インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

哲学しててもいいですか?

三谷尚澄氏の『哲学しててもいいですか?』を読みました。副題に「文系学部不要論へのささやかな反論」とあるように、注意深く、かつ控えめな筆致で、でも大きな危機感を持って書かれた本です。最終的には主題通り、大学の文系学部、なかでも哲学教育の大切さに筆者の主張は収斂していくのですが、より大きなテーマとしては教養教育の大切さが通奏低音となって流れているように思いました。

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哲学しててもいいですか?: 文系学部不要論へのささやかな反論

冒頭の、大学における研究者の現状と、学生さんたち(あるいは若い方々)の学びの現状に対する分析は、私の周囲で見聞する話とあまりにも似通っています。もうかなり前から色々な方が「これで本当に大丈夫なのか」と声を上げてきたことではあるのですが、ついにこれが日本全体のふつうの光景になったのだなあと、軽い絶望感を伴いながら読みました。

そしてまた、本書で紹介されている日本の学生に見られる「悟り」のメンタリティは、私が日々向き合っている外国人留学生ーー特に経済的に裕福になって、かつての「国の未来を背負って」的な動機ではない、いわば「ご遊学」的な留学生ーーにもある程度共通するものだと思いました。今や外国人留学生の多くが、趣味や服装などの外観だけでなく、内側の考え方・世界観まで似てきているのだなと。それでもまだ強烈な個性を発揮している人の割合は日本人よりは多くて、私はそういう留学生に会うと、変な表現ですがどこか「ほっ」とするのです。

この間多くの「教養」に関する本を読んできました。そこに共通する教養の本質とは、複雑かつ混迷を極める世界の中で、自分ひとりの小さな価値観に囚われることなく、さまざまな「自分がまだ知らないもの」や「自分とは異なるもの」にアプローチし、自らの頭で考える「人としての生き方」の涵養であるように思えます。この本ではそのアプローチ方法のひとつである哲学の「効き目」について、筆者の三谷氏がこう語っています。

この問いに対するわたし自身の考えは、哲学の学びを通じて、人は「外の思考に対して開かれている」という「態度」や「習慣」を身につけることができる、というものである。(中略)あるいは、「異質なもの」や「自分とは違った考え方や意見」に対する「感受性」や「耐性」が育まれるのだ。そんな表現を用いてみてもよいだろう。(151ページ)

三谷氏はこうした態度や習慣、あるいは感受性や耐性を兼ね備えている状態を「市民的器量」と呼んでいます。なるほど、そうした「器量」をもつ人間を世の中に送り出していくことこそ大学の、それも文系学部の使命ではないのかと。

これは『教養の書』の戸田山和久氏の言う「自分をより大きな価値の尺度に照らして相対化できること」、あるいは『これが「教養」だ』の清水真木氏が言う「意見の分かれる問をあえて問い、可能な限り合理的な答をその都度丹念に探し出す能力」、さらには『教養の力』の斎藤兆史氏が言う「正義を見極めるためのさまざまな情報を有し」、「さまざまな視点から状況を分析して自分なりの行動原理を導くバランス感覚を備えている」というのと同じですよね。

ただこの「市民的器量」の涵養は、ひとり大学にのみ求められるものではないと私は思います。多くの「教養」を説く本では、学問や研究をする大学と、技術を身につける専門学校を厳しく区分けして語られているのですが(この本にもそういう記述があります)、専門学校にも純粋に技術を身につける(手に職をつける)だけではない、大学の教養教育や哲学と同じような側面が求められるのではないかと。

もちろん原書を読んだり論文を書いたりするような「それ」ではないけれども、「市民的器量」を備えた、あるいはこの世の中を支える成熟した大人としての市民を育てるという意味では、専門学校を経て社会人になっていく学生だって同じだと思うのです。職業訓練としての専門学校にも、もっと言えば語学学校やカルチャースクールでさえも、三谷氏のおっしゃる哲学という知的な営み、教養教育・リベラルアーツの要素は本質的に必要ではないかと思いました。

料理は一秒ごとにまずくなる

年に1〜2度ほどのお楽しみ、よしながふみ氏の『きのう何食べた?』最新第17巻が出ていたので、買ってまいりました。今回も登場人物たちがそれぞれの人生でリアルタイムに歳を重ねていて(それがこの作品の魅力のひとつ)、もちろん出てくる料理も「これやってみよう」というのが多くて楽しんで読みました。いろいろな料理を作る手順が本当にリアルで、これはよしながふみ氏自身が料理好きで実際にご自分でも作りながらマンガに落とし込んでおられるのだと思います。

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きのう何食べた?(17) (モーニングコミックス)

なかでも私が一番リアルだなと思うのは、主人公のシロさんがひとつの献立に入っているいくつかの料理を同時並行で作り進めていくところです。例えば今回の第17巻で一番ドラマチックな展開だった第137話では、シロさんは「チキンピカタ」と「キャベツと絹さやのアンチョビ炒め」と「にんじんバターライス」と「せりのスープ」を作っています。いい献立〜。

で、この献立でシロさんはまず「にんじんバターライス」を炊飯器に仕込んで炊飯ボタンを押し、それから「チキンピカタ」の仕込み(下味つけ)にかかり、「せりのスープ」を九割方作っておいて後で沸かし直せるようにしておいて、「キャベツと絹さやのアンチョビ炒め」を一気に作って大皿に盛り付けるところまで持っていって、さらに「チキンピカタ」を焼きはじめて、焼いている間にピカタに合わせる「オーロラソース」を作っています。これ、ふだん炊事をしている方にはおなじみというか当然の「同時進行」なんですけど、こういうところを再現して、しかもごちゃごちゃした説明にならない(だってこのマンガは、実際に作ってみる人のためのレシピ本にもなっているのですから)のがすごいと思うのです。

思うに、日々の炊事ってこの「同時進行」がひとつの醍醐味なんですよね。スーパーなどで見つけた素材と冷蔵庫内のありもので大体の献立を頭の中で作ったら、それを煮ているあいだにこれを切り、その合間にあれを仕込む、という感じでいくつかの料理を同時進行させて行き、それぞれの出来上がりがなるべく最後で一緒になるように持っていくのが楽しいの。もちろん作り置きしているものもあれば、出来上がったあと保温状態にしておけるものもありますけど、料理づくりの最後に献立が一斉に出来上がってくるその時間帯が一番好きです。

シロさんは上記の献立で、「キャベツと絹さやのアンチョビ炒め」を作って大皿に盛ってしまってから「チキンピカタ」を焼きはじめていますが、これも本当は同時並行で仕上げたいところでしょうね。もちろんマンガとしてそこまでリアルにしすぎてしまうと却って手順がわかりにくくなるので、作画上はこれでちょうどいいと思いますけど。あと、このマンガで気持ちいいのは、シロさんが料理を作り上げるそのタイミングで同居人のケンジが帰ってきて、すぐに食べてくれることです。

料理ができあがっているのに、家族がなかなか食べてくれないというのは、ちょっとつらいです。「つらい」だなんて大袈裟でしょうか。でも、あの沢村貞子氏も『わたしの台所』でこう語っておられます。「料理は一秒ごとに不味くなる、という」、「美味しいものを食べるためには、すべて、ころあいこそ大事」と。料理には「食べごろ」と「食べさせごろ」があって、美味しいものをなるべく美味しく食べてもらうために「食事どきの台所をいつもバタバタ走り回っている。食いしん坊でおせっかい……美味しいものを食べるのも食べさせるのも大好きな性分だから仕方がない」。

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わたしの台所 (光文社文庫)

よ〜くわかります。だから家族が何時に帰ってくるか分かりたいものですし、連絡がないと炊事がしにくいですし、あまつさえ「今日は外で食べる」なんて連絡が夕刻に入ったりすると、もっと早く言え〜! と怒り心頭に発するんですね。そしてまた、もう料理ができあがっているのに長電話をしているとか、風呂上がりの髪を延々乾かしていて食卓につきやしない、なんてのも「一秒ごとに不味くな」って行くのを目の前にしながらなんとも悲しい気持ちになるのです。

