インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

「ファミリーヒストリー」に対する違和感

先日、夕飯を作りながらBGMがわりにテレビをつけていたら、NHKで「ファミリーヒストリー」という番組をやっていました。予告(「今夜のNHK」みたいな)は見たことがあったものの、番組そのものは一度も見たことがなかったのですが、見ているうちに何とも言えない不愉快な気分になってきて、チャンネルを変えてしまいました。

www4.nhk.or.jp

公式ウェブサイトによれば、この番組は「著名人の家族の歴史を本人に代わって徹底取材し、『アイデンティティ』や『家族の絆』を見つめる番組」だそうです。チャンネルを変えたあと、なぜ不愉快な気分になったのかなと自問しました。やたら「絆」とか「家系」などを強調していたからでしょうか。たしかに私は、家族は大切だとは思うものの、それぞれが別個の人間であり、必要以上に繋がりを求めるのは苦手です。特に子供が成人した後は、家族は「親離れ・子離れ」してそれぞれが精神的に自立すべきだと思っています。

はたまた私は、主人公となっている著名人の交友関係の豪華さに嫉妬していたのでしょうか。たしかに番組では、あの親戚が実はあの著名な誰それと親しかった! こんなに素晴らしい業績を残していた! 的なサプライズが次々に紹介されていました。でも私には、私自身はもちろんですが、家族や親戚にだってそんな人はいないし……。

何とも言えないモヤモヤした気持ちを引きずっていたのですが、翌朝の東京新聞を読んで驚きました。ルポライター鎌田慧氏がこの番組について取り上げ、コラムを書かれていたからです。こういうシンクロニシティは本当に不思議です。そして、私が抱えていたモヤモヤを鎌田氏が見事に言語化されていて、その点でも驚きました。

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「売り家と唐様で書く三代目」。戦後改革は身分制度を解体したはずだ。いつのまにか三代目政治家たちが国政を牛耳って悪性ほしいまま。この時代、ルーツを誇る番組に抵抗がある。「貴あれば賤あり」。差別に無頓着だ。

思わず快哉を叫びました。そうか、ことさらに家族の歴史を称揚しルーツを追い求めることと、人間どうしの差別は紙一重なんですね。たしかにこの国には、建前上はないとされている身分なり階級なりの概念が今も色濃く残っています。その最たるものが皇族で、私は天皇制についてその歴史的価値は認めますが、現在のような行き過ぎた身分の有り様ははなはだ疑問です(その意味でも皇室の機能はすべて京都御所に戻し、東京の中心部にある江戸城跡はセントラルパーク的な公園として一般に開放すべきだと考えています)。

折しも先日「フィンランドでサンナ・マリン氏が首相に就任」というニュースに接しました。「世界最年少」とか「女性首相」などという見出しが各メディアに踊っていて、私はそれらにも少々複雑な気持ちでいたのですが(ことさらに「女性」の首相だと強調するなど、何という鈍感さでしょうか)、氏の「ファミリーヒストリー」を「異色の生い立ち」と見出しで伝える報道にも抵抗を覚えました。

news.livedoor.com

ただ、このニュースは、逆にどんな「ファミリーヒストリー」があろうと、どんな「生い立ち」であろうと、ガラスの天井を打ち破ることはできるのだという視点、そういう首相をフィンランドの人々が選んだという視点でみれば、逆に清々しい気持ちをもたらしてくれるものでもあったと思います。

フィンランドは長く他国の支配下にあったので王室や貴族というものを持たず、そのためフィンランド語にもそうした階級用の特別な用語や言い回しはほとんどないのだそうです(外来語としてはある)。それもまた、フィンランド語に惹かれる理由のひとつなのです。

閑話休題

この番組に関しては、ウィキペディアにもコラムニストの高堀冬彦による、鎌田氏と同様の見解が引かれていました。いわく「家系について調査し放送することが『本人』を重視する現代社会の精神に反し差別の助長につながる」。これも同感です。なるほど、自分のモヤモヤ感にはそれなりに根拠みたいなものがあったのだなと、少しだけ気分が晴れました。

gendai.ismedia.jp