インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

話すことと訳すこと

華人留学生の通訳クラスで、中国語→日本語の訳出があまりにもたどたどしい方が多いので、しばらく「1分間スピーチ」を課題にしていました。学生は日本語をもう何年も学び続けている方ばかりですけれど、やはりアウトプットの機会、それも日常のおしゃべりレベルではなく人前できちんと話す「パブリックスピーキング」の機会が少なすぎるのではないかと思って。

毎週様々なテーマを予告し、一人一人前に立って日本語で「1分間スピーチ」をしてもらい、聞き手はそれをメモしながら聞いて、あとから日本語で再現してもらうというという練習をしばらくやってみました。ところが意外なことに、全員がそこそこ内容もしっかりしたスピーチを、かなり流暢に行うことができるのです。みなさんとても上手なスピーチでした。

なるほど。つまりみなさんは、事前にある程度の準備をしておけば日本語のアウトプットはかなり流暢にできるんですね。また他人の話していることをそのまま同じ日本語で再現することもけっこうできる。なのに普段の通訳訓練ではあんなにもたどたどしい……というのは、どういうことでしょうか。

これはつまり、日本語で話すだけ、あるいは中国語で話すだけならそれほど苦もなくできるけれども、「訳す」ということ、つまり中国語を聞いて即座に日本語を話す(あるいはその逆)にまだ長けていないということでしょうか。中国語に引きずられて、適切な日本語が出ない(あるいはその逆)。もちろんそこが通訳や翻訳ではいちばん難しいところではあるんですけど。やはり二つの言語をスイッチしながら話すというのは、それも「おしゃべりレベル」ではなくそこそこの複雑さや専門性がある内容を話すというのはかなり難しい技術なのだなと改めて思いました。

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https://www.irasutoya.com/2018/10/blog-post_563.html

それともうひとつ、これはあまり言いたくないのですが(言っちゃうと身も蓋もなくなるから)、「教養」の問題もありそうです。日頃からいろいろなことに知的好奇心を持って、積極的に本や新聞や雑誌などを読もうとしているかどうか。訳すことは表面的には言語の変換ですけど、深層的には文化の違いを比較・検討・考量することですから。そこにはそれなりの知識や教養、さらには世界観みたいなもの(非情に雑駁な言語化しかできず申し訳ないのですが)が必要なのではないかと思うのです。

さらにもうひとつ、様々な留学生を観察していると、華人留学生、つまり中国語系の留学生は、それ以外の留学生(非漢字圏の留学生)に比べて日本語の音声によるアウトプットの上達がやや遅いようです(もちろん個人差はあります)。これはやはり漢字の存在が「言わなくても/聞かなくても分かる」を助長するからでしょうか。同じような傾向は、私たちが中国語圏に留学していたときにも言われたことがあります。日本人は漢字を見て意味を取ることに長けているぶん、リスニングとスピーキングが弱いと。

でもまあ、そういう文化背景なんだから仕方がないといえば仕方がない。そうした背景をも折り込んだうえでどう指導すればいいのかを考えていくしかないのでしょう。

Duolingoの中国語版で英語を学ぶ

通勤途中に語学学習アプリの “Duolingo” を使っています。連続記録は今日でちょうど1700日になりました。英語はすでに「スキルツリー」を完成させてしまったので、ときどき「スキルの復元」をする以外はもっぱらフィンランド語の “Duolingo” に取り組んでいます。

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しかし、私の英語はまだまだ拙く、特にアウトプットが足りないので「どんどん話すための瞬間英作文トレーニング」に取り組んで見ることにしました。ただこのアプリはひたすら自分一人で練習するだけなので、続くかどうか……まあ習慣化できるまで頑張ってみるつもりです。

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“Duolingo” はこういうところが上手くできています。毎日のノルマを自分に課すことができますし、リーグで世界中の学習者とポイントを競いながら学べますし(競うと言っても、ギスギスした雰囲気は全くありません)。最近は自分の発音をお手本と比べることができる機能も加わりました。

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……と、ここで気づいてしまいました。これまで “Duolingo” の英語を日本語版で学んできたわけですが、英語を中国語版で学ぶこともできるのでした。こちらでもう一度「スキルツリー」を完成させればよいではないですか。“Duolingo” のフィンランド語だって英語版を使っているのです(日本語版は未リリース)。中国語も使うから一石二鳥だし、画面で見る限り英語のカリキュラムは日本語版とは異なっているようですし。そうだ、そうしよう。

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追記

実際にやってみると、中国語で英語を学ぶ“Duolingo” は日本語で学ぶバージョンよりも基礎的なところに重点を置いているようです。これは……私などが言うのもおこがましいけれど、ちょっと歯ごたえがありません。“Duolingo”に中級編とか上級編などのバリエーションが加わればいいのにね。今後の開発に期待しましょう。

電子ペーパーで絵を飾りたい

スウェーデンの画家に Simon Stålenhag(シモン・ストーレンハーグ)という方がいて、私はその荒涼としたディストピア感あふれる画風になぜか惹かれています。心躍るような要素はほとんど見当たらないにも関わらず、わずかに漂うユーモア。そして、よくよく目を近づけてみればかなりラフな筆使いなのに、そこになぜか人間の息遣いのようなものを感じるのです。