能楽のファンを増やすためには(その2)

ドグラ・マグラ』や『少女地獄』などで有名な作家・夢野久作氏。氏はお若い頃、元黒田藩の能楽師範だった梅津只圓師のもとで能楽の修行をされていた時期があるそうです。その稽古の様子を記した『梅津只圓翁伝』は私の大好きな評伝文学なのですが、夢野氏にはもう一つ『能とは何か』というこれまた味わい深い掌編があります。いずれも「青空文庫」で読むことができます。

この『能とは何か』の冒頭には、氏の時代における能楽の、それも外国人による能楽の受容についてのなかなか刺激的な一文があります。刺激的というのは、外国人の一部に能楽を強くもてはやす風潮があることに対してある種の嬉しさと戸惑いがないまぜになっていて、それがちょうど、昨日ブログに書いた「どうやったら外国人を含む多くの人々に能楽のファンになってもらうか」ともつながるので個人的に興奮するから……でありますが、それはちょっと脇に置き、そこに続く文章に注目してみたいと思います。それは「能ぎらい」と「能好き」という好対照を成す二つの章です。

「能ぎらい」では「現在日本の大衆の百人中九十九人まで」が能楽を理解してくれないだろうとして、夢野氏がその理由を自虐的に代弁しています。

世の中に能ぐらい面白くないシン気臭い芸術はない。日増しのお経みたようなものを大勢で唸っている横で、鼻の詰まったようなイキンだ掛け声をしながら、間の抜けた拍子で鼓や太鼓をタタク。それに連れて煤けたお面を冠った、奇妙な着物を着た人間が、ノロマが蜘蛛の巣を取るような恰好でソロリソロリとホツキ歩くのだからトテモ退屈で見ていられない。第一外題や筋がパッとしないし、文句の意味がチンプンカンプンでエタイがわからない。それを演ずるにも、泣くとか、笑うとか、怒るとかいう表情を顔に出さないでノホホンの仮面式に押し通すのだから、これ位たよりない芸術はない。二足か三足ソーッと歩いたばかりで何百里歩いた事になったり、相手も無いのに切り結んだり、何万人も居るべき舞台面にタッタ二三人しか居なかったりする。まるで芸術表現の詐欺取財だ。あんなものが高尚な芸術なら、水を飲んで酔っ払って、空気を喰って満腹するのは最高尚な生活であろう。お能というのは、おおかた、ほかの芸術の一番面白くない処や辛気臭い処、又は無器用な処や、乙に気取った内容の空虚な処ばかりを取集めて高尚がった芸術で、それを又ほかの芸術に向かない奴が、寄ってたかって珍重するのだろう……

この「代弁」を読んでいて面白いのは、「二足か三足ソーッと歩いたばかりで何百里歩いた事になったり」とか、「何万人も居るべき舞台面にタッタ二三人しか居なかったり」といった論難です。もし本物の「能ぎらい」であればこうは語れないはずで、これはそのまま能楽の魅力ーー観客の知識とイマジネーションに大胆に仮託する舞台芸術であるという――を裏返しで語っちゃってる。むしろこう書かれていることで筆者が能楽にかなりのめり込んでいることがわかります。こうした「芸術表現の詐欺取財」という評は、昨日ブログに書いた、かのフランス文化使節団の評価とも重なります。なにせ能楽評論家の金子直樹氏によれば「犯罪人は監獄ではなく能楽堂に送れ」とまで、つまりそれほど退屈でつまらないとの酷評だったというのですから。

そして、これに続く「能好き」では、このように書かれています。

ところがそんな能ぎらいの人々の中の百人に一人か、千人に一人かが、どうかした因縁で、少しばかりの舞か、謡か、囃子かを習ったとする。そうすると不思議な現象が起る。
その人は今まで攻撃していた「能楽」の面白くないところが何ともいえず面白くなる。よくてたまらず、有り難くてたまらないようになる。あの単調な謡の節の一つ一つに云い知れぬ芸術的の魅力を含んでいる事がわかる。あのノロノロした張り合いのないように見えた舞の手ぶりが、非常な変化のスピードを持ち、深長な表現作用をあらわすものであると同時に、心の奥底にある表現慾をたまらなくそそる作用を持っている事が理解されて来る。どうしてこのよさが解らないだろうと思いながら誰にでも謡って聞かせたくなる。処構ところかまわず舞って見せたくなる。万障繰り合わせて能を見に行きたくなる。

わははは、よく分かるなあ。私もこの「どうかした因縁で」能楽にハマってしまった人間ですから。「誰にでも謡って聞かせたくなる。処構ところかまわず舞って見せたくなる」というのは落語『寝床』に出てくる大店の旦那みたいで私にはとてもできませんが、でも「万障繰り合わせて能を見に行きたくなる」というのはその通りですね。

しかしこの一文で一番注目すべきは、そうした「能好き」、つまり能楽にハマってしまった人のきっかけが「少しばかりの舞か、謡か、囃子かを習った」ことであるとしている点です。そうなんですよね。能楽は観るものでもあるのですが、すぐれて自分でやってみるものでもあるのです。素人のファンが自分でもやってみるためのリソースがふんだんに用意されている古典芸能であるとも言えます。ここは歌舞伎や文楽などとかなり異なっている点です。

夢野久作氏は、能楽の魅力を語ろうとすればするほど真の魅力をぶち壊してしまいそうになるので、「日本人が、自分自身で、舞か、囃子をやって見るのが一番捷径」と言い切っています。そうは言いながらも夢野氏は続く文章で能楽の魅力をあれこれの側面から詳細に論じています。それはぜひ青空文庫で読んでいただきたいのですが、読んでいただいたとしてもそれで多くの方が能楽堂に足を向けてくださるだろうかと想像すると……う〜ん、正直、難しいような気も。やはりお稽古していただくのが一番かなと思うのです。

というわけで、より多くの方が能楽のお稽古に興味を持ってくださるようあれこれの策を講じるのが、結局は能楽のファンを増やすための王道のような気がします。ただ、これはたいへん申し上げにくいことではあるのですが、能楽のお稽古は(茶道や華道など他のお稽古も同じような状況だと思いますが)やはりそれなりにお金がかかります。仕舞や謡を学んでいるだけならそれほどでもないかもしれませんが、発表会などに参加しようとするとそれなりの出費になる。

もちろんそれはプロの能楽師の方々が藝を継承していくために欠かせないシステムであることは十分承知していますし、私など能楽師の方々が継承されている藝の真価を考えれば、むしろ毎月の月謝が些少なことに申し訳なさを感じるくらいなのです。……が、私のような中高年はともかく、これから能楽のお稽古をしてみようと思い立ったお若い方々には、やはりこうした出費はかなりハードルが高いでしょう。

ひとり能楽だけの状況ではないでしょうけれども、こうしたお稽古事のシステムにもなにか新しい「ありよう」がないだろうか。いち稽古者の分際で大変僭越ではありますけど、「能好き」の一人としてそんなことを考えるのです。この件、何か思いついたらまた稿を重ねようと思います。

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https://www.irasutoya.com/2018/10/blog-post_83.html

能楽のファンを増やすためには

能楽はできれば能楽堂に足を運んで観たいものですけど、コロナ禍でこの半年ほどは足が遠のいていました。遠のくも何も、ほとんどの公演が中止になってしまっていたのです。最近また徐々に上演されるようになってきたものの、演目の間の休憩時間に換気をしたり、客席は市松模様状だったり、能楽師の方々のみならずスタッフの皆さんも大変なご様子。できるだけ観に行って応援したいものです。

