インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

変わったタイプ

むかしむかし、タイプライターを持っていました。イタリアのオリベッティというメーカーの「Lettera32(レッテラ32)」という緑色の一台です。正確にいうと、かつて仕事で使っていた叔母に借りたものでした。「もう使わなくなっちゃったから」というわけで借り受け、そのデザインとメカニズムに憧れてブラインドタッチを必死で練習したものです。
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http://www.noax.co.jp/products/Lettera32.html
Olivetti Lettera 32 - Wikipedia

まだパソコンなど全く普及していなかった頃の話です。でもそのときに練習したブラインドタッチは、パソコンの時代になっても多少は役に立ってくれました。よく知られているように、今でもパソコンのキーボードが基本的にQWERTY配列なのは、英語でよく使われるキーが特定の指に集中してアームが絡むのを避けるため、わざとランダムに配列したからです*1

タイプライターは金属の部品がみっしりと詰まっていて、とても重かったことを覚えています。打鍵するたびに大きな音を立てて「キャリッジ(紙を巻き付けてあるローラー)」が動き、改行のところで「チン」という音がしていたのも懐かしい。ブラインドタッチ同様、改行してキャリッジを戻すときのレバー操作も、そのレバーを見ないで行えるようになるのがとてもクールに思えたものでした。

ルロイ・アンダーソンという人が作曲した、とても有名な曲にその名もズバリ「タイプライター」というのがあって、これはタイプライターを楽器として扱い、上記のような打鍵やキャリッジリターンの音を楽曲に取り入れています。実際に「チン」と鳴るところにタイミングよくもっていくのは難しいので、このベル音だけは脇に用意されるのが普通のようですが(YouTube映像をご参照ください)。
youtu.be

前置きが長くなりましたが、むかしむかしのタイプライター体験を思い出したのは、トム・ハンクス氏の短編小説集『変わったタイプ』を読んで感銘を受けたからです。トム・ハンクス? そう、あのトム・ハンクスです。『フォレスト・ガンプ』の、『アポロ13』の、『グリーンマイル』の、『ターミナル』の、『ダ・ヴィンチ・コード』の、そして『ブリッジ・オブ・スパイ』の。


変わったタイプ (新潮クレスト・ブックス)

2014年、雑誌『ニューヨーカー』に掲載された最初の短編がきっかけとなって、その後次々に書き継がれ、2017年に短編小説集として出版された同書。収められた17編の小説はさまざまな趣向あり時代ありプロットありでバラエティに富んでいますが、書名の『変わったタイプ』が示すとおり、どの作品にも何らかの形でタイプライターが登場します。

今となってはある意味レトロでノスタルジーをかき立てられる、この「すでにその役目を終えた機械」の存在というか、テイストが、どの作品にも一種独特の味わいを与えているように感じます。それは例えばこんな描写となって現れます。

「たとえば、これ──」老人が棚に寄っていって、そこから取り下ろした一台は、黒い〈レミントン7〉のノイズレスと称するモデルだった。「白い紙を取ってくれませんか、そこにあるやつ」と言われて、彼女はカウンターの用箋を渡した。老人は紙を二枚まとめて切り離し、そのまま黒光りするマシンに巻き入れると、「聞いてなさい」と言いつつタイプした。

デトロイト通り ビジネス マシン

その文字が一つずつ、ささやくように紙の上に落ちていった。

現代の私たちがパソコンとプリンタを用いて行う印字との、この径庭といったら! 何気ないごく普通の事務作業なのに、なにかここには愛惜や郷愁にも似た胸を締め付けられるような感覚と、それに加えて一種のおかしみやユーモアさえ感じられます(翻訳者は小川高義氏)。これを読んで現代の「デジタルネイティブ」の方々は、どんな感覚を受け取るのでしょうか。タイプライターに触れたことがある人にしか分からない感覚なのでしょうか。非常に興味があります。

正直に申し上げて、中には物語のプロットがわかりにくい作品もありました。それでも、対照的な男女の怒濤のような日々をつづる「へとへとの三週間」、戦争の傷跡がまだ生々しい時代に小さな幸せを温めるような「クリスマス・イヴ、一九五三年」、訳の分からないうちに月旅行をしちゃう「アラン・ビーン、ほか四名」、冷たい雨の日の感覚が身にしみる「配役は誰だ」、トム・ハンクス氏のタイプライター愛(氏は蒐集家だそう)があふれる「心の中で思うこと」、SF仕立ての「過去は大事なもの」などなど、繰り返し読みたい掌編が盛りだくさん。

とまれ、多くは語りますまい。さまざまな境遇のさまざまな人生がタイプライターという一点で交錯する、すてきな短編集。にわかに外気温が下がり始めた今の季節にぴったりじゃないかと思います。

*1:ただしこちらによると、これには諸説あるようです。

スポーツにも語学にも「向き不向き」がある

先日、Twitterのタイムラインで拝見したこちらのツイート(リツイートのリンクをたどっていくと元となったツイートまで辿れます)。

同じように感じてらっしゃる方は多いんだなあと思いました。私も体育の授業が大嫌いな子供でしたが、いまではジムに通うのが大好きになりました。ジムが楽しいのは、そこに他人と競う要素がなく、ただ自分と向き合うだけだからです。

qianchong.hatenablog.com

私はスポーツがからっきし苦手なので、プールでの競泳とか、短距離・長距離走(持久走大会などという行事もありました)とか、またサッカーやバスケなど球技のトーナメント戦とかクラス対抗とか、あと柔道や剣道などの武道とか、とにかく学校の体育で優劣や勝敗や順位をつけたがる空気がとても苦手でした。

体育の授業から「競う」要素を取り除くだけで救われる子供はたくさんいると思います。強制的に全員にやらせるのではなく、競いたい人や競うのが向いている人と分けてほしかったです。とくに男性は、子供の頃から「スポーツ好きで当然」という圧力を受けますからねえ。

いまはもうそんなことはないんじゃないかと想像しますが、私が小学生の頃は、男の子のほぼ全員が野球帽をかぶっていた記憶があります。私もかぶってました。野球なんか全然好きじゃないのに。そして子供ながらに野球の「うまい・へた」で見事なヒエラルキーが作られるんですよね。それはいじめにもつながる。子供の頃の私は、みごとに「いじめられっ子」でした。

qianchong.hatenablog.com

これを言うと、日本ではすぐ「不平等だ」などと言われてたぶん実現は難しいでしょうが、健康を維持・増進する意味での「体育」は全体でやるにしても、競う内容の「スポーツ」はやりたい人だけにしたらいいんじゃないかなと思うのです。もとよりスポーツには生まれ持った体格や感性など、はっきりと向き不向きがありますし。
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https://www.irasutoya.com/2015/10/blog-post_914.html

あとこれは語学学校の「経営」的にはタブーの言い方ですが、実は語学(母語ではなく外語・第二言語)も向き不向きがあります。語学もスポーツ同様に身体の様々な器官を動員して行う一種の「身体能力」だからですけれど、「誰もがプロのアスリートになれない」というのはみなさん同意してくださっても、語学(というかほとんど英語)は「誰もがプロの語学の遣い手にならなければ」と最近は特に前のめりです。全員参加圧力がきわめて強い。

でもこれは、向いていない人、あるいは必ずしも必要としない人にまで強要するという意味で、かなりかわいそうなことではないかと思っています。体育やスポーツが苦手な子供にムリヤリやらせて体育嫌い・スポーツ嫌いが昂進する(かつての私です)のと同様に、現在の学校教育における早期からの語学への傾倒は、大量の語学嫌い(とりわけ英語嫌い)を生みだしてしまうのではないかと。

