と謡を練習することになりました。その謡として師匠が選んでくださったのが『楊貴妃』。幸いネットには初歩的な解説がいくつもあるので、このさいまずは背景知識をおさらいしようと色々なサイトに当たりました。『長恨歌』について(こちらこちら)、源氏物語の『桐壺』に出てくる和歌について(こちらこちら)など。それからいつも楽しく読んでいる中村八郎氏の『能・中国物の舞台と歴史』も。

能『楊貴妃』に出てくる楊貴妃は、いかにも能らしい亡霊(というか魂魄)なんですよね。安史の乱安禄山の乱)に際して、自ら殺害を指示した楊貴妃を忘れられない玄宗皇帝が、方士(神仙の術を身につけた修行者)に命じてその魂魄を探させるというプロットです。仙界で方士は楊貴妃(の魂魄)を探し出すのですが、楊貴妃はついにその魂魄のままで玄宗と再会することもなく、仙界にとどまります。京劇などでは『貴妃酔酒』みたいに、逆に生前の楊貴妃の美しさや妖艶さを活写しているのに対して、能のこの儚い、いや、儚すぎる物語設定はどうですか。

f:id:QianChong:20210505131256j:plain
『the 能 .com』さんの「演目辞典」から。

私はどちらも好きですけど、美を美として正攻法で描写せず、儚く、もどかしい設定でかえって美を際立たせようとするアプローチが室町当時の観衆にとってたまらないものだったんだろうなと想像します。前にも書きましたけど、能『項羽』と京劇『覇王別姫』の違いにも似ています。項羽と虞姫の関係を現実に即した悲劇としてヴィヴィッドに描く京劇の手法と、悲劇を悲劇のまま見せず深い鎮魂とともに時空を超えた演出で語る能の手法。同じ題材をまったく違う手法で味わうことができるなんて、なんと贅沢なことではありませんか。中国の古典や文学がお好きな方はぜひ能をご覧になるべきだし、現代の華人にもぜひ能をご覧いただきたいと私が願うゆえんです。

qianchong.hatenablog.com

失敗の本質

1984年に出版された『失敗の本質』という本がありまして、現在は中公文庫で読むことができます。その「文庫版あとがき」は平成三年(1991年)、つまり今からもう30年も前に書かれたもので、最後はこう締めくくられています。

企業をはじめわが国のあらゆる領域の組織は、主体的に独自の概念を構想し、フロンティアに挑戦し、新たな時代を切り開くことができるかということ、すなわち自己革新組織としての能力を問われている。本書の今日的意義もここにあるといえよう。(412ページ)

この本を読むと、30年も前の「今日的意義」がいまなお有効どころか、現今のコロナ禍への為政者の対応を見ている限り、ちっとも変わっていないことを痛感させられます。

f:id:QianChong:20210505104135j:plain:w200
失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

この本では、ノモンハン事件ミッドウェー海戦ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ海戦、沖縄戦という六つの「失敗」について、そのプロローグから実際の推移と帰趨が詳細に記されています。特に六つの失敗を踏まえて分析を行っている第二章「失敗の本質」は、あまりにも現在の日本と符合する(ちっとも変わっていない)ことが多く、大量の付箋を貼る羽目になります。例えば大きな課題に対する戦略策定において多分に「空気」がその場を支配するという問題。

日本軍の戦略策定は一定の原理や論理に基づくというよりは、多分に情緒や空気が支配する傾向がなきにしもあらずであった。これはおそらく科学的思考が、組織の思考のクセとして共有されるまでには至っていなかったことと関係があるだろう。たとえ一見科学的思考らしきものがあっても、それは「科学的」という名の「神話的思考」から脱しえていない(山本七平『一九九〇年の日本』)のである。(283ページ)

この「空気」はノモンハンから沖縄までの主要な作戦の策定、準備、実施の各段階で随所に顔を出している。空気が支配する場所では、あらゆる議論は最後に空気によって決定される。もっとも、科学的な数字や情報、合理的な論理に基づく議論がまったくなされないというわけではない。そうではなくて、そうした議論を進めるなかである種の空気が発生するのである。(284ページ)

