インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

教養の力

教養つながりで、斎藤兆史氏の『教養の力』を読みました。副題に「東大駒場で学ぶこと」とあって、ご自身も学生として、また教員として長く関わってこられた東京大学における教養教育のありようをベースに、教養の意味と意義を問い直す内容です。

f:id:QianChong:20200810102406j:plain:w200
教養の力 東大駒場で学ぶこと (集英社新書)

斎藤氏のご専門である英学・英語教育の視点から見た大学の「国際化・グローバル化=英語化」についての考察も興味深いのですが、さらに興味深かったのは「教養のある人」の定義として道徳感覚や品格を提示している点です。これは清水真木氏が『これが「教養」だ』で述べておられる「意見の分かれる問をあえて問い、可能な限り合理的な答をその都度丹念に探し出す能力」や、戸田山和久氏が『教養の書』で述べておられる「自分をより大きな価値の尺度に照らして相対化できること」とも通底するのではないかと思うのです。

我々が「教養のある人」を思い浮かべた場合、その人が学問や読書によって最終的に身につけているものは、なんらかの道徳感覚や品格と結びついていないだろうか。第一章で見たとおり、それぞれの辞書が「品位」「心の豊かさ」「人間性」などの言葉を使って苦労しながら定義をしている、人としてのありようである。(118ページ)

そうした「ありよう」が成熟してくると、例えば正義についての判断にしても「けっして一義的に決まるものではな」く、より高い教養を身に着けた人の倫理規範は「より普遍的・親和的」に向かうと書かれています。そうした態度について斎藤氏は「センス・オブ・プロポーション」、つまり「バランス感覚・平衡感覚」という英文学作品に現れる言葉を引いています。そうした作品では「明快で強力な行動倫理よりも、えも言われぬ親和力や穏やかなバランス感覚が美徳として描かれることが多い」というのです。

正義感を持つことは重要であり、私たちは生活の節々で自分の立場を決定し、それに基づいて行動しなければならない。その際に、正義を見極めるためのさまざまな情報を有しているかどうか、そしてさまざまな視点から状況を分析して自分なりの行動原理を導くバランス感覚を備えているかどうか、それが教養を身につけているかどうかの大きな指標になると思われる。情報過多の現代にあっては、なおさらそれが教養の鍵となる。(122ページ)

コロナ禍下の現在、先行きが見通せないモヤモヤとした社会状況なだけに、どうも私たちは「明快で強力な行動倫理」をつい求めてしまいがちのようです。でもそうした威勢のいい、胸のすくような、斉一的でこれ「だけ」が正解だ! といったものいいには留保をつけたほうがよいと思います。

私は最近「○○一択」という言い方に引っかかりを感じています。「グレートリセット」とか「ガラッぽん」みたいに頭の悪い(失礼)ものいいとは違うと思いながらも、そのただ一つの選択しかありえないでしょうという決めつけにどこか危ういものを感じるのです。例えば自分のフィールドで言えば、学校の対面授業がオンラインに移行し、今後その扱いをどうするかという議論の中で「オンライン一択!」といったような意見をよく目にします。

そうした方々の意見を拝聴するに、教育におけるIT化のあまりの進展の遅さに憤ってのことであったりして、同意できる点は多いのですが(私自身、その点にはとても憤ってます)、教育にはいろいろな種類があります。今はそれぞれの現場で最適な方法を何かを試行錯誤している段階で、私にはとてもそんな勇ましいことは言えません。

この本もまた、何か漠然と「古典」や「読書」や「博学」などと結び付けられて分かったような分からないような気分になってしまう「教養」に対して、いやそれは実は「人格」と深く結びついているんだよ(斎藤氏は「善」あるいは「つねに『善くなろうとする祈り*1』」と書かれています)、という点を指し示してくれていて、とても腑に落ちたのでありました。

しかしこうやって教養について読んでくると、書店でよく平積みになっている「1日1ページ読むだけで身につく〇〇の教養」とか「世界のビジネスエリートが身につけている教養としての〇〇」みたいな本は、あれは教養というより雑学知識なんだなと思います。もちろん雑学知識もとっても大切かつ有用ではあるんですけど。

*1:倉田百三の『愛と認識の出発』から引いて。