このブログでも何度も書いていますが、語学は必要になった人が必要になったときから始めればよいのです。ただし必要になったからには、それこそ寝食を忘れて、死にもの狂いで、集中して叩き込む必要があります。

qianchong.hatenablog.com

母語である日本語の涵養もそこそこに、幼少時から週に数時間で「グローバル化した世界に対応できる人材育成」などというのは、語学を教えている立場から申し上げれば、とても非効率なやり方なんです*1。「セサミストリート」みたいな番組を観て、英語の音や文化に親しみましょう程度ならいいと思いますし、異なる言語や文化の人たちとどうつきあうかという「異文化・多言語リテラシー」みたいなものの一環としての語学だったらまだ意味がある(というか、むしろぜひやるべき)だと思いますけど。

qianchong.hatenablog.com

*1:もちろん非効率でも、向いていなくても大人が趣味で語学をやるのは、多角的な視点を身につけるという意味でも有用だと思いますが、それはまた別の話です。

分別のある年寄りになりたい

能楽堂の客席は、正方形の舞台を左側から正面に向けて取り囲むようにL字型に配されており、正面側の席が値段もお高くなっています。先日は少々奮発して真正面の席を取っておいたのですが、前の席にとても大柄な男性が座り、舞台がほとんど見えませんでした〜。残念。でもまあこれは仕方がないのです。身を乗り出すなどはマナー違反ですけど、体格はご本人にもどうしようもないですもんね。まっこと、能楽堂の正面席はギャンブルみたいなところがあります。やはり私は「分相応に」比較的お安い中正面や脇正面で観ようと改めて心に誓いました。

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http://kita-noh.com/stage/seat/

あと、正面のお高い席は比較的ご高齢の方が多いのですが、正直に申し上げてマナーの悪い「じじばば」の出没頻度が高いです。開演後いつまでも喋っている。途中で寝ちゃって(これは別にいいんですけど)鼾をかく。謡曲の、覚えている段に差し掛かるとうなるように謡い出す(気持ちは分かります)。「あめちゃん」の包み紙ガサガサ……など。

昨日は隣のおじいさまがやおら懐からデジカメを取り出すと、「ピッ」という音とともに電源を入れ、客席の上に大きくカメラを掲げ、なんとフラッシュをたいて写真を撮っていました。私が「ダメですよ」と諌めたら「私は特別に許可されている」だって。見え透いた嘘です。だってその能楽堂では撮影が許可された方はみなさん首から大きな許可証を下げているのですから。私が重ねて「それでもフラッシュはたいちゃダメですよ」と再度諌めたら「切るのを忘れてたんだ。悪かったな」とタメ口の上から目線。う〜ん、こういうおじいさまは度しがたいですねえ。
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https://www.irasutoya.com/2017/07/blog-post_116.html

それでも、伝統芸能に造詣の深い友人によると、能楽堂はまだまだマシなんだそうです。歌舞伎の客席なんかもっとマナーの悪い人たちが大勢いると。まあこうした芸能も、その始まりの頃はかなり熱狂的な、あるいはある意味猥雑な雰囲気の中で上演されていたみたいですから、むしろ現代のすました「伝統芸能」というスタイルの方が異質なのかもしれませんけど。

それでもやはり、会場前に何度も「撮影や録音は固く禁じられております」とのアナウンスが入っていたにも関わらず、こういう挙に出る方——それもいい歳をした方——が出没するというのは、何とも残念です。私たちは分別のある大人、いえ老人になるべく、努力を重ねなければなりませんね。

「運動音痴」にこそ筋トレ

先日、いつも通っているジムでベンチプレスをやっていて、42.5kgを12回×3セット挙げることができました。周りでトレーニングしてらっしゃるアスリートの方々からすれば取るに足らないような重量ですが(そして、そもそも人と競うようなものでもないのですが)、私としてはここのところずっと3セット目の途中で挫折してきたので、なんだかすごい達成感があります。

トレーナーさんは「すごいすごい」と拍手して「今日はいい日ですね」と言ってくださいました。前にも書きましたが、この歳になって真正面からほめられたり、達成できる具体的な数値が上がっていく体験というのはあまりないので、素直にうれしいです。

筋トレというのは語学に似ているなと思います。一直線に向上するのではなく、伸び悩みの時期がしばらく続いたかと思うと急にポンと向上する——つまり「階段状に成果が出てくる」のも似てる。まあどちらも身体を使って行う「身体的能力」なわけで、似ていて当然かもしれませんけど。

改めて思いましたが、筋トレって、私のようにスポーツが苦手でいわゆる「運動音痴」な人間にはぴったりですね。例えば野球やサッカーなどは、身体を使って行うことが多岐にわたっていて、身体の使い方に始まって敏捷性や反射力や……さまざまなスキルが要求されます。明らかに向き不向きや、生まれ持った身体的センスや能力などが絡んでくるわけです*1

でも筋トレは、基本的に単純な動きの繰り返しです。それだってもちろん細かな身体や意識の使い方はあるのですが、きちんとトレーナーさんについてもらいながら行えば、誰でもその人なりの身体的能力に応じて(重量やさまざまな器具の使い方を調整しながら)取り組むことができます。人と争うこともないし、勝ち負けもつかない。単に自分と向き合って一つずつタスクをこなしていくだけです。う~ん、これはもうほとんど座禅や瞑想に近い世界ですね。
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https://www.irasutoya.com/2014/10/blog-post_848.html

それでもって肩こりや腰痛やさまざまな不調が緩和され、あるいは雲散霧消し、なおかつダイエットできて身体も精悍な感じになっていく。「せっかくあそこまで頑張ってベンチプレスを挙げたんだから、暴飲暴食はやめとこ」と自然に意識が働く。ジムに通うのが楽しくなって、そのために仕事をやりくりしたり効率化して生産性を上げたりできる*2

中高年の、特に運動やスポーツが苦手な方にこそ、筋トレはおすすめだと思います。

*1:実は語学も同じだと私は思っているのですが、ここでは「営業上」、多くを語るのはやめておきます。

*2:まんまTestosterone氏が「筋トレ本」で主張されていることですけど。

『サピエンス全史』を読んで

壮大な物語でした。遅ればせながら読んだユヴァル・ノア・ハラリ氏の『サピエンス全史』上下巻です。宇宙の物理的現象の誕生から筆を起こして現在まで、さらには未来までをも見据えつつ「ホモサピエンス(人類)」の来し方行く末を論じた大著。生物学的な知見や、農業革命などの部分も面白かったのですが、やはり近現代の歴史に絡む部分がとても刺激的でした。


サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

例えば「歴史は決定論では説明できないし、混沌としているから予想できない」という一節。

決定論が魅力的なのは、それに従えば、私たちの世界や信念は歴史の自然で必然的な産物であることになるからだ。私たちが国民国家で生きていて、経済を資本主義の原理に沿って構成し、熱心に人権を信奉するのは、自然で必然的だというわけだ。歴史が決定論的でないことを認めれば、今日ほとんどの人が国民主義や資本主義、人権を信奉するのはただの偶然と認めることになる。
下巻 p.46

この本を読もうと思ったのは、その前に吉川浩満氏の『理不尽な進化』を読んだからなのですが、ここで吉川氏は「進化」という言葉にまつわる誤解を丁寧に解きほぐしていきます。進化とは、よくある四足歩行から二足歩行へと推移して背筋が伸びていく連続画のように、劣ったものから優れたものへと一直線に上昇していくようなものではなく、「適者生存」は優れたものが生き残るという意味でもないと。進化の結果は優れていたという「能力」に依るものではなく、単なる「運」であり、「適者生存」の意味は「いま生存しているものを適者と呼ぶ」というだけのことであると。
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https://www.irasutoya.com/2015/07/blog-post_861.html

