インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

「ファミリーヒストリー」に対する違和感

先日、夕飯を作りながらBGMがわりにテレビをつけていたら、NHKで「ファミリーヒストリー」という番組をやっていました。予告(「今夜のNHK」みたいな)は見たことがあったものの、番組そのものは一度も見たことがなかったのですが、見ているうちに何とも言えない不愉快な気分になってきて、チャンネルを変えてしまいました。

www4.nhk.or.jp

公式ウェブサイトによれば、この番組は「著名人の家族の歴史を本人に代わって徹底取材し、『アイデンティティ』や『家族の絆』を見つめる番組」だそうです。チャンネルを変えたあと、なぜ不愉快な気分になったのかなと自問しました。

やたら「絆」とか「家系」などを強調していたからでしょうか。たしかに私は、家族は大切だとは思うものの、それぞれが別個の人間であり、必要以上に繋がりを求めるのは苦手です。特に子供が成人した後は、家族は「親離れ・子離れ」してそれぞれが精神的に自立すべきだと思っています。

はたまた私は、主人公となっている著名人の交友関係の豪華さに嫉妬していたのでしょうか。たしかに番組では、あの親戚が実はあの著名な誰それと親しかった! こんなに素晴らしい業績を残していた! 的なサプライズが次々に紹介されていました。でも私には、私自身はもちろんですが、家族や親戚にだってそんな人はいないし……。

何とも言えないモヤモヤした気持ちを引きずっていたのですが、翌朝の東京新聞を読んで驚きました。ルポライター鎌田慧氏がこの番組について取り上げ、コラムを書かれていたからです。こういうシンクロニシティは本当に不思議です。そして、私が抱えていたモヤモヤを鎌田氏が見事に言語化されていて、その点でも驚きました。

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「売り家と唐様で書く三代目」。戦後改革は身分制度を解体したはずだ。いつのまにか三代目政治家たちが国政を牛耳って悪政ほしいまま。この時代、ルーツを誇る番組に抵抗がある。「貴あれば賤あり」。差別に無頓着だ。

思わず快哉を叫びました。そうか、ことさらに家族の歴史を称揚しルーツを追い求めることと、人間どうしの差別は紙一重なんですね。

たしかにこの国には、建前上はないとされている身分なり階級なりの概念が今も色濃く残っています。その最たるものが皇族で、私は天皇制についてその歴史的価値は認めますが、現在のような行き過ぎた身分の有り様ははなはだ疑問です(その意味でも皇室の機能はすべて京都御所に戻し、東京の中心部にある江戸城跡はセントラルパーク的な公園として一般に開放すべきだと考えています)。

折しも先日「フィンランドでサンナ・マリン氏が首相に就任」というニュースに接しました。「世界最年少」とか「女性首相」などという見出しが各メディアに踊っていて、私はそれらにも少々複雑な気持ちでいたのですが(ことさらに「女性」の首相だと強調するなど、何という鈍感さでしょうか)、氏の「ファミリーヒストリー」を「異色の生い立ち」と見出しで伝える報道にも抵抗を覚えました。

news.livedoor.com

ただ、このニュースは、逆にどんな「ファミリーヒストリー」があろうと、どんな「生い立ち」であろうと、ガラスの天井を打ち破ることはできるのだという視点、そういう首相をフィンランドの人々が選んだという視点でみれば、逆に清々しい気持ちをもたらしてくれるものでもあったと思います。

フィンランドは長く他国の支配下にあったので王室や貴族というものを持たず、そのためフィンランド語にもそうした階級用の特別な用語や言い回しはほとんどないのだそうです(外来語としてはある)。それもまた、フィンランド語に惹かれる理由のひとつなのです。

閑話休題

この番組に関しては、ウィキペディアにもコラムニストの高堀冬彦による、鎌田氏と同様の見解が引かれていました。いわく「家系について調査し放送することが『本人』を重視する現代社会の精神に反し差別の助長につながる」。これも同感です。なるほど、自分のモヤモヤ感にはそれなりに根拠みたいなものがあったのだなと、少しだけ気分が晴れました。

gendai.ismedia.jp

ハッピーホリデー

朝、職場でパソコンを立ち上げ、ブラウザを開いたら、Googleの「Doodle(ドゥードル:日替わりのロゴ)」がこんなイラストになっていて、カーソルを乗せると「2019年ハッピーホリデー」となっていました。

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それでクリックしてみたら、一番最初に「ハッピーホリデー」の説明があり、こう書かれていました。

英語圏(主に米国)における年の瀬の挨拶の一種。主に「メリークリスマス!」の代替として用いられる。クリスマスはキリスト教における宗教的行事であることを背景に、他の宗教を持つ人々を顧慮する場合に用いられるという。
「ハッピーホリデー」の意味や使い方 Weblio辞書

なるほど〜。私自身はキリスト教徒でもないし、そもそもクリスマスやハロウィンなどとはまったく縁のない&興味のない人間ですが、こういう配慮はいいですね。アメリカで長く暮らした経験のある同僚に聞いてみたら、もうかなり以前から使われている挨拶なんだそうです。不明を恥じました。

私が勤めている学校でも、世界各地から留学生が集まっており、当然それぞれの宗教も異なります。というわけで宗教に対する配慮も必須なのですが、例えば研修旅行などで観光地を訪れる際、コースに神社仏閣などの見学が入っていたりすると中には抵抗を示す留学生もいます。このあたり、無宗教のくせに神道の神社も仏教の寺院もお気軽に参拝しちゃう私のような人間は、そういう指摘を受けて初めて「そうか……」と気づく鈍感さです。たぶん多くの日本人がそうなんじゃないかと思います。

これからますます異文化や異なる宗教の人々が周囲で暮らすようになる時代が来る……と考えれば、このあたりのリテラシーも培っておかなければならないんじゃないか。そんなことをGoogleの「Doodle」で気づかされました。

やっぱり借金減らして現金増やせ!