先日、目黒の喜多能楽堂に出向いたら、市松模様状の座れない客席に、さまざまな能の演目の詞章が印刷された紙が貼ってありました。私のとなりは「雲林院」でした。なかなか粋な計らいでありますな。

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ところで、能楽堂での公演が中止や延期になることが多かったので、この間はよくテレビの番組を録画して観ていました。もとより能楽のテレビ放映は少ないんですけど、それでもNHKが時々やっているので、気がついたら録画するようにしています。先日も撮りためておいた一本の番組を観ました。「古典芸能への招待」です。

www.nhk.jp

この回では、喜多流の能「湯谷」と舞囃子「田村」をやっていました。どちらも仕舞はお稽古したことがあるので、知っている謡が出てくるとそれだけで嬉しいです。そしてまた、玄人の能楽師の舞にももちろん圧倒されるのですが、この番組では解説をされていた能楽評論家の金子直樹氏のお話も興味深いものでした。

金子氏は、かつてもう何十年も前に、フランスの文化使節団が来日して観能した際「死ぬほど退屈だ」と評したというエピソードを引いて、実は能はリアリズム演劇ではなく、抽象的・象徴的な表現が多く、観客のイマジネーションに託されている部分があり、そのイマジネーションは謡を聞きながら行われるのだ……と、概略そのようなお話をされていました。

時間的制約のあるテレビ番組での簡潔な解説ですし、似たような解説は能の入門書的な書物でもお馴染みかもしれません。でも私はこのお話を聞きながら、あらためて能楽が今後も広く愛されていくためにどのようなことがなされるべきか、けっこう深いテーマを含んでいるのではないかと思いました。

そのひとつは謡を聞いて分かること、という問題です。謡の詞章を聞きながらイマジネーションをふくらませることが能の鑑賞において不可欠だとしたら、やはり能はすぐれて言語と深く結びついた芸能だということができると思います。能の詞章は昔の言葉ではありますが、そこはそれ日本語には違いないわけで、謡をよく聴けば、あるいは謡本をよく読めば私のような古文の知識にかなり乏しい人間でもけっこう理解できます。理解できた上に感動すらできる。

とはいえ、そこにはある程度、最低限の知識はやはり必要ですし、候文なども数をこなしてようやく分かってくるところがあります。要するに多少の努力が必要なんですね。その努力を今後の観客も払ってくれるかどうか。そして上述した「フランスの文化使節団」のような日本語が母語ではない外国の方にどうやって分かってもらうか。

国立能楽堂などでは、上演に際してリアルタイムで詞章の英語訳が流れたりしますし、そこまで行かなくても当日配られるリーフレットに英語の解説がついている公演もよくあります。でももっと能舞台に意識を集中して、謡を聞きつつ舞台上の光景に自分のイマジネーションを重ねていくためには、やはり最低限日本語の詞章をリアルタイムで理解する必要がある。

となれば、かなり違った発想の試みがあってもいいのかもしれません。例えば字幕ではなくリアルタイムの音声で、それも事務的な声ではなく多少の詩的な美しさを兼ね備えた外語が流れてくるようなイヤホンとか、VRみたいな技術で空間上にちょっとした補足説明が出るとか……。

もうひとつ、能を観る楽しみが本来的に「謡を聞きつつイマジネーションを広げること」であるとすれば、世上よく言われる「分からなくてもとにかく空間に身を委ねてみましょう」とか「面や装束の美しさに注目してみましょう」とか「なんなら寝てしまってもいいんですよ」といった、初心者向けのアプローチをあえて控えてみるという方向はないものかしら、と勝手な夢想をしました。

もちろんこれは暴論であって、初手から「本格」を求めればそれこそより一層敬遠されるではないか、だからこそ能の公演では新たなファンを呼び込むべくハードルを下げたアプローチを行っているのだと言われるでしょう。それは本当にそうなんです。私も最初はよく寝ていて(最近でも時々うつらうつらすることが……)、だから「寝てもいいのですよ」には励まされたクチなのです。だけれども、それではコアなファンになる人はごくごく稀で、大多数の方が「ああ、なんかきれいだった」とか「たまには和風趣味もいいよね」で終わってしまいそうで、それはすごくもったいないとも思うのです。

難しく考える必要はないんですよとハードルを下げるのももちろんアリなのですが、難しいからこそマニア心に火がつくこともありますよね。釣り堀で必ず釣れるフィッシングでは物足りなくて、渓流釣りの竿に傾倒したり、ルアー作りにのめり込んだり……いや、例えがよくないですけど、とにかく最初から王道の楽しみ方、一番欲張りで贅沢な楽しみ方にアプローチさせることはできないんだろうか。そんなことを考えたのでした。

さしたる提案もなくて申し訳ないのですが、能楽のファンには時折若い方々がいますよね。大学の能楽サークルなんてのも、学校によってはけっこう盛んだと聞きます。そういう若い方々に「どうして能楽にハマったのか?」をアンケート調査してみたらいいのではないかと思います。それも一度限りでなく経年的に何度も、幅広く。そうした研究の末に、単なる和風趣味ではない能楽が人を引きつけるメカニズムみたいなものが見えて……こないかなあ。

「古典芸能への招待」の録画を観ながら、そんなことを考えていました。

パーソナルトレーニングのいいところ

現在、週に4〜5回ほどジムに通っていますが、そのうちの1〜2回はパーソナルトレーニングです。プロのトレーナーさんについてもらって、マンツーマンで指導してもらうというもの。コロナ禍で一時お休みしていた(ジム自体が営業休止になっていた)のですが、いまはまたお互いにマスクをして続けています。

パーソナルトレーニングは、自分一人でジムに通うよりは当然お金がかかりますが、私の行っているところはかなり良心的なお値段で、トレーニングウェアも靴もタオルも全部貸してくれるので手ぶらで通えます。しかも予約も不要という手軽さ。予約不要ですから毎回のトレーナーさんは違いますが、一人一人のカルテがあって前回のトレーニング内容や現在の課題や目標が共有されているので、継続性のあるトレーニングができます。

正直に言って、肩凝りや腰痛に常に悩まされてマッサージや整体などに通うより、パーソナルトレーニングの方がよほど安上がりで、かつ成果がきちんと自分のものになっていくので満足感も高いです。ただし「筋トレブーム」の昨今、ジムによってはかなりお高めな価格設定のところもあるそう(TVCMでも有名な某社など数ヶ月で数十万円とか)なので、あれこれ比較検討したほうがいいかもしれません(たいがいのパーソナルトレーニングには「お試し」があります)。

通い続けるモチベーションがうまれる

パーソナルトレーニングは当然ながらマンツーマンです。つまり相手がいます。だからサボると気まずいので通い続けるモチベーションが生まれるんですね。しばらく通っているとジムでも名前を覚えられて、「最近引き締まってきましたね」とか「姿勢が良くなりましたよ」とか言ってくれる。営業トークであっても励まされ、続けようという気になります。

プロのトレーナーはハードルを設定するのがうまい

トレーナーさんはプロなので、私たちに何が足りないかをすぐに把握します。そして最大限に効果が上がるようなトレーニングを組んでくる。特に荷重系の筋トレなど、体を壊さない程度でぎりぎり持ち上げたり引っ張ったりできるウェイトを絶妙に設定してくれます。へばっていると見るや少し荷重を下げ、余裕をかましているとすかさず上げてくる。

自分一人で筋トレをしているときにはなかなか自分の「限界ちょい手前」が分からず、つい自分に甘くなってしまうものなので、こうした「楽をさせてもらえない」のはパーソナルトレーニングならではだと思います。ほかにも荷重が重すぎるときには少し補助してくれたり、回数を数えてくれたり、「あと2回!」とか「ラストセット!」とか「はい、頑張って!」とか励ましてくれ、こっちのペースが速すぎるときには「もう少し休みましょう」などと言ってくれたりする。これらもかなり助かります。