生物学的な「進化」もさることながら、文明が生まれて以降このかた人類が選び取ってきたシステム、例えば国民国家、それを駆動しているさまざまな主義、さらには貨幣や宗教も……すべてがいまあるようにあるのは単なる運であり偶然なのだとしたら。急に足下が揺らぐような感覚に襲われませんか。じゃあ歴史はなすがまなに任せればよいのかと投げやりな態度になってしまいそうです。が、もちろんハラリ氏はそんな雑駁な方向には進みません。

それでは私たちはなぜ歴史を研究するのか? 物理学や経済学とは違い、歴史は正確な予想をするための手段ではない。歴史を研究するのは、未来を知るためではなく、視野を広げ、現在の私たちの状況は自然なものでも必然的なものでもなく、したがって私たちの前には、想像しているよりもずっと多くの可能性があることを理解するためなのだ。
下巻 p.48

なんと希望に満ちた歴史観でしょうか。最近就任したばかりの文部科学大臣は『教育勅語』について「現代風にアレンジして道徳などに使える部分がある」と発言し、戦前回帰志向をあからさまに打ち出しました。この人だけにとどまりません。今の政権を担っている人々は「歴史を研究した・歴史に学んだ」体を装いながら、その実、一つの価値観にすべての人間を押し込もうとしています。そこには歴史の真摯な反省も、未来の選択に対する豊かな想像も見あたりません。

性的弱者の問題にせよ、国や地域や民族間の争いにせよ、今存在している、そしてかつて存在したあり方だけに固執するのではなく、人間にはさまざまな未来の可能性があるのだと信じることからより多くの人々の幸福が生まれてくる。ハラリ氏の歴史観は、私たちはそのためにこそ歴史を学ぶのだという励ましの言葉に読めました。

その一方で、ハラリ氏はこんなことも書いています。

今日の生物学者が、現代の人間に見られる生物学的差異は取るに足らないと説明するだけで人種差別をたやすく否定できるのに対して、歴史学者や人類学者が文化主義を否定するのは難しい。つまるところ、人類の文化の差異が取るに足らないなら、歴史学者や人類学者がそういった研究をできるように私たちが費用を出す必要がなくなるからだ。
下巻 p.125

ここで言う「文化主義」とは、文化間の差異を強調することで人種差別を助長するような言辞に加担する態度を言っています。自分は人種差別など支持しないという方でも、文化間の差異については大いに称揚することはありますよね。「多様な人間集団にはそれぞれ対照的な長所があると主張するとき」に、その「文化間の歴史的相違の視点から語る」、要するに「みんな違ってみんないい」というスタンスで、私もけっこう使っています。

でもハラリ氏は、これが諸刃の剣であると警告を発しているわけです。困りました。人類の多様な文化の差異が取るに足らないものとは思わない(思えない)、けれどそれは容易に人種差別のツールにも変わりうるのです。例えば移民政策に関して、西洋的な民主主義と自由主義に対するイスラム圏の文化の対立といった構図のように。あるいは例えば日本と中国は「同文異種」で水と油のようなものだから永遠に理解しあえないと決めつけ、ことあるごとに脊髄反射的に「断交だ」などと叫ぶ人たちのように。

私はこの本を読んで、歴史を学び未来を作っていくことはそんなに単純ではなく、一本道の進化や発展でもなく、ましてや一刀両断や「がらっぽん」や「グレートリセット」できたりするものでもなく、繊細で緻密な思考とさまざまな方面からの知見が必要な、その意味ではとても刺激的でダイナミックな営みであることを改めて感じました。

現在、この本の続編である『ホモ・デウス』が邦訳され、書店に平積みされています。こちらもぜひ読んでみたいと思います。

フィンランド語 23 …出格stAの諸相

語順ではなく、格変化で話すのが特徴的なフィンランド語。どんどん新しい格が出てきて「てんやわんや」になっていますが、さまざまな意味を持つ「出格」について、授業でまとめが行われました。

出格は「〜から出てくる」を表す格で、語尾は「-stA」です。

Minä olen kotoisin Japanista.
私は日本から出てきました=私は日本人です。

出格にはこのほかにもいくつか別の意味があるそうです。といっても日本語母語話者的には別の意味でしょうけど、フィンランド人はきっと統一したイメージみたいなものがあるのかもしれません。

Minä puhun Suomesta.
私はフィンランドについて話します。

「~について」も出格で表現するんですね。

Minä pidän Suomesta.
Minä tykkään Suomesta.
私はフィンランドが好きです。

動詞「pitää」と「tykätä」はともに「好き、好む」という意味です。「rakastaa(愛する)」よりも頻繁に使われるとのこと。人称代名詞による動詞の変化を復習します。

● pitää(取る)
①vA-タイプなので、最後の ä を取って語幹は pitä 。
②最後の音節に「t」があるので変化パターンは「t→d」。ただし三人称は変化させないので……

pidän pidämme
pidät pidätte
pitää pitävät ※三人称は変化させない。

● tykätä(好む)
①語尾が AtA のタイプなので、真ん中の t を取って語幹は tykää 。
②語幹の最後の音節に k があるので変化パターンに従って「逆転」。つまり「k → kk」となって語幹は tykkää に。
AtA タイプは三人称単数だけ語尾がつきません。つまり……

tykkään tykkäämme
tykkäät tykkäätte
tykkää tykkäävät ※三人称単数は語幹のまま。

もうひとつ、出格が文頭の人を表す言葉につくと、「誰それの考えでは~」という意味になるそうです。

Minusta tämä on hirveän kivaa.
私はこれはものすごく素敵だと思います。

まとめると出格「-stA」には、①~から出てくる、②~について、③~が好き、④誰それの考えでは~、があるということですね(いまのところ。この先にまだ何か別の意味が出てきそうな気がします)。

「mikä(何)」の出格は「mistä」ですが、この疑問詞を使っていろいろ言えそうです。

Mistä sinä olet kotoisin?
あなたはどこの出身ですか?
Mistä sinä pidät?
あなたは何が好きですか?
Mistä sinä puhut?
あなたは何について話しますか?

さらに、動詞「pitää」「tykätä」は目的語に出格を要請するので、例えば「tämä punainen laukku(この赤いバッグ)」といった表現が目的語に来た場合、全部出格に変えなければいけないんですね。あああ。

Minä tykkään tästä punaisesta laukusta.
私はこの赤いバッグが好きです。
Minä pidän tästä suomalaisesta elokuvasta.
私はこのフィンランド映画が好きです。

さらにさらに、出格を要請するのは「pitää」「tykätä」で、同じような意味の「rakastaa(愛する)」は通常通り分格を要請するという点も注意するようにと言われました。

Minä pidän Pekasta.
私はペッカが好きです。
Minä rakastan Pekkaa.
私はペッカを愛しています。

「Pekka(男性の名前)」さえ、動詞によってその形が変わると。これ、私の名前だったら「Tokuhisa(トクヒサ)」が「Tokuhisasta(トクヒサスタ)」とか「Tokuhisaa(トクヒサー)」になるということですよね。う~ん、面白いです。

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Minä tykkään tästä jälkiruoasta.