荻原博子氏の『やっぱり借金減らして現金増やせ!』を読みました。

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副題は「“2000万円”なくても老後資金は足りてます」。そう、これは今年「老後資金は公的年金だけでは2000万円不足する」という部分だけがセンセーショナルに取り上げられて話題になった、金融審議会市場ワーキング・グループ報告書「高齢社会における資産形成・管理」を念頭に置いて書かれた一冊です。

qianchong.hatenablog.com

結論から言うと、この本には特に目新しいことが書かれているわけではなく、とても常識的かつ基本的な「資産」に関する入門書になっています。その意味ではちょっと期待はずれだったのですが、わかりやすい言い切りで(これは著者である萩原氏の「芸風」でもあると思いますが)、それなりに納得感や安心感が得られるのがこの本の魅力です。

50歳の段階で資産がプラマイゼロであればそれほど老後は暗くないとか、何よりも大切なのは借金(ローンを含む)を速やかに精算して貯金をすることとか、投資はよほど知識がある方以外はやめておいたほうがいいとか、とにかくシンプルで分かりやすい。

でも、その一方で年金や保険のごくごく基本的なところとか、民間の保険に頼らなくても公的保険でかなりのところまで保障されているとか、「それすら知らない」私たちにとってはお金の教養の第一歩になるのではないかと思いました。特に、政府が国民に投資しろ投資しろとやたらに勧めてくるウラに何があるのか……と考えるきっかけにもなりました。

qianchong.hatenablog.com

ところでこの本はコンビニのセブンイレブンを展開する「セブン&アイ」が今年から始めた出版社「セブン&アイ出版」の「学び新書」シリーズの一冊です。既存の新書より本の作りがとても「ライト」な印象。ワンコイン500円でお手軽(その分薄い)ですし、イラストを散りばめて新書というよりは雑誌、あるいはムック的な作りのページもあります。

最初この本をAmazonで買おうと思ったのですが、新刊にも関わらず在庫はすべてマーケットプレイスにしかなく、それも定価の二倍も三倍もの値段をつけている出品者ばかりです。なるほど、この新書は既存の書店ではなくセブン&アイのコンビニやスーパーを通して売る新しい出版形態を追求しているのかなと思いました。それで近所のセブンイレブンなどをのぞいてみたのですが、どこにも売ってない。

gendai.ismedia.jp

というわけで結局、同社のネットショッピングサイト「オムニセブン」で買いました。注文後数日で、自宅や職場近くのセブンイレブンで受け取ることができました。

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愚者の税金

先日は職場の忘年会が開かれまして、自分としては珍しく都心の繁華街に出かけた(人混みが苦手だから)のですが、道端の宝くじ売り場には長蛇の列ができていました。「年末ジャンボ」を買い求める人々ですね。一緒にいた同僚によると、この宝くじ売り場に並ぶ行列は外国人観光客の興味をそそるそうで、写真を撮る方もいるのだとか。

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https://www.irasutoya.com/2015/02/blog-post_660.html

人生一発逆転の夢をかけて高額当選を狙うそのワクワク・ドキドキ感に水を差すつもりはないんですけど、宝くじはこれ以上ないくらいの、ものすごく割の悪いギャンブルです。ありていに言って、ワクワク・ドキドキの高揚感を味わうという目的以外で宝くじを買う理由はみつかりません。「愚者の税金」と呼ばれるゆえんです。もっともそれで地方自治体などが公共事業などの財源を確保しているのだとしたら、それはそれでいいかなとも思います。私は絶対に買いませぬが。

money-lifehack.com

忘年会の翌日、自宅のポストにはいつも利用している信販会社からの封筒が届いていました。表には「親展」と書かれ、裏には「大切なお知らせがございます。必ずご開封ください」の文字が。えええ、カード払い用に使っている銀行口座からの引き落としができなかったとか、不正利用が見つかったとか、そういう不穏なお知らせかしらとドキドキしながら開封してみたら……「カードローン・キャッシングサービスご利用可能枠設定のご提案」というお知らせが。

なんでも「お手持ちのクレジットカードにはカードローン・キャッシングサービスのご利用可能枠が設定されておりません」とのことで、ぜひ設定するよう促すお手紙でした。申込みの期限まで明記されています。ドキドキして損しました。私はカードローンやキャシングや消費者金融のたぐいは絶対に利用しません。ついでに「リボ払い」みたいなのも絶対に利用しません。いずれも銀行や金融業者が効率よく儲けるための手段でしかないからです。

今回の「ご提案」DMにも、いまカードローン・キャッシングを申し込むと抽選で5000円分のギフトカードプレゼント! などの大きな惹句が踊っていましたが、その一方で片隅に「貸付条件」の細かく小さな文字が。カードローンは融資利率(実質年率)が14%から18%ほど、キャッシングサービスもほぼ同じ利率です。絶対利用しません。でも私は、若い時には借金もして、キャッシングもしたことがある「愚者」でしたから、あまりエラそうなことは言えないんですけど。

宝くじや、カードローンやキャッシング、さらに消費者金融などはいずれもテレビなどでお金をかけた派手な宣伝を打っていますよね。その理由を考えてみるべきだと思います。というわけで私は、そういう宣伝に出演して広告塔になっている芸能人にも冷ややかな視線を送っています。

末端の現場は大変だ

私が勤めている学校では、語学教育や通訳翻訳訓練の際、生徒がパソコンを使う授業が数多くあります。そのためにノートパソコンがずらっと並んだ「パソコン教室」や、「CALL(Computer Assisted Language Learning)教室」などがあり、授業で用いる他に、生徒の課題制作や自習用にも使われています。このご時世ですから授業や課題制作や自習にはネット検索が必須。というわけで、それぞれのパソコンはもちろんインターネットに接続されています。

ネットに接続するパソコンが多数あるということで、学校では「サイバーセキュリティの強化」に乗り出しました。これまでは生徒がどのパソコンを使うかはまったくの自由で、授業ごとにそれぞれがパソコンを立ち上げて使ってきました。小中学校などと違い、各自固定の席があるわけではないからです。ところが、これからは毎回の授業のたびに生徒に名前と学籍番号を入力させ、いつ誰がどのパソコンをどのように使ったのか、ログを取って記録・保存するということになりました。

う〜ん、ただでさえ授業時間が短く、それも起動がクソ遅い(おっと、失礼)Windows機だというのに、さらにルーティンの作業が増えることになります。正直面倒くさいなあと思いましたが、これは学校の方針というよりも、お上(文部科学省)からのお達しに沿った措置のようです。すでに昨年から「国立大学法人等における情報セキュリティ強化について」とか「公立大学等における情報セキュリティ対策の強化について」とか「私立大学等を設置する学校法人等における情報セキュリティ対策の強化について」という通知が同省から出されているそうで、今年になってさらに「大学等におけるサイバーセキュリティ対策等の強化について」という通知が出されました。

国立大学法人等」→「公立大学等」→「私立大学等を設置する学校法人等」→「大学等」と、「等」がやたらに目立つ通知ですが、どんどん「対策の強化」の範囲が広げられてきたわけですね。うちの学校は専門学校なので、最後の通知にある「大学等」という一番大きなくくりに含まれているのでしょう。それで学校側も「対策の強化」に乗り出さざるを得なくなったというわけです。

私自身は、サイバーセキュリティの強化はまあ必要なのかなと、その趣旨については理解できます。ただ、通訳翻訳訓練では一人の生徒が特定の一台のパソコンを使うというシチュエーションだけではなく、二人でお互いの音声を聞きあったり、グループで字幕を作ったり、様々な利用方法のバリエーションがあります。要するに、単にいつ誰がどのパソコンを使ったのかログを取れといってもそう簡単ではないんですね。加えて、CALL教室ではどの教師がシステムを使っていたのかもすべてログとして記録に残されることになりました。

