インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

筋トレとダイエットと「あすけん」

ここ6〜7年ほど、ジムでのトレーニングを継続してきました。トレーニングを始めたきっかけは、中年から初老とよばれる歳にさしかかって顕著になってきた身体の不調です。肩凝りに腰痛、さらには昼間の眠気や膨満感など、男性版更年期障害とでもいうべき不定愁訴が耐えられないほどのレベルになり、QOL(Quality of life:生活の質)の低下をまざまざと実感させられた結果でした。

もともと運動が大の苦手で、子供の頃から学校の体育の授業なども苦痛でしかありませんでした。そんな自分がジムに通うなど想像もしなかったのですが、運動をすることで身体の不調が急速に改善されていくのを実感して、トレーニングに「ハマり」ました。さらには単に体調を整えるために身体を動かすところから、ボディメイク、つまり筋トレにまでのめり込むことになりました。

そうやって一時は週に3回もパーソナルトレーニングに通っていました。還暦までにベンチプレス100kgを挙げる目標を掲げたあたりがいちばん「ハマって」いた頃でしょうか。おかげでずいぶん筋肉がつきましたし、そのぶん体重も増えました。体重と身長の関係から算出されるBMIではやや「肥満」に傾きかけていましたが、筋肉がついたぶん体重が増えているのだと考えて特に気にしてはいませんでした。

トレーナーさんの勧めもあって、ハードに筋トレをしていた頃はかなり意識的に食べるようにしていました。もとより歳を取って食べる量がかなり落ちていたのですが、筋肉をつけるために少々無理をして食べていたら……、悲しいかなこの年齢だと食べたものはそれほど効率的に筋肉に向かわず、多くがお腹に回ってしまうようです。気がついたら「クマさん」のような体型になっちゃってました。


https://illustcup.com/freeillust/bear-real

つまりはボディメイクで体重が増えたというよりも、単に食べ過ぎで太ったというほうが実情に近かったのです。それで現在は、ハードな筋トレで身体を作るというより、適度な運動で健康な状態を維持することを念頭にジムで自主トレをしています。食べる量も普通に戻し、パーソナルトレーニングも「卒業」しました。なんのことはない、ようやく当初の目的に舞い戻ってきたわけです。そのうえで、ここからトレーニングを続けながらも少し痩せようと思いました。

ただ、トレーニングを通して分かったことは「運動だけで痩せるのは難しい」という点です。そもそも運動によるカロリー消費量は想像するよりも少なくて、例えば体重60kgの人が1時間ジョギングして消費するカロリーは440kcal程度。ご飯茶碗に軽く1杯(約150グラム)でも234kcalだそうですから、1時間ジョギングしてもご飯2杯ぶんすら消費できません。1時間のジョギングって考えてみればけっこうな運動量ですが、それでもこの程度です。

痩せようとする(とくに健康的に痩せようとする)際に運動することは有用ではあるけれども、痩せる・痩せないをいちばん大きく決定づけているのは「カロリーの摂取量」と「カロリーの消費量」の収支です。結局のところ、摂取量が消費量を上回れば太り、下回れば痩せる。

もちろん体型の変化は様々な要因がからみますし、身体のどの部分がどのように痩せるのかやその人の体質によっても多少のバリエーションはあるでしょうけど、畢竟、太るのは単純に食べすぎているからです。正直なところ、私は1時間ジョギングするんだったら、そのぶん(ご飯1.5杯くらい?)食べる量を減らすほうがよほどラクだし実行もしやすいと思います。

そうやって過度な筋トレから降り、食べる量も無理をしないようにしてしばらく経つうちに、体重は自然に落ちてきました。もう年齢も年齢ですし、何事も過度な取り組みは分不相応だと心得ています。

ちなみに食べる量のコントロールに役立ったのは「見える化」でした。自分が普段の暮らしでいったいどのくらいのカロリー消費量(基礎代謝量と身体活動レベル)を必要としているのか、それに対してどれくらいのカロリー摂取量があるのかをきちんと数字で示してみるのです*1。そのうえで、もしダイエットしたいのであれば、自分が目指す体重における一日のカロリー消費量を計算して、カロリー摂取量がそれを超えないように注意して食べる。結局はそれだけのことなんですね。

数字にしてみれば「ああ、これ以上食べたらカロリー消費量<カロリー摂取量になる」というのがすぐに分かって、食べ過ぎを防ぐことができます。これにはスマホアプリの「あすけん」がとても役に立ちました。このアプリはすべての機能を使うためには課金が必要ですが、無料プランだけでもじゅうぶんに「見える化」の機能を果たしてくれます。

www.asken.jp

*1:こちらのサイトで簡単な計算ができます。

NHKの「五輪推し」にうんざり

連日のパリ五輪関連報道にうんざりしています。私はもうずいぶん前からテレビはほぼ報道系の番組くらいしか見ないようになりましたが、その報道系番組もここのところはオープニングからパリ五輪関連、それも日本勢がメダル獲得!的なものが多くて*1、私はため息をつきながらそっとスイッチを切っています。

それでもまだ民放はしかたがないとあきらめていますけど、私も衛星契約ふくめて受信料をぽかすか振り込んでいるNHKまでが、朝から晩までゴリゴリに五輪推し……というのはちょっと納得がいきません。いや、朝から晩までというのはちょっと誇張しすぎでしたね。でも試みに今朝の日経新聞テレビ版をコピーしてみたのがこちら。水色のところが五輪関連の番組です。

Eテレにはこの他にも五輪関連とおぼしきテニスの国枝慎吾氏を紹介するアーカイブ番組や、ブレイキンを紹介する語学番組がありますが、それらは省いてもこれだけあるのです。私はこの状態、公共放送としてはちょっといびつに過ぎるんじゃないと思います(特に地デジ1ch)。