周回遅れにもほどがある

先日、カナダのモントリオールで開催された女性外相会合に河野外務大臣が出席した件が話題になっていました。

www.mofa.go.jp

各国の女性外相が居並ぶ中、真ん中でたった一人の男性外相として記念撮影におさまった写真が取り上げられ、Twitter上で「炎上」したり、河野外務大臣ご自身がそれらを「フェイクニュース」だと反論したり、ひとしきり議論になったのでした。簡潔なまとめが『ハフィントンポスト』に載っています。

www.huffingtonpost.jp

外務省の説明によれば、この会合は女性だけでなくG7各国の外相も招かれたものであり、かつG7のうち6カ国は男性が外相を務めているのだけれども、日本以外はすべて欠席したためにこうなったとのこと。

確かにその通りで、まああの写真がいかにも「ノコノコ出て行った感」を惹起するような構図だったからTwitterでも厳しい意見が出ちゃったのかなと、河野氏にちょっと同情した部分もありました(G7のうち6カ国は男性が外相を務めているということ自体がちょっとどうよ、という思いはありますが)。

それはそれとして、私があの写真で一番違和感を覚えたのは河野氏が着用していらしたピンクのネクタイです。「女性外相会合だからピンクのネクタイ」というその発想がなんかもう、何周もの周回遅れ感満載で。河野氏、あるいはこのネクタイを用意した側近はたぶん連帯の意思を示したくらいに思ってらっしゃるのかもしれませんけど。

つくづく、日本人の一部の(あるいはまだまだ多数ともいえる)こうした古い意識の頑迷さやジェンダーに関するリテラシーの乏しさにため息がでます。

もっとも、河野氏は「いや、私は普段からピンクのネクタイをすることもある。今回もたまたまだ」とおっしゃるかもしれません。過去のニュース映像を精査してその妥当性を検討してもいいけど、めんどくさいからやめておきます。

……と思っていたら、先日、こんなテレビCMに接しました。拡大鏡ハズキルーペ」の新しいCMで、銀座あたりの高級クラブとおぼしきお店が舞台です。

youtu.be

渡辺謙氏が資料を放り上げながら「小さすぎて読めない!」と絶叫する旧CMも、菊川怜氏がお尻でハズキルーペを踏んだり「だぁい好き♡」とウインクしたりするシーンに「なんだこれ」と違和感を覚えましたが、今回の新CMはその比ではありません。

お尻で踏むシーンは四倍増しになり、舘ひろし氏がワインのヴィンテージを確認して「これ、咲(えみ)の生まれた年だね」とつぶやくなど、気持ち悪さ全開です。これはたぶん「確信犯的に(本来の意味からすれば誤用ですが)」炎上を狙って演出されていますね。

しかしこのCM、「どこにそんな違和感が?」とおっしゃる方も多いのかもしれません。特にハズキルーペを購入されるような中高年層の方々、なかんずく男性には。

かつて会社勤めをしていた頃、客先の接待でこういう場所によく連れて行かれました。東京なら池袋とか赤坂とか、台北なら“五木大学*1とかですね。タバコの煙もうもう、高価なウイスキーの水割りに乾き物系のおつまみ。そして女性性を全面に押し出した接客と「アフター」サービス。

こういうの、私はイヤで仕方がなかったのですが、同僚や上司の中には、こうした場所がスキで仕方がない人もいたのです。それもかなりの割合で。若い世代の中には「僕はこういう場所は苦手です」とおっしゃる方もちらほらいましたが、そういう方たちも社内で育って行くにつれて、スキに変化していくのかもしれません。

旧作もそうでしたが、ハズキルーペの新CMは、途中にネイルが見やすいといった一見女性の視点も盛り込まれているような作りです。でも高級クラブでのやり取りという設定からしても、やはりここには徹頭徹尾、男性の女性に対する旧態依然とした視線、女性を消費する対象としてしか見ていない古い価値観が透けて見えます。先日エントリをあげた『東京カレンダー』にも通じる視線です。

qianchong.hatenablog.com

もうそろそろこういう「昭和的」なオヤジ目線の人間観は卒業して、新たなステージに進んではどうかと思うのです。“Because it's 2015!(カナダのトルドー首相)”ならぬ「だって、もう2018年じゃないですか」ってことです。

いまのところ、このハズキルーペのCM表現に対して、表だった議論は巻き起こっていないようです*2。日本ではどうも、こうした男性の女性に対する視線なりアプローチなりにかなり寛容な「伝統」がありますよね。例えば男性が性風俗サービスを利用することについて、そういうところに行ってこそ一人前の男だ的なもの言いがあり、私も若い頃は何度か聞かされました。また例えば芸人さんなどが「芸の肥やし」と称して「武勇伝」を語るなどの「伝統」もありますね。

いま一緒に仕事をしている韓国人の同僚に聞いたところ、韓国にももちろんそういう状況はあるけれど、少なくともおおっぴらに堂々と開陳するたぐいのものではないという意識はあるし、仮にこのハズキルーペのようなCMが放映されたら、かなりの非難が巻き起こるだろうし、芸能人が「武勇伝」を語ればほとんど芸能人生命を絶たれるくらいのバッシングがあるだろうとのことでした*3

こうしたCMが意図的にせよ鈍感からにせよ堂々と放映されちゃう日本は、世界の潮流に照らしてもかなりの周回遅れだと思います。女性閣僚が減り続けて今回の内閣改造ではたった一人になったにもかかわらず、その現状を質されて「(唯一の女性閣僚である片山さつき氏は)二人分も三人分もある持ち前の存在感で……」などとはぐらかす首相会見を聞きながら、どうやったら私たちは周回遅れを少しでも取り戻せるのだろうと考えています。

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▲林森北路界隈。「風傳媒」の記事より。
https://www.storm.mg/lifestyle/233075

*1:林森北路(りんせんほくろ)のことです。「林森」が「五つの木」なので。日本人向けのクラブも数多く集まる場所で、“今晚去五木大學學習吧!(今夜は五木大学で勉強しよう!)”などと誘われます。

*2:SNS上では散見されますが。ちなみに、YouTubeのこのハズキルーペ公式動画ページはコメントを受け付けない仕様になっています。

*3:キリスト教の影響も大きいそうで、だから例えばLGBTの問題に関しては、日本以上に遅れているかもしれないとのこと。

黒歴史がよみがえるので旧交は温めません

東京新聞朝刊で毎回楽しみにしながら読んでいる、伊藤比呂美氏の人生相談。今回は「人間関係の継続の仕方が分かりません」という40代女性からのお悩みでした。

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子供の成長に合わせて関わらざるを得ない親同士のグループで、どうおつきあいしていけばいいか……とこぼす女性に、伊藤氏は「継続しなくていい、表面的なつきあいでいい」とアドバイスします。そうそう、その通りだと思います。そして特に興味深かったのは、女性のお手紙の中にあったというこの部分。

「大学の時の友達で今もやりとりのあるのは一人。高校の友達で続いているのも一人。中学の友人で連絡が取れるのは二人くらい」

40代になってもそこまで友達の関係が続いているなんて、すごいですよ。私はといえば「皆無」ですもん。大学も高校も中学も、FacebookやLINEなどで偶然つながって連絡を取ろうと思えば取れる、という人はいますが、これはもはや友達の関係とはいえませんよね。ちなみに親が転勤族だったので、いわゆる「幼なじみ」みたいな友人も全くいません。

苦楽を共にした予備校時代の友人数名とは最近まで年賀状のやりとりがありましたが、私が年賀状の「虚礼」に飽き飽きして出すのをやめてしまい、それっきりになっています(ごめんね)。

だいたい私は、成績が悪くてスポーツも苦手で「いじめられっ子」でしたから、中学高校ともにあまりいい思い出がありません。できれば忘却の彼方に押しやってしまいたい。大学も自分に全く才能がない芸術分野を専攻しちゃって留年までしていますから、これも振り返りたくありません(それなのに、今でも「課題を提出しなきゃ!」「卒業制作を作らなきゃ!」みないな悪夢を見ます)。

卒業アルバムみたいなものは全部捨ててしまいましたし、同窓会のたぐいも行きません(もう連絡も来ないけど)。何度か元クラスメートの集まりに顔を出したことがありますが、正直に言って居心地が悪くて、もう今後は遠慮したいと思っています。だってそういうものに触れるたびに、過去の「黒歴史」がよみがえるんだもの。