う〜ん、これもなんだか気持ち悪い。どんなサイトを閲覧したかとか、どんなサイトを留学生に見せたり紹介したりしているのかとか、いちいち記録が残るのかしら。いや、まあ別にやましいことをしているわけじゃないから、自分のログが記録されてもいいんですけど……。

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https://www.irasutoya.com/2018/05/blog-post_28.html

なんとなく腑に落ちなかったので、当の「大学等におけるサイバーセキュリティ対策等の強化について」という全15ページにわたる「通知」の写しを入手して熟読してみました。そこで分かったのは、この通知の趣旨がハードウェアの盗難やソフトウェアに対するサイバー攻撃等に焦点を当てており、特に「我が国の防御力・抑止力・状況把握力の強化として、科学技術競争力や安全保障等に係る技術情報を保護するため、先端的な技術情報等を保有する大学等に対して、サイバー攻撃による当該情報の漏洩を防止するための取り組みを促すとともに、文部科学省が支援する」ことを主眼としている、ということでした。

なるほど、そういう最先端の研究施設に対する施策を、「大学等」というひとことで私たちのような「末端」の専門学校にまで広げて適用しようということだったんですね。お達しを出す方は「大学等」のひとことだけでいいですけど、そのひとことで教育現場の末端にいる私たちにはさらに教育とはあまり無関係そうな事務作業がどぉんと増えてしまいます。それでも、うちの学校など小規模ですからまだマシですが、規模の大きな学校現場は大変なことになっているんだろうなとお察し申し上げる次第です。

諸外国でも同様の対策は取られているようですし、その意義はよく分かるのですが、「科学技術競争力や安全保障等に係る技術情報」や「先端的な技術情報」とは縁遠い留学生の語学学習の現場にも、本当にこれらの措置が一律に必要なのかなあと思いました。こういうときは、中国で庶民の人口に膾炙していることわざ“上有政策下有対策”が役に立つのかもしれません。

インタープリターズ・ハイ

年の瀬も押し迫ってまいりまして、留学生の通訳クラスは定期テストを行いました。この定期テストは、CALL教室で各自が合計一時間あまり延々と通訳し続けます。全体の三分の二ほどは授業で訳出練習をした内容の復習ですが、残り三分の一は「初見」、つまり初めて聞く内容です(「初聴」というべきかしら)。事前に音声を聞くことができる通訳業務というのは基本的にありえないので、本当は全部「初見」でやりたいところですが、そこはそれ、訓練中の留学生なので負荷を少し下げてあります。

負荷を下げているとはいえ、今回はけっこう難しい教材を作りました。海洋ゴミの問題に取り組んでいるNPO法人の代表が公演を行っている映像を使って、逐次通訳を行うのです。最先端の話題で、グラフなどのデータや数値も数多く登場します。


【一席】劉永龍:海洋垃圾為什麼是個問題

毎度のことですが、課題に取り組む際には「もし自分が本当にこの仕事を引き受けたらどんな準備をするか」を各自に考えてもらいます。そのうえで、講演者やNPO法人の情報やプレゼン用パワーポイントの資料を配り、専門用語や業界用語など普段の生活ではまず使わないような語彙をピックアップし、グロッサリーを作って覚え……と、充分な予習をしてから訳出訓練に入ります。今日はCALLで録音をしながら留学生の訳出をモニターしていましたが、みなさんなかなか「サマ」になってきました。通訳者らしい“風格”が出てきたというか。

通訳という作業を延々続けていると、まれに奇妙な高揚感に包まれることがあります。マラソンなどで苦しさをがまんして走り続けると、ある時点から高揚感や恍惚感が生じる、いわゆる「ランナーズ・ハイ」という現象がありますけど、あれになぞらえれば「インタープリターズ・ハイ」とでも呼ぶべきでしょうか。

二つの言語の間で格闘を続けていると、脳内快楽物質が分泌されるのか、ある時点でふとギアが切り替わるというか、「おお、訳せる訳せる!」「このまま永遠に訳し続けられるような気がする!」というような感覚に襲われるのです。

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https://www.irasutoya.com/2015/05/blog-post_306.html

私が初めてこの「ハイ」を味わったのは、たしか台湾での長期派遣時で、日台双方の主張が折り合わず延々14時間にも及んだ技術会議の最中でした。予習がきかないため一番難しくて緊張する「質疑応答」や「Q&A」などの場面でも、意外にうまく処理できてしまったり(というのもクライアントに申し訳ないですが)して「何でも訳してやる。さあ来い!」という心境になり、ひいては「もしかしたら、オレって天才かも」などと謎の全能感に包まれました。

もっともこの「インタープリターズ・ハイ」、私の場合はごくたま〜にしか訪れてくれませんし、訪れてもそれほど長くは続かないのが悲しいところですが。小テストが終わって留学生のみなさんに「インタープリターズ・ハイ」を感じましたかと聞いてみましたが、みなさん一様に「別に〜」というお返事でした。……そうですか。まあなにはともあれ、お疲れさまでした。

先生と呼ばないで

若い頃、松下竜一氏の著作を片っ端から読んでいた時期がありました。アルバイトをしていた八百屋さんのオヤジさんが松下氏の熱烈なファンで、大分県中津市の松下氏宅まで訪ねていっちゃうくらいの方だったのですが、私もその影響を受けて『豆腐屋の四季』をはじめ、『ルイズ 父に貰いし名は』『砦に拠る』『狼煙を見よ』などを読み漁っていたのでした。

中津の町で家業の豆腐屋さんを継いだ松下氏は、豊前火力発電所の建設反対運動をきっかけに社会運動・市民運動に関わるようになり、その後反公害・反開発・反原発などの運動の旗手として注目されるようになります。一方で作家・歌人としても活躍していた松下氏は、周囲から「先生」と呼ばれるのに違和感を覚えてそれを逆手に取り、エッセイなどでは自らを「センセ」と称するようになります。「先生」じゃなくて「センセ」という「ちゃっちゃい感」がどこか自虐的で、権威を嗤っているスタンスがあって、私は大いに共感したものでした。

当時は、後年まさか自分が人さまに何かを教える立場に就くなどとは夢にも思っていなかったのですが、最初に教室で「先生」と呼ばれた時に、その大いなる違和感とともに松下氏のエッセイを思い出したのでした。以来「先生と呼ばれるほどの〇〇でなし」という警句とともに、この「センセ」的などこか自分で自分を突き放すような、あるいは常に自分を戒めているような気持ちを大切にしてきました。

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https://www.irasutoya.com/2013/08/blog-post_4906.html

あれから断続的ながら、もう20年以上も「センセ」を続けてきたのですが、いまだに「先生」と呼ばれることに慣れません。いや、慣れないというのはちょっとカッコつけすぎで、実際には慣れちゃっているのですが、ときおり「先生」という呼称とともにまるで腫れ物にでも触るがごとき丁寧すぎる対応を受けることがあって、そういうときは本当に困惑してしまいます。というか、ハッキリ言って不愉快な気分になります。

