インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

繊細でこまやかで美しい中国にひかれた

以前、日本で中国語を教えながら事業もなさっている中国の方とお話しする機会がありました。北京出身のその方は「北京があまりにも急速に変わるので、正直に言って悲しい。私の北京はどこに行ったの? という感じ」とおっしゃっていました。

ちょうど吉川幸次郎氏の『遊華記録——わが留学記』を再読していたところでした。そして氏が中国の「手近で、ことごとしくないヒューマニズム」にひかれ、かつ「中国の持つ、日本よりももっと繊細でこまやかな美しいもの」が特に好きと言われていることについて、改めていろいろと考えさせられました。かつて自分が中国に、そして中国語に「ハマった」のはなぜだったかな、と。

f:id:QianChong:20180924102654j:plain:w300

吉川氏は荻生徂徠をひいて「まず中国のこまかなやさしいところがわからぬと、そのいかめしいところもわからぬ」と言います。そして、いかめしい部分も中国の非常に重要な性質ではあるが、自分はあまり好きではない、とも。一帯一路でアジアや中東はおろかアフリカまで睨みをきかせ、一方で米国との貿易戦争を繰り広げ、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの中国を目の前にした現在にこんなことを言われても「?」かもしれませんが、私にはこれ、とても納得のいく言葉でした。

私が中国語を学び始めたのは1990年代ですから、そんなに昔じゃありません。それでも初めて行った中国では、特に江南地方の田舎を選んで行ったということもあるのですが、まだ使われていた「外貨兌換券」をお店で出すと「それは何だ」と聞かれ、懐からカメラを取り出すと人が寄ってくるというような時代でした。表に出れば人と自転車の滔々とした流れが果てしなく続き、効率とか能率などという言葉はあまり幅をきかせていないように見えた人々の営み。そういう中国の牧歌的なところに強く惹かれていました。

まあ「牧歌的」などという形容からしていささか「上から目線」のニュアンスがこもりますし、こんなのははっきり言って外国人旅行者の勝手なノスタルジーです。それに、当時私が触れたものが吉川氏のおっしゃるものと同じかどうかもわかりません(たぶん違うでしょう。時代からして違いますし)が、それでも自分が久しく忘れていた「手近で、ことごとしくないヒューマニズム」に似た何かを、初めて行った中国で感じたのでした。

当時のNHK中国語講座のテーマソングは「北風吹」だったのですが、その音楽と映像にも「繊細でこまやかな美しいもの」を強く感じていました。その曲が実は1940年代の抗日戦争に材を取った革命バレエ『白毛女』の一節であることを知ったのはもう少し後のことです。YouTubeに音楽だけがありました(2:05あたりから)。イントロを聴くだけで「うわ〜っ」とこみ上げてくるものがあります。

youtu.be

それから、当時評判になっていたサントリー烏龍茶の一連のCMからも、同じような感覚を受け取っていました。今となってはずいぶん偏った、中国のごくごく一部のイメージに過ぎなかったと思いますけど、とにもかくにもこの辺りが私の中国への入口だったわけです。三国志やカンフーやパンダなどではなく、ましてや政治でも経済でもなく。

youtu.be

もちろん吉川氏は、そうした「繊細でこまやかな美しいもの」を主に体現している都市の読書人の営み、それも豪奢と言えるほどの営みを農村の何倍何十倍もの農民が支えていたことにも触れ、その格差は日本などの比ではないともはっきり書かれています。それでも、氏の中国に対する捉え方に、ああ、自分も最初の「中国体験」はまさにこれに近いところにあったのではないかと思いました。

職業上「これを言っちゃあおしまい」かもしれませんが、私は現代の中国にはあまり惹かれません。すごく変化が速くてエキサイティングで、目が離せないという意味ではこれほど面白い国もないと思うけれど、「繊細でこまやかな美しいもの」をたたえた、かつて夢にまで見たほどの憧れの“國度(国柄)”は影をひそめてしまったような感じがして。その意味では北京出身のあの先生の感慨が分かるような気がします。いまこの瞬間にもかの国と「がっぷり四つ」で組み合っている方々には「まさに老害」認定されるかもしれませんけど。

それでもまあ、個人的なおつき合いはいろいろとあるし、これからもそのおつき合いは続いていくでしょう。なまじ中国という巨大な相手に勝手なノスタルジーを仮託していた部分が脱色されて、より醒めたフラットな目で見られるようになったと考えれば、この方がよいのかもしれないと思っています。

かつてTwitterにこんな勇ましいツイートをしたことがあります。


ううむ、「義務」だとか「最低限のつとめ」だとか、これこそ何だか「ことごとしくて」恥ずかしい。ここに前言を撤回して、中国とのつきあいを仕切り直ししたいと思います。

お店のご主人の「指導」がやるせない

先日、私の誕生日祝いということで、細君と二人で地元のお寿司屋さんに行きました。銀座とか青山とか、そういうところのお寿司屋さんではないので気さくな雰囲気ですが、それでもお値段は我々にとってはなかなかにインパクトがある、まあどちらかと言えば高級なお店です。

おつまみ系とお寿司、それに日本酒。どれもとても美味でしたが、わずかに気になったのはお店のご主人が若い衆にあれこれ注意するという点でした。若い衆は笑顔一杯で接客も丁寧でしたが、ご主人はちょっとした動きの「不経済さ」をたびたびとがめるのです。

先にこれを出してから、次にこれをやれば、何度も行き来しなくていいだろ? 作業のあとさきを考えてないからそうなるんだ。

まあこんな感じです。もちろん小さな声で、さりげなくおっしゃるのですが、なにせカウンターだけの小さなお店のこと、目の前で「指導」されていると、否が応でも聞こえてしまうんですね。