テレビ番組でときどき「過去の恩師を訪ねる旅」みたいなのとか、あと雑誌で「旧交を温める」的な記事などがありますよね(文藝春秋の「同級生交歓」みたいなの)。ああいうのを見たり読んだりするとそれなりに心温まることもあるのですが、私自身はやっぱり遠慮しておきます。墓参だったら、逆に心が落ち着きますけど(ひどい)。

これもひとえに、健全な学生生活を送ってこなかった自分の不徳のいたすところです。いえ、学生生活だけではありません。これまで勤めてきた様々な職場の同僚でさえ、どこも基本的に「立つ鳥跡を濁しまくり」で退職していますので、いまもつながりがある方は「皆無」に近いです。う~ん、よくよく考えたら、これもちょっとひどい。

でもまあ、そうやって生きてきちゃったんだもの、仕方がないですよね。伊藤比呂美氏がおっしゃるように「とにかく今。今の今」を生きるしかないし、それでいいんだとも思っています。
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https://www.irasutoya.com/2018/05/blog-post_52.html
▲しかし「いらすとや」さんには本当に多種多様なテーマのイラストがありますね。お世話になってます。

なぜ語学系のツイートは拡散しやすいのか

先日、日本経済新聞電子版のこの記事に思うところあって、Twitterでツイートしました。

いまのところリツイートが8300ほど、「いいね」が12000ほどついています。

一年に一回くらいはこういうことがあるのですが、なぜこんなに急速に拡散したのでしょうか。やはりみなさんコンビニなど様々な場所で外国人労働者に接する機会が増えていて、戸惑いやら驚きやら共感やら……さまざまな感慨を持たれていて、かつ日本社会がまだそれを当たり前の光景として受け入れ切れていないために、とても新鮮だったということなのでしょうか。

とはいえ、新鮮に感じるべきは日本経済新聞の記事そのものの方です。私は自分の職場で日々接する留学生のみなさんの声を紹介しただけ。自分が中国語を使って中国や台湾で働いていたときは常に緊張とチャレンジの連続だったので、いま現在同じような立場にある外国人労働者や留学生のみなさんにエールを送るつもりでツイートしました。

あまりに拡散が速かったのですべてを追い切れていませんが、リプライやリツイートのコメントを拝見するに……

コンビニなどで働く留学生などの外国人に対してもっと寛容であるべきと考える方が半分くらい。そのほか、移民や難民の問題と絡めて自説を述べる方、また言語や国籍に関係なくサービス業という仕事なんだから甘えるなという厳しい意見の方もけっこう多いです。あと少数ですが単なるヘイトスピーチや意味不明なもの(いわゆる「クソリプ」)も。

それから、これは今回に限らないのですが、語学系のツイートやコメントは拡散しやすい印象があります。そうした反応の基調となっているのは「日本人は外語(なかんずく英語)が苦手だ、もっと頑張らなきゃ」というもの。今回もその延長線上で「だから留学生の日本語の拙さ云々は身のほど知らずで恥ずかしい」というような主張の方も多かったです。

明治からこのかた、日本人は涙ぐましいほどの努力で外語に取り組んできました。その努力は今も営々と続けられ、早期英語教育の導入などによってますます強化されようとしています。でもその割には「異文化」への接し方、それも異文化を体現している生身の人々に対するリテラシーのようなものがあまり涵養されていないような気がします。つまり文化の異なるお隣さんとどうつきあうかという課題です。

だから外語、ないしは言語の話題になると、それぞれの苦労ないし努力された(あるいは苦労ないし努力しつつある)ご経験やお立場からついエモーショナルな反応をかき立てられる方が多くて、それで語学系のツイートやコメントは拡散しやすいのかなと。そしてまた、日本人がまだ異文化や他の言語に対する立ち位置なり腰の据え方なりを決めかねているからゆえの「議論百出」なんじゃないかと思いました。

これは私たちの外語や異文化に対するコンプレックスの裏返しかもしれません。明治から150年の時が過ぎても、私たちはまだこの課題に対して冷静に、それなりに自信を持って提出できる答えを見つけていないんですね。

qianchong.hatenablog.com

ところで、今回も改めて感じましたけど、Twitter上でいきなり罵声を浴びせて去って行くだけ(しかも匿名で)という方は存外多いですね。またツイートの内容や前後の脈絡をほとんど踏まえずに(だから「いきなり」なわけですが)決めつけたり叱りつけたりする方もちらほら。そもそもTwitterがそうした脊髄反射的な反応がしやすいメディアなんでしょうけど、心の健康のためにはやっぱりTwitterからはもう少し距離を置いたほうがいいかな。

中国や韓国との政治的な関係が悪くなると、ネット上にはきまって「断交だ」「出て行け」的な暴言が湧いて出ますが、少しでも貿易や金融や経済について初歩的な解説書でも読んだことがある人なら、そんな幼稚な言葉は吐けないはずです。私たちはすでに世界中の様々な国や地域や民族と分かちがたく結びつき、相互に影響を及ぼしあっているのですから。
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https://www.irasutoya.com/2016/03/blog-post_24.html

……と、ここまで書いて冒頭の自分のツイートを読み返してみたら、私も「その国の言語を使ってコンビニで働くことがどんなにすごいことなのか分からない?」と、どことなく上から目線の投げつけ口調ですね。売り言葉に買い言葉。こういうニュアンスもまた、脊髄反射的な反応を呼び込むのかもしれません。

『東京カレンダー』の妄想物語が興味深い

ここ十年ほど、同じ美容室で髪を切ってもらっています。「いっちょまえ」に美容室(しかも表参道!)に通っているのは、単にいつもお願いしているスタッフさんがすごく上手で、なおかつ何の説明もせずに切ってもらえるからラク、という理由なんですけど、お店の方が私の目の前に置いてくださる雑誌(たいてい三冊)のチョイスがとても興味深いです。

だいたい『NUMBER(ナンバー)』『BRUTUS(ブルータス)』『PEN(ペン)』が鉄板。なるほど「中高年の、スポーツ観戦が好きで、ちょいと小金持ち」的なおじさんに見られているわけですかね、私は。その他『MONO MAGAZINE(モノ・マガジン)』や『LEON(レオン)』や『東京カレンダー』が置かれることも多いです。

う〜ん、私としては『クロワッサン』とか『レタスクラブ』を置いてもらった方が断然うれしいんですけど、まあ何かこう、そういう「小金持ちのちょいワルおやぢ」を演じるのも悪くないかしらと思って、そのままお勧めされた雑誌を隅から隅まで目を通しています。普段あまり読まない雑誌を読めますし、私は美容師さんとの会話が苦手なのでなおさら。聞くところによると、お客さんが雑誌を広げてたら、あまり話しかけない気配りをしてくださるそうですね。

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きのう何食べた? 3 (モーニング KC) より

ところで、先日髪を切ってもらったときに目の前に置かれたのは『NUMBER』と『PEN』、そして『東京カレンダー』でした。実は私、この『東京カレンダー』が一番楽しみです。こういう言い方はなんだか「disる」ようで心苦しいのですが、記事のラインナップが徹底したスノビズムに貫かれていて、その、たぶん「おじさん」が書いていらっしゃるであろう文章の端々にツッコミを入れながら読めるからです(やっぱりほとんどdisってますね)。

『東京カレンダー』って、昔はもうちょっと実用的な情報雑誌という側面が強かったような印象があるのですが、いまや同誌は地域密着系都市型エンタテインメント(©出没!アド街ック天国)とでも言うべき誌面作り。比較的若い富裕層、ないしは一流企業に勤めるヤング・エグゼクティブ、そしてそうした存在に憧れる方々を対象にしたであろう、ファンタジックな物語満載のラビリンスになっています。