下にも置かないもてなしを受けて何が不満かと思われるでしょうか。しかし、あまりにも相手が謙遜しまくってビクビクしていたり、こちらが何かひとこと言っただけで「ええ、ええ、ええ、それはもう!」とか「いえ、いえ、いえ、とんでもございません!」とか「もう本当にありがとうございます〜」みたいな対応を受けたり、ちょっと入り口で鉢合わせになっただけで「あああ、先生、もう、本当に失礼いたしました!」などと平謝りされたりすると、逆にムッとしません? 丁寧ではあるんだけど、何だかまともに向き合ってくれていないような気がするんですよね。あるいは「ほんとにこっちの話を聞いてくれているのかしら」と思っちゃう。

中国語に“過於謙虛等於驕傲(過ぎたる謙虚は驕りに同じ)”ということわざがあるんですけど、本当にそうだなあと思います。もっとも、周りの方がそうやって「過ぎたる謙虚」な態度に出るのは、そうさせるような威圧感みたいなものが私に備わっているからなのかもしれません。いかんいかん。なるべく「先生」と呼ばれないような自分になりたいです。そして同僚にもなるべく「先生」ではなく「さん付け」で呼ぶようにしたい。それでも先生と呼ばれちゃうことは避けられないでしょうけど、だからこそなおのこと松下氏流の「センセ」的な自虐を大切にしていきたいと思います。

さらにあの「薄いビニール袋」との果てしなき戦い

いいかげんしつこいと思われるかもしれませんが、あの「薄いビニール袋」との戦い、第四弾です。これまでの「戦い」はこちら。

あの「薄いビニール袋」との果てしなき戦い - インタプリタかなくぎ流
ふたたびあの「薄いビニール袋」について - インタプリタかなくぎ流
あの「薄いビニール袋」を何とか避けたい - インタプリタかなくぎ流

先日ジム帰りに、表参道のおしゃれなスーパーマーケット「紀ノ国屋インターナショナル」に立ち寄りました。ここは何でもお高いんですが、野菜の品揃えが充実していて、このときはローストチキンに添える小粒じゃがいもを買おうと思ったのです。あと、珍しいフィンランドのパン、hapan korppu(ハパンコルップ)とか hapan ruisvuoka(ハパンルイスヴオカ)なんかが売られているのもポイント高し(しかも、けっこうお安いです)。

レジではマイバッグを渡しながら(店員さんが詰めてくれるのです。さすが高級スーパー)「袋はいりません」と伝えたんですが、レジ係の方はじゃがいもを「薄いビニール袋」に入れてくれようとします。それで「あ、それも結構です」と言ったら「じゃがいもの土が他のものにつきますが……」と困惑顔のレジ係さん。「いえいえ、本当に結構です」とお断りしましたが、すごく不思議そうな顔をされました。

じゃがいもはもともとビニール袋に入っています。パンチで開けた空気穴みたいなのが開いている袋でしたから、レジ係さんは、そこからじゃがいもの土が一緒に買ったパンなどについちゃ大変と思って「薄いビニール袋」に入れてくれようとしたわけです。まあパンもじゃがいももみんな既にビニール袋入りですから、いまさら「薄いビニール袋」の一枚や二枚こだわっても仕方がないのかもしれませんが、明らかに過剰な対応だと思いません?

いやいや、この場面でじゃがいもの袋をさらに「薄いビニール袋」に入れなかったら、客が怒るのかもしれません。だからレジ係の方もそういう対応になっているんでしょうね。そう、日本の私たち全体が、こういう過剰な包装に慣れっこになっていて、もはや疑問すら感じないレベルに達しているのです。

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https://www.irasutoya.com/2014/05/blog-post_394.html

外国人観光客向けの情報発信を行っている「LIVE JAPAN」というウェブサイトがあるのですが、そこにこんな記事がありました。

多くのスーパーマーケットではレジで清算をする際に、スタッフの人がささっと薄いビニール袋に生鮮食品を入れてくれますよね。普通のことかと思いきや、海外では自分で入れたり、もしくはビニール袋さえ用意がないところも。日本人にとっては、当たり前すぎて、意識することはあまりないですが、考えてみればとても助かるサービスですよね。

livejapan.com

う〜ん、こういうところを「日本すごい」と誇れないんじゃないかと私は思います。先般のCOP25では日本が「化石賞」を連続受賞してますけど、環境問題ではこの国はもはや諸外国の後塵を拝しています。そして、こうしたプラスチックごみの問題についても、私たちの国と国民の意識は、かなり遅れていると感じるのです。たかが「薄いビニール袋」一枚のことですけどね。「LIVE JAPAN」の記事はこう締めくくられています。

また、ビニール袋が無料でもらえるところがまだあることが嬉しいとの声も。自国では有料化が進んでしまったので、消費者としてはやはり無料だとうれしいとの意見がありました。しかし日本も、環境を配慮し、レジ袋の有料化が徐々に広がってきているので、他の国同様、いつかなくなっていくサービスになるかもしれません。

この記事、諸外語に訳されて世界に発信されているんですけど(機械翻訳サービスに頼ったものではなく、ちゃんとした翻訳です)、こうやって能天気に発信していることそのものが少々恥ずかしいことだと思わなきゃいけないですよ。

「総統」について

昨日の東京新聞朝刊に「台湾総統選」についての特集記事が載っていました。

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私は昔からこの「総統」という呼称が心に引っかかります。中国語を学んでいる者からすれば「総統(ゾントン/zǒngtǒng/ㄗㄨㄥˇ ㄊㄨㄥˇ)=大統領」だからです。“特朗普(川普)總統”なら「トランプ大統領」、“普京(普丁)總統”なら「プーチン大統領」。だったらどうして「蔡英文大統領」にならないのかと。

もちろんこの呼称、みなさまご案内の通り、中華人民共和国中華民国の現状に鑑み、日本政府がとっている立場に即して選ばれているものです。日本の外務省も、日本台湾交流協会(公式に国交のない中華民国との実務関係を扱う窓口機関)も、ウェブサイトでは「総統」の呼称を用いています。

外務省のウェブサイトには日本と台湾に関する「基本的な枠組み」が記されており、そこには「台湾との関係は1972年の日中共同声明にあるとおりであり,非政府間の実務関係として維持されている」とあります。ここで触れられている「日中共同声明」は第三項を指していて、そこにはこう書かれています。

中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。

いわゆる「ひとつの中国」という立場を理解し、尊重するということですね。同意とハッキリ言ってないところに当時の人々のご苦労がしのばれます。で、この「ポツダム宣言」第八項にはこう書かれています。