とくに薄暗い夕刻の風景で、遠くに見えるアパート群の窓に灯るあかりや自動車のテールランプなどに、私はその息遣いのようなものをリアルに感じます。全体としては殺風景で、なんともいえない不穏な気持ちになりながらも、同時に温もりを感じるのが不思議なのです。

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http://www.simonstalenhag.se/

以前このブログで「寅さんが夜汽車に揺られながら『あそこにも電灯がともっている。そこにも人の暮らしがあるんだなあ……』とつぶやくような感じ」と書きましたが、もっと正確なセリフを公式サイトで見つけました。第11作『男はつらいよ 寅次郎忘れな草』のセリフだったようです。

夜汽車の中、少しばかりの客はみんな寝てしまって、なぜか俺一人だけがいつまで立っても眠れねぇ/真っ暗な窓ガラスにホッペタくっつけてじっと外を見ているとね、遠くに灯りがポツンポツン……/あー、あんな所にも人が暮らしているかあ……/記者の汽笛がポーッ……ピーッ/そんな時、そんな時よ、ただ訳もなく悲しくなって涙がポロポロこぼれてきちゃうのよ。
https://www.cinemaclassics.jp/tora-san/movie/11/

この Simon Stålenhag 氏の作品、ウェブサイトで見られるほか作品集も出版されていて私も持っています。ところが氏のウェブサイトのリンクから、作品の複製画が売られているサイトを見つけました。作品によっては額装したものもあります。強力な物欲に襲われました。
www.redbubble.com
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https://www.redbubble.com/i/framed-print/Fj%C3%A4rrhandske-by-simonstalenhag/10647548.L0LHG

……しばらく深呼吸して物欲を鎮めました。氏の作品には好きなものが多すぎて、どれかひとつだけ選ぶというのも無理がありますし。しかしこうした作品の複製画だったら、印刷物じゃなくて電子ペーパーみたいなので再現できないかな。要するにKindleのE-インクみたいなのを大きくして、かつ高精細フルカラーで再現するのです。SF的な要素の強い Simon Stålenhag 氏の作品にぴったりだと思うんですけど。

調べてみたら、まだそういう大画面で高精細フルカラーの電子ペーパーは実用化されていないようです。現在のところはモノクロのポスターや掲示板どまりのよう。
www.crea2007.co.jp

でも近い将来、そういう技術も開発されますよね、きっと。スマホやデジカメで取った写真をディスプレイするデジタルフォトフレームはすでに普及していますし、結構大きなサイズのものもありますが、消費電力と、画面が発光しているのが難点です。「一点物」のオリジナルはもちろん価値がありますが、そうしたものには手が出ない私たちでも電子ペーパーを使って、ネット経由で気軽にアート作品を飾って楽しむ時代が来ればいいなと思います。E-inkだから時々絵を入れ替えたりもできますし。

追記

まだ一部のマニアが自作している段階で、フルカラーでもなく解像度も低いですが、電子ペーパーの額縁を楽しんでいる方はいらっしゃるようです。
raspida.com

フィンランド語 83 …日文芬訳の練習・その17

コロナ禍の推移について素人があれこれ言えることは少ないと思っています。それでも過去を振り返ってどこが問題だったのかを考えることはできます。東アジアの国々における感染抑制の政策と比較してみると、やはり日本の「敗因」はPCR検査数の抑制と「Go To」の強行にあると思わざるを得ません。

それで今週は以下のような作文を書きました。Twitterでもフィンランド語で同じようなことをつぶやいたら、フィンランドの人からリプライがつきました。

「欧州の国々に比べたら、日本は『Aクラス』ですよ!」と。そ、そうですか……。確かに都市の大規模なロックダウンを行わなければならないほど感染が拡大している欧州の一部から日本を見れば、十分抑制しているうちに入るのでしょうね。批判をすることは大切ですし、批判と悪口は異なることも弁えているつもりですが、私はあまりにも悲観的になりすぎているのかもしれません。

それなのに医療現場は逼迫ないしは崩壊寸前と言われています。これはどういうことなんでしょう。日本は諸外国と比べて民間病院の割合が極めて高いから、という報道もありますが。

toyokeizai.net

私は日々オンライン授業で外国人留学生と接しています。留学生のみなさんは私たちに面と向かっては言わないけれど、日本の政府がコロナの流行を抑えられなかったために、自分の留学生活がかなり「目減り」してしまったことに不満と落胆を抱えているようです。特に東アジアの学生がそうです。たしかに、日本は東アジアで最も悪い状態ですから。とても申し訳なく、残念に思います。


Minä tapaan kansainvälisiä opiskelijoita verkossa päivittäin. He eivät halua kertoa meille suoraan, mutta he ovat valittaneet ja masentaneet, että kouluelämäänsä Japanissa oli tylsempää, koska Japanin hallitus ei ole onnistunut hallitsemaan koronaepidemiaa. Varsinkin itä-aasialaiset opiskelijat tuntevat niin. Nyt Japanin epidemiatilanne on varmasti Itä-Aasian pahin. Olen todella surullinen ja pahoillani siitä.