日本軍は、初めにグランド・デザインや原理があったというよりは、現実から出発し状況ごとにときには場当たり的に対応し、それらの結果を積み上げていく思考方法が得意であった。このような思考方法は、客観的事実の尊重とその行為の結果のフィードバックと一般化が頻繁に行われるかぎりにおいて、とりわけ不確実な状況下において、きわめて有効なはずであった。しかしながら、すでに指摘したような参謀本部作戦部における情報軽視や兵站軽視の傾向を見るにつけても、日本軍の平均的スタッフは科学的方法とは無縁の、独特の主観的なインクリメンタリズム(積み上げ方式)に基づく戦略策定をやってきたといわざるをえない。(285ページ)

どうですか、付箋を貼ったうちのほんの一部ですが、ここだけでも現在のコロナ禍への対応や東京五輪をめぐる不可思議な状況ときわめてよく符合しているではありませんか。この本では場の議論が「空気」に支配され、なおかつコンティンジェンシー・プラン(最近よく聞く言い方だと「プランB」ですか)が検討されないという日本軍の欠陥をも指摘しています。これも「このような状態に至ったら、こうする」という明確なプランが示されないまま突き進んでいる今の状況に酷似しています。

現在販売されている中公文庫版には、販促のための特別なカバーがかけられていて、「各界のリーダーが絶賛!」との惹句が踊っています。その一番上に東京都知事小池百合子氏が載っているのを見て、複雑な気持ちになりました。インパール作戦にもなぞらえられる(実際、この本を読むと、現在の五輪へ突き進む状況はきわめて似ています)東京五輪を強硬に推し進めようとしている開催都市の首長が、絶賛?

f:id:QianChong:20210505103803j:plain

このカバーには「なぜ日本人は空気に左右されるのか?」という惹句も載っています。東京都に三度目となる緊急事態宣言が発せられても、もはや多くの人が「お上の言うことなんて聞くもんか」とばかり街に繰り出しています。その意味ではもはや私たちは「空気に左右されない」日本人になったのでしょうか。いやいや、そうではありますまい。変異株などの脅威も取り沙汰されている中、「科学的な数字や情報、合理的な論理に基づく議論がまったくなされ」ずに動いているのだとしたら、それはもはや自律性を失い、まわりの空気に左右された結果ではないかと思うのです。

アスリートもそろそろ声を上げるべきではないか

「一体何を見せられているの?」というフレーズがありますね。直視するのがはばかられるような、こちらが恥ずかしくなってしまうような他人の行為(その多くは恋愛にまつわるもの)なんですけど、つい見ちゃう、というか見られてうれしいというニュアンスも含んだ「高等表現」(?)です。ドラマの感想などをリアルタイムでTwitterなどに書き込んでらっしゃる方がよく使っているような印象があります。

そういう「お楽しみ」なら他愛なくていいんですけど、昨今の東京五輪に関するあれこれには「一体何を見せられているの?」という怒りばかりが湧いてきます。例えば今日現在、緊急事態宣言や蔓延防止等充填措置(「まん延」なんて恥ずかしい表記はしません)がいくつかの都府県で発出される一方で聖火リレーなんてものが行われています。先日沖縄県で行われたそれは、無観客で、かつ周りを囲って見えなくした駐車場で、ほんの少しの距離を走るというものだったそう。何が「聖」火ですか。無意味の極みですよ。

mainichi.jp

それでも日本の大手メディア(全国紙や全国ネットのテレビなど)は、自らもスポンサーになっているため、この期に及んでも正面から五輪の批判を行っていません。スポンサーになっていない東京新聞は最近になって五輪に批判的な特集記事を連続で組んだりしていますが、それでも社説ではまだ旗幟鮮明にしていませんし、スポーツ欄などは無邪気なほどの五輪讃歌であふれています。