カイロ宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ

現在の日本の領土を(ほぼ)確定したものです。さらに、ここに出てくる「カイロ宣言」の条項にはこう書かれています。

右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ

台湾(澎湖諸島を含む)は中華民国に返還すると。その後、1972年の「日中国交正常化」にともなって日本は中華民国と「断交」し、現在に至ります。こうした経緯を踏まえて、日本では中華民国(台湾)のトップを「大統領」と呼べばそれは彼の地を独立国として扱っていることになりまずい、けれども台湾は実質的に国家の体を成している(と書くと「キーッ!」と憤慨される向きもあるでしょうけど、現状は明らかにかの国とは別個の民主国家です)ので、何らかのトップの呼称は必要だ……それで一種の妥協の産物として中国語の“総統”をそのまま「総統(そうとう)」として使うという慣習(?)になったわけです。

でもこの「総統」って呼称、なんかあんまり感じよくなくありません? 秘密結社鷹の爪団の、あの目付きの悪い総統とか、私くらいの年代だと『宇宙戦艦ヤマト』に出てくるガミラス帝国の「デスラー総統」を思い出しちゃう。あ、もちろんこれは、あのナチスの「ヒトラー総統」をもじったものですよね。ガミラス側の登場人物はナチスドイツをモチーフにしているようで、ヒス副総統(ガミラス)はヘス副総統(ナチス)だし、ドメル将軍ガミラス)はロンメル将軍(ナチス)だし、他の登場人物もドイツ風のお名前です。

閑話休題

上述したような日本政府の立場を踏まえて、日本のマスメディアも「総統」の呼称を採用しています。中華人民共和国に対して批判的な記事が多い『読売新聞』や『産経新聞』も同様です。

www.yomiuri.co.jp
www.sankei.com

じゃあ、例えば「蔡英文大統領」という記述はないのかしらと、グーグルで検索(「蔡英文大統領」をダブルクォーテーションマークでくくって)してみたら、なぜか「YOSHIKIのツイートに、台湾の大統領がリツイート」という記事ばっかり見つかります。ああ、そういえばそんなことがありましたね。

www.excite.co.jp

他にもいくつかのネットメディアで「蔡英文大統領」という記述が見つかりましたが、確かめてみた範囲では、そのメディアが「大統領」という呼称を採用しているというよりは、個々のライターさんの判断に任せているみたいです。同じメディアでも「大統領」と「総統」が混在しているようでした。例えばこちらのウェブサイト。

taiwanlabo.com

じゃあ中華人民共和国のメディアはどんな呼称を使っているかというと“台灣地區領導人(台湾地区のリーダー)”なんですね。そりゃまあそうでしょうけど、海外の通信社、例えば AP とか France24 などや、日本のメディアでも『The Japan Times』などは“Taiwan President Tsai Ing-wen”と書いています。

https://apnews.com/3d7dba706a3a4823bb7adc59635430f9
Taiwan president calls for international support to defend democracy
www.japantimes.co.jp

日本の大手メディアがそれぞれの判断で現状を変えることはまずないでしょうけど、例えば「蔡英文総統(大統領)」とか、「大統領に相当」などと記述するところがあってもいいのにね、と思いました。“立法院”なんかは各紙とも「立法院(国会に相当)」とか「国会に当たる立法院」などと書いているんですから。

スマホは「誰かに消費される」ためのツール

以前、カル・ニューポート氏の『デジタル・ミニマリスト』という本について文章を書きTwitterにも感想をつけて投稿したら、出版元の方から「この感想を本の帯に使わせていただけませんか」と連絡がありました。そこで「どうぞお使いください」とお返事したところ、先日出来上がったその帯をわざわざ送ってきてくださいました。早川書房さん、ごていねいにありがとうございます。

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感想に書いた通り、この本を読んで私は「よりよい人生とは、人間らしい暮らしのあり方とは」と以前にもまして考えるようになりました。なにしろつい最近までの私は、スマホSNSに心も時間も持って行かれていて、それこそこの本の副題のように「本当に大切なことに集中」できていなかったのです。そういえばこの新しい帯(全面帯)では「本当に大切なことに集中する」という副題のほうが大きく印刷されていますね。たぶん「ミニマリスト」ないしは「ミニマリズム」よりも、よりこの本の本質を突いているからではないかと思います(原題は“Digital Minimalism: Choosing a Focused Life in a Noisy World”)。

Twitterは現在でも利用しているのですが、自分からつぶやいたり、他の方のつぶやきに乗っかってつぶやくことはなくなりました。ブログの記事を流すのと、そこにいただいたコメントにお返事を返すだけです。その他のSNSは一切やめてしまいました。スマホ自体も使う頻度が減り、特に電話やメッセージアプリはほぼ家族とのやり取りにしか使わなくなりました。特に音声の電話はかかってくるのもかけるのも大の苦手なので、iPhoneのおやすみモードなどを使って、プライベートな時間には一切の通知が来ないようにしました。スマホのアプリも必要なもの以外整理して、もはやホーム画面はこんな感じです。

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こうなると、もうスマホじゃなくてもいいような気さえしますが、ブラウザでの検索はそこそこやりますし、地図機能や移動の経路案内などが便利ですし、それに語学系のアプリは常に使っているので、まあこんなところかなと。

それにしても、スマホSNSというのは、この本でも触れられている通り、徹底してわれわれに何かを消費をさせるように作られている仕組みなんですね。動画視聴やゲームなどはとてもわかりやすい「他律的な消費のされ方」ですが、何かを調べようという自律的な検索だって、よほど気をつけていないとあちこちのリンクに飛んでしまい、「注意経済(アテンション・エコノミー)」に取り込まれてしまいます。それほどネット上には私たちの「注意」を喚起する「経済(お金儲け)」が溢れてる。いまほど私たちの自覚が試されている時代はないんじゃないかと思います。

最近「若者のパソコン離れ」という話をよく聞きます。スマホで何でもできてしまうのでパソコンを使う必然性がなくなってきたとか、貧困化でそもそもパソコンが買えないとか、ちょっと検索すればネット上には様々な分析が見つかります。確かに、私が勤めている学校の留学生諸君にも、キーボードのタイピングができないとか、パソコンのソフトが使えないといった方はけっこういます。その一方で課題のプレゼン資料をスマホだけで作って提出してくる、老眼の私にはちょっと信じられないような留学生もいます。

私自身がスマホの多様な機能をそれほど使いこなしているわけではないので、あまり断定的なことは言えないのですが、基本的に消費のツールであるスマホしか使わず(使えず)、生産のツールたるパソコンを使わない(使えない)というのは、長い目で見るとかなりまずいことになるんじゃないかなと思います。先日読んだこちらの記事では「経済協力開発機構OECD)の調査によれば、日本の16歳〜24歳までの若者のパソコン利用頻度は、OECD加盟国中最低水準だったことが明らかになるなど、若者のパソコン離れが深刻化しています」と書かれていました。