安心して筋トレできる

これも「限界ちょい手前」と関係しますが、トレーナーさんがついていてくれると、安心して荷重に挑戦できます。万一重さに負けても、すぐに支えてくれるのがわかっているから。これ、自分一人でたとえばベンチプレスなどしてみると分かりますが、一人では「限界ちょい手前」まで荷重をかけるのは恐く、また危険でもあります。だから「スミスマシン」みたいなので軌道を固定した上に、万一の時のためにストッパーなどを設定しておきます。でもこれだと思い切りバーベルを下げたりすることができず、効率的な筋トレがしにくいんですよね。

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https://www.irasutoya.com/2020/08/blog-post_40.html

細かい技術を教えてもらえる

たとえばベンチプレスひとつとっても、どの位置で挙げるのか、手はバーベルのどこを掴むのか、その時の肩甲骨や腰や両足はどうなっているべきなのか……などたくさんの留意すべきポイントがあります。そういう「正しいフォーム」について常に指導してくれて、そのつど改善を図ることができるのはかなり助かります。正しいフォームで筋トレをしないと、それはもうびっくりするくらい効果が出ないのです(以前我流で一年半ほどやって体験済み)。

意識すべき身体の部位を触ってくれる

筋トレでは、どの筋肉をどう動かしたいのかについての明確な意識が必要ですが、これが素人の私たちにはよく理解・体感できません。そこでトレーナーさんはその時に意識すべき身体の部位に軽く触れて、「ここですよ」と常に教えてくれます。手で触れてもらっているとそこに意識を集中させやすいんですね。

その日の体調に合わせてメニューを変えてくれる

これは私が通っているジムだからしれません(アスリートの「故障」を直す治療院を兼ねている)が、トレーニング前に毎回必ず「今日の調子は?」と聞かれ、たとえば「少し腰痛が……」というような日には筋トレをお休みして腰痛改善の運動だけに切り替えてくれたりします。ほかにも今日は「朝活」のジムで胸の筋トレをやったと告げれば、「じゃあ今日は逆の背中を鍛えましょう」などとバランスを考えたメニューを組んでくれる。こういうのも非常に心強いです。

というわけで、パーソナルトレーニング、お勧めです。

中高年のための健康的な筋トレ

男性版更年期障害とでもいうべき不定愁訴にたえきれず、ジムのパーソナルトレーニング体幹レーニングや「筋トレ」を始めて、もうすぐ三年になります。この間に、夜も寝られないくらいだった肩凝りは全くなくなり、腰痛もかなり軽減しました。以前は月に一度はひどい腰痛に陥って整体やカイロプラクティックなどに行くほどだったのに、今は全く行かなくなったうえに、少しでも腰痛の予兆があれば自分で身体を動かして直すことができるようになりました。

ここのところは週に二回ほどパーソナルトレーニングに行って、その他の日は「朝活」で職場近くのジムに行っています。パーソナルトレーニングでトレーナーさんに教わった筋トレを、普段の朝活で復習しながら取り組むという感じ。すっかり習慣化したので、逆に一日でも休むと身体がムズムズして気持ち悪いです。

体重も増えました。筋トレをして多少筋肉がついたので、その分が増えた感じです。中年特有の「ふくよか」なお腹はあまり変わりませんが、上半身の筋肉がついたのでそのコントラスト(?)であまり目立たなくなりました。いくら筋トレに勤しんでも、その分蛋白質を中心によく食べないと筋肉はつかないのですが、これはもう年齢のせいもあってそんなに食べられません。それでも意識して豆腐や納豆などの植物蛋白をとるようにしています。

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https://www.irasutoya.com/2018/10/blog-post_87.html

筋肉がつくにつれて、筋トレで動かせる荷重も増えてきました。さっき確かめてみたら、ベンチプレスの荷重について、三年前の秋にはブログに「42.5kgを12回×3セット挙げることができました」と書いていました。いまは60kg×12回×3セットに取り組んでいますから、少なくとも進歩はしているわけです。三年前はとりあえず自分の体重分を挙げるのを目標に据えたのですが、筋肉がつくにつれて体重も増えるので、目標がどんどん上がっていきます。いつの日か自重を追い越したいものです。

qianchong.hatenablog.com

ジムには体脂肪や筋肉量や基礎代謝量などをいっぺんに測ることができる体重計があって、定期的に測っているのですが、基礎代謝量は少しずつ増えているようです。筋肉がつくと基礎代謝も増えるそうで、ちょっと逆説的ですけど基礎代謝が増えるからこそダイエットもやりやすくなるんですよね。筋トレがダイエットに効くといわれるゆえんです。私は貧弱な身体なのでいまはむしろ筋肉を増やして太りたいのですが、もう少し筋肉がついたら全体のバランスも考えていかなければなりません。

筋トレというと、とかく体育会系の「ごつい」イメージや、ボディビルみたいな超人的フォルムのイメージが強いんですけど、ごくごく普通の中高年が取り組める、健康的な筋トレの世界があるんですね。少なくとも私は、あの、しんどくて、QOLが「ダダ下がり」だった不定愁訴から開放されて、本当によかったと思います。もし三年前、あのまま何もしていなかったら、今ごろかなり深刻な状況に陥っていたんじゃないかと想像しています。

そしてもう一つ、ちゃんと成果が現れてきたのは、ひとえにパーソナルトレーニングでトレーナーさんについてもらったからだと思います。ひとりでジムに行って、自己流で筋トレしてもほとんどこの成果は望めなかったでしょう。実際、十年以上前に何年か自己流で筋トレしていた時期があるのですが、驚くほど、それはもう清々しいほどに(?)成果が出ませんでした。パーソナルトレーニングの利点については、また稿を改めようと思います。

カルト宗教やめました。

たもさん氏のマンガ『カルト宗教やめました。』を読みました。前作『カルト宗教信じてました。』の続編で、「エホバの証人」を自分の意志でやめたあとの日々を描いています。

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カルト宗教やめました。

私もかつて母親の影響で、とあるカルト宗教の影響下で青春時代を過ごした過去があり、前作同様いくつも共感できる部分がありました。カルトの種類こそ違え、人々を騙し誘い込む手法や、世の中を極度に単純化して捉える世界観など、共通する部分が多いと思いました。前作『カルト宗教信じてました。』を読んだときにはこれを書きました。

qianchong.hatenablog.com

今回共感したのは、たもさん氏の夫「カンちゃん」のこんな述懐。

自分たちはノアのように宣べ伝えさえしていれば救われると信じていて
世の中の人はむなしい生き方をしていると思ってた
週末に居酒屋で
バカ騒ぎしているだけに見えた人たちも
本当は俺たちが布教活動に時間を費やしている間
ちゃんと勉強してちゃんと働いてちゃんと将来に備えていた

そしてたもさん氏は「むなしい生き方をしていたのは私たちってことだね……」とつぶやくのです。そう、カルト宗教の価値観に染まっていた頃は、私も同じような「世の中の人はむなしい生き方をしている」というような謎の優越感に浸っていました。それは今から思えば非常に傲慢でもあるし、またこの世界をあまりにも単純に捉えた、言わばとても知性に欠けた態度であったように思います。何かに絶対的に帰依するってことは、自分の頭で考えることを放棄するに等しいんですよね。

もう一つ印象深かったのが、たもさん氏が「大会」に参加して、スタジアムいっぱいの信者に圧倒され、テンション高めの演説や感動的な発表を聞きながら「妙な高揚感」に包まれる場面。私が入っていたカルト宗教は滋賀県の山奥に聖地とされる本部があるのですが、小学生の時はまだその建設途中で、何度か大会のようなものにも参加しました(母親に連れられて)し、建設の手伝いをする「奉仕」みたいなものにも参加したことがあります。