それに対して海外のメディアには、かなり辛辣かつ真っ当な「五輪中止論」が繰り返し出るようになりました。それを日本の大手メディアが「海外ではこんな批判が出ました〜」的に紹介するのがまた腹立たしい。ジャーナリズムのかけらもありません。ここまで大政翼賛会的な報道を続けてきてしまったという負の「レガシー」は、今後長期に渡って日本の大手メディアに重くのしかかる「原罪」(常に罪を背負っているような気持ちになる、という意味で)になると思いますよ。

f:id:QianChong:20210504170200p:plain
https://www.irasutoya.com/2017/02/blog-post_177.html

先日は、東スポWebがこんな記事をネットに載せていました。

news.yahoo.co.jp

記事の中でニュージーランドマイケル・ベイカー公衆衛生学教授は、「五輪はグローバルな一体感とフェアプレー精神によって祝福されることを目的としている。低所得国はパンデミックによって荒廃している。そこにフェアプレー精神はない」と述べています。その通りだと思います。

よく「選手がかわいそうだ」とか「アスリートは五輪のために何年も努力し続けきたんだ」とその精神を称える文脈で五輪をなんとしても開催へという主張が見られますが、私はアスリートをそういう努力の方向へむかわせることそのものが間違っていると思います。

そしてまたアスリート自身も、そろそろ「これではフェアではない」と声を上げるべきです。世界規模でパンデミックがまったく収まっていない今の段階で、ましてや日本国内でも圧倒的多数の国民がコロナ禍にあえいでいる中で、自らは五輪の晴れ舞台に立って世界中のアスリートと競い、メダルを獲ったとして、それで嬉しいのでしょうか。誇らしく感じられるのでしょうか。

大手紙のスポーツ欄を見ると、毎日のようになにかの競技の誰々選手が五輪代表に内定という記事が載っており、選手ご自身の喜びの声や決意表明みたいなものも添えられています。が、私は、厳しい言い方になりますが、そういう五輪に出場できるほどのトップアスリートであればこそ、現今の社会状況に鑑みた、責任のある発言と行動が求められると思います。ましてや少なからぬ私たちの税金が注ぎ込まれている国際大会であれば、なおさらのことです。

アスリートが最大のパフォーンスを発揮する要素としてよく「心・技・体」ということが言われますよね。私はその「心」には、現代に生きる一社会人として、あたう限りフラットで公正公平な社会感・世界観を持とうとすることが含まれていると思います。人々に影響力のあるトップアスリートであれば、なおさら。競技業界の同調圧力に屈せず、声を上げてほしいと願っています。

もう染めなくてもお金かけなくてもいいかな

髪の毛を染めるときに「染みてないですか?」と聞いてくるのが謎。そんな記事が文春オンラインに載っていました。

bunshun.jp

私は時々軽い頭皮湿疹が出るので、そんなときに髪の毛を染めると染みます。染みるというか、激痛が走ることもあります。でもいつも我慢していました。染みるのが当たり前だと思っていて。それに一度「染みてないですか?」と聞かれて正直に「染みてます」と答えたことがあるのですが、お店のスタッフは「あらあら」と言いつつ軽く拭き取ってくれるだけで、結局そのまま続行されちゃったことがあったので。

ヘアサロンって、スタッフさんと天候の話など他愛ない会話がつきものとか、シャンプー時に「かゆいところはございませんか?」や「洗い足りないところはございませんか?」と聞かれるとか、ちょっと意味のよく分からない「慣習」が多いところだと常日頃から感じています。それで「染みてないですか?」もそのたぐいなんだろうなと思っていたのですが、本当はアレルギーの可能性があるからだったんですね。

f:id:QianChong:20210503185717p:plain
https://www.irasutoya.com/2017/06/blog-post_2.html

もっとも、現在は白髪が大幅に増えて染めるのも大変かつ不自然な気がしてきたので、グレイヘアーのままにしています。ちょうど黒髪と白髪が半々くらいで、中高年感を絶賛アピール中ですが、実際に中高年なんだからもうこれでいいと思っています。ちなみに、ヘアサロン自体に行くのもなんだか贅沢なような気がしてきたので、先日はいわゆる「1000円カット」のお店で切ってもらってみました。