他の国の公共放送はどうなっているのかしら。例えばBBCの番組スケジュールを見てみたら、BBC1でもけっこうたくさんの五輪関連番組をやっているようでした。いずこも同じようなものなのでしょうか。ただBBCは1以外にも2,3,4などがあって、そちらでは五輪関連とおぼしき番組はごくわずかのようでした。

https://www.bbc.co.uk/iplayer/guide/bbcone/20240729www.bbc.co.uk

このブログでももう何度も書いていますが、私は、近代五輪はすでにその役割をじゅうぶんに果たしてきたので、100周年となったアトランタ大会あたりで「お開き」にすべきだったと思っています。莫大な放送権料などを背景に利権がからみ、誘致のための贈収賄や運営の際の談合などが裁判にもなり、先般の東京五輪はコロナ禍下での開催に多くの疑問の声があったにも関わらず強行され、費用も膨れ上がってこれまた莫大な公費が投入されました。

本来ならそういう五輪のあり方に一石を投じ、批判すべきところは批判するのがNHKをはじめとするジャーナリズムのあり方じゃないかと思うのですが、そういう「負のレガシー」の検証もそっちのけで、しかも公共放送たるNHKが率先して上掲のような番組にばかり過度に傾倒しているというのは……やっぱりどう考えてもおかしいと思うんです。みなさんそんなに五輪がお好きなのかなあ。

*1:最新版のオリンピック憲章でも、“The Olympic Games are competitions between athletes in individual or team events and not between countries. (オリンピック競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない)”と謳われているとなんど言ったら。

お子ちゃま扱い?

同僚の英語講師から聞いたお話。先日市役所へ書類の手続きに行った際、窓口で大声を上げて抗議している外国人がいたそうです。ほとんど警察を呼ぶ必要がありそうなほどの「怒り狂いぶり」だったそうですが、そのきっかけは市役所の職員がその外国人に対して、人差し指を口に当てて「しーっ」とやったからなんだとか。

おそらく声が大きすぎて他の利用者にも迷惑だから、少し声量を下げてくださいというような意味合いで「しーっ」とやったのでしょうけど、同僚から「アメリカだとこれはかなりの『子供扱い』になるので、その外国人が怒り狂った気持ちも分かるんだけど、日本人は大人同士でも『しーっ』をやるの?」と聞かれて、はて、どうかな、と考え込んでしまいました。

やるかな? 少なくとも私は、大人に対してやったことはないと思います。学校の留学生諸君が授業中にいつまでも騒いでいるときなど、注意喚起の意味合いでやったことはあるかな? その留学生同士でも「ほら、先生がいま大事なことを説明してるよ」という感じでお互いに「しーっ」のジェスチャーをやっているのは見たことがあります。というわけで、大人同士で「しーっ」とやられたら子供扱いされたと感じる、というのはまあ分かるような気がします。

この話を思い出したのは、けさ新宿駅の地下街でこんなデジタルサイネージ(電子公告板)を見たからです。東京都の観光公式サイト「GO TOKYO」による「How to “Hello Tokyo”」という広告で、ハローキティが東京観光を楽しむコツをご紹介しますというものなんですけど、旅行の tips を紹介するというよりは、観光客に対してマナーの遵守を訴えるという内容です。

英語と日本語、それに中国語(簡体字繁体字)とハングルで、さまざまな「コツ」が紹介されています。詳細はこちらのサイトに載っています。Language から多言語のページに飛ぶこともできます。

www.gotokyo.org

ハローキティが語りかけるという設定なので、口調が「〜ね」なのはまあ脇に置くとしても、これはちょっと外国人を始めとする観光客を「子供扱い」しすぎなんじゃないかな、市役所で激怒していたあの方みたいに不快に感じる人もいるんじゃないかな、とちょっと心配になりました。そのものズバリの “Shhh...” もありますし。

こういうのは日本だけなのかしらと思って、例によってネットをいろいろと検索してみたら、例えばこんなページが見つかりました。こちらはロンドンの “Do’s And Don’ts”、つまり「べし・べからず集」という感じですね。

London Do’s And Don’ts: 10 Unwritten Rules That Every Londoner Knows

他にも似たようなサイトはいくつもありましたが、いずれもマナー的なものでは「エスカレーターでは右側に立ちましょう」とか「列に割り込まないで」くらいで、あとは観光を楽しんでね的な軽いジョークっぽい内容です。ハローキティによる注意喚起とはずいぶん違う雰囲気だと思いました。ただし、同じサイトのパリ版には “Do keep your voice down(声量を抑えてください)” という一項がありました。

もとより日本の公共空間にはこういうマナーや注意を呼び掛けるたぐいの広告やスローガンやアナウンスがあふれていて、私は日頃からちょっと利用客を「子供扱い」しすぎなんじゃないかと思っています。もちろん日本人の民度がそこまで高くないから注意喚起をする必要があるんだという向きもありましょうし、ハローキティを起用したこの広告も、昨今のオーバーツーリズムに危機感を持ってのことかもしれません。

qianchong.hatenablog.com

ただ、こんなことを言うと身も蓋もないのですが、おそらくこういう広告やスローガンやアナウンスは、実際のところ誰も気にも止めない・止めていないんじゃないか、つまりあまり効果はないのではないかと私は思っています。

ハンディファンが一挙に普及した

東京は連日ものすごい暑さになっています。この猛暑に耐えかねてか、往来はもちろん電車の中などでも多くの方が「ぶーん」とやっています。いわゆるハンディファンというやつですか。片手に持つタイプやU字型の首かけタイプ、日傘の柄にクリップで固定するタイプもあれば、一度など「それはもうほぼサーキュレーターじゃない?」というくらい巨大なものを持ち歩いている方もお見かけしました。


https://www.irasutoya.com/2019/07/blog-post_8.html

私はここ数年、猛暑に対抗して日傘を使っています。もう何年も前から「日傘男子」などと称して男性も日傘を使いましょう的なキャンペーンが展開されていますが、私が見渡した範囲では、男性で日傘を差されている方はまだまだ少ないみたい。そのいっぽうでハンディファンは、老若男女を問わず一挙に普及した感があります。日傘には抵抗のある男性も、ハンディファンについてはまったく大丈夫なんですね。