……う〜ん。確かに、学生時代に「やっつけ」で課題の提出をするくらいならスマホでも可能でしょうけど、社会に出て仕事をする段階になってもパソコンが使えないというのはけっこう深刻な問題かもしれません。

フィンランド語 52 …格変化の練習・その6

前回までで単数・複数すべての格(具格・共格・欠格は除く)が出揃ったので、教室でも単語を与えられてすぐにすべての格変化を作る練習がありました。出来上がったら先生の所へ持って行って添削してもらうのですが、やはりどこかしら間違えていることがほとんどです。先生からは格変化のさせ方について詳細な手順表(「アンチョコ」みたいなもの)をもらいました。

でも結局は数をこなすことかなと思って、自分でワークシートを作り、格変化の練習をしています。ただ、ひとりでやっていると正解かどうかをチェックできないので、ネットで色々探してこちらのテンプレートにたどり着きました。ここにあるのは名詞だけですが(フィンランド語は形容詞なども格変化する)、様々な語尾のパターンが載っていてとても助かります。

en.wiktionary.org

当面は個々にある名詞をどんどん格変化させていく練習をしようと思います。この格変化は、これまで学んできた「語幹の求め方」や「kptの変化」などが総動員され、あちこちに落とし穴というかチェックすべきポイントがあるので、けっこう大変です。フィンランド語の母語話者はこれが自然にできちゃうんですから、すごいですね(まあそれが母語話者というものですが)。

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それから、名詞・形容詞・代名詞の連動も練習しました。例えば「tämä pieni kissa(この小さな猫)」だったとしたら……

単数 複数
主格 tämä pieni kissa nämä pienet kissat
属格 tämän pienen kissan näiden pienin kissojen
対格 tämän pienen kissan nämä pienet kissat
分格 tätä pientä kissaa näitä pieniä kissoja
内格 tässä pienessä kissassa issä pienissä kissoissa
出格 tästä pienestä kissasta näistä pienistä kissoista
入格 tähän pieneen kissaan näihin pieniin kissoihin
所格 tällä pienellä kissalla näillä pienillä kissoilla
離格 tältä pieneltä kissalta näiltä pieniltä kissoilta
向格 tälle pienelle kissalle näille pienille kissoille
変格 täksi pieneksi kissaksi näiksi pieniksi kissoiksi
様格 tänä pienenä kissana näinä pieninä kissoina

……と千変万化させていくわけです。あああ、さすが「悪魔の言葉」。まあ実際には、ほとんど使いそうにない表現もありますけど、文法上はこうなるということで、これらを瞬時に作ることができなければならないわけです。

しかもこの代名詞ですが、例えば「tämä(この)/nämä(これらの)」が格によってこれだけ変化していても……

単数 複数
主格 tämä nämä
属格 tämän näiden
対格 tämän nämä
分格 tätä näitä
内格 tässä issä
出格 tästä näistä
入格 tähän näihin
所格 tällä näillä
離格 tältä näiltä
向格 tälle näille
変格 täksi näiksi
様格 tänä näinä

……日本語にすれば単数は全部「これ」で、複数は全部「これら」でしかないんですよね。……あああ。

「マシン」と「フリーウェイト」の違い

ジムとかフィットネスクラブに通ってらっしゃる方はご存知だと思いますが、こうした施設、それも規模の大きな施設にはおおむね三つから四つくらいのエリアがありますよね。筋トレなどを行う「ジム」、水泳などを行う「プール」、ヨガやエアロビクスみたいなのを大勢が一斉に行う「スタジオ」、そしてトレーニング後に汗を流す「スパ」です。

私はもっぱら「ジム」と「スパ」ばかり利用しているのですが、この「ジム」にも私見では特徴が大きく異なると思われる二つのエリアがあります。それが「マシン」エリアと「フリーウェイト」エリアです。ジムといえば奇妙な形をした様々な「マシン(器械)」がずらっと並んでいて、体の部位ごとに鍛えられるようになっています。肩を鍛えるもの、胸を鍛えるもの、背中を鍛えるもの……中には、内股だけを鍛えるものとか、上腕の後ろ側だけを鍛えるものといった特殊なものもあります。あと、ランニングマシンみたいなのもありますね。

十年以上前、とあるフィットネスクラブに通っていたときは、「ジム」の「マシン」のみを使ってトレーニングをしていました。でも、まったくの自己流だったこともあって、一年半ほど通っても運動不足解消という程度でほとんど効果がなく、筋肉もつかなければお腹も凹みませんでした。そのフィットネスクラブにも「フリーウェイト」エリアはあったのですが、当時の私には怖くて異様な(失礼)場所に見えました。

なにせ「もうそれ以上鍛えなくてもよかないですか」と言いたくなるくらい筋骨隆々とした、しかも尋常じゃないほど日焼けした肌の、それもピタピタのタンクトップ or ブカブカのタンクトップ(乳首見えてる)とボクシングのチャンピオンベルトみたいなぶっといベルトをお召しになった方々が「はぁっっっ!」とか「ふんぬっっっ!」などの奇声を上げつつ、これまた尋常じゃないほどのウェイトを持ち上げていらっしゃるのです。そのフィットネスクラブの「主(ぬし)」的な方々が集っていて、とてもじゃないけど近づけない雰囲気でした。

しかも「フリーウェイト」は、単にダンベルやウェイトがずらっと並んでおり、自分でバーなどと組み合わせてウェイトを決め、使うので、素人にはどうやって使ったらいいのか、どのくらいの重さを選べばいいのか、まったく分かりませんでした。フィットネスクラブのスタッフや「フリーウェイト」エリアでトレーニングしている方に聞けば教えてもらえたはずですが、極度に人見知りな私は、前述の異様な(たびたび失礼)雰囲気も相まって、ついに足を踏み入れることはありませんでした。

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https://www.irasutoya.com/2018/10/blog-post_49.html

それから随分経って、男性版更年期障害とでもいうべき不定愁訴に悩まされ続けた結果通い始めた「治療院兼ジム」のパーソナルトレーニングで、こうした「フリーウェイト」エリアにある器材の使い方をひとつひとつ教わりました。教わってみて初めて分かったのですが、こうしたウェイトは単に上げ下げすればいい、動かせばいいというものではなく、実に細かい注意すべきポイントや使い方のコツのようなものがたくさんありました。

そしてウェイトトレーニングは、それも私のような中高年のそれは、重さよりもむしろ使い方、つまりフォームが一番大切なのだということも分かりました。正しいフォームで使わなければ、効果が少なく筋トレにもならないのだと。こういうことは、やはりプロに教わらなければ分からないんですね。市販の筋トレ本などでも細かい記述がありますが、個人的にはあれではとてもじゃないけど正しいフォームを理解できないような気がします。トレーナーさんがそばにいて「今はここを意識して、こう動かしてください」と身体の部位に触れてもらいながら教わることが必要なのです。