ヘアサロンとはやっぱりかなり違う仕上がりになりますけど、なんだかこれでもいいかなと思っています。会話もしなくていいし、シャンプーはもともとついてないですしね。1000円カットに行って、妻に「どう?」って聞いたら、「どうと言われても……」と言われました。私の場合、表参道で切ろうが1000円カットで切ろうが、あまり大差ないんだそうです。はい、そうですね。

積極的に身体を動かしていないと死んじゃう

緊急事態宣言が発出されたことによって、東京都では1000平方メートルを超える施設に対して休業要請が行われています。そのため、いつも出勤前に早朝から利用しているジムも休業になってしまいました。せっかく毎日運動する習慣が定着してきたというのに、この事態はとてもつらいです。気持ち的にもつらいけど、身体的にはもっとつらい。日々身体を動かすことが習慣化されてしまうと、逆に動かさないでいることが非常に気持ち悪くて仕方なくなるんですね。

じゃあ通勤時に一駅か二駅手前で降りて歩けばいいじゃないかということになるんですけど、もはや筋トレが日常化していて、そんな程度の「軽い」運動では気持ち悪さが解消できない身体になっています。昨年の一回目の緊急事態宣言のときには、だから職場のオフィスに朝早く行って、腕立て伏せだの、椅子を使った「リバースプッシュアップ」だのをやっていました。

私の場合、筋トレは筋肉をつけるためというよりは肩こりや腰痛を予防するためです。ですから、必ずしもウェイトをかけなくてもよくて、体幹レーニングを中心にしているのですが、それでもある程度の負荷というか、自分を追い込む方向でやらないとぜんぜん身体がスッキリしない上に腰痛なども軽減されません。

パーソナルトレーニングでそんなことをぼやいていたら、トレーナーさんが「新しくはじめたサービスを試してみませんか」とおすすめしてくれました。LINEを使って、その人の要望に合わせたトレーニングメニューを配信してくれるうえに、毎日「しっかりやってますか」とか「今日はメニューをこなせましたか」などのプレッシャーもかけてくれるというサービスです。

せっかくなので、おすすめに従ってサービスを利用してみることにしました。トレーナーさんは私の身体能力をよく分かっているので、私の身体能力でできるギリギリの負荷を前提にメニューを組んでくれます。始めて10日ほどになりますが、なかなかハードです。でもこれなら緊急事態宣言中も身体がなまらなくて済むかもしれません。

f:id:QianChong:20210502124401j:plain:w200

しかし、肩こりや腰痛が慢性化して、ほとんどQOL(クオリティ・オブ・ライフ:生活の質)の低下を招くにまで至ってはじめて、日常的に身体を動かすことの大切さを痛感しました。特に中高年に至った私たちとしては、どれだけ身体を動かして老化に対応していくかが死活的に重要だと感じています。デスクワークが多い私たちにとっては特に。『LIFESPAN―老いなき世界』という本を読んでいたら、こんな記述がありました。

父は初め生化学者になる教育を受けた。ところがコンピュータにのめり込み、ある病理検査会社でコンピュータ担当者として働いた。当然ながら、画面の前で長時間椅子に座って過ごすことになった。それは、恐ろしく体に悪いと専門家が指摘する生活習慣である。喫煙と同じくらい有害だとする研究者までいるほどだ。(247ページ)

f:id:QianChong:20210502123332j:plain:w200
LIFESPAN(ライフスパン)―老いなき世界

これはパーソナルトレーニングのトレーナーさんにもよく言われることです。長時間座って、パソコンに向かい続けることがどれほど身体に悪いか。老化はもちろん抗いがたい傾向ではあるけれど(でも、この本ではその「常識」に真っ向から異を唱えているのですが)、少なくともQOLをできるだけ下げない方向で身体を鍛え続けたいものです。『LIFESPAN』にはこんな記述もありました。

生物学的に見て、体がどれだけ年老いているかを確かめる簡単な検査がいくつかある。腕立て伏せが何回できるかは、かなり優れた目安だ。46歳以上の場合、20回を超えられたらたいしたものである。(148ページ)