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ハエを見かけなくなった

むかし「ハエ取りリボン」ってのがありました。若い方にそう言ったら「なにそれ?」と言われましたが、たしかにもう長い間お目にかかっていないような気がします。というか、都会ではハエ自体がほとんどいなくなりました。私は虫がやや苦手なので、正直あまり思い出したくもないのですが、昔はハエっていっぱい飛んでましたよね。日々の暮らしはハエとともにあったと言っても過言ではありませんでした。

「ハエ叩き」という、よく考えてみるとかなりシンプルにおぞましい道具は、たぶんどこのご家庭にも一本はあったはず。中国に留学していたときはテニスラケット状の道具で、ネットの部分が通電している金属線になっている必殺兵器を使っていました。本来は蚊を仕留めるための道具だと思いますけど、ハエにも使えました。「成功率」は高くなかったですけど……。

子供の頃、魚屋さんの店先ではリボンがくるくる回っていました。魚にたかろうとするハエを追い払う機械ですが、あれは何という名称だったのだろう……ということで、ネットで調べてみたら、そのまんまの「ハエよけ機」でした。台湾の夜市の屋台でも見かけたことがあるような気がします。たぶん今でも使ってらっしゃるところはあるでしょう。

「蝿帳(はいちょう)」というのもありました。ネットで検索すると、もともとは食べ物を一時的に置いておくための網戸つきの戸棚のことだそうですが、より一般に普及していたのは傘のように開いて使うやつです。子供の頃、あれを蝿帳とは呼んでいなかったなあ。食卓カバー? なんと言っていたのか思い出せませんが、とにかく特に名前もつなかいくらいごく普通の身近にある道具なのでした。

大学を卒業したあと就職せずに(できずに)路頭に迷い、九州の田舎で農業や低生産低消費の暮らし方を実践するフリースクールに住み込んでいたことがあります。当時は毎晩蚊帳(かや)を吊って寝ていましたが、これは蚊をよけるためというよりハエをよけるためなのでした。近くに牛舎があったからじゃないかと思いますが、けっこうな数のハエがいました。それでも暮らしてしまえば慣れてしまえた、というのが自分も若かったのだなと思います。今だったらたぶん音を上げていると思います。

当時、個人的に発行していたニュースレターにハエのことを書いた覚えがあって、書棚のファイルを探してみたら奇跡的に一枚だけ残っていました。よくまあちまちまと手書きで作っていたものだと思います(まだパソコンもDTPもほとんど普及していない時代です)。これも今だったら体力的にも視力的にも不可能だと思います。若さってスゴイ。

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現代でも蚊はけっこういますし、網戸なんてものも健在ですけど、ハエは、少なくとも都会ではかなり減りました。下水道や側溝などの整備、水洗トイレの普及など様々な要因があるんでしょう。ある動物種が急激に個体数を減らすことは生態系にとっては必ずしも良いことではないのかもしれません。でも私はかなり清潔かつ快適になった今の時代を言祝ぐものです。タバコの煙の減少(今でも煙害はなくなっていないけれど)もそうですけど、いい時代になった、生きてて良かったなあと思います。

ところで、ハエ取りリボンをネットで検索してみたら、Amazonなどの通販サイトでたくさん売られていました。昔のような大きなハエではなく、コバエ対策で買われている方が多いみたいですね。

俺の家の話

ドラマ好きの同僚から「面白いよ、まだ間に合うよ」とお勧めされて TVer で見た『俺の家の話』第一話。能楽「観山流」宗家一家のお話で、ところどころに能楽が出てきて確かに面白かったです。

www.tbs.co.jp

「観山流」というくらいだから観世流の「もじり」かしらと思ったら、果たしてWikipediaによると観世流の浅見慈一師が能楽指導をされているよし。ドラマの途中で能『羽衣』の謡が出てきましたが、あれも観世流の謡なんでしょうね。

それは天人の羽衣とて/たやすく人間にあたふべき物にあらず

観山家の茶の間でみなが一斉に『羽衣』の謡をうたう場面。介護ヘルパーの志田さくらが「急に呪いの儀式が始まったのかと……」とおののいていると、長女の長田舞が「羽衣よ。お能の演目。アンタそれでも日本人?」とたしなめるのですが、おお、これはいいなあと思いました。能楽を「お能」というのも「業界っぽい」ですし、羽衣くらい知ってて当然の一般常識でしょと手厳しいところもまた。

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能楽宗家の長男として生まれながら父親に反発してプロレスラーになったものの、全盛期を過ぎたところで父親が倒れたため実家に戻ることになった主人公の観山寿一。典型的な“浪子回頭(放蕩息子の回心)”の物語です。これは聖書にも出てくるくらいの古典的な説話形式ですけど、それが現代の介護や相続や、そして能楽の要素と絡んでどう展開していくのか、今後が楽しみです。

立場を変えてみてクライアントの気持ちが少しだけ分かった

通訳者として仕事に望むとき、よくクライアント(お客様)、あるいはクライアントのスピーカー(話し手)の姿勢にいろいろ難儀していました。通訳という作業は事前の予習が不可欠であるにも関わらず、その予習をなかなかさせてもらえないというのが難儀していたことの筆頭です。

「二つの外語を話せさえすれば、訳せる」と思っていらっしゃる方は存外多く、お買い物のアテンドや軽い雑談程度ならまだしも、専門的な内容が飛び交う会議では事前の予習が必須であるということがなかなか理解、ないしは想像されないのです。