私はといえば、逆に日傘は抵抗がないけれどもハンディファンを持つのはちょっと……という感覚です。これ以上家電を増やして、充電などに手間を取られるのが面倒だ、というのは建て前で、本音のところはなんとなくあの「ぶーん」を持つのが恥ずかしいから。なんのことはない、私は私で凝り固まったジェンダー感に支配されているのかもしれません。

こういう古い観念は日本人だけなのかしら、リアリストたるチャイニーズのみなさんは日傘でもハンディファンでも「暑けりゃ使う!それだけ!」ときっぱり言い切るかしら……と思って、試しに台湾のニュースサイトなどを検索してみたら、日本の日傘男子を紹介するこんな記事がありました。

www.cw.com.tw

記事の本文からは台湾人、特に男性諸氏がどう思ってらっしゃるかはわからないのですが、記事のタイトルが『台灣男人你敢嗎?(台湾の男性よ、日傘を差す勇気はあるか?)』であるところを見ると、やっぱり抵抗があるんでしょうかね。もうひとつ、こちらの掲示板にはこんな意見がありました。“男人可以戴帽子啊,為何要撐傘? 而且男人皮膚曬黑一點顯得更健康陽光(男は帽子をかぶればいいじゃないか、なんで傘を差さなきゃならない? 男は少し日焼けしているくらいが健康的に見えるんだ)”。

www.mobile01.com

これが世論の大勢かどうかは分かりませんが、けっこう保守的な方はあちらにもいるんですね。むかし中国に住んでいたころ、暑い季節にはシャツをたくし上げて歩いている、いわゆる“膀爺(俗にいう「北京ビキニ」)”というオジサマ方に遭遇したものですが、最近はどうなのかしら。

と思ったら、きのう、新宿の地下街で、いかにも今ふうの若い男性がいきなりTシャツを胸あたりまでたくし上げてバサバサやっていたのでびっくりしました。猛暑もここまでになると、もはや体裁など気にしてられっかという感じになるのかもしれません。

紙幣を折る

先日、たくさん溜まっていた外国のお金を寄付してスッキリしたところですが、中国の人民元を整理しているときにこんな懐かしいものが混ざっていました。いちばん左は2角紙幣と1角(1角は1人民元の10分の1)紙幣を重ねて三角形に折ったもの、真ん中は2角紙幣を2枚重ねて折ったもの、右は1分(1人民元の100分の1)コイン9枚を1分紙幣1枚でくるんだものです。つまりそれぞれ、3角、4角、1角ぶんに相当するわけです。

qianchong.hatenablog.com

これらのお金は、中国に住んでいたとき、バスの車内で運賃を払ったときや、屋台で食べ物を買ったときなどにお釣りとしてもらったものです。電子決済が急速に進んでいる現代の中国では想像もできないかもしれませんが、私が最初に中国へ行ったころはまだバスに車掌さんが乗っていて、運賃は現金を手渡しで払っていました。

バスにしろ屋台にしろ、とにかくたくさんのお客さんの支払いに対応しなければなりませんから、少しでもお釣りを渡す時間を節約するために、こうやってまとまった単位をあらかじめ準備しておいたわけですね(たぶん)。1分のアルミ貨など、当時でももはや「分」単位で買い物をすることはほとんどありませんでしたから、10分、つまり1角にまとめておいたほうが使い勝手がよかったのでしょう。

これも今となっては、当の中国人留学生も信じてくれないかもしれませんけど、満員でぎゅうぎゅう詰めのバスに乗っているときにも、プロの車掌さんはまだ運賃を支払っていない乗客を目ざとく見つけては「そこの人、払って!」と声をかけたものです。とはいえ、バスの降車口に陣取っている車掌さんまでは手が届かない……のですけれども心配はいらず、乗客がお金をリレー形式で車掌さんまで送ってくれて、お釣りがまたリレー形式で戻ってきたのです。

こうした折ったり包んだりしてあるお釣りは、疑い出せば「ほんとうに2角紙幣が2枚なのかしら」とか「ほんとうに中に1分硬貨が9枚入っているのかしら、8枚でもわからないじゃない?」などとなりそうですが、まあ1角や、まして1分単位でごまかされても、その貨幣価値からすればたかが知れています。だからこうやって立派に「流通」していたんですね。バス内でのお釣りリレーもそうですけど、何だかとても牧歌的で、隔世の感があります。

さて、そうやって暮らしの中で私の手元にやってきたお釣りのうちのいくつかがこの写真のお金なのですが、当時の私はお金(紙幣やコイン)に対する中国人の考え方にいたく興味を覚えて、それでいままで保存していました。つまり何というか、モノとしての紙幣やコインに対して私たち日本人ほど思い入れがないというか、紙幣やコインは価値を代替しているだけであって、単なるツールだよねという感覚。だからこうやって使いやすく加工するのもアリでしょと。透徹したリアリストたる中国人の面目躍如だなと私などは思うのです。

キャッシュレス社会ではこれもすでに昔語りになりますが、以前は中国を旅行して「お釣りを投げて寄こされた」ことにカルチャーショックを受ける日本人がいたものです。私はこれも、お金は単なる価値の代替物でしかないから、単なるツールだからという中国人の貨幣観(?)の反映じゃないかなと思っていました。