おお、これは私、楽勝でできます。でも……

ほかには「座り立ちテスト(SRT)」というのがある。裸足で床に座り、両足をクロスさせる。そのまますばやく体を前に傾けて、一度で立ち上がれるかどうか試してみるといい。若い人ならできる。中年になると、どちらかの手で押してやらないと普通は起き上がれない。高齢者ならたいていは片膝をつかなくては無理だ。(同)

こちらは、まったくダメでした。やっぱり私は、まごうかたなき中高年なのです。ま、これからも積極的に身体を動かしていこうと思います。身体を動かしていないと死んじゃう。冗談ではなく、本当にそう感じています。

五輪に熱狂するだろうか

新宿の街は、昨日も人であふれていました。緊急事態宣言が発出されているなかゴールデンウィークに入った東京ですが、私の職場はオンラインと対面を組み合わせながら「カレンダー通り」に授業をしていて、昨日は都心に出かけたのですが……いや、すごい人出です。

しかもサザンテラスのあたりでは、カフェのオープンスペースや歩道の脇などにマスクをはずして飲食しつつ歓談する方も大勢。ニュースで見た、ワクチン接種が進んでマスク着用が要らなくなったどこかの国の光景に似ていますが、日本はいま現在のワクチン接種率が約2%。このギャップに戸惑います。

vdata.nikkei.com

しかし、戸惑いながらも私自身、みなさんの気持ちがよくわかります。みんな「もう、お上の言うことなんか聞くもんか」という感じなんでしょうね。コロナ禍の発生から一年半にもなろうとしているのに、諸外国で奏功した実績がいくつもある「検査と隔離」はろくに行わず、アベノマスクだ、犬と一緒に動画だ、突然の一斉休校だ、五輪延期決定後に緊急事態宣言だ……などという政治を見せられて、そのうえ今でも「まんぼう」だ、聖火リレーしながら緊急事態宣言だ、IOCのバッハ会長来日前に緊急事態宣言の解除を検討だ、医療現場は逼迫しているのに五輪にボランティアで医師や看護師派遣だ……と、かの「インパール作戦」にもなぞらえられる政治が絶賛進行中なんですから。

先日ネットのJBpressに「東京五輪『日本はIOCに開催懇願』の衝撃情報」という記事が載っていました。そのなかにこんな言葉がありました。「五輪を強行開催すれば、財界が喜び、国民も何だかんだ言いながらアスリートたちの熱戦に酔いしれて批判的言動を忘却させ、ひいては自分たちの支持率も大幅回復できる」。政府の要人がこの通りに言ったわけではなく、あくまで五輪組織委員会某幹部の政府評としてですが、おそらく政府の本音なんでしょう。国民をとことんバカにしていますが、でもまあ国民の側にもバカにされるだけの実態もあるんですよね。あまりにも低すぎる投票率とか。

仮に五輪が中止になったとしても、ここまで判断を遅らせて人命を軽んじ、税金を浪費した責任はきっちり追求しなければいけません。でも「中止は英断だ!」という方向に民意が動いて、7月の都議選で小池百合子氏率いる都民ファーストの会が躍進し、そのあと秋の衆院選で菅政権が評価されるような未来がありそうで、今から暗澹たる気持ちです。小池氏など「五輪中止の責任をとって都知事を辞任します」とか言って、それがまた国民の拍手喝采を受けて、衆院選で国政に返り咲き、日本初の女性首相を目指す……なんて方向に行きゃしないでしょうかね。

f:id:QianChong:20210501082159p:plain
https://www.irasutoya.com/2018/11/blog-post_489.html

政府が小手先の対策ばかりで本腰を入れないのを見抜いて、緊急事態宣言下でも「自分の判断で行動させてもらうぜ」とばかりに繁華街へ繰り出している国民には、ある意味したたかで健全なものも感じます。でも、その一方で選挙権という一番基本的な権利すら行使せず、ひたすらいいように税金をむしり取られて浪費されるのもまたその国民なんですよね。