ご主人には若い衆を育てるという使命がおありでしょうし、若い衆のためにもなっているのでしょうけど、私はこういうの、ひどく苦手です。そういう「指導」を聞くだけで、料理のおいしさも半減してしまうんです。そういうのは、できればお店の奥でやっていただけると助かるんですけど。

別にお寿司屋さんだけじゃありません。こういう上から下への「指導」を客の真ん前でおやりになるお店はけっこうありますよね。その「指導」はお店的には妥当で意味のあるものなのでしょう。でも私は、そういうヒエラルキーというか、上から下への強い圧力を感じさせる雰囲気に接したとたんに、おいしいものを味わう気持ちが萎えてしまうんです。

久住昌之氏と谷口ジロー氏の名作『孤独のグルメ』というマンガに、主人公の井之頭五郎が東京都板橋区のとあるレストランでハンバーグランチを食べるエピソードがあります。お店でアルバイトをしている留学生と思しき青年に店のご主人があれこれ怒鳴るのですが、それを目の前で聞いていて食欲が失せてしまった井之頭五郎はこんなことを言います。

f:id:QianChong:20180923171007p:plain

そうなんですよね。お寿司であれ、ラーメンであれ、ハンバーグランチであれ、ネガティブな言葉を聞きながら食べることほどやるせなく「救われない」ことはないと思うのです。ご主人が心得ていらして、客の前ではいっさいこの種の「指導」をしないというお店はあります。そういうお店にこそ行きたいと思います。

最先端の知見が日本語で読める幸せ

吉川浩満氏の『理不尽な進化』と『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』を続けて読みました。日経ビジネスオンラインの、小田嶋隆氏のコラムで取り上げられていたのに興味を持ってすぐに購入したのですが、どちらも超絶的な面白さ。私などが言うのも僭越ですが、とにかく文章がうまい!

business.nikkeibp.co.jp


理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ

『理不尽な進化』はダーウィンの進化論を主軸に据えた本ですが、科学系というよりは哲学系の読み物で、それなりに歯応えがあります。それでも、歴史や社会から個人の人生まですべては発展・進歩していくのだという価値観が、実は信憑性に乏しい、というより「発展・進歩」と進化論で述べられている「進化」とは全く異なる概念なのだと気づかされて、驚きました。

世の中には進化論になぞらえた様々な物言いがあふれています。

「変化に適応しなければ、淘汰されるだけだ」
「日本の技術がガラパゴス化するのは問題だ」
「グローバル社会に適応して、さらなる進化を遂げなければならない」

……などなど。そして私たちは、とにかく進化というのは絶対的に肯定的な善であり、政治も経済も社会も芸術も教育も、進化・発展するはずだ、いや、しなければならないという考えを幼い頃から焚きつけられ、自らも人を焚きつけているわけですが、吉川氏によれば、そも「進化」と「発展」をごっちゃに論じることそのものがダーウィニズムとは全く異なるスタンスだというのです。

進化は、劣ったものから優れたものへと一直線に上昇していくようなものではなく、「適者生存」は優れたものが生き残るという意味でもない。進化の結果は優れていたという「能力」に依るものではなく、単なる「運」であり、「適者生存」の意味は「いま生存しているものを適者と呼ぶ」というだけのことである……この本では、なんだか身も蓋もないような事実を知らされることになります。これだけでも、私たちが何となく生きるための拠り所としている価値観が大きく揺さぶられるような気がしませんか。

刺激的なブックレビュー

『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』は吉川氏の論考や、対談、鼎談、さらには人物の列伝やブックレビューなどが詰まったアンソロジーのような本です。認知革命や進化と絶滅に関する章も大変刺激的なのですが、ブックレビューが秀逸だと思いました。これほど「片っ端からすべて読みたい!」と思わせられるブックレビューを読んだことがありません。


人間の解剖はサルの解剖のための鍵である

すでに注文したり図書館で借りたりして、現在私の目の前に大きな「積ん読」の山ができていますが、例えばジョナサン・ハイト氏の『社会はなぜ左と右に分かれるのか』の書評。「右と左」、「保守とリベラル」など様々な対立や分断は今のこの国でも顕著ですし、私はその対立や分断がちょっと看過できないほどに大きくなってきていることに漠然とした不安を抱いている者ですが、ここにはその処方箋のひとつになるであろう姿勢が提示されます。

少なくともいえるのは、それぞれの陣営が反対陣営にたいして抱く印象とは異なり、分断は善き人びとと悪しき人びととの間にあるのではないということだ。分断はむしろ善き人びとどうしの間にある。お互いに相手を悪しき人びとであると即断しないで、粘り強く議論する姿勢が必要となるだろう。

これは大切な指摘です。様々なムーブメントでは必ずと言っていいほど内部での対立や党派性の主張が昂進し、それがムーブメントの退潮や自壊にまでつながっていくことがよくあります。また完全に住む世界が違う、まるで異星人のように思える相手の主張でさえ、それを腑分けして見る必要はあるかもしれません。これは今の私たちにとって大きな課題ではないでしょうか。


社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学

また、ラファエル・A・カルヴォ氏他の『ウェルビーイングの設計論』についての書評。ウェルビーイングとは心理学の一分野で、人間が公私ともに活き活きと健やかに生きていける状態を実現するための方策です。個人的には「小確幸」とか「マインドフルネス」、あるいは最近ジム通いをするようになってとみに意識するようになった「QOL(生活や人生の質)」と強い結びつきを持って捉えているキーワードです。