大会は、いま考えるとよくできていたというか、これがカルト宗教の人心掌握術なんでしょうね、私もものすごい「高揚感」を味わいました。大会の最初に祝詞(のりと)を何千人何万人の信者が一斉に奏上するときなど、毎日その祝詞を朝晩唱えている信者全員のユニゾンだけに「一万人の第九」どころじゃない荘厳な、いや、異様な音の空間が出現します。

そして、高さ何十メートルもありそうな巨大なもの教祖の写真が除幕されるときには、これまた大音量で(なにせ人家がまったくない山の中なので遠慮なく音を出せたものと思われます)なんとリヒャルト・シュトラウス交響詩ツァラトゥストラはかく語りき』の導入部が流されるんですよ。映画『2001年宇宙の旅』冒頭で使われているアレです。ファンファーレが最高潮に達するところで幕がさあっ……と降ろされる。

いま思い返すとそのあまりの劇場商法っぷりに笑ってしまいますが、小学生の私はすっかり度肝を抜かれて「妙な高揚感」どころか「非常な高揚感」に包まれていました。でも実は、こうした劇場商法を通じて信者から多額の献金を集めることがカルトの主要な「商売」なんですね。じゃなきゃ山の中に何百億円も投じて巨大施設を作ることはできません。うーん、やっぱり複雑な気持ちです。


2001 A Space Odyssey Opening in 1080 HD

「カンちゃん」は、そんな、今から思えば複雑な心境にならざるを得ないたもさん氏とご自分の「思い出」を振り返りながら、「思えばまずしい青春だったけど/まあそれも自分の人生なんだよな」と言います。すでにもう吹っ切れたような言葉ですけど、それも自分の人生だと受け止めることができるようになるまで、けっこう時間がかかったのではないかとお察しします。私も自分の中学高校時代は精神的にかなり「まずしかった」ですし、大学生の時に自分で洗脳を解いたものの、冷静に語れるようになったのはつい最近ですもん(上掲のブログを書いたときです)。

昨日たまたまTwitterのタイムラインで、脚本家・作家の一色伸幸氏がこんなツイートをされていて、なんだか心にしみました。

私の場合は病気や災害じゃないけれど、やはりすぐには語れないことだったのだなと思います。それでもいまではこうやって「まずしい青春だった」と書けるようになったのですから、まあよかったかな。いまはもう誰も恨んでいません。

まずは語らずに聞く

「マンスプレイニング(mansplaining)」という言葉があります。男を意味する“man”と、説明・解説を意味する“explain”をつなげた造語で、「一般的には『男性が、女性を見下すあるいは偉そうな感じで何かを解説すること』(Wikipedia)」です。日本でこの言葉はまだ人口に膾炙しているとまでは言えないかもしれませんが、ネット上ではかなりよく目にするようになってきたと思います。

この言葉については、「男性が女性に、だけなのか?」をはじめとして、主に男性の側からの反論も同じくネットではよく目にしますが、これだけ議論されるということ自体、多くの人が「ああ、たしかにそういう傾向はあるかもしれない」とうっすら思っていたことの証左になっているような気がします。私自身はというと、うっすらどころか自分のこれまでの言動に思い当たることが多くて、反省することしきりです。「マンスプレイニング」と、こうして名前がつくことでより明確にその実態が見えてくることって、あるんですね。

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https://www.irasutoya.com/2017/10/blog-post_791.html

先日もジムのパーソナルトレーニングで、休憩中にトレーナーさんと話をしていた際、この「マンスプレイニング」が頭をもたげてしまいました。もっともその時のトレーナーさんは男性でしたから「マンスプレイニング」の定義とはずれるのかもしれませんが。その時の話題は、最近の中国政府の振る舞いに関するもので、ここのところ香港の問題や米中の対立など話題に事欠かない中で、中国政府ないしは中国共産党の強硬ぶりに「あれ、どうなんですかね」的な疑問ないし嫌悪を示されたので、私がつい語ってしまった、“explain”してしまったのでした。

このトレーナーさんに限らず、どなたかにお目にかかって話をしている中で、私が中国関係の仕事をしているということを知ったときに一様に示されれるこうした疑問というか嫌悪というか(いや、もうちょっと正確に言うなら「ちょっと、引いちゃう」的な)そうした反応に接することがもうけっこう長く続いています。

私はもちろん中国という国の立場を代表してはいませんし、正直申し上げて今の中国政府のありようには甚だ疑問を持っている人間です。が、そうした天下国家の大きな話はさておき、中国政府と一般の中国人は分けて考えるべきだと思っています。それは日本政府の今のありようと日本人としての自分をごっちゃに語られちゃたまらんというのと同じです。せめてその点についてだけは理解してほしいなと思って、いつもつい自分の思いを語ってしまうのです。

こういう話はちょっとした雑談程度で語れる問題じゃありません。けれども、私としては自分の周囲に多くの中国人がいて、そのひとりひとりの顔が浮かぶだけに「せめて中国という国と個々人とは注意深く見分けてほしい」と思ってつい語っちゃうんですね。でもその結果は往々にして「引かれちゃう」。中国という存在(国と人がごっちゃになった状態の)にちょっと引いてるところに、私の“explain”でもっと引いちゃうわけです。何やってんだと思いますけど、じゃあってんで「そうですよね、中国、困っちゃいますね」的に適当にお茶を濁すのも本意でなく……。

ティーブン・R・コヴィー氏のあの有名な『7つの習慣』には確か、「自分の経験談や自分の自叙伝を得々と聞かせるのではなく、相手を本当に理解しようと思って聞く」というような話がありました。そのひそみに倣えば、「中国、あれ、どうなんすかね」的な疑問ないし嫌悪が示されたときには、なぜその人がそう思ったのかをまずは聞いてみるべきなのかもしれません。いきなり「いや、でも中国といってもいろんな側面があってですね」などと語り始めるのではなくて。

フィンランド語 60 …動詞活用ワークシートの改良

ほそぼそと続けているフィンランド語の学習、仕事が忙しい時でもとにかく①単語の暗記と、②格変化と、③動詞の活用だけは日課として行っています。このうち、③の動詞の活用はいまのところ……

現在形(肯定・否定)
過去形(肯定・否定)
現在完了形(肯定・否定)
過去完了形(肯定・否定)
条件法現在形(肯定・否定)
条件法完了形(肯定・否定)
命令形(単数・複数)
第三不定
第四不定

……を習っています(まだ他にもあるらしい)。これを覚えるためにワークシートを作って練習してきました。例えば「ajatella(考える)」ならこんな感じで。

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しかしこのワークシート、ひとつの動詞に対して50パターンも活用を書かなければならないのでかなり「非効率的」です。まあ、もとよりフィンランド語学習はいまのところほとんど「ボケ防止」の趣味で、効率を追求してはいないのでこれでいいんですが、覚えるべき動詞は次々に現れるので、さすがの私も効率を考えるようになりました。

まず、動詞の活用には一人称・二人称・三人称とそれぞれの単数形・複数形があって合計6パターンなのですが、実際自分が使うとなると、たぶん圧倒的に多いのは一人称単数形じゃないかな、と思いました。それと「一般的な事象」を表す三人称単数形でしょうか。動詞の一人称単数形を正しく作ることができれば、その語幹を使って否定形や、第三・第四不定詞や、命令形(単数)、一部の受動態現在形までカバーできます。

次に、個人的に動詞の活用で引っかかることが多いのは過去形の作り方です。ここは引き続き練習が必要だと思っています。さらに、過去形の否定に使われる過去分詞を作ることができれば、現在完了形・過去完了形、さらには条件法完了形まで一気にカバーできます。

そして、受動態は現在形肯定を作ることができれば、そこから現在形否定が導かれ、さらに過去形否定を作って、過去分詞を作り、さらに過去形肯定から受動語幹を作れば条件法現在形の肯定と否定まで導くことができます。受動態の過去分詞は、現在完了・過去完了・条件法完了時制にも使えます。