そこへいくと日本人は紙幣やコインそのものを敬うというか、大切に扱うような文化ですよね。ピン札にこだわるとかもそうですし、ましてや上掲の写真のように折ったり包んだりする使い方はまずしないでしょう。まあ、紙幣の肖像のところを縦にジグザグに折って、肖像画が笑ったり泣いたりするのを面白がる、みたいなのはありますけど。

中国にはほかにも、紙幣をいろいろな形に折る文化(?)があります。試みに“纸币折纸(紙幣の折り紙)”で画像検索しただけでも、こんなにあります。

www.google.com

これは私の同僚の中国人がお財布に入れている、ハートの形に折った1元札です。これは財や福を招くみたいなお守り的意味あいがあるのかなと思ったのですが、ご本人によれば特にそういう意図ではなく、なんとなく長年こうしてお財布にいれてあるだけ、なんだそうです。

外国のお金を寄付する

旅行や仕事で海外へ行った際、現地の通貨を使いきれなくてそのまま持ち帰ってきたものがけっこうな量になっていました。いちばん多いのは中華人民共和国人民元で、毛沢東の肖像で統一される前の懐かしいお札に加えて、いまではほとんど使いみちがないであろう「分」のお札やアルミ貨なんかもどっさりあります。

ほかにも香港ドルとかシンガポールドルマカオのパタカやデンマークのクローネやパキスタンのルピー、さらに若干のユーロや米ドルまで、いろいろ。いつかまた使うこともあるかしらと保存してきたのですが、いつのまにか時代はキャッシュレスに。とくに人民元はけっこうな額があるものの、現金のまま持っていてもしかたがないし、どうしようかなとずっと気になっていました。

中国の留学生に聞いたら「中国に銀行口座があれば、銀行の窓口に持って行って預金に加えてもらえるんじゃないですか」とのことでしたが、私はかの地に口座を持っていませんし、それよりどこかに寄付でもできればいいなと思いました。それで思い出したのですが、確か空港の到着ロビーなんかに、こういった外国のお金を寄付できる募金箱みたいなのがありましたよね。

「空港 外貨 募金」で検索してみたら、ありました。ユニセフがこうした募金の受けつけをされているのです。すばらしいです。

www.unicef.or.jp

空港や一部の銀行などにこうした募金箱が設置されているそうですが、ほかにも宅配便や書留郵便などで直接送ってもよいとのこと。それでさっそく箱詰めして送りました。

またいつかこうした通貨の国々に行くかもしれないけれど、その時はその時でまた両替したりキャッシュレスで対応したりすればいいですし、こうやって何年、何十年もタンスにしまっておく必要はないのです。それより世の中に還流させて、誰かの役に立ってもらった方がずっといい。そうやって還流させることでお金は生きるし、まわりまわって自分のところにも何らかの形でめぐってくるでしょう。

こうやってすべてのお金を寄付しましたが、私が中国に留学していた時にはまだ使われていた懐かしい「外貨兌換券」や、こども銀行券みたいにかわいいデザインの「分」のお札は少しだけ手元に残しておきました。これは現代の中国人留学生と話すときに格好の話題のタネになるので。

わたしに話さないで

カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』じゃないんです。「わたしに話さないで」。より正確に言えば「わたしに話しかけないでください」でしょうか。ヘアサロンで、スタイリストさんとの話が苦手な私は、いつもそう思っています。

先日も髪を切りに行ったのですが、スタイリストさんが天気や天候の話に始まって、仕事や趣味の話、夏休みの有無や過ごし方、さらにはパリ五輪の話題などを振ってこられるので、正直に申し上げてとても疲れてしまいました。なにせ私は五輪に対してまったく興味がなく、あまつさえ近代五輪はすでにその役割を終えており、かつ利権にまみれてしまっているので早くやめるべきとまで思っている人間なんですから。

もちろんスタイリストさんだって、こちらの人となりを会話によって把握してよりよいサービスにつなげようと思ってらっしゃる、あるいはそこまで行かなくてもリラックスした雰囲気を作ろうと努力されている……のだとは思います。だから私もそこはそれ、上述のようなエキセントリックな主張はもちろんいたしません。適当に話を合わせておけばいいのだろうとは思っていますし、じっさいいつも無難なところで適当かつ曖昧な返しをしています。

でもね、もう疲れちゃったの! 歳も取ったし、いつまでもがまんして自分を偽るのはやめにしたいの! スタイリストさんに悪気がないことは重々承知していますが、こんどこそ「ごめんなさい、会話が好きじゃないので、私に話しかけないでくれますか?」と言おう。毎回そう思っているのですが、けっきょく上述のような体たらく。いい歳して「コミュ障」かよと思われるかもしれませんが、じっさいのところまさに「コミュ障」だと思います、私。教師や通訳者なんて仕事をしている人間が言うのもどうかと思いますが。

それで、話しかけないことをサービスのひとつとして掲げているヘアサロンはないのかしらと思ってネットを検索してみて、びっくりしました。ないどころか、ある、ものすごくたくさんあるんです。自分がいつも利用している HOT PEPPER Beauty にも「接客へのご要望」で「なるべく静かに過ごしたい」をチェックして検索ができる機能がありました。知らなかった〜!