世界中のスマートフォンユーザーが日々感じている小さなストレス——ボタンの押し間違いやテキスト選択の失敗、アプリの強制終了など——をぜんぶ足し合わせてみたら、人間のQOL(生活の質)や経済活動へのかなりの規模の損失が確認できるのではないだろうか。ポジティヴ・コンピューティングの任務は重い。

同感です。スマホのみならず、あらゆるデジタルデバイスで同じようなことが言えますよね。個人的にはWindowsパソコンの「非ウェルビーイング性」はそろそろ何とかしてほしいです。Windowsが世界標準になったことで、人びとの心身にもたらされたストレスを考える時、その不幸の大きさに天を仰いでしまいます。もっとも、他のシステムが世界を席巻していたとしても、また別のストレスが発生した可能性は大きいですが。

ここに出てきた「ポジティヴ・コンピューティング」とは、テクノロジー、それも今や私たちの生活に必要不可欠な存在となったデジタルテクノロジーを、いかに人間に寄り添い、人間を幸福にする方向で活用するかという意味合いです。いままでは効率性一辺倒だったテクノロジーを再検討するための方策としてもウェルビーイングの考え方が有用ではないかというわけです。


ウェルビーイングの設計論-人がよりよく生きるための情報技術

翻訳者のお仕事に感謝

このように、吉川氏のブックレビューは知的好奇心を刺激されること半端ないのですが、それと同時に、こうした海外の数々の知見、それも最先端の知見が日本語で読めることの幸福を今さらながらに噛みしめています。

それもこれもひとえに優れた翻訳者の方々の営為があってこそ。昨今は機械翻訳の登場などで価格破壊がひどく(英語の業界は詳しくありませんが、中国語の業界に関しては目も当てられない状況です)、「まあ、ざっと意味が分かりゃいい」的な大量の機械翻訳と、“信・達・雅*1”を兼ね備えたハイエンドな翻訳に「二極化」している業界ですが、こんな時代だからこそ、私たちはもっと翻訳者を大事にしないと、近い将来、最新の知見は英語でなければ摂取できない国になってしまうかもしれません。

そうなれば人びとの知的コンテンツに関する格差はさらに大きくなってしまうでしょう。すでにそういう国は世界中にたくさんあるのです。先般旅行した北欧のフィンランドでさえ、大きな書店の半分かそれ以上の棚は英語の本で占められていました。言語自体の規模も関係していますが、母語であるフィンランド語だけでは様々な知見に充分にアクセスできないのです。

f:id:QianChong:20180323142143j:plain:w300

私たちは母語である日本語で森羅万象を切り取ることができるというこの幸福にもう一度思いをはせ、それを見据えた外語教育を構築していくべきだと思います。そしてなによりいま現役の翻訳者を大切にしてほしい、翻訳という仕事で食べていけるようにしてほしいと思います。

……あら? 最後はなんだか身内びいきの「ポジショントーク」になってしまいました。

*1:近代中国における啓蒙思想化で翻訳者でもあった厳復(げんぷく)による翻訳が備えているべき原則です。信:原文に忠実であること、達:原文に引きずられず分かりやすい表現であること、雅:さらに文章全体が美しいこと(ほかにも様々な解釈があります)。ところでいま気づいたんですけど、「適者生存」も厳復の訳語だったんですよね。

チャイニーズの「舌打ち文化」

都内の、とある日本語学校の先生と話をしていて「中国人留学生がよく舌打ちするんだけど」という話題になりました。確かに、中国人留学生に限らず、チャイニーズ(中国語圏の人々。華人と言ってもいいですけど、音的に「歌人」や「家人」と間違えるので「チャイニーズ」としておきましょう)には、けっこう頻繁に舌打ちをする方がいます。

話し始めに「チッ」、話の途中に「チッ」……日本人にとって舌打ちは、まずほとんどの場合「不満」や「不快」を表すサインですから、かなりインパクトがあります。個人的にはこれ、日本の人々の、チャイニーズに対する誤解なり偏見なりのけっこう大きな原因になっているのではないかと思っています。

でも、チャイニーズにとっての舌打ちは、日本人が想像するほどの具体的な意味は持っていないことがほとんどです。もちろん「不満」や「不快」の表現としても使われますが、それよりはるかに多くの場合、舌打ちはほとんど言葉の息継ぎというか、句読点みたいなもの。ご本人もたぶん無意識のうちに舌打ちしているはずです。

実際、私が授業で「パブリックスピーキング(人前に出て、相手に納得してもらえるように話す話し方)」の訓練を行う際に、チャイニーズの留学生の舌打ちを指摘すると、「え? 舌打ちしてました?」という反応が多いです。録音を聞かせて「本当だ……」と気づく方も多い。

さらに、チャイニーズに特徴的な習慣として、おいしいものを食べたときに「チッチッ」(これは日本にも「舌鼓を打つ」というのがありますね)、相手を賞賛するときや、何かに感嘆したとき、得意な気分になったときなどに連続して「チッチッチッ……」などというのもあります。とにかく日本人とはかなり異なる「舌打ち文化」を持っている人たちなのです。

qianchong.hatenablog.com

長年チャイニーズの留学生と接してきた日本語学校の先生でも、こうしたほんの小さな文化の差異に気づかず誤解を重ねていることがあるかもしれません。そしてたぶん、私もまだ知らない習慣だってきっとあるはずです。

留学生と接するときは、その日本語のつたなさについ「ティーチャートーク」が昂進して相手を子供扱いしてしまう危険性があり、私は常々自戒としていますが、言葉以外にも様々な誤解の種はあるのだと改めて思った次第です。

f:id:QianChong:20180921111059p:plain
https://www.irasutoya.com/2016/06/blog-post_140.html