……ということで、複雑極まりない上記の活用を整理してみると、①現在形肯定と過去形肯定の一人称単数と三人称単数、②過去分詞、③条件法の現在形→過去形→条件法現在形、の3つをとりあえずおさえておけばよさそうです。それでワークシートを簡略化してみました。

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これで多少効率的になりました。命令形の単数形肯定と否定は語幹と、また条件法現在三人称肯定は否定の語幹と同じなので、これも省いてもいいかもしれません。

「ケサモッキ」で酷暑を忘れたい

東京は極度に蒸し暑い日が続いています。七月までは異様に涼しくて、今年ならよかったと五輪関係者は悔しがったんじゃないかと心中お察ししていたんですが、八月の声を聞いた途端に野外でスポーツなんて人権侵害を疑われるくらいの酷暑。やっぱり来年も中止ということで早めに決定したほうがいいんじゃないでしょうか。

本来なら今年も長めの夏休みをとって、去年同様湿度が低く涼しいフィンランドへ行ってレンタカーを借り、観光地には一切行かずに田舎ばかりドライブして回るというバカンスを楽しもうと思っていたのですが、コロナ禍でそもそも出国(どころか東京から出ることすらも)が不可能になり、加えて秋以降の仕事の段取りなんかも色々と積み重なっていて、泣く泣くあきらめました。

そんななか、これもコロナ禍の影響でZoomのオンライン授業になってしまったフィンランド語の講座では、教科書の文章に“kesämökki*1”の話が出てきました。“kesä”が「夏」で“mökki”が「小屋」とか「コテージ」。つまりフィンランドの人々が夏の間過ごす別荘みたいなものですけど、先生によると建物を指すというよりは、そうした別荘地一帯を含めた呼称、つまりは「避暑地」みたいな意味合いの言葉なんだそうです。

別荘といってもそんなに豪壮なものではなく、森の中とか湖の畔とかに建っている簡易なコテージ。かのトーベ・ヤンソン氏の『島暮らしの記録』に出てくる、岩礁にへばりつくようにして建っている平屋(でも居心地良さそう)の小屋が思い起こされます。

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島暮らしの記録

とはいえそこは現代のそれ、いまは家電設備なんかがちゃんとあって、なんならサウナ小屋なんかもついていて、目の前の湖にボートでも浮かべて日がなゆっくり……みたいな素敵な場所だそうです。去年ユヴァスキュラ近郊で、農家の納屋を改造したコテージみたいな民泊に何泊かしたのですが、あんな感じかしら。

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でも先生によると、フィンランドの、とくに若い人々はあまりこういう「伝統的」な夏の過ごし方はお好みじゃなくなって来ているようで、“kesämökki”もエアビーアンドビーなんか見るとけっこうな数が夏の間に貸し出されています。しかも庭つきサウナつき目の前の湖つきで一泊6〜7000円程度からあったりして。こんなところで東京の酷暑を忘れたいです。いま試しにエアビーアンドビーで適当な条件を入れて検索してみたら、たくさん見つかりました。

こんなのとか。

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こんなのとか。

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こんなのとか。

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こんなのとか。

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こんなのとか。

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こんなのとか(写真はすべてエアビーアンドビーから)。

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東京の酷暑を抜け出して、周りに人がいないところに行くというのが私にとって最高の夏休みです。日本国内でもいいんですけど、せっかくなら日本語や日本的なものからもすこし離れていたい。来年はコロナ禍も収まって、またこういうところで夏を過ごせたらいいな。それまで頑張って働きます。

*1:ウムラウトがあるので「ケサモッキ」と「ケセメッキ」の中間くらいの発音です。

重森三玲 庭を見る心得

作庭家・重森三玲氏の随筆を集めた『重森三玲 庭を見る心得』を読みました。東京新聞の書評欄で知って買い求めた本です。

www.tokyo-np.co.jp

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重森三玲 庭を見る心得 (STANDARD BOOKS)

私は庭園芸術についてほとんど知らない人間ですが、このアンソロジーを読んで、日本のお庭をじっくり鑑賞しに行きたいなと思いました。特にひかれたのは、この部分。

日本庭園にあっては、その他砂盛乃至は砂紋の上にも強く抽象性が表現され、又は植栽に於いても各種の刈込に於て、これ又強く抽象性が表現されている。(中略)日本庭園に於ける抽象表現は、石を必らずしも石として用いず、石を山とか水とかその他の表現の素材とし、刈込に於ては植物を植物として用いるのではなく、種々な形を通しての物としての表現としている如く、何れもそれ等の素材が、それ自体の本質を離れて池の表現内容を持つのである。(68ページ)

なるほど、庭園、それも日本庭園といえば、木があって石があって池があって、あるいは枯山水などで、自然の風景を再現して愛でるもの……という漠然とした印象しかなかったのですが、そこにはむしろ抽象的な自然とでもいうべき人の手ならでは(つまり天然の自然とは全く異なる)の芸術の世界があったんですね。

重森氏は庭園以外に、というか庭園との深い関わりから考えれば当然というべきか、茶道や華道にも造形の深い方だったそうで、この本には奏した芸術についての文章も収められています。ただし現代(重森氏が存命だった頃)のそうした芸術についてはかなり辛辣な意見をお持ちだったようで、特に伝統に縛られて固定化・形骸化してしまった家元制度や流儀・流派というものに対しては容赦のない批判を加えています。

特に茶の湯(茶道)やいけばな(華道)あるいは舞踊などに関して、それを教えるということが専門家の生活の糧になってしまっており、一方で学ぶ側も「一種の新興宗教と同じく、家元や流派や先生に対して無条件的に信者になってしまう」と辛辣で、そこには創作のかけらもなく堕落してしまっているといいます。それは絵画や彫刻(かつては〇〇派などの流派がありましたね)がそうしたものがなくなって個人の創作がベースになっているのとは好対照を成していると。

だから習う者は、基本は一応習ってもよいが、それ以上は習うべきではないというのです。

若し習いたい場合は、茶の湯の本質と云うものの上に立って、自覚と反省とを充分にもち乍ら習うべきである。でない限り、習うほど駄目になるのである。習う人々が自覚と反省とをもつようになれば、必然的に教える方も自覚と反省をもつようになり、ここに両者とも創作への努力がなされ、今日としての新しさが茶の湯の上に開けて来るのである。(126ページ)

ここには、自ら各地の庭園を回って実測を行い、また古い庭園の調査などを通して独学で庭園を学び、『日本庭園史図鑑』や『日本庭園史大系』を完成させて庭園史研究の大きな礎を作った重森氏ならではの自負と自信が現れているような気がします。

ただし重森氏は、美的な感覚や芸術に理解のない者に対してかなり辛辣であり、それはときに作庭の依頼主にまで向けられています。私はその姿勢に、斯界に名を馳せた大名人としての威厳や貫禄を感じましたが、同時にちょっとそれは言いすぎじゃないかと思うところもありました。だってそこまで言われちゃったら、芸術はもう高貴な人々や環境に恵まれた一部の人々だけの世界になってしまうんじゃないかと。

私はこの本を読みながら、どこか古典芸能の名人たちが遺した数々の「藝談」に似た趣を感じました。ただし、優れた藝談というものは(少なくとも私にとっては)私のような素人にもどこか取り付く島を与えてくれるものです。このアンソロジーは編集者の手になるものですから重森氏の思想のすべてを網羅しているわけではないのでしょうけど、その点でちょっと突き放されたような冷たさも感じてしまいました。

