三谷尚澄氏の『哲学しててもいいですか?』を読みました。副題に「文系学部不要論へのささやかな反論」とあるように、注意深く、かつ控えめな筆致で、でも大きな危機感を持って書かれた本です。最終的には主題通り、大学の文系学部、なかでも哲学教育の大切さに筆者の主張は収斂していくのですが、より大きなテーマとしては教養教育の大切さが通奏低音となって流れているように思いました。
哲学しててもいいですか?: 文系学部不要論へのささやかな反論
冒頭の、大学における研究者の現状と、学生さんたち(あるいは若い方々)の学びの現状に対する分析は、私の周囲で見聞する話とあまりにも似通っています。もうかなり前から色々な方が「これで本当に大丈夫なのか」と声を上げてきたことではあるのですが、ついにこれが日本全体のふつうの光景になったのだなあと、軽い絶望感を伴いながら読みました。
そしてまた、本書で紹介されている日本の学生に見られる「悟り」のメンタリティは、私が日々向き合っている外国人留学生ーー特に経済的に裕福になって、かつての「国の未来を背負って」的な動機ではない、いわば「ご遊学」的な留学生ーーにもある程度共通するものだと思いました。今や外国人留学生の多くが、趣味や服装などの外観だけでなく、内側の考え方・世界観まで似てきているのだなと。それでもまだ強烈な個性を発揮している人の割合は日本人よりは多くて、私はそういう留学生に会うと、変な表現ですがどこか「ほっ」とするのです。
この間多くの「教養」に関する本を読んできました。そこに共通する教養の本質とは、複雑かつ混迷を極める世界の中で、自分ひとりの小さな価値観に囚われることなく、さまざまな「自分がまだ知らないもの」や「自分とは異なるもの」にアプローチし、自らの頭で考える「人としての生き方」の涵養であるように思えます。この本ではそのアプローチ方法のひとつである哲学の「効き目」について、筆者の三谷氏がこう語っています。
この問いに対するわたし自身の考えは、哲学の学びを通じて、人は「外の思考に対して開かれている」という「態度」や「習慣」を身につけることができる、というものである。(中略)あるいは、「異質なもの」や「自分とは違った考え方や意見」に対する「感受性」や「耐性」が育まれるのだ。そんな表現を用いてみてもよいだろう。(151ページ)
三谷氏はこうした態度や習慣、あるいは感受性や耐性を兼ね備えている状態を「市民的器量」と呼んでいます。なるほど、そうした「器量」をもつ人間を世の中に送り出していくことこそ大学の、それも文系学部の使命ではないのかと。
これは『教養の書』の戸田山和久氏の言う「自分をより大きな価値の尺度に照らして相対化できること」、あるいは『これが「教養」だ』の清水真木氏が言う「意見の分かれる問をあえて問い、可能な限り合理的な答をその都度丹念に探し出す能力」、さらには『教養の力』の斎藤兆史氏が言う「正義を見極めるためのさまざまな情報を有し」、「さまざまな視点から状況を分析して自分なりの行動原理を導くバランス感覚を備えている」というのと同じですよね。
ただこの「市民的器量」の涵養は、ひとり大学にのみ求められるものではないと私は思います。多くの「教養」を説く本では、学問や研究をする大学と、技術を身につける専門学校を厳しく区分けして語られているのですが(この本にもそういう記述があります)、専門学校にも純粋に技術を身につける(手に職をつける)だけではない、大学の教養教育や哲学と同じような側面が求められるのではないかと。
もちろん原書を読んだり論文を書いたりするような「それ」ではないけれども、「市民的器量」を備えた、あるいはこの世の中を支える成熟した大人としての市民を育てるという意味では、専門学校を経て社会人になっていく学生だって同じだと思うのです。職業訓練としての専門学校にも、もっと言えば語学学校やカルチャースクールでさえも、三谷氏のおっしゃる哲学という知的な営み、教養教育・リベラルアーツの要素は本質的に必要ではないかと思いました。