追記

台湾で働いていたときも、日本から出張してきた若い社員が「○○さんに舌打ちされちゃったんです~」などとヘコんだり、引いたりしていることが時々ありました。私はそのたびに「あれは息継ぎみたいなものですから」と説明していましたが、まあなかなか慣れないですよね。

逆に、現在日本に留学している、ないしは日本に住んだり日本で働いたりしているチャイニーズのみなさんは、日本人にはそうした「豊かな舌打ち文化」はないことをもう少し意識されるとよいかと思います。あらぬ誤解を招かないためにも。

……と思って、何かチャイニーズの舌打ちの実例はないかなとYouTubeを検索してみたら、中国系マレーシア人の方がこんな動画をアップされていました。気づいている方は気づいているんですね。面白いです。

youtu.be

不寛容と暴力の芽は自分にもある

先日の夕刻、もう少しで七時になろうかという頃でした。ジムからの帰り道に急に雨脚が強くなったので、傘は持っていたけれど小降りになるまでしのごうと思って、手近なカフェに「避難」しました。場所は「おされ」な青山の、ブルーボトルコーヒーです。ところがカウンターで「ブレンドをください」と注文したら、店員さんにこう言われました。

ブレンドひとつ。はい、でも、七時までなので、テイクアウトだけです」

店員さんは、そのわずかな発音のニュアンスから、日本語母語話者ではないと分かりました。もちろん十分に流暢ですし、意思の疎通には何の問題もありません。なのに、自分でも驚いてしまったのは、このときに私はちょっと「イラッ……」としてしまったのです。

もちろんその場では、その「イラつき」はそれ以上昂進せず、「あ、じゃあいいです」と言ってまた傘を広げ、強い雨の中を表参道駅の入り口まで走ったのですが、さっきの自分のちょっとした「イラつき」が、なぜか後々まで小さな棘となって心に刺さったのでした。

そりゃまあ人間だもの、「イラッ……」とすることはありますわ。もとより私は短気な性格ですし(関西弁で言うところの「イラチ」というやつです)、満員電車などでは人一倍イライラして「いつかきっとあんたも犯罪をおかすだろう(©忌野清志郎)」状態になるのが分かっているので、ラッシュを避けるために定刻の二時間も前に出勤しているような人間です。

だけど、あのほんの数秒ほどの間に沸き起こった「イラつき」は、かなり情けない。というのも私は、日々職場で日本語が母語ではない外国人留学生に数多く接していて、彼ら・彼女らが日本でかなり「心が折れる」瞬間のひとつは、不自然な日本語に対する日本人(日本語母語話者)の許容度があまりに低いことだとつねづね聞かされているからです。

例えばコンビニのバイトで、日本語の発音や統語法が少しでも不自然だと、あからさまに嫌な顔をされたり笑われたりすると。また何度も聞き返していると「ドゥユーアンダスタン(Do you understand ?)」嫌みたっぷりな「返し」をされたりすると。

qianchong.hatenablog.com

ブルーボトルコーヒーのあの店員さんは、まず「ブレンドひとつ」と注文を受けてから、でもあと数分で店が閉まるからテイクアウトだけだと告げました。別に問題はないはずですが、私はその瞬間に「だったらそれを先に言え」と感じたのかもしれません。また、「はい、でも、七時までなので……」というくだりの、ほんの少しのたどたどしさに違和感を覚え、さらには雨脚が強くなった中やっと避難できたのになぜ、という身勝手な憤懣も加担して、あの「イラッ……」がわき出たのだと思います。

なんと不寛容なことか。

もうひとつ。

いま奉職している学校は、前期末試験の真っ最中です。

私が担当している科目で、通訳の基礎訓練を行うクラスがあるのですが、試験は日本語のニュースのシャドーイング*1とリプロダクション*2にしています。まだまだ日本語も発展途上の生徒たちなので、あらかじめ教材を配布して練習しておいてもらい、試験当日はCALLで録音するだけという、と~っても易しい試験(試験とも言えないくらいですが)です。

この試験で、ある留学生が「カンニング」をしていました。シャドーイングやリプロダクションはスクリプトを見ず、メモもとらずに行うルールであったにもかかわらず、配布してあった音声をノートにディクテーションしたものを見ながら録音に臨んでいたのです。

私はそれを見つけて、横から手を出してノートを裏返し、なおかつ彼の頭に「ぽん」と手を置きました。いや、手を置いたのではなく、叩くニュアンスがあったと思います。「ダメですよ」というつもりでしたが、思わず手が出ていたわけです。

彼は「てへへ」という笑いとともに「すみませ~ん」と悪びれもしない様子でした。また私としてもカンニングとはいえ、自分で教材をディクテーションしてきたことそのものは彼の勉強にもなったと思うので、それ以上は追求しませんでしたが、あとあとから、あの「ぽん」がやはり棘となって心に刺さりました。

あれは明らかに暴力の芽でした。

昨今、スポーツ界などを中心に暴力やハラスメントに対する告発が続いています。そんな中、糾弾された側は時に「体罰ではない」「愛のムチだった」「選手のためだ」というような弁解を行います。そして「押しただけだ」「ちょっと手を置いただけだ」が「暴力やハラスメントと受け取られたとしたら、申し訳ない」といったような詭弁も。

でも、理由はどうあれ、「肩に手を置く」とか「頭をポンポンする」というのもハラスメントになり得ます。いくら「スキンシップ」などの言葉で言いつくろっても、それは暴力へとつながる芽なのだと思います。考えすぎでしょうか。いえ、やはり考えなくてはいけないことだと思います。

f:id:QianChong:20180920152955p:plain
https://www.irasutoya.com/2018/05/blog-post_3.html

