インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

字幕翻訳のレートがあまりにも低い件について

足かけ十年ほど、途中休みをはさみながらも台湾エンターテインメント関係の字幕翻訳を続けてきました。ドラマやバラエティ番組、それにファンの方々が視聴するエンタメニュースなどの字幕を作るお仕事です。毎週しめきりに追われるなかなかタフなお仕事でしたが、先週でめでたく(?)「卒業」することになりました。

クライアントは、翻訳者にとても理解のある会社でしたが、正直に申し上げればそれほど「稼げる」お仕事ではありませんでした。それでも元々台湾エンタメが好きなこともあり、また原文や音声を読み込んだり聞き込んだりして日本語の字幕を作る作業そのものが面白くて、ここまで続けることができました。

最初に提示された翻訳料はかなりお安かったのですが、こちらから「もう少しなんとかなりませんか」と交渉を持ちかけて、結果そこそこのレートに落ち着きました。それでも労働量に見合った報酬かと言われたら、あるいは人にもお勧めするかと言われたら……正直なところ「微妙」です。

字幕翻訳者募集のメール

その仕事を「卒業」した週明けの今日、こんなメールが届きました。字幕翻訳のソフトを開発している会社経由で紹介された、某社からの「字幕翻訳者募集」のお知らせです。

■言語:英語、韓国語、その他各国語
■ジャンル:ドラマシリーズ作品、長尺作品、ドキュメンタリー作品、情報番組 他
■応募条件:字幕の技術をお持ちの方、もしくはスポッティング技術をお持ちの方。
■料金:
【英語作品】
●スポッティング:分/50円~
●字幕作成:分/350~800円
●字幕リライト:分/125円~500円
【韓国語作品】
●スポッティング:分/50円~
●字幕作成:分/130~600円
●ヒアリング~字幕作成:分/200円~600円

この料金は平均的なレートで、案件の条件や翻訳者の実績等に応じて変動するそうです。もとより英語と韓国語のみなので私は「お呼びじゃない」のですが、それにしても驚きのレートではありませんか。実際に字幕翻訳をやってみれば分かると思いますが、これは「超」低賃金です。

初期投資と実際の細々とした作業

現在、字幕翻訳のお仕事を行う場合、基本的には業界標準のとある専用ソフトを使う必要があります。このソフト、最近になって状況は変わりつつあるもののほぼ一社独占の状態で、競争原理が働いていないため非常にお高くなっています。十年ほど前の私の購入時で約四十万円*1でした。

その高価なソフトを用いて、ドラマや映画なら基本的に台本を元原稿として、またバラエティ番組やエンタメニュースなら原稿がないので映像を直接視聴して、音声や場面に合わせてスポッティング*2し、翻訳文を考えて打ち込んでいきます。最終的にはこのソフト独自の形式でデータを抽出し、クライアントに「納品」することになります。

字幕翻訳は一般的な翻訳とはかなり違う世界で、単に正確に訳せばいいというだけのものではありません。長い間の経験から人間が一秒間に読み取れる字数というものが割り出されていて(一秒間に四文字以内)、その字数の範囲内で達意かつ当意即妙な日本語を書かなければなりません。

また現れてすぐに消え、あとから読み直すことができないという字幕の性質から、単独の字幕ないしは最大二つの字幕で文章が完結しなければいけません。一度に画面に乗せることができる最大の字数は、制作会社によって多少の差はありますが、十二文字×二段=二十四文字程度。もちろん訳注などを差し挟むこともできません。

しかも公共の電波、あるいはインターネットに乗ることが前提ですので、あまり難解でマニアックな言い回しも使えません。案件によって多少の調整の余地はあるものの、基本的には老若男女が読み取ることを前提にしなければならないのです。

また演出的な配慮も必要です。基本は話し言葉ですし、会話なのか独白なのかナレーションなのか等々で文体も違ってきます。ドラマでも映画でも、あるいはバラエティでもエンタメニュースでも、その背景を理解し、前後関係を考え、話している人間のキャラクターまで考慮して*3、少ない文字数と格闘しているのです。