ほかにもこちらの、「会話が苦手な人なら思わずうなずく、美容院での“本音”を描いた漫画に共感」という記事に私も共感しました。「追加料金払うので話しかけないで」……まんま私の本音ですよ、これ。

www.walkerplus.com

同じように思っている方はたくさんいるんだな、と心強く感じました。次からは「自分を偽るのはやめたい!」などと年甲斐もなくキレるのではなく、粛々とこういったお店を選びたいと思います。ああ、なんだかホッとしました。

でも、こんな話題でネットが盛り上がるのって、内気でシャイで人見知りであることにかけては世界でも定評のある日本人ならではなのかなと思って、試みに中国語でいろいろ検索してみたら、こんな記事が見つかりました。

news.gamme.com.tw
www.japaholic.com
www.hk01.com

でもこれらはいずれも、日本において「話しかけられないヘアサロン」が人気だということをなかば興味深そうに紹介する記事です。へええ、日本人にはそんなサービスが受けるんだ、みたいな。となるとやっぱりこれは、日本人ならではの現象なのでしょうか。他の国や言語圏でも、同じように感じている方々はいるのでしょうか。

通り魔のようなコメント

経済学者の成田悠輔氏が「聞かれてもない話を延々とする人は通り魔」とおっしゃっていた、とネットニュースで読みました。確かにそんな感じかもと思うと同時に、この「通り魔」的な感じは以前どこかで感じていたことがあるなあ……と考えることしばし、そうだ、SNSを使っていた頃だと思い出しました。

qianchong.hatenablog.com

いまではもうSNSに類するものをほぼすべてやめてしまいましたが、一時期はTwitter(X)を中心に依存症とでも呼べるほどのレベルで浸っていました。その頃にいちばん不快に感じていたのは、ときおり自分の「つぶやき」が予想もしなかったほどの勢いで拡散されたのち、不特定多数の人々から投げつけられる心ない、あるいは悪意のあるコメントでした。

ご本人はおそらくそれほど考えてもおらず、脊髄反射的にコメントやリプライをされているのでしょう。なかには「オレはガツンと言ってやったぜ」的な快感で溜飲を下げている方もいるかと思います。いずれにしても、フォロワー数が増えるにつれてそういう人に遭遇する頻度も上がっていったというのが、SNSから降りた理由のひとつでした。

ひょっとしたら、同じように感じている方もいるかも知れないと思って「SNS コメント 通り魔」で検索してみたら、なんとこちらの「note」にズバリ「コメント通り魔。」という文章を書かれている方がいました。

note.com

心から同感です。悪口と批判は異なります。きちんとこちらの意図を把握してくださったうえでの誤解や思い込みなどへの指摘など、善意の批判であればもちろんとてもありがたい。でも、なかにはツイートの内容やそれまでの脈絡とはまったく違う方向から、罵声や悪口雑言を投げつけてくる人がけっこういました。それもほとんどが匿名で。

まるで暗闇から不意に出現して言葉を投げつけたのち、すぐに暗闇に消えていくような……まさに「通り魔」としか言いようがありません。SNSのみならず、ネットニュースでもECサイトでもこうした通り魔的コメントは散見されます。不特定多数の人々が書き込めるコメント欄やレビュー欄はできるだけ読まない、近づかないのが吉と心得ておきます。

SF小説をどうしても読み通せない

SF映画は大好きなのですが、小説となるとどうしても最後まで読み通すことができません。とはいえ中高生の頃は『宇宙英雄ペリー・ローダン』シリーズみたいな、いわゆるスペースオペラ的作品をたくさん読んだような記憶があります。でもよくよく思い返してみるに、SF好きの友人のおすすめ本をいくつかかじって何となく読んだような記憶がでっち上げられていただけで、実際にはほとんど読めていなかったのかもしれません。

SFといえば、ずいぶん前に「日本SF大会」というイベントで通訳業務を仰せつかったことがあって、その時にSFファンのみなさんの盛り上がりぶりに接して、憧れのような気持ちを抱きました。ああ、この輪の中に入ることができたら楽しいだろうなと。それ以来、何度も間欠泉的に挑戦してきたのです。


https://www.irasutoya.com/2018/06/blog-post_264.html

最初はまず古典からということで、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』やロバート・A・ハインラインの『夏への扉』などを購入して読んだものの、いずれも最初の数ページで挫折してしまいました。オンライン英会話のチューターさんにおすすめされた、翻訳者の大森望氏をして「バカSFの歴史に燦然と光り輝く超弩級の大傑作」と言わしめたというダグラス・アダムスの『銀河ヒッチハイク・ガイド』も同様に数ページで挫折。

日本SF大会に私を呼んでくれた知人から「SF入門者が、そこからかい!」とツッコまれた伊藤計劃の『虐殺器官』もあえなく敗退しましたし、中国語圏で話題になった作品だからと半ば義務のようにして挑んだ劉慈欣の『三体』も、第一部だけはなんとか読み終えましたが、第二部と第三部は積ん読のまま。結局、第一部ともどもバリューブックスさんに買い取っていただきました。映画『メッセージ(原題:Arrival)』を見て興味を持ったテッド・チャンの短編集『あなたの人生の物語』と『息吹』も、いずれも最初の数篇しか読み進めることができませんでした。

なぜSF小説を読み通すことができないのでしょうか。フィクションを読まないわけじゃないですし、科学技術系のお話も宇宙論から物理学や数学、バイオに古生物にAIに人体……いずれも「好物」で、一般向けの本ですがあれこれと読んではいるのです。なのにどうしてSF小説だけはこうも歯が立たないのでしょうか。いつも拝見している冬木糸一氏のブログ『基本読書』で紹介されている本も、SFだけどうしても読了できません。

huyukiitoichi.hatenadiary.jp

私などが語るのもおこがましいですが、SF小説というものは、類まれなる想像力でこれまでに我々が見たことも聞いたこともないような世界を紡ぎ出すところがその真骨頂だと思います。でもおそらく私は、その想像力が紡ぎ出す世界に自らの想像力が追いついていかないのでしょう。でもそれをいえば、あらゆるフィクション作品が多かれ少なかれ想像力の翼を広げて物語が展開されるものであり、私の想像力もSF小説でなければ何とかその作品世界についていくことができます。もしやこれは、SF小説の世界はあまりに現実離れしており荒唐無稽にすぎると私の脳が決めつけて、初手から拒否の回路が働いているとかでしょうか。想像力の桁がひとつ上がるともうついていけなくなるとか。あまり考えたくないけれど「老い」の二文字が目の前にちらついています。