*1:ヘッドホンから聞こえてくる音声の通り、自分で発声していく訓練。

*2:ひとまとまりの音声を聞いて、ポーズが入る間にそれを一字一句違わず繰り返して発声する訓練。要するに語学でよくやる「リピート」です。

白い犬の会社に一本取られました

私は長年ソフトバンクの携帯電話を使っているのですが、先日ふとMy SoftBankの支払明細を確認したら、私と細君の基本料や通話料・通信量、機種代金(分割支払金)の他に、見覚えのない電話番号で機種代金がスマホ月々1500円程度引き落とされているのに気づきました。

なんともうかつなことではありますが、銀行口座から自動で引き落とされ続けているのを今になって見つけたわけです。よく見てみればこれはかつて細君がソフトバンクのお店で「実質0円ですから~」とか何とか言われて契約してしまったiPadの分割支払金でした。

いえ、営業トークに乗せられて必要でもないiPadをもらっちゃった細君が悪いのです。それで後日iPadの本体を返し、契約を解約し、違約金まで支払ったのですが、本体のお金はきっちり完済しなければいけないような規約になっていたのでしょうね。いえ、これもきちんと契約書の隅々までチェックしていなかった我々が悪いのです。

……しかし、なんだかもう一挙にソフトバンクという会社そのものへの嫌悪感がわいてきてしまいました。白戸家の「お父さん犬」がどんなにかわいくてもダメです。というわけで、ソフトバンクと交わしている一切の契約を解除することにしました。

違約金がかかったり購入機種の残債を一括精算したり、ハッキリ言って馬鹿みたいに損ですが、何というのかな、長年付き合ってきたけどもう「顔を見るのもイヤ!」、あるいは「生理的にムリ!」という感じ(ひでえ)。これはお金じゃなくて、気持ちの問題です。

同時に、今持っているiPhone Xも「ダウンサイジング」することにしました。中古で下取りに出しちゃって、そのかわり型落ちの古くて安いiPhoneに乗り換えるのです。iPhone Xを購入して半年あまり。確かに顔認証やらApple Payやら便利な機能が満載ですが、自分の身の丈をよくよく考えればかなりオーバースペックです。

そもそも私、音声通話はほぼゼロですし(電話がかかってきても家族以外は絶対に出ません)、メールやLINEが確認できて、Google Mapが使えればいいだけです。写真もあまり撮らないし、高品質な音声もいりません。ゲームもしないし動画もあまり見ない。よく考えたらそこまで高級なスマホを使う理由などほとんどなかったわけです。

最近読んだ『the four GAFA 四騎士が創り変えた世界』には、iPhoneを世に送り出しているアップルの高級路線についてこんな記述がありました。

 アップルの顧客の中には、自分たちが不合理な決定に基づいて買い物をしていると指摘されたら、不愉快に感じる人がいるかもしれない。
 彼らは自分たちがスマートでセンスがいいと信じている。だからどんな決定も頭脳が決めていると考えている。モノがいいからだよ、と彼らは言う。直感的に操作できるユーザー・インターフェース。それに効率アップのためのクールなアプリケーションを見てくれ。
(中略)
 たしかにそうかもしれない。そして人はメルセデス・ベンツに大金を払うときも同じことを言う。高級品はすばらしい。しかしそれは社会的地位を伝えるものでもある。それはあなたの生殖能力のブランド価値をも向上させる。
(中略)
 ところで私は、高級品を買えば実際にモテるようになると言っているわけではない。何百万人ものiPhoneユーザーが、1人で寝ているに違いない。
 しかし高級品を買うと感情のスイッチが入り、幸福や成功を感じさせるセロトニン量が急上昇する。おそらくそれで他人から見て魅力的に見えるのだろう。何度も引き合いに出して恐縮だが、格安のデルではこうはいかない。


the four GAFA 四騎士が創り変えた世界

そうなんですよね。私は昔々のCentrisやQuadraから現在のMacBook Airに至るまで、Apple製品の忠実な愛用者ですが、この本を読んでいくぶんかは我に返りました。Appleの諸製品は、その日常とのあまりの関わりの深さについ見失いがちですが、普段私が全く興味を持たない贅沢な高級ブランド(服やら車やら宝飾品やら)とそれほど選ぶ所がなかったのです。

というわけで、以前使っていた懐かしい(と言ったって数年前の機種ですが)iPhone SEに戻ることにしました。歴代iPhoneの中ではいちばん好きなデザインですが、すでに製造停止となっているらしく、現在は数万円で手に入ります。ソフトバンクナンバーポータビリティを申請して、携帯電話会社もLINEモバイルに乗り換れば、諸々の料金は2/5ほどに下がると思います。

ついでに、ソフトバンクと契約している光インターネットも解約するつもりでいます。とにかくあの会社とはもう二度と関わりたくないのです。私の中ではソフトバンクは完全にブランド価値を失いました。

……と、ここまで書いて、実際にLINEモバイルのオフィシャルサイトに行き、申し込みを開始して気づきました。LINEモバイルはいまや、ソフトバンクと資本・業務提携を結んでいたのでした……。

結局、SIMフリーにも対応しているソフトバンク回線のLINEモバイルを申し込むことになっちゃいました。

f:id:QianChong:20180919215529p:plain
https://www.irasutoya.com/2014/12/blog-post_933.html

行かない理由って逆に何?