社内通訳者であればその業務内容にある程度精通しているかもしれませんが、フリーランスの場合は毎回「門外漢」。専門家ばかりが集まる会合で専門的な内容が話されているのに、その場で一番の「門外漢」が一番前に出て、しかも二つの言語でその専門的な内容を話す……という一種の「無理筋感」をご理解いただけていないクライアントが、ままいらっしゃる。

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「いやいや、簡単なことしか喋らないから」「言ったとおりに訳してくれればいいから」「そんなに専門的な内容には立ち入らないから」とおっしゃっていたのに、ジャーゴン(業界用語)満載のトークをぶちかまされた日には殺意を覚えます。また事前にパワポなどの発表資料を提供してほしいと言っても「社外秘だから」と出してくれないとか、出していただけても当日までどんどん改変が入るとか、あまつさえ本番当日にいざ通訳を始めてみたらば、もらっていた手元の資料が全差し替えになっていたとか……。通訳者をめぐる喜悲劇のエピソードは業界内に溢れかえっています。

ところで。

実は今回、留学生の通訳実習で自分の仕事の経験を話すことになりました。しかもそれを英語と中国語に同時通訳してもらうという……。つまり立場が逆転して、クライアント側になったわけです。よーし、ここはひとつ「通訳者に理解のあるクライアント」になって、「まえびろ」に予習用の資料を提供し、少しでも通訳者が仕事をしやすいように配慮しようと思いました。

ところが。

スライド資料は早々と作成して通訳者役の留学生に配布したのですが、なにせ早々と作成したので、あとから色々とアイデアが湧いてきて、資料を追加したくなるのですね、これが。というか、実際に追加もしまして、その追加分もすぐ留学生諸君に配布しました。それでもまだ当日までには時間があるので、さらに改変をしたくてたまらない自分。

通訳者の立場だったときは「いつまでもスライドに手を入れてないで、はやく確定稿をよこしてよ!」とか「本番直前になって資料の差し替えなんて、かんべんしてよ!」などと不満をぶつけていたのですが、何のことはない、自分がクライアントの立場になったら、同じようなことをしているわけです。

しかも、留学生諸君から「このパートのスライドは専門用語がやけに多いですが、どんなことを話されるんですか」と質問が来たときには「ああ、まあそんなに難しいことは話さないから、安心して」と返してしまった私。かつて「簡単なことしか喋らないから」「言ったとおりに訳してくれればいいから」「そんなに専門的な内容には立ち入らないから」に殺意を覚えた自分が、です。

ううう……それでは自分のアイデンティティが崩壊しそうなので、あとから専門的な部分についてはグロッサリー(用語集)を作って提供したり、話す内容の概略を説明したりしています。

もちろん今でも、通訳者に十分な予習をしてもらうことが深いコミュニケーションに資するという考えに変わりはありませんし、通訳者にできるだけ混乱を与えないように前もって話す内容を確定し、それに従って確定稿の資料を渡すべきだと思います。自分の話す内容が違う言語でもより良く伝わるためには、それは不可欠の配慮であると。

しかし、これは人前で何かを話した経験のある方ならたぶん同意してくださると思うのですが、「これこれこういうことを話そう」と詳細に内容を詰めれば詰めるほど、往々にしてその話は活きなくなるんですよね。

大まかなガイドラインはあるべきですし、抑えるべきポイントは詰めることも必要ですが、その他はその場のなりゆきで話したほうが(と言って悪ければ、聴衆の反応を見ながらのインタラクションに身を委ねたほうが)、自分でも思いもよらなかったことを話せている。話しているうちに、自分でもはっきりと意識していなかった考えが突然形を伴って自分の口から出てくるようなことがあるのです。現場の空気感に、こちらが「話をさせられる」といいますか。

文章を書くときもそうです。最初にあれこれ考えることもある程度は必要ですが、書いているうちに自分でも思いもよらなかった考えが書けていることがある。「書き進める自分に書かされている」というか。

qianchong.hatenablog.com

まえびろに資料を提供してほしい、スライド資料も確定稿が早くほしいと思うのが通訳者としての自分の常でしたが、自分が通訳をお願いして話す立場になってみて、ほんの少しだけクライアント側の気持ちが分かったような気がしました。といって、当日にスライド資料全差し替えみたいな「非道」は、私はやりませんけれども。

「華人のLINEやチャットの返信は日本人より格段に速い」問題

華人(チャイニーズ)のメールやLINEやチャットの返信は日本人より格段に速い。留学生クラスで「自分の国と日本とで、違いを感じる風俗習慣は何ですか?」と聞いたら、日本人は返信が遅いという答えが返ってきたという問題。別の華人留学生クラスで聞いてみたところ「日本と違って、仕事中にLINEやチャットのためにスマホ操作するのをあまりはばからない文化だからではないか」という意見が出ました。おお、個人的にはそれ、大いにうなずけます。

qianchong.hatenablog.com

確かに日本では、会議中にスマホいじるのはちょっと……みたいな空気というか同調圧力がありますが、華人のみなさんはそれはそれ、これはこれとしてガンガン使い倒してるような気がします。それともうひとつ、年配のお偉いさんが、かなり重要な話であってもチャットで済ませちゃうことあり、という文化もあるような。広東省出身の留学生は、省長(日本の都道府県知事のようなもの)クラスでも意見のやり取りにWeChat使うのは別に不思議でもなんでもない、と言っていました。

日本の政治家やお役人はどうなんでしょう。そもそもスマホをあまり使ってらっしゃらない? やっぱり大事な話はメール、いや、やっぱり「会食」しながら、もしくは「クラブ(DJがいないほう)」でですか?