かくいう私も、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』とか『クララとお日さま』などは最後まで読み通せた上に、深い読後感が残りました。佐藤究の『Ank : a mirroring ape』やアンディ・ウィアーの『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は、いずれも巻を措く能わずの勢いで読了しました。

qianchong.hatenablog.com

『プロジェクト・ヘイル・メアリー』だけは真正のSF小説と言えるでしょうけど、そのほかの作品はSF小説に分類できるかどうか微妙なところかもしれません。それぞれが内包しているテーマは「ネタバレ」になりますから書きませんが、私は自分が生きているリアルな現代社会とかなり近しいところでしかフィクションを楽しめない体質になってしまったんじゃないかと思います。昔はけっこうぶっ飛んだ設定のフィクションも楽しんでいたような気がするのですが……やっぱりこれは「老い」の一形態なのかな。

新紙幣

先日、新しいデザインの日本銀行券、新紙幣が発行されました。私はすでに、ほぼ現金を用いない暮らしになっているので、それほど感慨のようなものはありません。それでも20年ぶりに改札、つまりお札のデザインが変わると聞いて、前回の改札時はどんな気持ちだったかなあと思い返してみました。が、まったく記憶がありません。

歳を取ると、直近のことはすぐに忘れがちな一方で昔のことはよく覚えているなどと言いますけど、昔のことすら何の記憶もないというのはちょっとマズいのではないか……と一瞬うろたえたのですが、すぐにその理由が分かりました。当時私は長期派遣の仕事で台湾にいて、改札のタイミングに立ち会っていなかったのです。ああ、よかった。


https://www.irasutoya.com/2024/07/blog-post.html

けさの通勤時にポッドキャストを聞いていたら、徐静波氏の『静说日本』でこの改札の話題が紹介されていました。日本の紙幣や貨幣の種類、発行のされ方、新紙幣に描かれた人物や偽造防止技術の話などとてもわかりやすく解説されていたのですが、この部分だけ「おや?」と引っかかりました。

一個朝代,一個新幣,這是日本從明治時代發行紙幣以來的老規矩。
ひとつの王朝にひとつの紙幣。これは明治時代から紙幣を発行してきた日本のルールです。
静说日本 · 徐静波 ポッドキャストを聞こう

氏によれば、天皇が代替りしたのち数年の準備期間を経て新しいお札が発行されるということで、平成になって数年後の2004年が前回の改札、そして令和になって数年後の今年にまた改札が行われたと。でも昭和の時代には何度か改札があったのではないかと思ってネットを検索してみたら、日本銀行のウェブサイトに「お金の話あれこれ」というページがありました。
www.boj.or.jp
やはり昭和では何度か改札が行われたようです。また、なぜ約20年で改札が行われるのかについては、こちらのページに解説がありました。ひとつは偽造対策のため、もうひとつはその偽造防止技術の維持と継承のためなんだそうです。
www.watch.impress.co.jp
精巧な偽造防止技術が盛り込まれた紙幣はさながら工芸品のようで美しいですけど、その役割はもうほぼ終わったと考えてよいと思います。今回の改札がおそらく最後になるだろうと見ている識者もいるようです。あの時代は一万円札が聖徳太子だったなとか、伊藤博文の千円札が懐かしいとか、昔を振り返って懐かしむよすがにはなりますから*1少し寂しい気もしますが、仕方がないですね。

*1:私は中国の古いお札をいまだに持っていて、毛沢東周恩来劉少奇朱徳の横顔が並んだ百元札とか、こども銀行券みたいな一分・二分・五分札とか、さらには外貨兌換券なんかを見返しては懐かしさに浸っています。でもこれ、もはやどうにも使いようがないですよね。中国の留学生に聞いてみたら、銀行に持っていけば口座の残高に組み入れてくれるんじゃないですかとのことでしたが、私は中国に銀行口座を持っていませんし。どこかに寄付できたらいいんですけどね。

アルファベットの筆記体

留学生の一般教養クラスで、それぞれの国の言語政策について発表を行ってもらいました。中国の留学生が文字改革について説明してくれたあと、質疑応答の中でなぜか「以前は英語の授業で筆記体というものを学んだということですが……」という話になりました。

ありましたね、英語の筆記体。私たちは中学1年生から英語が必修になった世代ですが、最初に筆記体とブロック体でアルファベットを書く練習をしたものでした。薄い赤と青の線が入った専用のノートがあって、筆記体とブロック体の大文字と小文字をそれぞれ何度も練習したのです。


www.youtube.com

留学生のみなさんは、おおむね二十代から三十代くらいですが、国によって筆記体の練習をしたことがあるという人もいれば、「筆記体? なんですか、それ」という人もいました。アメリカの留学生は「カリグラフィーなんかを学んでいる人は知ってるでしょうけど、自分は書ける自信がないです」と言っていました。

私は中学生の頃に英語で文通をしていて、その時は筆記体を使って手紙を書いていました。ベルギーとモーリシャスペンパルがいて、赤と青の縁取りがあるエアメール封筒で……って、メールやチャットやSNSがここまで普及した現代においては、もはやなんのことだかわからないでしょうね、文通だのペンパルだのエアメール封筒だのって。そういう時代があったのです。郵便代金を節約するために、蝉の羽のように軽くて薄い便箋を使ってですね、封筒には “VIA AIR MAIL“ とか “PAR AVION” とか書いてですね。


https://www.etsy.com/listing/1277672304/vintage-air-mail-letters-group-cursive

とまれ、パソコンが普及してからこちらは、私も筆記体を使って英語を書くことなどまったくなくなっていました。でも試みにホワイトボードに書いてみたら、大文字はちょっと怪しかったですが小文字はすべて完璧に書けました。こういうのって、マニュアル車の運転と同じで身体が覚えているものなんですね。アメリカの留学生には「とてもきれいです」と褒められました。