いわゆる「男性版更年期障害」とでも言うべき不定愁訴に苛まされ、夜も寝られないほどの肩凝りと慢性的な腰痛、さらには高めで推移し続ける血圧に音を上げて、トレーナーさんに一対一で指導してもらう体幹レーニングと筋トレを初めて約一年、血圧を除けば健康状態はかなり改善してきました。

特に最近は筋トレをメインに据えつつあるのですが、三日も空けると何だかからだが「むずむず」して落ち着かない感じに。というわけで、予定が立て込んでジムに行けないときでも、教わったいくつかのメニューを自宅や職場でこなすようになりました。端的に言って「楽しい」です。楽しくなって、継続が途切れると気持ち悪いと思えるくらい習慣化できてしまえばこっちのものです。

ところで「筋トレをやっている」と言うと、たいていの方が怪訝な顔をされます。特にこの歳でやっていると言うと。どうやらみなさん「筋トレ=ボディビル」みたいなイメージなんですね。かの「ライザップ」のCM的な、ムキムキでマッチョで、色黒で肌がテカテカしていて……という感じ。へたをするとボディビルのコンテストみたいに「ポージング」してるんじゃないかと誤解する方までいたりして。「気持ち悪くない?」……って、ちょっとそれ、ボディビルをやってらっしゃる方に対しても失礼ですから。

f:id:QianChong:20180916145551p:plain
https://www.irasutoya.com/2015/07/blog-post_728.html

えーと、私がやっている筋トレは、もちろん全然違うものです。まあそれなりに筋肉はついて精悍な感じにはなってきますけど、あくまでも肩凝りや腰痛の予防と健康維持が目的のもの。50歳を超えてあとは衰えていく一方の身体を何とか健康な状態に保っておきたいというスタンスです。ブログ『脇見運転』の酔漢氏がおっしゃっていた「健康じゃないと死ぬ」というその感覚、本当によく分かります。この歳だからこそ積極的に身体を動かさないと、も~、ホントに老化一直線だと思うのです。

wakimiunten.hatenablog.com

私が通っているジムは、主に学生や社会人、そしてプロの運動選手のみなさんが調整を行う場所です。ただ割合から言えばごく少数ではありますが、私のような中壮年のおじさん・おばさんがたも散見されます。先日トレーナーさんに「私と同年代の方は、みなさん健康増進が目的なんでしょうかね」と聞いてみたら「いえ、実はそういう方は少なくて、ほとんどは趣味でスポーツをされていて、そのための調整目的で通われています」とのこと。

なるほど、これは意外でした。でも私は、私のようにスポーツなんて全然やってない(というか、からっきし苦手)中壮年にこそ筋トレなどのトレーニングはおすすめだと思います。筋トレのよさについてはこれまでにも色々とエントリを上げてきましたが、最近感じているのは「自分がいかに非力であるかを思い知らされることの良さ」です。

なんだかマゾヒズムめいていますが、こういうことです。ジムでは、プロやセミプロ級のアスリート、またスポーツに長けた中壮年層がトレーニングをしている横で、私のような門外漢がうんうんうなりながら身体を動かしています。体幹レーニングひとつとってみても、手や足は真っ直ぐ伸びないし、腹筋は弱くて上体も少ししか上がらないし、身体を捻ると攣りそうになるし、ベンチプレスや懸垂はいつもギリギリで常にトレーナーさんのサポートをもらっているし、とにかくまあ、なんというか、無様なのです。

でも、この歳になって無様な姿を人目にさらす場面ってそんなにないじゃないですか。いくら自分で気をつけていても年相応にメンツみたいなものが介在してくるし、歳を取って狡猾になるのか、若気の至りや青臭い行動・言動もうまく回避したり糊塗したりするスキルや処世術がそこそこ身についちゃってる。なのにジムのトレーニングは非力を糊塗しようがないのです。如実に無様な姿を晒してしまいます。晒さざるを得ない。

こないだなど、雨天でトレーニングしている方が少なかったなか、私が懸垂でうんうんうなっていたら、いつの間にかジム中の方が私に目を向けていて、衆人環視の中うなり続けることになりました。やりにくいことこの上ありません。でも何とかそのセットを終えて床にへばっていたら、みなさんが「すごい、すごい」って拍手をしてくれました。レストランで急に照明が消えて「♪Happy birthday to you」を歌われるくらい小っ恥ずかしいですが、こういう風にほめてもらえることなどそうあるものではありません。

いま通っているジムは、パーソナルトレーニングが主体の施設ですけれど、予約不要でいつでも行けて、トレーニングウェアも靴も全部貸してくれるので手ぶらで通えます。トレーナーさんは毎回違いますが、カルテがつけられているのでトレーニング内容はきちんと引き継がれます。私のような体育が苦手でトラウマになっているような人間でも、ほんのちょっとした進歩を褒められ、拍手までされる。もちろんこちらは「お客さん」だからお愛想といえばそれまでですが、素直にうれしいです。

身体能力がどんどん衰えていく中壮年層の私たち。白髪染めのCMじゃないですけど、「ジムに行かない理由って逆に何?」という感じです。

f:id:QianChong:20180916145411p:plain
https://www.irasutoya.com/2015/06/blog-post_383.html

東京五輪のボランティアは「人生最高の二週間」か「やりがい搾取」か

『ブラックボランティア』の本間龍氏と『東京オリンピックのボランティアになりたい人が読む本』の西川千春氏が対談という、ある意味奇跡的な(?)イベントに参加してきました。場所は下北沢の「本屋B&B」という、書店とイベントスペースを兼ねたような店舗。司会は西川氏の本の出版元であるイカロス出版の方でした。会場には新聞・テレビ局数社も取材に来ていました。

f:id:QianChong:20180917190139j:plain

私はすでに両方の本を買って読んでいましたので、ネットで情報を見つけてすぐに申し込みました。2020年東京オリンピックパラリンピックにおいて11万人の募集が予定されているボランティア。そのボランティアのあり方に関して全く主張の異なるお二人が、こうして公の場で積極的に議論しようとされる姿勢に敬意を表したいと思います。聴衆も冷静かつ真剣にお二人の話に聞き入っていて、ほんの僅かに会場から不規則な発言がありましたが、お二人とも冷静な対応ぶりで素晴らしいと思いました。