それはさておき、華人と仕事すると意思決定の速さが日本とかなり違うとよく言われるのも、その一端にはこういう違いがあるのかもしれません。これは先日同僚から聞いた話ですが、東京のとある自治体主催の在日外国人向け日本語教室について「今後は授業をオンラインに切り替えたいので、ついては相談のため来庁されたし」ってお申し越しがお役所の担当者からあったそうです。大事な話はやはりじかに会って……という習慣はなかなか変わらないのでしょうか。

それでも、コロナ禍で日本でもビジネスチャットツールが普及し始めています。私も在宅勤務中はGoogleのハングアウトで同僚と意思疎通しています。会議や授業でもZoomのチャットで資料を送ることが多い。オンライン環境は、まだまだハード面での遅れが目立っていて、画面の大きさから資料が一覧しにくいとか(私はプラス老眼で見にくい)、一覧できるようにプリントアウトして結局ペーパーレスになってないとか、学生さんなど家にパソコンもプリンタもなくスマホだけで授業を受けているとか、あちこちに改善の余地がまだまだあります。それでも今次のコロナ禍は、仕事や学習のやり方が大きく変わっていくきっかけを作りました。これからもどんどん変わっていくでしょう。

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https://www.irasutoya.com/2014/10/sns.html

ところで、華人留学生のみなさんに「チャットやLINEなどより電話で話したほうがはやくないですか」と聞いたら、「電話はかけて、相手が出て、その時間を共有しているのが『めんどくさい』」んだそうです。なるほど、要はこま切れの時間の中で、自分の発信を自分本位にコントロールできるってことですよね。でもそれだけに、返信も可及的速やかに行われてほしいと思う。実に華人らしいリアリスティックな発想だと思います。日本の私たちはまだそこまで行っていないから、華人のみなさんから「返信が遅い」と言われるのでしょう。でも私たちも、ことにお若い人たちがそこに追いつくのはすぐなのかもしれません。

すでにして現地について行けてない

中国語に“入鄉隨俗”という言葉がありまして、日本語では「郷に入っては郷に従え」などと訳されます。華人留学生の通訳クラスでこの言葉が出てきたので、「みなさんが日本で、自分の国とずいぶん違うと思った生活習慣は何ですか?」と聞いてみました。会社の面接などでこういう質問をすると、たいがいは日本人に「ヨイショ」して「日本人は物事をきっちり進める」とか「街がきれいに清掃されている」と言ったような答えが返ってきます。

ところが今回は「メールやLINEの返信が遅いこと」という答えが返ってきたので意外に思いました。それもかなり多くの人が「そう、そう」と同意を与えていたのです。へええ、日本でもLINEの既読無視などを気にしてすぐ返事する人が多いような気がしますが、現代の華人社会は、なかんずくメールやLINEやチャットなどを多用する若い世代の方々は、それ以上に早いレスポンスを求めているのでしょうか。

Twitterでそのようなことをつぶやいたら、何人かの方からも「そう、そう」というリプライを頂きました。私など、メールの返事はどちらかと言えば早いほうだと思いますが、LINEやチャットは苦手であまり使っていませんし、返事も、それが自分に向けての明らかな質問や指示の場合以外はしないことの方が多いです。グループチャットにおいては特に。でも今回華人留学生のみなさんの意外な意見を聞いて、ああ、こうやってだんだん世間と縁遠い老人になっていくのかしら、などと軽い危機感を覚えました。遅まきながらキャッチアップしていかねばなりますまい。

しかし。

すでにして私は中国語圏の現況について行けていないというか、置いてかれているのでした。ここ数年は毎年行っていた台湾にもコロナ禍でご無沙汰ですし、中国大陸や香港に至ってはその前からもう何年も足を運んでいません。以前は、中国に関わる仕事をしている以上、現地の今の空気を肌で知っとかなきゃプロ失格だ……なんて「エラソー」な口を叩いていたのに、この体たらく。それでなくても変化や発展の速度著しい中国をもう何年も体感していないのですから、いま現在のかの国についてはまったくもって語る資格がありません。

もちろんネットを通していろいろな情報にだけは接していますが、それは「業界外」の方々だって同じです。唯一私にとってありがたいのは、上述したように日々華人留学生のみなさんと接していることですが、その華人留学生のみなさんにしたって、故郷を離れ、日本に留学してもう何年も経っており、むしろマインドは「日本人化」が顕著な方も多いのです。

大昔の話ですが、かつて中国に長期留学して日本に帰ってきたら(その間一度も帰国しませんでした)、友人たちが話している「だんご三兄弟」の意味が分からず浦島太郎状態でした。当時大ヒットしていたんですけど、中国では日本のテレビを一切見ていなかったので……。ま、それはさておき、早くコロナ禍が収まって、また現地の空気を吸いに出かけたいです。それまでは現地に住んでいる知人や友人の話によくよく耳を傾けることにいたしましょう。やはりメールやチャットには即反応しなければいけないかなあ。