この辺りの事情については、先日亡くなられた太田直子氏が書かれたこの本が参考になると思います。

そんな字幕翻訳特有の作業が諸々あって*4上記のお値段。こんな低いレートでも請ける方がいるのかどうかは不明ですが、早晩業界は崩壊するんじゃないかなあと思います。だって、端的に言って食べていけないもの。私はまあ十年のうちにソフト代の「モト」は取り、利益も出ましたけど。

実際には演出や情景描写の関係で全くセリフが入らず、従って字幕を作成する必要がない部分もあったりします。そういった字幕の「粗密」も込み込みで上記のレートが決まっているのですが、セリフがないからといってその部分を飛ばして見るわけにもいかず(前後のセリフに関係のある描写がなされている可能性が高いから)、結局注意深く映像を見るという作業自体は変わりません。翻訳とは単に文字を右から左へ転がすだけの作業ではないのです。字幕翻訳者は、映像全体を誰よりも深く細かく視聴して、いろいろな調べ物をして、その上で言葉を変換して日本語で書くという総合的な技術を提供しているのです。

通訳と翻訳の合わせ技

台本という原稿があるドラマや映画の字幕翻訳もすごく難しくて楽しいお仕事ですが、バラエティやニュースなどの原稿がないエンタメ字幕翻訳も違った楽しさがあります。なにより「今」を感じられる新鮮な表現で外語耳が鍛えられます。私は毎回、何度聴いても聴き取れない場所で呻吟しながらも、いろいろな表現に接することができ、勉強になりました*5。だけど勉強になるからとはいえ低賃金でいいわけじゃないですよね。

上記の募集で韓国語に「ヒアリング~字幕作成」とありますが、これがたぶん原稿のないエンタメ字幕でしょうね。普通翻訳はある原語の文字から別の言語の文字へと行われる作業ですが、原稿がないエンタメ字幕の場合は、聴き取った音声から文字を起こす作業です。入口は通訳的で出口が翻訳的な「合わせ技」なんですね。でも他の国はわかりませんが、我が日本ではこういう作業にあまり報酬という形での敬意が払われないのが何とも残念です。

訛りがあり、雑音があり、時に曖昧な話し方や文法的に正しいとは言えない話し方もあるのがエンタメ字幕翻訳の難しさであり、また楽しさでもあります。物理的にほとんど聴き取れなくても前後の発言から判断したり、ネットの情報*6で裏を取ったりして。でもそれには本当に本当に膨大な作業量が必要です。だからなおさら、上記のような低賃金はないと思います。

十数年前に私が字幕のお仕事を始めた頃からしても、レートは下がり続けています。こんなことを続けていたら、やっぱりこの業界の先行きは暗いんじゃないかなあと思います。ひとり字幕のみならず、翻訳業界全体の問題ですけどね。

*1:仲介に入ってくださったプロダクションのご厚意で、ここから多少割り引いて頂きましたが。

*2:とても大雑把に言うと、セリフの場所と長さを決めること。実際には一秒よりも短い映像のコマ単位で微調整しています。

*3:例えば自分のことを「私」と呼ぶのか「僕」と呼ぶのか「俺」と呼ぶのか……等々で「キャラ」は全く違ってきます。

*4:実際にはまだまだテクニカルな作業内容があり、例えば音声が聞こえる数コマ前から字幕を出し、音声が消えて数コマあとに消すなど、対応しなければならない事柄が多々あるのですが、煩雑になるので割愛します。

*5:台湾のエンタメには時々台湾語が出現して、これがまた翻訳者泣かせです。でもこれも調べたり勉強したりしてなんとか対応できるようになりました。

*6:熱いファンのみなさんがSNSなどでアイドルの一挙手一投足や発言のあれこれを拾って発信していたりするのです。