インタプリタかなくぎ流

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重森三玲 庭を見る心得

作庭家・重森三玲氏の随筆を集めた『重森三玲 庭を見る心得』を読みました。東京新聞の書評欄で知って買い求めた本です。

www.tokyo-np.co.jp

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重森三玲 庭を見る心得 (STANDARD BOOKS)

私は庭園芸術についてほとんど知らない人間ですが、このアンソロジーを読んで、日本のお庭をじっくり鑑賞しに行きたいなと思いました。特にひかれたのは、この部分。

日本庭園にあっては、その他砂盛乃至は砂紋の上にも強く抽象性が表現され、又は植栽に於いても各種の刈込に於て、これ又強く抽象性が表現されている。(中略)日本庭園に於ける抽象表現は、石を必らずしも石として用いず、石を山とか水とかその他の表現の素材とし、刈込に於ては植物を植物として用いるのではなく、種々な形を通しての物としての表現としている如く、何れもそれ等の素材が、それ自体の本質を離れて池の表現内容を持つのである。(68ページ)

なるほど、庭園、それも日本庭園といえば、木があって石があって池があって、あるいは枯山水などで、自然の風景を再現して愛でるもの……という漠然とした印象しかなかったのですが、そこにはむしろ抽象的な自然とでもいうべき人の手ならでは(つまり天然の自然とは全く異なる)の芸術の世界があったんですね。

重森氏は庭園以外に、というか庭園との深い関わりから考えれば当然というべきか、茶道や華道にも造形の深い方だったそうで、この本には奏した芸術についての文章も収められています。ただし現代(重森氏が存命だった頃)のそうした芸術についてはかなり辛辣な意見をお持ちだったようで、特に伝統に縛られて固定化・形骸化してしまった家元制度や流儀・流派というものに対しては容赦のない批判を加えています。

特に茶の湯(茶道)やいけばな(華道)あるいは舞踊などに関して、それを教えるということが専門家の生活の糧になってしまっており、一方で学ぶ側も「一種の新興宗教と同じく、家元や流派や先生に対して無条件的に信者になってしまう」と辛辣で、そこには創作のかけらもなく堕落してしまっているといいます。それは絵画や彫刻(かつては〇〇派などの流派がありましたね)がそうしたものがなくなって個人の創作がベースになっているのとは好対照を成していると。

だから習う者は、基本は一応習ってもよいが、それ以上は習うべきではないというのです。

若し習いたい場合は、茶の湯の本質と云うものの上に立って、自覚と反省とを充分にもち乍ら習うべきである。でない限り、習うほど駄目になるのである。習う人々が自覚と反省とをもつようになれば、必然的に教える方も自覚と反省をもつようになり、ここに両者とも創作への努力がなされ、今日としての新しさが茶の湯の上に開けて来るのである。(126ページ)

ここには、自ら各地の庭園を回って実測を行い、また古い庭園の調査などを通して独学で庭園を学び、『日本庭園史図鑑』や『日本庭園史大系』を完成させて庭園史研究の大きな礎を作った重森氏ならではの自負と自信が現れているような気がします。

ただし重森氏は、美的な感覚や芸術に理解のない者に対してかなり辛辣であり、それはときに作庭の依頼主にまで向けられています。私はその姿勢に、斯界に名を馳せた大名人としての威厳や貫禄を感じましたが、同時にちょっとそれは言いすぎじゃないかと思うところもありました。だってそこまで言われちゃったら、芸術はもう高貴な人々や環境に恵まれた一部の人々だけの世界になってしまうんじゃないかと。

私はこの本を読みながら、どこか古典芸能の名人たちが遺した数々の「藝談」に似た趣を感じました。ただし、優れた藝談というものは(少なくとも私にとっては)私のような素人にもどこか取り付く島を与えてくれるものです。このアンソロジーは編集者の手になるものですから重森氏の思想のすべてを網羅しているわけではないのでしょうけど、その点でちょっと突き放されたような冷たさも感じてしまいました。

とまれ、まずは手近なところから。私は庭園のことをほとんど知りませんが、それでもお庭を前に正座していると心休まるのを感じます。そういう歳になったのかもしれません。ネットを検索していたら、全国の庭園を丁寧に解説してくださっている素敵なウェブサイトを見つけました。こちらを参考にしながら、近くの庭園(東京都内にも数々の名園があるんですね!)から鑑賞をはじめてみたいと思います。

garden-guide.jp