インタプリタかなくぎ流

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お勧めに従う

日の名残り』のスティーブンスはイングランド南西部への旅に出た二日目の午後、ドーセット州のモーティマーズ・ポンドという美しい池に出会います*1。車のラジエーターの水が切れかかっていたことに端を発して、助けを求めたお屋敷の「従卒」に勧められてのことでした。彼はそこで、これまで自分が墨守してきた執事の「偉大さ」や「理想主義的な」側面あるいは「品格」について、過去を振り返りながら新たな思索を得ます。それはかつて自分が傾倒したダーリントン卿との関係にも繋がり、この作品の通奏低音となっていくのですが……。

Airbnbで予約していた民泊がちょうどドーセット州のど真ん中あたりにあって、たどり着いてみたら「こんな対向車もすれ違えないくらい細い道の先にほんとうに宿があるのかしら」というくらいの森と牧場と荒野が入り混じった場所でした。けっこう早めの時間についたので、民泊のオーナーが「ぜひ見ていくといいよ」と隣村の “Milton Abbas(ミルトン・アバス)” お勧めしてくれました。

“Milton” はこの辺り一帯の地名なのですが、“Abbas”についてはWikipediaに “In English place-names the affix "Abbas" denotes former ownership by an abbey.” とありました。かつて “abbey(アビー:修道院)” が所有していた場所や建物を示す接辞なんですね。ドラマ『ダウントン・アビー』のお屋敷も、もとは修道院の建物だったわけです。この “Milton Abbas” を検索してみたら、YouTubeに紹介ビデオがありました。


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行ってみて驚いたのですが、茅葺き屋根の民家が道の両側に立ち並ぶ風景は福島県は南会津の大内宿にそっくり。しかも観光客がまったくいなかったので、道路脇に停めてある自動車がなければちょっと現実感が希薄というか、まるでお伽噺の風景を見ているような感覚に陥ります。バージニア・リー・バートンの絵本『ちいさいおうち』を思い出しました。

民泊からこの集落に向かう道の少し手前にも、広大な芝生の敷地に古いお屋敷と大きな教会が立っていて、こちらは “Milton Abbey(ミルトン・アビー)” というそうです。ここは現在私立の学校(日本でいうところの中高一貫校みたいな)として使われていて、学校なのでお屋敷(つまり校舎)の内部は見学できませんでしたが、教会の建物を写真に撮らせてもらいました。『ハリー・ポッター』シリーズのホグワーツばりに「なんか出そう」な雰囲気になってました。

芝生のグラウンドで何人かの男子生徒がラグビーの練習をしていましたが、こんな場所で学生さんたちが学んでいるというのも、まことに勝手な感想ながらやっぱり何だか現実感がありません。

きょうび旅行といえばパソコンやスマホと首っ引きで移動するのが常ですけど、こうやって偶然お勧めされた場所で思いもかけない光景に出会うのはいいものです。スティーブンスが旅行の初日に、偶然出会った「痩せた白髪の男」からあの「品格のある」田園風景を眺めることができる丘をお勧めされたーーという話を昨日書きました。その男の言葉は小説ではこんなふうに書かれています。

「登っておかないと後悔しますぜ、旦那。絶対でさ。それに、人間、何が起こるか分かりませんや。二年もしてみたら、もう遅すぎた、なんてね」男はそう言って、なんとも下品な笑い声を立てました。「行けるうちに行っとくのが、利口ってもんでさ」(37ページ)


‘I'm telling you, sir, you'll be sorry if you don't take a walk up there. And you never know. A couple more years and it might be too late’ - he gave a rather vulgar laugh - ‘Better go on up while you still can.’

このくだり、『日の名残り』を最初に読んだ20年ほど前の自分にはさほど印象にも残っていませんでした。でもいまになって再読すると、これほど心に響くセリフもないのです*2

*1:この池はカズオ・イシグロの創作、つまり架空の場所だそうです。

*2:このセリフを上掲のような日本語に訳す土屋政雄氏もすごすぎます。