とまれ、まずは手近なところから。私は庭園のことをほとんど知りませんが、それでもお庭を前に正座していると心休まるのを感じます。そういう歳になったのかもしれません。ネットを検索していたら、全国の庭園を丁寧に解説してくださっている素敵なウェブサイトを見つけました。こちらを参考にしながら、近くの庭園(東京都内にも数々の名園があるんですね!)から鑑賞をはじめてみたいと思います。

garden-guide.jp

今日の業を成し終えて

「遠き山に日は落ちて」という歌があります。ドヴォルザーク交響曲第九番新世界より」第二楽章に出てくる主題に歌詞をつけたもので、作詞者は堀内敬三という人です。ウィリアム・アームズ・フィッシャーという人が作詞した合唱曲「家路」が元になっているようで、引き比べてみると堀内氏の歌詞は半分は訳詞・半分は創作という感じになっています。


Going Home - ANU School of Music Chamber Choir

歌い出しの歌詞が有名なこの歌ですが、私は途中に出てくる「今日の業を成し終えて」というところが一番好きです。フィッシャーの歌詞では“Work all done/care laid by/Never fear no more”となっています。今日やるべきことをやり終えて、いい一日だったと安堵し感謝する気持ちを自ら噛みしめているような感じ。ミレーの『晩鐘』みたいですね。

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https://www.irasutoya.com/2015/01/blog-post_12.html

私は生来とっても「ずぼら」な性格で、今日の業を成し終えるどころか「明日できることは今日やらない」のがモットーみたいな人間でした。それでずいぶん遠回りもしましたし、なかば引きこもっていたこともあったのですが、その日にやろうと決めたことを一つ一つこなしていって、すべて成し終えたあとの気分がかなり爽快であることを知ってから、なるべく自分をそっちへ振り向けるようにしています。

これ、不思議なもので、仕事が忙しいときには特に意識しなくてもできるのですが、今週のようにお盆休みで何日間か続けて家にいるというようなときが一番危ないです。時間がたくさんあるとかえって何も成し終えられなくなっちゃう。読書も、勉強も、趣味も、家事も。というわけで、いつもと同じ時間に起きて、いつもと同じように朝活のジムに行き、できるだけ前倒しでやるべきことをやろうとしています。春から夏にかけて、リモートワークで在宅勤務になったときも同じように気をつけていました。

ずっと以前にフリーランスで翻訳の仕事をしていたときは、こうした気持ちの持ちようを意識していなかったので、だらだらと夜遅くまで仕事として、かつその日の「業」を成し終えられないことが多くありました。掃除も炊事も後回しになってしまって。こういうのは心身ともにいちばん不健康で、いけませんねえ。

というわけで、一日の終り、というか「あとはもう晩酌だけ」という気分の夕刻に「今日の業を成し終えて」と言えるように日々心がけています。いまのところまだ心がけなきゃ達成できないのが情けないですが。そうそう、成し終えるコツは、最初から「成し終える」べきことをたくさん設定しないことと、心乱される人間関係をすっぱり切っちゃうことです。TwitterのようなSNSをなるべく見ないというのも有効かもしれません。

ゴムの伸び切ったような人間になってはいけません

ブログ『脇見運転』の酔漢さんが、かつて恩師に言われたという「丁字型の人間を目指してください」という言葉を紹介されていました。そのこころは「丁の縦棒は専門性を深く掘り下げること、横棒は専門以外の知識を広く浅く身に付けること」だそうで、なるほど、日進月歩のテクノロジーの世界にあっては、自分の専門分野における追求をタコツボ化の罠に陥らせるべきではなく、常に他分野へも関心を持ち続けることで、結果的にそれがのちのち有機的に結びつく(こともある)だろうと。

wakimiunten.hatenablog.com

酔漢さんは「縦棒の掘り下げがいい加減」だったのでご自身は「丁字型」というより「スパイクシューズ的」だとおっしゃっていますが、私などもともと芸術家を目指していたのに大学に入ってようやく己の才能の無さに気づき、いまは全く関係のない仕事をしているのですから、そもそも縦棒の掘り下げどころか縦棒がなくなっちゃって脇っちょから棒がひょろっと出ているようなものです。スパイクシューズみたいに地を掴むような力強さもないし、専門といえるものもなくて常に二足のわらじを履いているような感じだし、こういうのは何型といえば……コンデンサ型?

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https://www.marutsu.co.jp/pc/i/226317/

それにしても、こうした恩師のちょっとした一言が人生の中で長く影響を持ち続けるってこと、ありますよね。だからこそ恩師なのかもしれませんが。私の場合は、大学の一般教養(というのがまだあった時代です)科目で、講師の先生がおっしゃっていた「ゴムの伸び切ったような人間になってはいけません」という一言でした。週に一度しか受講しない科目の先生で、恩師と呼べるほどの指導も受けたわけではないのですが、単にこの言葉だけを覚えているのです。まあ、いまこうやって書いてみると、「いくつになっても心の弾力性を保ち続けよ」的な、よくある処世訓の一変奏ではあるのですが。

でもこの言葉がなぜか私には印象的に響きました。その後も仕事の中で折に触れては思い出して「ゴムが伸び切ってはいないだろうか」と自分に問いかけていたんですね。それで何度かの転職をしたときも、何度かの失業をしたときも、そのつど「丁字」でいえば横棒のほうへ自分の関心をむけることで生きのびて来られたような気がします。いま私はかつて目指した「専門」とは似ても似つかない仕事をしていて、古い友人(あんまりいないけど)には驚かれるのですが、それは「ゴムの伸び切ったような人間になってはいけません」というあの先生の言葉があったからかなと思います。

あらためて教養とは

しつこく教養つながりで、村上陽一郎氏の『あらためて教養とは』を読みました。のっけから「日本人がディーセンシーを失った中には、やはり戦後のいわば民主化あるいは民主教育というものの持っていた、ある一面が関わってるはずです」と、これは大江健三郎氏を批判する文脈の中で、戦後教育批判が行われています。あ、ディーセンシーというのは「慎み」とか「分を弁える」といったような意味だそうです。

要するにみんな平等で、個々人がやりたいことをやるべきという戦後の「欲望に忠実な」教育のありように疑問符をつけるということで、村上氏はこれを「規矩(きく)」という言葉で表現します。

このような「分を守る」という考え方は、戦後教育の中で全く無意味なこととして、否定され続けてきました。「分」とはある意味では自分に課した「規矩」のことです。こうしたいけれども、それは自分の規矩に反するからやらないと考えて、自分を律すること、あるいは自制すること。「分に過ぎた」ことはしない、というのが「規矩」であり、それに従っていることが「ディーセント」でしょう。(18ページ)

私自身「分を守る(あるいは分を弁える)」とか「自律」といった言葉はけっこう好きで、このブログでもちょくちょく使っているような気がします。また「規矩」についても中国語に“規矩(guījǔ)”という言葉があってけっこうおなじみ、かつ好きな言葉でもあるので、村上氏の主張につい頷きたくなるのですが、「戦後教育の中で全く無意味なこととして、否定され続けてきました」ってのはどうかなあ。よくある保守派のじいさんたちの主張ですけど、その戦後教育にどっぷり浸ってきた当の私からすると「それは言いすぎじゃないかな」と思います。

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あらためて教養とは (新潮文庫)

頭にかすかに疑問符が浮かびつつ、とりあえずどういう立場の人かは知らないままにして読み進めると、ヨーロッパがイスラムを通じてギリシャの学問を知り「学問」が誕生していったという話や、言葉をその語源にさかのぼって本来の意味を解説するところ、また母語教育としての「国語教育」や母語と外語の繋がりについての話など、とても面白い記述がたくさん出てきます。とにかく脱線(しかし面白い)が多く、氏の博学・博識がにじみ出る感じ。

しかし村上氏は、教養は必ずしも知識ではないと述べます。そのベースには「規矩」が不可欠であるとして、ドイツ語の「ビルドゥング(Bildung)」をひきつつこう語るのです(ちなみにこの「ビルドゥング」やそこから派生した「ビルドゥングスロマン」についてはこれもまで読んできた「教養本」の著者すべてが触れていました)。