毎号、青山とか銀座とか目黒とか神楽坂とか、20代から40代くらいの「ヤン・エグ」が夜ごと繰り出す比較的お高めのレストランや割烹やバーなどを紹介する記事が中心の『東京カレンダー』。その紹介店数の多さからも精力的な取材やタイアップなどが行われていることが分かりますが、特筆すべきはそこに組み合わされる物語仕立ての男女恋物語、あるいはイケメンでたいがいは未婚の、エリートサラリーマンの友情物語です。

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東京カレンダー2018年11月号

ところが最新号の特集は『続・丸の内の真実』で、記事のラインナップは「丸の内OL33名が語った『丸の内』のリアル」「丸の内美女はアフター5にこのレストランを指名する」「丸の内OLたちの本音」「丸の内美女OLが皇居ランをする理由」となっており、一見女性の読者を対象としているように見えます。

確かにメイク指南など女性読者を対象としたような内容もあるのですが、こうした記事を虚心坦懐に熟読玩味してみれば、これらは実は男性目線の女性像(あるいは虚像?)を追いかけたものではないかと読めてきます。女性にアプローチするためにはどういう好みを知ればよいか、女性からの好感度を上げるために学ぶべき点は……という「マニュアル」として機能しているのではないかと。それは「丸の内OL」とか「丸の内美女」といった言葉に、はしなくも表れているような気がします。

今回私が一番食い入るように読ませてもらったのはこの記事、「MARUNOUCHI OFFICE LOVE バツイチ上司と遅咲き女子の物語」。池田という名前の「46歳、バツイチ、子供なし。仕事ができて人望が厚い、ハイスペックおじさん」と、関西から上京して「丸の内OLデビュー」したのち「同じ関西出身で慶應卒の同期」の彼とつきあったものの別れて数年という女性主人公の物語です。

もうですね、この冒頭の設定からして、私の身体は小刻みに震え始めているわけですが。

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「上司とのデートの翌日、何ごともなかったかのように私に注意する眼差しが最高に刺激的」
「歳が離れた彼との交際で、私の舌は猛スピードで肥えていった。すべての経験値が上がっていく」
「初めて私の家にくることになった時(中略)池田が脱いだジョンロブの革靴は、うちの小さな玄関で、あまりにも窮屈そうだった」

……うおお、まさに肉と欲。

女性が主人公で、女性の気持ちに寄り添いながら物語を綴っているように見えますけど、これはもう徹頭徹尾、男の、それもおじさんの視点で一方的に捉えた女性像を「消費」しているように思います。一種の妄想ともいえるこのストーリーに真正面から憧れる方はいるのかしら。それともみなさん私と同様に「そんなやつ、いねーよw」とツッコミを入れながら楽しんでらっしゃるのかしら。もっとも、こうした物語を書かれるライターさん自身がけっこう楽しんで、ノリノリで話を盛っているフシも見られますけど。

あるいはひょっとすると、「いるいる、オレの周りにもそんなやつ」という一種の「あるある」的な読み物として楽しんでいる読者もいるのかもしれません。ともあれ、軽佻浮薄に見えて、これはこれでなかなか奥が深い『東京カレンダー』。もし美容室に行ってこの雑誌があったらぜひ所望してみてください。あ、おいしそうな料理写真が満載なので、そちらは掛け値なしに楽しめます。

チャイニーズには目が四つある

昨日うかがった仕事先で「外見だけで日本人か中国人か分かるか」という話になりました。

これ、昔からいろいろな場所で聞かされてきた話題で、日本人と中国人、さらに韓国人も加えて、どの国の方かを「判別」する方法にみなさん一家言持っているのが面白いなと思います。もちろん実際に会話をしてみれば分かるのでしょうけど、ここでは外見だけで「判別」するということです。

いわく……「服装の趣味が違う」「メイクの仕方が違う」「目や眉毛の細さで見分ける」「日本人男性はもみあげの下や卑下の剃り跡が青い」「中国人男性、それも北の地方の人はすね毛が薄い」などなど、みなさんそれぞれにいろいろなことをおっしゃるのですが、私はといえば、あまり見分ける自信はありません。

何十年も前は、特に中国の方など服装や佇まいが特徴的な感じがして、すぐに見分けられたような気がしますが、いまはもう自身はありません(何の自信だか)。特に女性、それもお若い方々は、私が奉職している学校の学生さんたちを見てもますます見分けがつかなくなってきているような気がします。

でも、昨日うかがった仕事先の方は自信たっぷりにこうおっしゃいました。「中国の方は、眼力が違う」。へええ、そうですか? 「そうなんです。日本人と明らかに違う『目力』なんですよ。ほら、“蒼頡”って人がいるじゃないですか。あれですよ」。

蒼頡(倉頡)は中国古代の、漢字を発明したという伝説上の人物です。肖像画には目が四つ描かれていて、これは蒼頡の洞察力や観察力、叡智の鋭さを表しているとされるんですけど、そういう人物を祖先にもつ現代の中国人にもその遺伝子(?)が受け継がれているんじゃないか、というわけですね。う〜ん、面白いなあ。

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倉頡 - 維基百科,自由的百科全書

その方がおっしゃるに、中国人はまるで目を四つ持っているかのようで、眼力が強いのもさることながら、何かこうもう一対の目で物事を俯瞰しているというか、複眼的思考というか、そういうスタンスを感じることがあるのだそうです。う〜ん、私は周囲の中国人をお一人お一人思い浮かべてみるに、必ずしもそうじゃないんじゃないかなという「反証」は浮かびますが、それでも腑に落ちる点はあります。

それは以前にも書きましたけど、中国人、というかもっと広くチャイニーズの方々の多くに(もちろん、全部じゃありません)感じる、ゴリゴリとしたリアリズムです。建前より本音で自分の欲求に忠実な姿勢。人は人、自分は自分というキッパリとした立て分け。こういうある意味透徹したリアリズムも、ひょっとすると「蒼頡」的に世の中を見つめ倒した結果なのかもしれません。

qianchong.hatenablog.com

通訳学校の公開講座などでも、Q&Aの時間にズバリ「通訳の仕事でどれくらい稼げますか」「この学校に入ってどのくらいの期間で稼げるようになりますか」と聞いてくるのはチャイニーズの方々です。こうした質問を日本の方から聞くことはまずありません。心の中では聞きたいと思っても、初手からカネの話はちょっと……と自制してしまうのでしょうか。いや、私だって自制しちゃいますけど。

また「石にかじりついても通訳者になる!」という気概みたいなものを感じるのもチャイニーズの方が多いです。もっとも、これは私の恩師がおっしゃっていたことですが、最近はこういう「石にかじりついても」系の方は日本人・チャイニーズ問わず少なくなってはいるんですけど。

「日本人に代われ」や「まともな日本語を話せ」の恥ずかしさ

昨日、日本経済新聞のオンライン版に載っていたこちらの記事。小売店や飲食店で働く外国人が心ない暴言や嫌がらせなどを受ける事例が増えているという内容です。

www.nikkei.com

以前にも書いたことがありますが、留学生が日本で最も「心折れること」の一つは、コンビニなどのアルバイト先でちょっとした日本語の拙さを揶揄されることだそうです。そういう人は一度我が身に置き換えて想像してみてほしいと思います。その国の言語を使ってコンビニで働くことがどんなにすごいことなのか分からないのでしょうか。

qianchong.hatenablog.com

私は日本のコンビニで日本語だけを使ってアルバイトをしたことがあるけれど、あれと同じ業務内容を外国で、英語や中国語で、現地のお客さん相手にできるだろうか……と想像してみたら、とても難しいし勇気がいると思います。コンビニで働く外国籍の方や留学生には敬意を払いこそすれ、揶揄や罵倒など絶対にできないでしょう。我が身を振り返れば、恥ずかしくて。

