能の曲(演目)に『楊貴妃』というのがあります。日本の伝統芸能である能に中国のお話が出てくるのは不思議だと思われるかもしれませんが、実は能には「中国物」と呼ばれる、中国の古典に取材した演目が数多くあります。能が成立した室町時代の日本人が、いかに中国の古典を敬愛し受容していたかが分かろうというものです。
能『楊貴妃』は白楽天(白居易)の『長恨歌』をベースにしています。さらに『長恨歌』から影響を受けた『源氏物語』の「桐壷」からも和歌などが取り入れられています。なんというか、古典への造詣に乏しい私としては、ただただ圧倒されるばかりの詞章(セリフや謡の文章)なのです。
東京都に緊急事態宣言が発出されたあおりを受けて五月の発表会は中止になり、練習してきた舞囃子もいったん「お預け」となりました。というわけで、お稽古では新しい舞と謡を練習することになりました。その謡として師匠が選んでくださったのが『楊貴妃』。幸いネットには初歩的な解説がいくつもあるので、このさいまずは背景知識をおさらいしようと色々なサイトに当たりました。『長恨歌』について(こちらやこちら)、源氏物語の『桐壺』に出てくる和歌について(こちらやこちら)など。それからいつも楽しく読んでいる中村八郎氏の『能・中国物の舞台と歴史』も。
能『楊貴妃』に出てくる楊貴妃は、いかにも能らしい亡霊(というか魂魄)なんですよね。安史の乱(安禄山の乱)に際して、自ら殺害を指示した楊貴妃を忘れられない玄宗皇帝が、方士(神仙の術を身につけた修行者)に命じてその魂魄を探させるというプロットです。仙界で方士は楊貴妃(の魂魄)を探し出すのですが、楊貴妃はついにその魂魄のままで玄宗と再会することもなく、仙界にとどまります。京劇などでは『貴妃酔酒』みたいに、逆に生前の楊貴妃の美しさや妖艶さを活写しているのに対して、能のこの儚い、いや、儚すぎる物語設定はどうですか。
私はどちらも好きですけど、美を美として正攻法で描写せず、儚く、もどかしい設定でかえって美を際立たせようとするアプローチが室町当時の観衆にとってたまらないものだったんだろうなと想像します。前にも書きましたけど、能『項羽』と京劇『覇王別姫』の違いにも似ています。項羽と虞姫の関係を現実に即した悲劇としてヴィヴィッドに描く京劇の手法と、悲劇を悲劇のまま見せず深い鎮魂とともに時空を超えた演出で語る能の手法。同じ題材をまったく違う手法で味わうことができるなんて、なんと贅沢なことではありませんか。中国の古典や文学がお好きな方はぜひ能をご覧になるべきだし、現代の華人にもぜひ能をご覧いただきたいと私が願うゆえんです。