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https://www.irasutoya.com/2017/04/blog-post_95.html

フィンランド語 82 …日文芬訳の練習・その16

「環境に優しいトラムが復活すればいいなと思います」という部分を最初 “toivon että ympäristöystävällisten raitiovaunujen elvyttämisen” と “että(英語の関係代名詞的な “that” にあたります)” 以下を名詞句で書いたのですが、添削では「動詞がないですね」と直されました。書いているときも「ひょっとして動詞がないかな」と一瞬思ったのですが、やはりこれだと文が成立しないんですね。

日本語的な発想で作文をすると、往々にして動詞を忘れます。英語もそうですがフィンランド語も基本的に動詞は必須で、読解のときもまずは動詞を手始めに文を腑分けしていくというのに、これはうっかりしていました。

家の近くをトラムが走っており、私は毎日このトラムで通勤しています。小さくてスピードもゆっくりですが、とてものどかな雰囲気です。多くのヨーロッパの街ではトラムが活躍しています。私の子供時代には日本にもトラムがたくさんありましたが、経済成長とともにほとんどなくなってしまいました。低成長の時代、環境に優しいトラムが復活すればいいなと思います。


Raitiovaunut kulkevat kotini lähellä. Kun minä menen töihin, nousen sille joka päivä. Se on pieni ja hidas, mutta sen ilmapiiri on kiireetön. Monissa Euroopan kaupungeissa on edelleenkin raitiovaunuja. Lapsuudessani Japanissa oli myös paljon raitiovaunuja, mutta kun talouskasvu oli nopeaa, ne lopetettiin melkein kaikkialla. Nyt kasvu on ollut vähäistä, toivon että ympäristöystävälliset raitiovaunut elpyvät.


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きらめく共和国

むせかえるほど濃密で圧倒的な存在感を誇る緑のジャングルに囲まれ、茶色い泥水が滔々と流れる巨大な川に面した架空の街、サンクリストバル。その街に出没する子供たちの集団は、理解不能の言語を話し、スーパーを襲撃し、街の人々を混乱に陥れた上、突然全員が死亡するーー。

極めて不可思議な展開の物語とラテンアメリカと思しき舞台背景に、読み始めは「マジックリアリズム」という安易な括りを与えてしまいそうになりましたが、これは極めて現実的なシチュエーションで展開するお話。魔術的なのだけれどもよくよく読んでみると魔術的なところなどなく、これは現在の私たちのまわりにも極めて似通った事態があるよなあと思わせられます。

その意味では怖い物語でした。不可思議な「事件」の顛末も怖いけれども、その様々なエピソードがいまの私たちの現状をも撃ち抜いているという点でも怖い。それは大人と子供の間にある暴力であったり、愚昧な政治家や役人のふるまいであったり、大衆迎合的なジャーナリズムのありようであったり、その大衆自身のしたたかさや愚かさであったり……。我々の風土とは全く異なるどこか遠い場所の話でありながら、我々のすぐそばにある不安や恐怖や問題を掴みだしているのです。

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きらめく共和国

謎解きのスリリングさ、「事件」の22年後から主人公が回顧する形をとった物語の展開方法、様々な文学や音楽や学問の引用、どれをとっても「うまいなあ」と思わせる豊かな文学体験をもたらしてくれます。個人的には理解不能な言語の部分にも興味を惹かれました。終盤になって明らかになる「きらめく共和国」という題名の意味もまた……。

なにを書いてもネタバレになりそうで怖いので、これ以上は書きません。それほど長大な物語ではないので、ガルシア・マルケス莫言の作品に立ち向かうときのような「覚悟」はなくても大丈夫。おすすめです。

能楽のファンを増やすために

能楽喜多流能楽師の金子敬一郎師が、能楽とプロレスの共通点についてツイートされていました。

このツイートに続くスレッドを読むと、能楽の面白さと独特さがお分かりいただけるかと思います。まさに能楽の魅力のひとつはここにあるんですよね。

初めて能楽を観たときに、それが一回限りの公演であること、公演の前にリハーサルやゲネプロのようなものを殆ど行わないことに驚きました。金子氏のスレッドにもありますが、能楽師それぞれが日頃から稽古を積んでおいて、いつでも最上のパフォーマンスが出せるようになっているのだと。ジャズのセッションみたいな感じですね。

公演前には発声練習とか柔軟体操みたいなものもほとんど行わないのだそうです。なるほど、これは武道のありようにも似ているかもしれません。現代の武道はもう少し入念に準備をして試合に望むと思いますが、かつての武道家あるいは武士のような人々は、ふだんから稽古を積んでおいて、いざというときにはすぐに「臨戦態勢」に入ることができたのではないかと想像します。

能楽は観るときにそういうセッションを楽しめるのも魅力ですが、じぶんが稽古や発表をするときにも同じようなことを楽しめます。もちろん素人の我々はプロの先生方の謡や囃子にいつも押し切られてばかりで、勝負はおろか駆け引きにさえなっていませんが、それでもごくたまに、金子氏のおっしゃる「公約数」を感じることがあります。例えばだんだんに「掛かって」(テンポが早くなって)いくところとか、拍子を踏むときのタイミングとか……。それが面白いのです。