特に西川氏は「ネット上ではオリパラのボランティアに関する批判ばかりで、応援の声がほとんどないのがさびしい」とおっしゃっていましたが、そんな中でもこうして議論の前面に立たれるのはとても勇気の要ることだと思います。


ブラックボランティア (角川新書)


東京オリンピックのボランティアになりたい人が読む本 (3大会のボランティアを経験したオリンピック中毒者が教える)

最初に西川氏と本間氏がそれぞれ20分ほど、スライド資料も交えながらご自身の主張を述べられ、その後討論、休憩を挟んで会場からの質問用紙にお二人が答えていく、という形でイベントは進行しました。お二人のプレゼンは、ほぼ上掲のご著書の内容に沿ったものでしたが、本間氏は上梓後新たに判明した動向などを追加して話されていました。

とくに「ボランティアへの採用が決まった場合にマイナンバーの提出が求められるようだ」というお話。それが万一ボランティアを途中で辞退した場合などにもその情報が紐づけされて、その後の一生の不利益に繫がるのではないかという懸念には空恐ろしいものを感じました(西川氏もこの点については「そんなことが絶対にあってはならない」とおっしゃっていました)。

語学への軽視に対する質問

私は質問用紙に、おおむね次のようなことを書きました。

ほぼ単一言語社会といってよい日本では、言語を使う仕事に対する軽視が強く、通訳者に関しても「話せれば訳せる」といったような誤解が根強く残っています。このような状況で、通訳者をボランティアでまかなうことは「通訳は無償でよいのだ」という社会通念を強化することにならないでしょうか。とくに外語系の大学で積極的にボランティアへの参加を促すことは、まわりまわって将来語学で仕事をしていこうと思っている学生さんの首をしめることにならないでしょうか。ご自身も通訳者であり、かつ大学でも教えておられる西川先生のお考えをうかがいたいと思います。

この件については、私もこれまでにいくつかブログにエントリを上げています。
オリンピック・パラリンピックの通訳ボランティアについて
ボランティアに頼る「商売」はおかしいと思います
学校が後押しする「通訳ボランティア」について
オリンピックのボランティアと大学連携協定について

これらを踏まえていろいろと聞きたいことはありましたが、小さな質問用紙でしたので一番「ナマ」な「語学で食べられない問題」への影響を聞いてみようと考え、なおかつ私はこの質問用紙に名前を書きました。批判する以上匿名では失礼だと思ったからです。こんなピンポイントの質問は読み上げられないだろうなと思っていたら、司会の方はきちんと読んでくださいました。

西川氏は「語学への軽視はその通りだし、とてもよい質問だと思います」とおっしゃってくださいましたが、お答えは「将来通訳者になりたいと思っている学生にとっては、学習のモチベーションにもつながるし、通訳のみならず言葉を使って何かを行う経験を積むという意味でも意義深いと思う。ぜひ参加してほしい」というものでした。

また、オリパラの現場では主に「諸言語→英語」というように英語がキーランゲージになるので、実は日英・英日通訳者の必要人数はそれほど多くなく、したがって通訳というよりも広く外語を使う可能性のある業務(アテンドなど)により多くボランティア要員が割かれるであろうこと、また極めて重要な部署には有償のプロ通訳者を70〜80名ほど雇用する予定で、その予算も既に組まれているといった情報も披露されていました。

ただ西川氏のお話は、これはこの質問のお答えに限らず発言全体の基調がそうなのですが、とにかく五輪のボランティアは参加する本人にとってはかけがえのない貴重な経験になるものであり、他では得られない感動をもたらすものであり、その「レガシー」を残すことができるという「大義」の前には有償か無償かは問題ではない、という枠を超えるものではありませんでした。

成熟した民主主義の国だからこそ、こうした五輪のボランティアも「損得抜き」で集まるのだと西川氏はおっしゃっていて、その「豊かになった社会であるからこそ、市民による奉仕の精神も尊ばれる」という点については共感する点もありました。ですが、ことは被災地支援や弱者救済などではなく、超巨大な営利目的の商業イベントである五輪です。この根本的な問題について話が及ぶと、西川氏のお話は結局のところ「とにかくオリパラは素晴らしいんだ! 大好きなんだ!」という点に収斂、ないしはかき消されてしまうのです。

西川氏はとても弁舌爽やかで笑顔一杯、過去に三度参加されたボランティアでの体験談は「本当に楽しくて充実した日々だったんだな」とその高揚感は私にも充分に伝わりました。ご自身もおっしゃっていましたが、せっかくのお祭りだもの、「踊らにゃ損」というわけです。

ですが、五輪の「日向(ひなた)」の部分は手放しで賞賛される一方、「日陰(ひかげ)」の部分は「まあ実際にはきれい事ばかりじゃないですけどね」とお茶を濁されるのでした。