なんだかんだいって、いまはまだ日本はとても豊かな国なのだと思います。だからまだこんな「狂想曲」を奏でていられる余裕があるんでしょう。私自身は五輪の開催なんてとても無理、とんでもない、と思っていますが、世界の中ではまだまだ豊かなこの国は、インパール作戦を完遂してしまうかもしれません。完遂すれば国民は熱狂し、逆に中止しても国民は熱狂するでしょうか。「お上の言うことなんか聞くもんか」と行動しはじめた国民が、同時にそんな熱狂にいとも簡単にはまるとしたら……そんな日本国民(自分も含め)をどう捉えたらいいのか、いまのところ私には分かりません。

キャッチーでダンサブルなナンバー

YouTubeでお笑い芸人さんの芸を見るのが好きです。テレビのお笑い番組も昔は大好きだったんですけど、最近はほとんど見なくなりました。当たり前かもしれませんが、テレビという媒体は基本的に老若男女を受け手に想定しているからか、そのぶん「大味」な感じがするんですよね。その点、YouTubeで様々な芸人さんが公開している動画には、実験的な、あるいは革新的な試みがたくさん見つかります。

お笑いというのは「話芸」ですから、私は芸人さんたちの「話」や「しゃべり」の技術に特に魅了されます。だから逆にお笑い芸であっても、それが奇矯な行動に重点が置かれているものは、あまり好みじゃありません。奇声を発したり、奇妙な動きをしたりで笑いを誘うよりも、話芸そのもので笑えるほうが、後々までじわじわとその面白みが持続するような気がします。

先日たまたま見て面白いなあと思ったのは、ジャルジャルのコントです。コントというか、zoom会議におけるビジネスパーソンの会話をそのまま流したという体のとても「いまふう」な作品で、全体で20分もあります。こういう形で動画サイトならではのお笑い作品を作っているというのもニクいですよね(テレビでは絶対にできない形態と長さです)。


www.youtube.com

移動体通信業界と思しき会社のzoomミーティングで、入社四年目の江良(えら)と入社三年目の井張(いばり)の二人が、入社一年目の朝倉に対して「えら」そうに「いばり」、先輩風を吹かせているところに、客先の福村が登場し、こんな感じでまくし立てます。

今回新しいスマートフォンのアライアンス事業をコンセンサスするというのは業界の成長にとってマストだと思うのでシナジー効果を期待しております。これからスマートフォンマーケティング市場というのはどんどん拡大していくと思うので、バジェットはどんどん超えてKGIを気にせずにKPIにインポータンスを置いて、最終的にリコールを見据えているレベルになっててももういいのかなというのがこちらのオピニオンですね。

わははは、お笑いですからもちろん誇張されていますけど、いかにもいそうです、こういう「ギョーカイ」っぽい話し方をする人。私も通訳現場で一度だけ「このアーティストのニューアルバムはキャッチーでダンサブルなナンバーがコレクトされたコンピレーションで……」みたいに話す方に遭遇したことがあります。そんなカタカナ語満載のマシンガントークに対して江良と井張が圧倒されている中、「しょぼい奴」だと思っていた朝倉が話し出すと……。

f:id:QianChong:20210429154137p:plain

これ以上はネタバレになりますから、実際に動画を見ていただきたいと思いますが、ほぼ話芸だけで、しかも基本的にはビジネス現場の言葉だけでこれだけの面白み。脚本を書いた方は頭がいいなあと思います。しかも福村と朝倉を演じたお二人は素人さん(セミプロと言うべきか)なんですって。ジャルジャルのお二人はぐっと後ろに引きつつも、笑いの度合いをさらに高める演技をしているのがまた素晴らしいと思いました。日本人の外語コンプレックスも、このお笑いのツボとしてうまく機能しているんでしょうね。

ジャルジャルのお二人にはかつて「フィリピン語で数学数える奴」というコントがあって、これも「通訳」をネタにした面白い(そしてある意味怖い)作品です。


www.youtube.com

私はYouTubeでこういう通訳に関するお笑い芸を見つけるたびにコレクションして学生さんに見てもらっています。「反面教師」になるからです。お笑い芸人さんが通訳者をネタにするということは、しかもそれで笑いを取ることができるということは、世間の方々の「ああ、通訳者ってそうだよね」という「あるある」的コンセンサスがリフレクトされているからではないかというのが私のオピニオンです。