自分というものを固定化するのではなく、むしろいつも「開かれて」いて、それを「自分」であるとみなす作業、そういう意味での造り上げる行為は実は永遠に、死ぬまで続くわけです。もしかすると死んでからも続くかもしれない。その中で、一生をかけて自分を造り上げていくということにいそしんでいる、邁進している。それを日常、実現しようと努力している人を、われわれは教養のある人というのではないか、そう私は思っています。(187頁)

「死んでからも続くかも」という部分はちょっとよくわかりませんが、これは『教養の力』で斎藤兆史氏がおっしゃっていた人格と深く結びついた教養のありようーー「善」あるいは「つねに『善くなろうとする祈り』」ーーとか、『これが「教養」だ』で清水真木氏がおっしゃっていた「意見の分かれる問をあえて問い、可能な限り合理的な答をその都度丹念に探し出す能力」、あるいは戸田山和久氏が『教養の書』でおっしゃっていた「自分をより大きな価値の尺度に照らして相対化できること」というのと基本的に同じことを言っていますよね。

村上氏のこの本では、巻末にご自身の「規矩」が「教養のためにしてはならない百箇条」として載せられています。それらは「流行語を使わない」とか「略語を使わない」とか寿司屋で「ゲソ」だの「ギョク」だのというような「よその業界用語を使わない」とか「どんなに空いていても、電車の七人掛けのシートに、六人掛け以下のような座り方をしない」といった細々とした私的ルールで、そうしたことを書くこと自体が「まことに教養なき業」としながら、最後にこうまとめています。

まだまだ挙げたいことは沢山ありますが、挙げれば挙げるほど、自分が「教養」というものに逆らっていることになる、という思いが増します。結局、自分の規矩は決して崩さず、しかしそれで他人をあげつらうことも、裁くこともなく、声高な主張から一切離れ、何かを書き、言うこと自体が、すでに「恥」である、という自覚を持ち、ただ静かに穏やかに自分を生きること、世間を蔑んで孤高を誇るのではなく、世間に埋もれながら自分を高く持すること、それを可能にしてくれるのが「教養」ではないか、と私は考えているからです。(299ページ)

うーん、マウンティングやマンスプレイニングや匿名での罵詈雑言にあふれたSNSにうんざりしている私としては、つい諸手を挙げて賛成してしまいそうになりますが、失礼ながらちょっと煮詰まりすぎてしまっているような気もします。ひとりひとりの「規矩」は大切ですけど(孔子も「七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず」って言ってますよね)、人間はもうちょっと弱く・だらしなく・それなりに依存したりされたりしながら、あるいは迷惑をかけたりかけられたりしながら社会の中で生きているんじゃないでしょうか。

この本の終章にはご自身の読書遍歴が紹介されていて、さまざまな「推し」の作家の一人として池波正太郎氏が挙げられています。そこに「この著作に限っていくつか違和感があります。知性とダンディズムが緩んで(一例を挙げれば、原子力発電に関して奇妙な話を信じて悲観している箇所)しまっているところや……」という記述があって、おやっと思いました。それで調べてみたら、村上氏は「科学史家・科学哲学者」で(Wikipedia)、原子力安全・保安部会の部会長を長く勤めた方だったんですね。福島第一原発事故の直後にも、こうした発言をされています。
toyokeizai.net
調べてみたところ、村上氏は2002年から約八年ほど原子力安全・保安部会の部会長を勤めておられます。福島第一原発事故の直前までなんですね。それなのに、事故に際してのこの「どこか他人事感」は大いに疑問です。こうなると氏のおっしゃる「自分の規矩は決して崩さず、しかしそれで他人をあげつらうことも、裁くこともなく、声高な主張から一切離れ……」という教養の定義が結局は「逃げ」の姿勢にしか映らなくなります。なんとも後味の悪い読後感となってしまいました。

教養の力

教養つながりで、斎藤兆史氏の『教養の力』を読みました。副題に「東大駒場で学ぶこと」とあって、ご自身も学生として、また教員として長く関わってこられた東京大学における教養教育のありようをベースに、教養の意味と意義を問い直す内容です。

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教養の力 東大駒場で学ぶこと (集英社新書)

斎藤氏のご専門である英学・英語教育の視点から見た大学の「国際化・グローバル化=英語化」についての考察も興味深いのですが、さらに興味深かったのは「教養のある人」の定義として道徳感覚や品格を提示している点です。これは清水真木氏が『これが「教養」だ』で述べておられる「意見の分かれる問をあえて問い、可能な限り合理的な答をその都度丹念に探し出す能力」や、戸田山和久氏が『教養の書』で述べておられる「自分をより大きな価値の尺度に照らして相対化できること」とも通底するのではないかと思うのです。

我々が「教養のある人」を思い浮かべた場合、その人が学問や読書によって最終的に身につけているものは、なんらかの道徳感覚や品格と結びついていないだろうか。第一章で見たとおり、それぞれの辞書が「品位」「心の豊かさ」「人間性」などの言葉を使って苦労しながら定義をしている、人としてのありようである。(118ページ)

そうした「ありよう」が成熟してくると、例えば正義についての判断にしても「けっして一義的に決まるものではな」く、より高い教養を身に着けた人の倫理規範は「より普遍的・親和的」に向かうと書かれています。そうした態度について斎藤氏は「センス・オブ・プロポーション」、つまり「バランス感覚・平衡感覚」という英文学作品に現れる言葉を引いています。そうした作品では「明快で強力な行動倫理よりも、えも言われぬ親和力や穏やかなバランス感覚が美徳として描かれることが多い」というのです。

正義感を持つことは重要であり、私たちは生活の節々で自分の立場を決定し、それに基づいて行動しなければならない。その際に、正義を見極めるためのさまざまな情報を有しているかどうか、そしてさまざまな視点から状況を分析して自分なりの行動原理を導くバランス感覚を備えているかどうか、それが教養を身につけているかどうかの大きな指標になると思われる。情報過多の現代にあっては、なおさらそれが教養の鍵となる。(122ページ)

コロナ禍下の現在、先行きが見通せないモヤモヤとした社会状況なだけに、どうも私たちは「明快で強力な行動倫理」をつい求めてしまいがちのようです。でもそうした威勢のいい、胸のすくような、斉一的でこれ「だけ」が正解だ! といったものいいには留保をつけたほうがよいと思います。

私は最近「○○一択」という言い方に引っかかりを感じています。「グレートリセット」とか「ガラッぽん」みたいに頭の悪い(失礼)ものいいとは違うと思いながらも、そのただ一つの選択しかありえないでしょうという決めつけにどこか危ういものを感じるのです。例えば自分のフィールドで言えば、学校の対面授業がオンラインに移行し、今後その扱いをどうするかという議論の中で「オンライン一択!」といったような意見をよく目にします。

そうした方々の意見を拝聴するに、教育におけるIT化のあまりの進展の遅さに憤ってのことであったりして、同意できる点は多いのですが(私自身、その点にはとても憤ってます)、教育にはいろいろな種類があります。今はそれぞれの現場で最適な方法を何かを試行錯誤している段階で、私にはとてもそんな勇ましいことは言えません。

この本もまた、何か漠然と「古典」や「読書」や「博学」などと結び付けられて分かったような分からないような気分になってしまう「教養」に対して、いやそれは実は「人格」と深く結びついているんだよ(斎藤氏は「善」あるいは「つねに『善くなろうとする祈り*1』」と書かれています)、という点を指し示してくれていて、とても腑に落ちたのでありました。

しかしこうやって教養について読んでくると、書店でよく平積みになっている「1日1ページ読むだけで身につく〇〇の教養」とか「世界のビジネスエリートが身につけている教養としての〇〇」みたいな本は、あれは教養というより雑学知識なんだなと思います。もちろん雑学知識もとっても大切かつ有用ではあるんですけど。

*1:倉田百三の『愛と認識の出発』から引いて。