しかし現在はコロナ禍の影響で、能楽の公演にしてもお稽古にしても、かなり困難な状況にあります。畢竟人が集まり、声を出すパフォーミングアートですから。これも先日、能楽狂言方大蔵流の大藏教義師が、大学生の能楽サークル存続の危機についてツイートされていましたが、確かに授業のための登校すらほとんど止まっている状態では、こうした伝統芸能系のサークルも新しい人が入ってこなくなるでしょうね。

といって、Zoomなどのリモートでお稽古をすればなんとかなるというものでもありません。自分も自宅で稽古をしていて感じますが、やはりある程度の広さのある空間で稽古しないとかなりのリアリティが失われてしまいます。また私たちのような趣味でお稽古をしている人は、たいがい広い空間に師匠と自分の二人だけということが多いので「密」からはかなり解放されていますが、大学のサークルはそうも行かないですよね。

しかし、能楽はプロの能楽師だけでは成立しません。江戸から明治期に能楽が衰退しかかったときにも、その復興を支えたのは趣味として謡や舞を楽しんでいた広範な人々の存在だったと言われています。ある程度の規模の能楽ファンが再生産されていかなければ、この伝統芸能を未来に伝えていくことは難しくなるでしょう。能楽に魅力を感じて、趣味として観たり稽古したりする人を(それもお若い方々を)増やすために、どんなことができるでしょうか(ということで、とりあえずこのブログを書きました)。

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https://www.irasutoya.com/2018/10/blog-post_83.html

無邪気な冷笑

昨日はバイデン米大統領の就任式ライブをちょこっとだけ見て、そのあとレベッカ・ソルニット氏の『それを、真の名で呼ぶならば』をパラパラと読み返していました。以前も書きましたが、この本に収められた「無邪気な冷笑家たち」が改めて心にしみます。

専門家や評論家のみならず、多くの市井の人々がさまざまな事柄について「非常に強い確信を持って、過去の失敗、現在の不可能性、そして未来の必然性を宣告する」、そうしたいわば上から目線の「エラソー」な態度をソルニット氏は「無邪気な冷笑」と呼び、「その冷笑は、人が可能性を信じる感覚や、もしかすると責任感までも萎えさせてしまう」と言います。

この冷笑はSNSでもよく見かける態度です。Twitterのタイムラインなど、複雑な問題をじっくり考えることも想像力を振り絞ることもせず、ひとり「してやったり」、「俺はがっつり言ってやったぜ」的な自己満足にひたるこうした「無邪気な冷笑」があまりにも多く流れてくるので、最近はかなり距離を置くようになりました。

私が「無邪気な冷笑」を懸念するのは、それが過去と未来を平坦にしてしまうからであり、社会活動への参加や、公の場で対話する意欲、そして、白と黒との間にある灰色の識別、曖昧さと両面性、不確実さ、未知、ことをなす好機についての知的な会話をする意欲すら減少させてしまうからだ。そのかわりに、人は会話を戦争のように操作するようになり、その時に多くの人が手を伸ばすのが、妥協の余地のない確信という重砲だ。(67ページ)

こうした「重砲」をいとも簡単に放ててしまう原因のひとつは、おそらくその人たちが匿名で発信しているからでしょう。実名が基本のSNSもありますが、Twitterをはじめ多くのSNSでは、実名(あるいはそれとおぼしきお名前)で発信している方はそう多くはありません。私がその発言に惹かれてフォローしている方の中にも、ハンドルネームの方はけっこういらっしゃいます。ですからもちろん匿名がすべてダメだなどと言う気はないのですが、ある種の人々にとって匿名が「無邪気な冷笑」に直結していることは容易に見て取れます。

匿名なら何でも言えるのです。あるいは匿名ならSNSという一種の社会空間に対して気安く「エラソー」に放言できる。少なくとも私たちは、そういう自分の箍を緩めてしまうような匿名の作用についてもう少し慎重に考えるべきです。匿名だからこそ、あれこれの柵(しがらみ)を気にすることなく「直言」できるという利点もあるでしょう。人によっては自分の所属する場所に留まりつつも、その場所に関わる批判的な意見を述べるためにあえて匿名にしている方もいると思います。

でも、SNSも人と人とが出会う一つの社会空間である以上、一方的に名前を隠して何事かを述べるのは、ちょっと言葉がきつくて申し訳ないけれど、やはりいささか卑怯ではないかと思うのです。少なくとも何かを伝え合う・話し合うスタンスではないんじゃないかと。私もかつてはTwitterを匿名で利用していましたが、それは卑怯だと思って実名に変えました。そして実社会で人に面と向かって言わないようなことはSNSでも言わない、リアルとネットのバーチャルに差をつけない、というのを自分のポリシーにしました。実名にしていれば、他人にとってどうでも良いような「ノイズ」をつぶやくことも少なくなります。

