インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

話すことと訳すこと

華人留学生の通訳クラスで、中国語→日本語の訳出があまりにもたどたどしい方が多いので、しばらく「1分間スピーチ」を課題にしていました。学生は日本語をもう何年も学び続けている方ばかりですけれど、やはりアウトプットの機会、それも日常のおしゃべりレベルではなく人前できちんと話す「パブリックスピーキング」の機会が少なすぎるのではないかと思って。

毎週様々なテーマを予告し、一人一人前に立って日本語で「1分間スピーチ」をしてもらい、聞き手はそれをメモしながら聞いて、あとから日本語で再現してもらうというという練習をしばらくやってみました。ところが意外なことに、全員がそこそこ内容もしっかりしたスピーチを、かなり流暢に行うことができるのです。みなさんとても上手なスピーチでした。

なるほど。つまりみなさんは、事前にある程度の準備をしておけば日本語のアウトプットはかなり流暢にできるんですね。また他人の話していることをそのまま同じ日本語で再現することもけっこうできる。なのに普段の通訳訓練ではあんなにもたどたどしい……というのは、どういうことでしょうか。

これはつまり、日本語で話すだけ、あるいは中国語で話すだけならそれほど苦もなくできるけれども、「訳す」ということ、つまり中国語を聞いて即座に日本語を話す(あるいはその逆)にまだ長けていないということでしょうか。中国語に引きずられて、適切な日本語が出ない(あるいはその逆)。もちろんそこが通訳や翻訳ではいちばん難しいところではあるんですけど。やはり二つの言語をスイッチしながら話すというのは、それも「おしゃべりレベル」ではなくそこそこの複雑さや専門性がある内容を話すというのはかなり難しい技術なのだなと改めて思いました。

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https://www.irasutoya.com/2018/10/blog-post_563.html

それともうひとつ、これはあまり言いたくないのですが(言っちゃうと身も蓋もなくなるから)、「教養」の問題もありそうです。日頃からいろいろなことに知的好奇心を持って、積極的に本や新聞や雑誌などを読もうとしているかどうか。訳すことは表面的には言語の変換ですけど、深層的には文化の違いを比較・検討・考量することですから。そこにはそれなりの知識や教養、さらには世界観みたいなもの(非情に雑駁な言語化しかできず申し訳ないのですが)が必要なのではないかと思うのです。

さらにもうひとつ、様々な留学生を観察していると、華人留学生、つまり中国語系の留学生は、それ以外の留学生(非漢字圏の留学生)に比べて日本語の音声によるアウトプットの上達がやや遅いようです(もちろん個人差はあります)。これはやはり漢字の存在が「言わなくても/聞かなくても分かる」を助長するからでしょうか。同じような傾向は、私たちが中国語圏に留学していたときにも言われたことがあります。日本人は漢字を見て意味を取ることに長けているぶん、リスニングとスピーキングが弱いと。

でもまあ、そういう文化背景なんだから仕方がないといえば仕方がない。そうした背景をも折り込んだうえでどう指導すればいいのかを考えていくしかないのでしょう。