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これはフィンランドのコンビニ(というよりスーパーですか)alepaで撮った写真です。こちらでも外国籍と思しき店員さんが働いていました。少なくとも英語とフィンランド語は必須の、日本とは比べものにならないマルチリンガルな環境です。こんな環境で自分が働くことを想像してみたら、どうでしょう。

もちろん、外国籍の方や留学生にもいろいろな人がいます。みんながみんな誠実で木訥で一生懸命で……などという幻想を振りまくつもりはありません。中には「態度が悪い」と感じる方もいるでしょう(実際私も遭遇したことはあります)。私が日々接している外国籍の方々だって、もう少し「郷に入っては郷に従う」を実践してくれないかな、私たちが異文化や多様性を尊重すべきであるのと同じ意味であなた方も自重してくれないかな、と思うような方は時々います。

それでも、それをはるかに上回る多くの人々は善良で(当たり前ですけど)、異国の環境で懸命に頑張っているのです。日本人のコンビニ店員だって「態度が悪い」人はいます。惻隠の情という言葉がありますが、数多くある外語の選択肢から日本語を選び、日本で働いてくださっている外国籍の方や留学生に、もう少し温かい目を向けてほしいと思います。

「日本人に代われ」「まともな日本語を話せ」などと罵る方は一度外語を真剣に学んでみるとよいのです。母語と外語を行き来することがどんなに難しく、深く、そしてエキサイティングであるかが分かります。学んだその先に異なる言語や文化に対する寛容も敬意も生まれてくるでしょう。ご自身の人生がより豊かになること請け合いです。

冗談言っちゃいけません

「東京新發現 DISCOVER NEXT TOKYO」というFacebookページがあります。京王電鉄と『地球の歩き方』が共同で運営する、多摩エリアの観光情報を台湾や香港に向けて発信するサイトです。

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https://www.facebook.com/DiscoverNextTokyo/

ここで「観光促進につながる情報を取材し、短文記事を中国語(繁體字)で書いていただくの主な業務内容」という、大学・短大・専門学校の「留学生ライター募集」というオファーが来たんですけど、インターンシップだから報酬はなしだそうです。冗談言っちゃいけません。

サイトの内容を拝見するに、これは明らかに京王電鉄が沿線の観光地に外国人観光客を誘致するための宣伝です(高尾山など、人気のスポットがありますからね)。しかも地域の情報を取材して、中国語(繁體字)で原稿執筆をするというれっきとした「業務」ですよね。

日本国内、首都圏に住んでいて、しかも中国語でそこそこの記事が書けるこうしたライターを探せば当然コスト高になります。これは、そうしたコストをかけずに「留学生の勉強にもなるから」という理由付けで「インターンシップ」の名を借りた無償労働ではないでしょうか。

語学学校に勤めていると、時々こうした依頼があります。かなり前のことですが、こんな依頼もありました。その条件があまりに「身勝手」なので、ブログの記事に書いておいたのです。

qianchong.hatenablog.com

ここまでひどくはなくても、テレビ局などから「この中国語の意味を教えて」とか「今からファックスで文章を送るので大体の意味を教えて」などといった依頼はよくありました。ほんの一言、二言の場合、「それはですね……」とお教えしたこともありますが、そのたびに、この国ではまだまだ専門の技術、とりわけ語学に対するリスペクトが希薄だなと感じていました。

それでも集まってしまう?

そういう意味では、一昨日から始まった東京五輪のボランティア募集に注目しています。これだけの規模で「無償労働」が、それも医療や通訳などの専門分野でさえ成立してしまうという前例ができてしまえば、これは回り回って多くの人々の収入に影響してくるのではないかと思うのです。

昨日ボランティアへのエントリーを受け付けているサイトを見てみましたが、この「ポエム」感満載の惹句は一番批判を受けている無償労働についてとことん回避をしています。またそのあまりのやっつけ感に某まとめサイトでは「ボランティアが作ったんだろw」などのコメントが並んでさすがに同情を禁じ得ない入力フォームの問題もあって、出だしはちょっとバタバタしているようです。

応募を考えてくださる皆さまへ|東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会
news.yahoo.co.jp

それでも、先日の本間龍氏と西川千春氏の対談でうかがったところによると、海外から「五輪のボランティア参加が生きがい」という方が多数参加すると見込まれているんだそうです。もちろんそういうことができる富裕層の方々が中心のようで、自分の意思で参加されるならいいと思いますけど、その結果残った「レガシー」はずっと日本に暗い影を落とすと思います。

「やりがい搾取」とまで批判されたボランティア募集が「なんだ結局集まったじゃん」ということになれば、その「成功できてしまった」という「レガシー」は、今後同様の巨大商業イベントにおける大規模な搾取にも前例とお墨付きを与えるでしょう。特に影響を受けるのは若い人たちではないでしょうか。

私はこれが、ことオリンピックのボランティアにとどまらない一番大きな問題だと思います。目先の利益ばかり追いかけて(端的に言って上記のFacebook案件も経費削減の結果でしょう)「労働には正当な対価を」がなし崩しになっていけば、若い人も育たなくなり、お金も回らなくなる。やがて社会全体が萎縮していきます。

語学へのリスペクトが足らない

ところで、上記の「留学生ライター募集」ですが、仮にオファーを受けて留学生の皆さんに「誰かやりたい人は?」と聞いたとしますね。たぶんほとんどの人が「え? 報酬なし?」と驚きますよ。オリンピックのボランティアについて紹介したときも珍しい動物を見るような目をしてましたもん。こうやって、日本は奇妙で非常識な国という評価が確立されていくんです。

SNSで教えていただいたところによると、こうした「インターンシップ」に名を借りた無償労働や低賃金労働は日本だけでなく各国で見られるそうです。それでも、仮にも語学を学び、通訳や翻訳を仕事にして食べていこう、それで社会に貢献していこうという若い方々を育てている私たち学校関係者は、こうした流れに竿をさしてはいけないのではないでしょうか。

そして例えば語学について「ちょろちょろっと喋ったり、書いたりするだけ」とか、通訳や翻訳について「話せれば訳せる」などといった社会通念を少しでも変えていけたらいいなと思います。

中国人のたくましいところに学ぶ

昨日Twitterで拝見した、こちらのツイート。

なるほどなあ、確かにこういうのが中国の人々のたくましくて融通無碍なところだなあと改めて感じ入りました。日本だったら業務範囲外の仕事を個人で受けて稼ぐってのはルール違反じゃないか~みたいなことになって、自他ともに規制が働くところですけど、中国の人々はこの辺のフレキシビリティが半端ない。これ、田中信彦氏の日経ビジネスオンラインでの連載『「スジ」の日本、「量」の中国』にも通底するお話かと思います。

通訳学校に通っていたころ、日本における通訳業界のルール、というか暗黙の了解として、「仕事は必ずエージェントを通して受注すること。クライアントと直に取引しないこと」と教わりました。エージェントというのは通訳者や翻訳者の派遣業者です。個々の通訳者や翻訳者はこうしたエージェントに複数登録して、そこから仕事のオファーをもらうことになります。

エージェントは、要するに中間マージンを取っている存在ですから、そこを介さずに直接クライアントと取引した方が、クライアントも通訳者もハッピーなんじゃないの、と思われがちですが、実際にはそうともいえません。

エージェントは仕事のオファー以外にもいろいろな役割を担っています。クライアントに営業をかけて仕事を取ってくること、資料の入手や手配(バイク便で刷り物を送ってくれたりもします)、スケジュールの調整(単に日程だけでなく、例えば一日の会議で複数の通訳者がいる場合、どのセッションを誰が担当するかなども。これによって予習の負担を軽減することができます)、出張の場合の交通手段の手配や、保険手続きなどなど。