ふたたびマニュアル車を運転した

先日、ほぼ30年ぶりでMT(マニュアル)車を運転して、クラッチやシフトレバーの操作を身体がまだ覚えていたことに驚きました。

qianchong.hatenablog.com

それから2週間、もういちど教習所に行ってきました。正直なところ、もう練習しなくても大丈夫かなという感覚だったのですが、せっかく教習所に4時間分申し込んでいたので(ここの教習所は最低4時間からのセット料金なのです)、残りの2時間を使わないのはもったいないかなと思って。

今回は教習所内で坂道発進などを何回か練習したあと、インストラクターさんのおすすめもあって、すぐに路上へ出ました。教習所は二子玉川にあるので、そこから世田谷区のあちこちをドライブして回りました。ふだん歩道から見慣れている光景の中を車で通るのは、なかなか新鮮な感覚でしたが、東京都内の道路はけっこう狭く複雑なので緊張します。

それと、歩行者の立場の時は自動車が怖く感じられますが、運転者の立場になったとたんに歩行者が疎ましく感じられるという、なんとも身勝手な私。さらにいかにも「あとづけ」で作られたバイクレーンを自転車が走っていますし、最近エリアが広がったLOOPの電動キックボードが行き交いますし、路上駐車や道路工事を避けて走る必要がある上に、都内は意外にアップダウンも多いんですよね。

というわけで、そんなこんなに対応するためこまめにギアチェンジが必要になるマニュアル車の運転ゆえ、けっこう疲れました。インストラクターさんも「ふだん仮免での路上教習ではこういう住宅街の道はあまり通りません、こちらも怖いので……」とおっしゃっていました。MT車はいかにも機械を操作している感があって楽しいですが、やはりAT車のほうが断然らくちんです。日本でAT車が圧倒的に普及したのは(約98%で世界一の普及率だそう。)、日本、特に都会の狭くて複雑な道路事情が背景にあるのかしら。

例によってインストラクターさんも手持ち無沙汰っぽかったので、運転しながら日本はここまでAT車が普及したいっぽうで例えばヨーロッパはなぜいまだにMT車が多いんでしょうね、という話になりました。なにか欧州ならではの規制でもあるのかしらと思ったのですが、あとからネットを検索してみたら「欧州では車両価格や燃費を気にしてMT車を選ぶ傾向にある」のだそうです。

www.webcartop.jp

あとは欧州では「AT車はダサい」という観念が根強く残っているからという情報もありましたが、本当かなあ。やはり彼我の道路事情の差がこの差につながっているんでしょうね。

これをなんというのかわからない

中国に留学したとき、初日に大学の寮で部屋をあてがわれて、まずやろうと思ったのが掃除でした。ほうきとちりとりと、あとぞうきんもいるかな……と思った瞬間、はたと考え込んでしまいました。中国語で「ほうき」と「ちりとり」と「ぞうきん」って、何ていうんだっけ。

留学するまでに、つごう五年くらいは中国語を学んできていました。奨学金を得るために中国語の試験も受けましたし、クラス分けの面接もなんとか突破して“高級班”に入ることができたというのに、日常生活でよく使う、そんな単語の数々がぜんぜん自分の中に入っていなかったのです。

これは「留学あるある」の典型例みたいで、それまで学んでいた教科書には出てこなかったたぐいの(しかし基本的な)語彙で困るとか、いざ街に出てみたらみなさん教科書みたいにはしゃべってなくてぜんぜん聞き取れないとか、そういうエピソードは多くの方が語ってらっしゃいます*1

それからは心を入れ替えまして、意識的に日常生活で目にする細々としたモノやコトについて、単語を収集し、覚えるようにしてきました。それでも当然ながら難敵はつぎつぎに現れるものでありまして、たとえば以前、台湾は台北合羽橋道具街的なエリア迪化街で「あれ」を買おうと思ったのですが、名前が出てきません。あれとは、皿ごと蒸した料理を蒸籠から取り出す時に使うこれです。


https://www.kvselect.com/190423000002

お店の方に「ほら、あの、蒸籠から、こう挟んで、熱いから……」と身振り手振りなども加えてようやく購入できたのもつかの間、昼ご飯を食べに入った食堂でまた「あれ」に出会いました。あれとは、食堂や屋台のテーブルに必ずと言っていいほど置いてあるこれです。


https://ynews.page.link/u3f2g

栓抜きじゃないんですよ。もちろん栓抜きとしても使えるようになってますけど、より重要な機能は上にあるでかいゼムクリップみたいな部分で。ちなみにこれ、中国大陸(中華人民共和国)出身の留学生は「なにこれ?」的な反応であるのに対して、台湾出身の留学生はほぼ全員が知っている、けれども名前は誰も知らないという品です。

支払い用の伝票を挟んでおくためのもの? ではなく(そういう使い方もできそうですが)、これは割り箸を包んでいるビニールの袋が風で飛ばされないように、ここに挟んでおくための専用器具です。最近はプラスチック製のもありますけど、この昭和の事務用品的な雰囲気ただよう金属製のこれをみると私はいつも、ああ、台湾に来たなあと感慨にふけるのです。

*1:“多少錢?(おいくら?)”だって「ドゥオー・シャオ・チィエン?」なんて言ってない、ほぼ「ドァルチェ?」にしか聞こえない……って。

30年ぶりにマニュアル車を運転した

ちょっと訳アリでMT(マニュアル)の自動車を運転する必要に迫られたので、自動車教習所でペーパードライバー訓練を受けることにしました。私が普通自動車の運転免許を取得したのはもう40年くらい前。当時はAT(オートマチック/オートマ)限定などの制度もなく(AT限定免許は1991年から登場したそうです)、当然マニュアル車も運転できる免許を持っています。