そうやって正しいフォームを覚えた上で、フィットネスクラブの「マシン」に戻ってみると、面白い発見がありました。「マシン」では、正しいフォームが作りにくいのです。器械の種類にもよりますが、例えば「フリーウェイト」のベンチプレスと同じような荷重を再現する器械では、肩甲骨を寄せ、脇を締め、胸の中心に向かって絞るように押し出す(これ、言語化するのがかなり難しいです……)といった一連の動きがしにくい。それをパーソナルトレーニングのトレーナーさんに言ったら「そうですね、まあ器械は誰でも簡単に使えるよう設計されている反面、細かいフォームの調整はやりにくいかもしれません」というお答えでした。なるほど。

そういう視点でトレーニングの合間に周囲の方を観察してみると、マシンを上手に使って効果的な負荷のかけ方をされている方もいれば、そのマシンで狙うべき筋肉にほとんど負荷がかかっていない方もいます。そう、プロのトレーナーでも何でもない私にさえ、人さまのフォームの良し悪しが分かるようになりました。これはやはりトレーナーさんについてもらいながら「フリーウェイト」で筋トレを続けてきたからだと思います。

SNSなどでのポジティブな発言で人気の Testosterone(テストステロン)氏は、確かその著書で「ボールはともだち(©︎キャプテン翼)」ならぬ「ダンベルはともだち。人間は裏切ることがあるが、ダンベルは裏切らない」という至言を残されていたように記憶していますが、ホント、その通りだなあと思いました。「フリーウェイト」エリアのダンベルやバーベルを使っての筋トレには重力だけが厳然と立ちふさがって逃げ場がないですけど、「マシン」エリアの器械には逃げ道がけっこうある(筋肉に効いていないトレーニングができてしまう)からです。

さよなら通訳業

先日、今年最後の「ミッション・インポッシブル」を終えました。とある理系学会のシンポジウムでの通訳です。私は根っからの文系人間なので、数値や数式や技術用語が飛び交う理系のお仕事はまるっきりの門外漢で(文系のお仕事だってそのほとんどが門外漢ですけど)、ちょっと手に負えないくらい内容が難しいです。でもこのシンポジウムは、もう五年ほど連続してお仕事をいただいています。

この仕事は、とあるエージェント(通訳者の派遣業者)からの「ご指名案件」です。でもこれは極めて珍しいケースで、通訳業界は(ここでは中国語の通訳業界を指します。他の言語の状況はあまりよく知りません)ここ数年「仮案件&リリース」がデフォルトの世界になっており、フリーランスには極めて働きにくい環境になりました。それでは食べていけないので、私は通訳以外の固定業務をなるべく入れて収入を確保しようとする→ますますフリーランスとしての単発の仕事が受けにくくなる……という負のスパイラルに。

この「仮案件&リリース」については、以前に記事を書いたことがあります。「仮案件」とはクライアントが複数のエージェントに「相見積もり」や「入札」という形で通訳業務を委託するため、正式に落札するまで通訳者に日程を仮押さえしてもらう案件のこと。「リリース」とは相見積もりや入札の結果「失注」してしまって、エージェントから「今回のオファーはなかったことに」と通訳者に連絡が入ることです。

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実際今の私は、すでに専門学校などに定職を得て、時間が固定された業務が仕事のほとんどを占めており、先日のような通訳業務はたまにしか受けない(たまにしか受けられない)ような状態になっています。ふだんエージェントからメールで届く「仮案件」オファーは、固定の業務と重なることがほとんどなのですべてご辞退申し上げています。結果、今年私が受けた数少ない通訳業務はすべて「ご指名案件」かクライアントからの「直受け案件」だけでした。

かつて通訳学校に通っているとき、クライアントからの「直受け」は業界のご法度だと教わりました。仕事はすべてエージェント経由で受けること。仕事の現場でもクライアントの担当者にはエージェントの会社名が入った名刺を渡すこと。これは、クライアントと通訳者が「直受け」でダイレクトにつながることを防ぐためです。

いえ、これは決してエージェントの中間マージンを確保することだけが目的ではありません。これによって通訳料金のダンピングを防ぐ、つまり通訳者自身が自分で自分の首を絞めないようにするという側面もあったのだと私は理解しています。また通訳者が数多くのクライアント企業に個人営業をかけるのも大変ですから、派遣会社として仕事を獲得してきてくださるエージェントの存在はとても大きな支えになります。要は「持ちつ持たれつ」ということですよね。

ところがここ数年で、この世界には破綻が訪れつつあります。すでにエージェントからの案件はその99.9%が「仮案件」で、「リリース」になっても、よほどのことがない限り(本番前日にリリースとか。エージェントによって規定は違います)賃金の補償はありません。なかには一斉メールで登録通訳者全員に仕事のオファーを出し、採用者以外には当日まで一切の連絡をよこさないというブラックなエージェントまで登場しました(下記の記事をご参照ください)。「持ちつ持たれつ」だったエージェントと通訳者の信頼関係が失われつつあるのです。

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それでも良質なエージェントは地道に営業を重ねてクライアントから仕事を受注し、通訳者にオファーをくださるのですが、いかんせんそのほとんどすべてが「仮案件」であっては、それに毎回対応していけるフリーランスの通訳者はどんどん減っていくのではないでしょうか。エージェントはエージェントで、クライアントの「相見積もり or 入札」攻撃で苦しんでらっしゃるのは重々承知してはいるのですが。またそのクライアントにしても、厳しい経営環境の中で経費削減などを迫られた結果、そういう発注をせざるを得ないという状況も分からなくはないのですが。

もちろんどの業界にもほんの一握りの「ハイエンド」に属する方々はいらっしゃいますから、そういった方はこんな状態の業界でもきちんと高品質のお仕事をして、それに見合う報酬を得てらっしゃると思います。でも私のようなハイエンドではない二流・三流の通訳者がフリーランスでは食べていくのはかなり難しい……。

そんな私が通訳学校で教えているというのも、生徒さんには失礼な話かもしれません。だから私も最近は、学校でもフリーランスを目指そうなどとはとても言えなくなりました。むしろ企業に職を得て、インハウス(社内通訳者)として活躍したほうがよいかもしれませんよと。業界によっては、優秀な社内通訳者が足りなくて困っているというお話も漏れ伝わってきていることですし。フリーランスを目指すにしても、いきなり会社を辞めちゃうなんてことはしないようにと言ってきました。

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https://www.irasutoya.com/2015/09/blog-post_716.html

私は、本当は優秀なフリーランス通訳者が一定数必要だと思っています。AIが急速に進化しつつある現在でも、複雑な交渉や討論の場所ではまだまだ機械は十全に通訳をこなせません。知の最先端でも、学際的な交流でも、あるいは政治や経済の場での国益の確保という点からも、優秀な通訳者は当面必要とされます。でもこの国では「ほぼモノリンガルで社会を回していける」というある意味大変幸福な状態の副作用として、言語を扱う業務に対する評価があまりにも低すぎるのです。