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通訳者が個人で営業をしたり、飛行機や電車のチケットを手配したり、保険をかけたりという細々とした作業は大変で、それを肩代わりしてくれるわけですから、これは「もちつもたれつ」です。というわけで、通常通訳者は登録しているエージェントの数だけ、そのエージェントの社名が入った名刺を持っており、業務でうかがった先のクライアントには、個人の名刺ではなくエージェントの名刺を出すルールになっています。こうして、クライアントと通訳者が直に取引しないようにしているわけです。直で取引を始めると、早晩ダンピング合戦になり、回り回って通訳者自身の首を絞めることになる、という長年の「知恵(?)」も働いているのでしょう。

ところが。

最近はその通訳者とエージェントの関係が変わってきたように思います。その大きな要因は、このブログでも何度か書きましたが、ほとんどすべての案件が「仮案件」からスタートし、フリーランスで業務を行う立場の人間には極めて不利な状況が日常化してきたことです(中国語通訳業界についてのお話です。ほかの言語の状況はあまりよく知りません)。端的に言って、ほんの一部の方以外「食べていけない」状況になってきたともいえます。

qianchong.hatenablog.com
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第一線の「ハイエンド」といえるような一流通訳者の方々は、きちんとしたクライアントやきちんとしたエージェントと組んで質の高いお仕事をされているはずですが、問題は私のような中途半端な人間です。「安かろう悪かろう」ではない(つもり)だけれど、ハイエンドともいえない、そういうレベルにいる通訳者は、片方で「仮案件&リリース」を主因とするクライアントとの関係変質に悩み、もう片方で「直でどんどん仕事を取っていくぜ」的な抜け駆け系にもなりきれない。要するにどっちつかずなわけです。

吉川幸次郎氏の『支那人の古典とその生活』冒頭に、こんな文章があります。

支那人の精神の特質は、いろいろな面から指摘出来るでありましょうが、私はその最も重要なもの、或いはその最も中心となるものは、感覚への信頼であると考えます。そうして、逆に、感覚を超えた存在に対しては、あまり信頼しない。これが、支那人の精神の様相の、最も中心となるものと考えます。(「支那人」の表記は原文ママ

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支那人の古典とその生活 (1964年)

なるほど、だから現実のチャイニーズに接しても、良くも悪くもゴリゴリとしたリアリズムを感じるのですね。冒頭でご紹介したツイートでもうかがい知れるように、国とか政治とか、ましてや「業界の秩序」なんてぼわっとした概念の世界など信じない。自分が実際にいまここでこの手にできる、手触りを感じられるものをまずは優先し、信頼すると。う~ん、これはこれでカオスというか、秩序など脇に追いやった弱肉強食の世界のような気もしますが、こういうバイタリティにも学ぶべきところはあるのではないかと思いました。見習って、私も私なりに精進いたします、はい。

「さん」付け原理主義

昨日の東京新聞朝刊にこんな小さな記事が載っていました。警察庁の女性警視が、同僚の男性警視から受けたセクハラが「公務災害」に認定されたという記事です。

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見出しは「『ちゃん』で呼ばれ、セクハラも」となっていますから、「ちゃん」付けで呼ばれたうえにセクハラまで受けたという意味に取れますけど、これ、ややもすると「ちゃん」付けで呼ばれること=セクハラなのか、なんて息苦しい社会なんだ、みたいな見当違いの意見がわいて出るんじゃないかと、心配になりました。

案の定、Twitterを検索してみたら、読売新聞の記事についてたくさんのツッコミが入っていました。

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この見出しだけでは、まさに「『ちゃん』付けだけでセクハラ認定」されたかのようなミスリードを誘うじゃないかというわけです。本文を読めば「女らしくしろ」と言われたり、職場や酒席で卑猥な言葉を浴びせかけられたりしたことが主因であるのにもかかわらず。

本当にその通りですよね。上記のツイートで「同僚が女性警視に「ちゃん」付け…公務災害認定」となっている見出しは、実際には「…」の部分にもう少し文字があって(ツイートの形式上、省略されたんですかね)「同僚が女性警視に「ちゃん」付け セクハラによる疾患で公務災害認定」となっていました。それでも「ちゃん」付けだけでセクハラ認定という粗忽な読みを誘発するおそれはあると思います。

読売新聞側もこれはまずいと思ったのか、この記事は現在削除されています。ちなみに昨日の読売新聞東京版朝刊を確認しましたが、くだんの記事は載っていませんでした。ネット版だけの記事だったのかもしれません。

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ところで、私自身はこの「ちゃん」付け、すごく抵抗があります。例えばアスリートへの「ちゃん」付け。卓球の福原愛氏は幼い頃からスター的存在として親しまれ、「愛ちゃん」と呼ばれてきましたが、今や成人して結婚してお子さんもいらっしゃる氏に「ちゃん」付けはいささか失礼ではないかと思ってしまうのです。

「愛ちゃん」は親しみを込めた呼称なんだからいい? 確かにそうです。福原愛氏ご自身もそう呼ばれることを嫌がってはおられないようですし、夫の江宏傑氏も“愛醬(愛ちゃん:醤油の「醤」が日本語の「ちゃん」と似た発音の「ㄐㄧㄤˋ/jiàng/じゃん」なので、ちょっとした諧謔として使われます)”と呼ばれているそうですし。「愛醬でいいじゃん」ってことですね。

それでも「ちゃん」という呼称が、上記の記事のように「上から目線」を含む可能性がある以上、私はなんとなく危うさを感じてーーそれは、上記の記事に見える男性警視の「上から目線+蔑視」にも通底する姿勢ですーー使えないんです。

けれど、フィギュアスケート羽生結弦氏は「羽生くん」と呼ばれますよね。こちらも主に年上の方からの羽生氏に対する呼称で、これもティーンエイジャーの頃から活躍されてきた氏に対して使われてきた「習慣的」な呼称ですけど、こちらは「ちゃん」ほどには違和感を覚えません。

う~ん、要するに親しみがこもっていればいいけれど、上記の男性警視のように明らかなハラスメントの意図があればアウトということなんでしょうか。なんとなく自分でも腑に落ちません。

ちなみに私、相手の年齢や立場にかかわらず基本的には「さん」付けで呼ぶというのをもう何十年も意識してきました。学校などで同僚の先生方に呼びかけるときも「先生」は使わずに「さん」を使うようにしています。でも、完璧に徹底できているわけじゃありません。例えばお師匠や校長先生を「名前+さん」で呼ぶのは、やっぱりちょっと抵抗があります。

能のお稽古では、稽古仲間のお子さんが一緒に参加していることがありますが、そのときにも私はそのお子さんに「さん」付けで、なおかつほかの大人の方に話すのと同様にしています。要するに「タメ口(ためぐち)」をきかないということです。「○○さんはいま、何の曲をお稽古されていますか?」という感じ。周りの師匠やお弟子さんは親しみも込めて「○○ちゃん」なんですけど、私はどうしてもできないんです。

ここまでくると、これはもう「さん」付け原理主義とでも呼ぶべき状態ですかね。

追記

ここまで書いたところで、SNSにこんな話題が上がっていました。

togetter.com

う~ん、こういう方(特に中高年のおじさん)は時々いますね。ここまで「イタ」くなくても、例えば飲食店などで店員さんに「タメ口」や「○○持ってきて」みたいな命令口調で話す方。そうそう、先日、お店のご主人が若い衆にあれこれ叱るのを聞きながら食べるのがいや、という文章を書きましたが、私は客が「タメ口」で店員に接し、エラそうに話しているのを聞きながら食べるのもいやなんです。

qianchong.hatenablog.com

めんどくさいですね。そんなわけで、ますます外食するのが億劫になってしまうのでした。