30歳くらいまでは田舎で毎日マニュアルの乗用車やトラックなどを運転していたのですが、その後公共交通機関が便利な東京に戻ってきて車を運転する必要がほぼなくなりました。同時にオートマ車全盛の時代に移行したので、たまに借りて乗る車もすべてオートマ車となり、マニュアル車の運転からはずいぶん遠ざかってしまいました。

教習所ではインストラクターさんの指導で、まずはクラッチとブレーキを踏んだ状態から車の起動、ローギアから「半クラ半クラッチ)」ののちアクセルを踏んで前進およびリバースギアで後退……を何度か繰り返しました。そののち教習所内のコースを何度も周回しながら2速、3速、4速のギアチェンジ、さらにはクランクやS字、坂道発進(いずれも懐かしい!)まで練習してから、一般道へ出て小一時間ドライブしました。

最初の半クラだけ「おおお〜こんなんだったっけ」と少しぎこちなさがありましたが、クラッキングやエンストをすることはなく、すぐに慣れました。ギアチェンジも、カーブなどでの減速を含めて、身体が操作を覚えていることにすごく驚きました。だってほぼ30年ぶりくらいで運転したんですから、マニュアル車。「手続き記憶(Procedural memory)」というんでしたっけ、こういう種類の記憶は。語学に応用できたらいいのに。

すぐ運転に慣れちゃったのでインストラクターさんもちょっと手持ち無沙汰な感じでしたが、ドライブ中は安全確認の方法とか、私の運転の癖とか(カーブを曲がる時に若干カーブとは反対側に振れてから曲がろうとする癖があるそうです)、いろいろとていねいに教えてくださいました。

それでも途中からは2人で「マニュアル車って楽しいですよね〜」「最近はオートマのトラックも登場していて、かえって運転しにくいとトラックドライバーからは不評らしいですよ〜」「普通運転免許はもうすぐATのみがデフォルトになって、AT限定免許はなくなる予定なんですよ〜」「EV全盛の時代や自動運転の時代になったら自動車そのものの意味が変わりますよね〜」みたいなクルマ談義になっちゃいました。

2週間後にもう1回教習の予約を入れてあるんですけど、どうしましょ。

「お子ちゃま」だなあ

毎朝自宅の最寄駅から電車に乗って出勤しています。今日はちょっと時間に余裕があったので、ゆっくり駅に向かっていたら、踏切脇に公衆電話ボックスがあるのに気づきました。もう何年もこの駅を使っていますから、毎日のように目にしていたはずなのです。なのに、ここに電話ボックスがあるという認識自体がなかったというのは、ちょっとした驚きでした。大丈夫かな、自分。

それで、あらためて電話ボックスを観察してみました。電話ボックスの扉を開けたのは何十年ぶりかしら。懐かしい灰色の公衆電話はかなりホコリにまみれていましたが、「生きて」いるようでした。おそらく災害時には役立つとか、そういう理由で残されているんでしょうね。

……と、奥のガラスにこんな注意事項が貼ってありました。これはまた、日本ならではの過剰な注意喚起です。こういう「日本文化」は外国人留学生とディスカッションする時にとても盛り上がるアイテムなので、すぐに写真に収めました。

それにしても、これはかなり過激な注意喚起です。およそ起こりそうもないようなことが列挙されていますもん。1番目の「電話帳上蓋」というのは何のことだろう……と薄れてしまった記憶をたどっていくうちに、思い出しました。たしか公衆電話機の横に小さなテーブルみたいなスペースがあって、そこにあの分厚い電話帳が吊り下げられていたんです。

その電話帳が吊り下げられているプレート(これが電話帳上蓋)を手前からくるっと持ち上げると、180度回転してそのまま電話帳を閲覧することができるようになっていた……って、生まれたときからスマートフォンが世の中にあった世代の方には、電話ボックスだの電話帳だの、もはやなにを言っているのか皆目見当がつかないと思いますが。試みに「電話ボックス 電話帳」で写真検索をしたら、こんな写真が見つかりました。緑色の公衆電話の横に、電話帳が下がっています。これこれ。


https://www.benricho.org/Tips/nttpublictel.html

……などと喜んだり懐かしんだりしている場合ではありません。ともかく、こんな注意喚起が暮らしの隅々に溢れているのが日本なんですよね。これは外国の方々からはとても好奇の目を注がれるポイントでありまして、公共空間のアナウンスやスローガンの多さとともに、驚かれる方が多いです。来日当初はあまりにも大音量のアナウンスが多いので、なにかとんでもない緊急事態が起こっているのだと思った、なんてのは定番のジョークです。

でもそのうちみなさん「日本人化」して慣れちゃう、ないしは「こんなことまで注意喚起し続ける必要があるなんて、ずいぶん『お子ちゃま』だなあ」という感慨に落ち着くというのが大体のところです(気を遣ってあまり言ってくれませんけど)。そうですね、諸外国では逆にちょっと不安になるくらいこうしたアナウンスや注意喚起はないものね。

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とはいえ、なにごとも理由や原因があるものです。くだんの電話ボックスにあの過激な注意喚起ステッカーが貼ってあったのは、とりもなおさずそういう「事案」が実際に起って、クレームなり抗議なりがNTTに寄せられたからなのでしょう。注意喚起してくれてなかったから脚を挟んで怪我した! ……みたいな。まさに「お子ちゃま」です。

もっともこのステッカー、ネット界隈ではけっこう有名なものらしく、検索している過程で私と同じような「ツッコミ」を入れている方を見つけました。たとえばこちらとか、こちらとか。みんな「お子ちゃま」扱いに、それなりに複雑な感情を抱いてらっしゃるんですね。

電話ボックスで写真を撮ってから電車に乗ったら、ぎゅうぎゅう詰めの車内でアナウンスが入りました。「発車しますと揺れますのでご注意ください」。