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これまでは、私も存じ上げている数多くの優秀な中国語通訳者が日本社会で活躍してきました。今も活躍を続けている方はいらっしゃいます。でもその後進は育っているのでしょうか。これから育っていくのでしょうか。昨年亡くなった塚本慶一氏もおっしゃっていましたが、現状を鑑みるに、私もかなりネガティブな結論を導き出さざるをえません。

日中間の「パイプ」を育成 塚本慶一教授_人民中国

今回の「ミッション・インポッシブル」では、会議が終わって青息吐息の私に、日本の参加者が「この分野のご専門は長いんですか」とか、台湾の参加者が「とても整った通訳でした」とか、身に余るありがたい言葉をかけてくださいました。そんな言葉に接すると、ついまた頑張ろうなどと思いますけど、でももうこのあたりが潮時かなとも思います。人生百年時代なら、セカンドキャリアも考えなきゃいけないですしね。

そんなことをつらつらと考えていたら、ここ数日はビリー・ジョエルの『さよならハリウッド』が脳内で「ヘビロテ」しています。

So many faces in and out of my life
Some will last, some will just be now and then
Life is a series of hello’s and goodbye’s
I’m afraid it’s time for goodbye again

年が明けたら、登録しているエージェントにご挨拶して、少なくともエージェント経由の通訳業務は「廃業」しようかなと考えています。

あの「薄いビニール袋」との果てしなき戦い

「レジ袋、いりません」
「その薄いビニール袋も、いりません」

スーパーでお買い物をする際、マイバッグを持参してレジ袋を辞退したのもつかの間、肉や魚のパックを一つ一つ「薄いビニール袋」に入れて下さろうとするレジ係の方との熾烈な「攻防」を繰り広げてきたわけですが。

qianchong.hatenablog.com
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まあ何ですね、いくらレジ袋を辞退したって、マイバッグに詰め込む食品の多くはスチロール製のトレーにラップフィルムがかけられているとか、プラスチックフィルムで包装されているとかで、ちっともプラスチックゴミの削減には貢献できていないよう気はします。が、それでもヨーグルトは紙パックのものを選んで買うとか、野菜はバラ売りのものをそのままマイバッグに入れるとか、自分なりに「努力」してきたわけです。

ところが、先日の東急ストアで特売のブロッコリーひと株158円を「裸」のまま買い物かごに入れた私が対峙したレジ係のおばさんは、強の者でした。私の「レジ袋、いりません」と「その薄いビニール袋も、いりません」攻撃をものともせず、「あらでもブロッコリー崩れちゃいますから〜」とご親切にも「薄いビニール袋」に入れてくれようとするのです。

「いえいえ、大丈夫ですから」
「でも、本当にお野菜がね、崩れちゃいますから〜」
「本当に大丈夫です。ビニール袋、もったいないですので」

というようなやりとりを経たのち、そのレジ係のおばさんは、強情な私に憤慨したかのように、なかばキレ気味な勢いで、すでに手にしていた「薄いビニール袋」をバン!とカウンターに叩きつけ、POS作業に戻って行かれました。

う〜む……マイバッグを持参するという行為はすでにかなり社会的な認知を得てきており、レジには「袋はいりません」の意思表示をするためのカードまで用意されているほどだというのに、あの「薄いビニール袋」におけるこのハードルの高さはいったい?

学校の同僚である英国人講師は、こうした「薄いビニール袋」のサービスについて、「僕はさっき、ビニール袋いらないと言いましたよね?」と笑顔で、しかし強い語調で詰め寄るのだそうです。私はそこまでの勇気がないので、こうしてモヤモヤした気持ちを抱えながらブログの文章をしたためているというわけです。

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https://www.irasutoya.com/2015/12/blog-post_272.html

グレイヘアと生きる

先日髪を切りに行きまして、白髪染めもやってもらいました。もう十年以上も同じお店に通い、同じ方に切って染めてもらっています。この方は、私が椅子に座ってまったく何も言わなくても「いつものとおりですね」とやってくださる。子供の頃から理髪店に行くのが大嫌いで、どんな髪型にしてほしいのかを説明するのも大の苦手だった私には、本当にありがたいです。

髪を切るのは約一ヶ月に一回で、染めるのは二ヶ月に一回です。もうずいぶん前から白髪が増えてきて、染める直前に切ってもらった髪を見ると、後頭部や側頭部はまだ「ごま塩」状態ですが、頭頂部はかなり「行っちゃってる」。だいたい七割くらいは白髪なんじゃないでしょうか。これまではこの白髪を全部染めてもらっていたのですが、先日はふと思いついて「これを染めないでおくと、どんな感じになりますか?」と聞いてみました。

「そうですねえ。頭の後ろや横と、てっぺんとで、白髪の量がかなり違うので『ふぞろい』な感じになりますかね」
「そうすると、やっぱり染めたほうが?」
「いや、最近はそういう方のための新しい白髪染めもできています」

おお、それは耳寄りな情報です。お店の方いわく、白髪を完全に染めちゃうんじゃなくて、まだ黒い部分とのコントラストを抑える方向でグレーに染めるようなヘアカラー(白髪染め)があるのだそうです。それで帰ってからネットで「白髪 活かす カラー」などのキーワードで検索してみたら、こんなウェブサイトがありました。

www.bestsalonreport.jp

なるほど、ここに紹介されているのは女性のヘアカラーばかりですが、自分の想像を超えたいろいろな選択肢があるんですね。そう思っていた矢先、ぶらっと立ち寄った書店でこの本を見つけました。近藤サト氏の『グレイヘアと生きる』です。おおお、何というシンクロニシティでしょうか。

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グレイヘアと生きる

一読、共感の嵐でした。ほぼ同世代の近藤氏が語っていることが、ひとつひとつ腑に落ちるのです。特に人々の多様性、価値観の多様性という観点。なぜ黒髪が若さ=善きもの、白髪は年寄り=悪しきものと考えねばならないのかと。年相応のあり方があっていいし、染めたい人は染めればいいし、なんならもっと他の色を楽しんでもいい。もとより世界中には様々な髪の色があり、皮膚の色がある。

そんな当たり前のことを自分もわかっているつもりでいながら、例えば私は、自分本来の髪の毛であっても真っ黒に染めさせるなどといういわゆる「ブラック校則」に心の底から憤慨する一方で、当の自分はその「一色に染めあげる」価値観から逃れられていなかったわけです。

この本は主に女性向けに書かれていますので、ファッションやメイクやアクセサリーについてのアドバイスは人によってはあまり関係がないかもしれませんが、中高年の生き方を考える上ではとても示唆に富んでいます。決めました。私も氏に倣って「白髪革命」に加わりたいと思います(もっとも私みたいなオジサンが白髪になるってのは別に女性ほどの勇気もいらないし、周囲もまったく興味ないでしょうけど)。数カ月後がたのしみです。