インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

無邪気な冷笑

昨日はバイデン米大統領の就任式ライブをちょこっとだけ見て、そのあとレベッカ・ソルニット氏の『それを、真の名で呼ぶならば』をパラパラと読み返していました。以前も書きましたが、この本に収められた「無邪気な冷笑家たち」が改めて心にしみます。

専門家や評論家のみならず、多くの市井の人々がさまざまな事柄について「非常に強い確信を持って、過去の失敗、現在の不可能性、そして未来の必然性を宣告する」、そうしたいわば上から目線の「エラソー」な態度をソルニット氏は「無邪気な冷笑」と呼び、「その冷笑は、人が可能性を信じる感覚や、もしかすると責任感までも萎えさせてしまう」と言います。

この冷笑はSNSでもよく見かける態度です。Twitterのタイムラインなど、複雑な問題をじっくり考えることも想像力を振り絞ることもせず、ひとり「してやったり」、「俺はがっつり言ってやったぜ」的な自己満足にひたるこうした「無邪気な冷笑」があまりにも多く流れてくるので、最近はかなり距離を置くようになりました。

私が「無邪気な冷笑」を懸念するのは、それが過去と未来を平坦にしてしまうからであり、社会活動への参加や、公の場で対話する意欲、そして、白と黒との間にある灰色の識別、曖昧さと両面性、不確実さ、未知、ことをなす好機についての知的な会話をする意欲すら減少させてしまうからだ。そのかわりに、人は会話を戦争のように操作するようになり、その時に多くの人が手を伸ばすのが、妥協の余地のない確信という重砲だ。(67ページ)

こうした「重砲」をいとも簡単に放ててしまう原因のひとつは、おそらくその人たちが匿名で発信しているからでしょう。実名が基本のSNSもありますが、Twitterをはじめ多くのSNSでは、実名(あるいはそれとおぼしきお名前)で発信している方はそう多くはありません。私がその発言に惹かれてフォローしている方の中にも、ハンドルネームの方はけっこういらっしゃいます。ですからもちろん匿名がすべてダメだなどと言う気はないのですが、ある種の人々にとって匿名が「無邪気な冷笑」に直結していることは容易に見て取れます。

匿名なら何でも言えるのです。あるいは匿名ならSNSという一種の社会空間に対して気安く「エラソー」に放言できる。少なくとも私たちは、そういう自分の箍を緩めてしまうような匿名の作用についてもう少し慎重に考えるべきです。匿名だからこそ、あれこれの柵(しがらみ)を気にすることなく「直言」できるという利点もあるでしょう。人によっては自分の所属する場所に留まりつつも、その場所に関わる批判的な意見を述べるためにあえて匿名にしている方もいると思います。

でも、SNSも人と人とが出会う一つの社会空間である以上、一方的に名前を隠して何事かを述べるのは、ちょっと言葉がきつくて申し訳ないけれど、やはりいささか卑怯ではないかと思うのです。少なくとも何かを伝え合う・話し合うスタンスではないんじゃないかと。私もかつてはTwitterを匿名で利用していましたが、それは卑怯だと思って実名に変えました。そして実社会で人に面と向かって言わないようなことはSNSでも言わない、リアルとネットのバーチャルに差をつけない、というのを自分のポリシーにしました。実名にしていれば、他人にとってどうでも良いような「ノイズ」をつぶやくことも少なくなります。

SNSは従来のインターフェースを飛躍的に拡大してくれる空間で、それまでだったら一生お目にかかることもなかったであろう方々の発言を聞いたり、こちらから何かを言ったりすることができる素晴らしいツールです。けれど、ちょっとノイズが多すぎて、その素晴らしさがあまり活かせていないように思うのです。その原因の一端は、やはり匿名と、その匿名が容易に惹起してしまう「無邪気な冷笑」にあると思います。ノイズをも含めて自由な言語空間だと言われてしまえば返す言葉はないのですが。

あるいは……匿名であっても、せめてプロフィールなどからご本人の素性が分かるようにして発言するようにすれば、少しはそうしたノイズも減るのかもしれません。そうやって有益な情報を社会に還元しようされている方は数多くいらっしゃいます。うん、この辺りが妥協点かしらん。

f:id:QianChong:20200318091633j:plain:w200
それを、真の名で呼ぶならば