SNSは従来のインターフェースを飛躍的に拡大してくれる空間で、それまでだったら一生お目にかかることもなかったであろう方々の発言を聞いたり、こちらから何かを言ったりすることができる素晴らしいツールです。けれど、ちょっとノイズが多すぎて、その素晴らしさがあまり活かせていないように思うのです。その原因の一端は、やはり匿名と、その匿名が容易に惹起してしまう「無邪気な冷笑」にあると思います。ノイズをも含めて自由な言語空間だと言われてしまえば返す言葉はないのですが。

あるいは……匿名であっても、せめてプロフィールなどからご本人の素性が分かるようにして発言するようにすれば、少しはそうしたノイズも減るのかもしれません。そうやって有益な情報を社会に還元しようされている方は数多くいらっしゃいます。うん、この辺りが妥協点かしらん。

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それを、真の名で呼ぶならば

就任式を祝うことができる人々

早朝、出がけにメールをチェックするためにパソコンを開けていたら、バイデン氏の米大統領就任式、そのライブ映像が目に留まりました。ちょうど Andra Day 氏が “Rise Up” という曲を歌っているところで、BLM(Black Lives Matter)が大書されたあのホワイトハウス北側にあるという「16番通り」の上で、ローラースケートをする少女の映像が映っていました。その歌声とともに “We gonna walk it out, and move mountains” という歌詞に惹きつけられ、しばし感じ入ってしまいました。

政治制度も文化背景も異なるよその国のリーダーの就任式に感じ入っている場合じゃないのです。それにかの国だって格差も分断もその他の多くの問題も抱えている。決して理想の国ではありません。コロナ禍の影響をいちばん受け、大変な状況に置かれている国でもあります。「隣の芝生は……」の諺だってあります。それでも、新しいリーダーの登場をこんな形で祝うことができるのって……自分たちの国の現状と比べたときに、そのあまりの差に考え込んでしまったのです。

電車に遅れるのでパソコンを閉じて家を出ましたが、それからもずっと考えていました。こういう形で多くの芸術家が参加して自分の国の新しいリーダーが就任したことを祝うイベントが開かれるなんて、かつてこの国でそんな雰囲気を味わったことがあるだろうかと。そしてリーダーの就任演説がここまで注目され、賛否はあるにせよ話題になることがあっただろうかと。

かつて仕事で住んでいた台湾も大統領(総統)を公選で選んでおり、やはり就任式の際には同じような雰囲気に包まれ、コンサートなども行われます。当時もそんな一種の「お祭り」をまぶしい思いで見ていたことを思い出しました。そして台湾にもやはり分断や格差もありますし、課題ももちろんあるのですが、自分たちで選んだリーダーだという自負からか、大いに期待もするし批判もがっつりとする。首相の直接公選制を持たない私たちと違って、そこにある種の自律と自覚と誇りのようなものを感じます。

それに比べ私たちは……今のような政府や老醜を曝すリーダーたちしか選べていないその自律と自覚のなさ、民度の低さを改めて感じました。それでも “We gonna walk it out, and move mountains” ーー歩き出して、山を動かしていかなければいけないですね。


WATCH: Andra Day performs 'Rise Up' in Biden's virtual inaugural parade

もうひとつ、お昼休みにネットでニュースを見ていたら、大統領就任式で詩を朗読した Amanda Gorman 氏も話題になっていました。音楽アーティストのパフォーマンスだけでなく、詩の朗読まで行われるところにも彼我のあまりの違いを感じますが、それはさておきこの朗読がまたよかったです。私のつたない英語力では理解が追いつかないところもありましたが、あとでもう一度見直しました。

“There is always light, if only we’re brave enough to see it. If only we’re brave enough to be it.” ーー常に希望はある。それを見つめる勇気さえ、それを行う勇気さえあれば。私たちもあきらめずに声を上げていかなければなりませんね。

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増田みず子氏の『小説』

読み始めたら止まらなくなり、一気に読み終えました。読みながら何度も驚き、ちょっと怖くなりさえしました。まるで自分のことが書かれているようだったのです。著者の増田みず子氏は私よりも一まわりから二まわりも年上の女性で、これまでの経歴も環境も違いすぎるほど違うはず。なのに、この十年あまりの間に氏がぽつりぽつりと(本当にぽつりぽつりで、巻末の初出一覧を見ると、ほぼ一年に一作品しか発表されていません)書き継がれてきた短編の連なりが、自分のここ数年ほどの暮らしと(ほとんど気味が悪いくらいに)符合しているのです。

いや、ここまで符合するということは、これは逆に不思議でもなんでもないのかもしれません。つまり私のような五十歳代に突入し、還暦ももう間近という中高年にとって、あるいはこれは誰もがたどる心と身体の変化の軌跡なのかもしれないと。個々人によって変奏のされ方に多少のバリエーションはあっても、ここに綴られているお話は我々のこの年代に差し掛かった誰もが感じることなのかもしれません。

最初は三人称で、ほどなく一人称に移り、エッセイとも私小説とも、はたまた例えは悪いですが「職務経歴書」ともつかない文章が続いています。ここまであけすけに言っていいのだろうかと、ときに軽い嫌悪感すら抱きそうな中高年女性のひとり語り。なのに本の帯にあるようにそれが「心に沁み」て、「小説ってこんなものだった」と思わせてくれるのです。こんな小説ーー「ここに書かれているのは私だ!」と思えるようなーーは、久しぶりです。

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小説