また周りはあれこれと批判するけれども、アスリート自身はやっぱり五輪に出たいと思っている、というご趣旨の発言もありましたが、そのアスリートの一部からも、現代のメダル至上主義によって競技そのものが歪められていく現状を憂う声が出ていることはご存知なのでしょうか。その点の内省が見られず、単純な五輪賛美に終始している点も気になりました。

qianchong.hatenablog.com

総じて現代における五輪の「大義」そのものには全く疑問を持っておられない。搾取の構造や、復興五輪やコンパクトな五輪と銘打ちながら実際には裏腹の現実、学徒出陣や無謀な作戦にもなぞらえられる強制的な動員の是非についてはほとんどスルーされてしまうのです。これはもう議論の依って立つフィールドが違いすぎます。

上記の私の質問は、ボランティアに参加する本人の不利益もさることながら、「通訳は無償でよい」という社会通念が強化されることによって、この国ではただでさえ低い通訳者の社会的地位がさらに低下し、それは回り回って国益を損ねることになるのではないかという懸念を踏まえたものでした。つまり参加する個々人よりも「通訳者など語学を用いる仕事のこの国でのありよう」にフォーカスしたものだったのですが、小さな質問用紙と基本的に会場からの発言ができないルールでしたので(でもこれは不規則発言を防止するという点でよかったとは思います)不完全燃焼に終わりました。

「成功してしまう」ことの怖さ

西川氏は、基本的なスタンスとして「ボランティアへの強要はあってはならず、参加したい人がすればよい」とし、ボランティアの志望者は海外からも10万人ほどは予想されており、募集人数をはるかに超える方が絶対に集まるとおっしゃっていました。その点については全く心配しておらず、むしろ組織委員会の不透明で無責任な体勢(出向者ばかりの大所帯だからという背景もあるそうです)や、夏の暑さ対策について本当に心配しているとのこと。この点については本間氏と全く同じ意見でした。

……であれば、やはり問題は本間氏が終盤で指摘されたように、今次の東京オリンピックパラリンピックが曲がりなりも「成功してしまう」ことだと思います。

炎天下のスポーツ大会という前代未聞のイベント運営も、「やりがい搾取」と批判の集中砲火をあびたボランティア募集も、巨額の税金と大量の動員でむりやり成功させてしまった・成功できてしまったというその「レガシー」は、今後同様の巨大商業イベントにおける大規模な搾取にも前例とお墨付きを与えてしまうだろうからです。語学に関する職業も今後、同様のイベントでは無償奉仕が常態化し、通訳者はますます食べていけない職業になってしまうかもしれません。

今月末からいよいよボランティアの募集が始まります。組織委の大会ボランティア8万人と東京都の都市ボランティア3万人。加えて分散開催される千葉県・神奈川県・福島県などでもこれとは別のボランティア要員を募集するそうです。さらには、いまや企業はもちろん大学・高校・中学校・小学校にまで予定されつつあるオリンピック教育を絡めた「動員」。

www.o.p.edu.metro.tokyo.jp

小学生に何の動員? と思われるでしょうか。例えば聖火リレーの際に沿道で小旗を振るなどのアレなどもそうですよね。こうした活動は学校単位で行われるでしょうから、ある意味大会ボランティアや都市ボランティアよりはるかに「同調圧力」がかかります。こうしたあれやこれやが、これから先二年間にわたって繰り広げられるのか……暗澹たる気持ちで会場を後にしました。

追記

ところで、上記の質問用紙には少々意地悪だなと思いつつ、このようなことも書きました。

『通訳翻訳ジャーナル』という、通訳や翻訳で食べていくことを目標に頑張っている人を後押しする雑誌を作っているイカロス出版さんは、この件についてどうお考えですか。

巨大な利権が絡む巨大な商業イベントであり、多額の税金を投入しつつその明細を明らかにせず、生命の危険がある状況下で雇用関係の発生しないボランティアを大量に動員することで責任回避をしようとしている五輪。そのイベントへのボランティア参加を無邪気に勧める西川氏の本を出版することと『通訳翻訳ジャーナル』の刊行は矛盾しないのか、それを聞いてみたかったのですが、この部分はカットされました。まあ「本間氏と西川氏への質問」と用紙に書いてありましたから、これは致し方ないですよね。

ペリリュー

都内の書店に立ち寄った際、偶然見つけた武田一義氏のマンガ『ペリリュー』を読みました。第5巻まで出版されており、現在も雑誌での連載が進行中の作品です。既に二年前から連載が始まり「日本漫画家協会賞」も受賞して話題になっていたというこの作品、今になってようやく知った不明を恥じているところです。


ペリリュー ─楽園のゲルニカ─ 1

タイトルからも分かるように、これは太平洋戦争末期の1944年にペリリュー島(現・パラオ共和国)であった日米両軍による戦闘と、そののち終戦後までも続けられた日本軍の残存兵によるゲリラ戦を描いています。このいきさつについては、以前NHKスペシャルで放映された『狂気の戦場 ペリリュー〜“忘れられた島”の記録〜』などでもその悲惨な戦闘の実態が伝えられていますし、また2015年に天皇と皇后がパラオ共和国を訪問された際、この島に立ち寄って慰霊を行ったこともよく知られています。

この作品はペリリュー島で起こった出来事を時系列に沿いながらつぶさに描いていきます。その悲惨さと非人間性はとてもではありませんが私の貧弱な語彙では表現しきれません。

でも、その悲惨で非人間的な現実の中で、登場人物たちがそれぞれの生を語るその語り口は、現代の私たちにも十分に理解できる問いであり悩みであり感慨であって、決して遠い昔の出来事のようには思えません。つまり、自分が同じ状況に身を置いたら、おそらく同じように苦しみ、怖れ、絶望し、あるいは生きたいという思いを振り絞っただろうなとリアリティを持って読めるのです。

作者の武田一義氏はこの作品を描くにあたって、「太平洋戦争研究会」や「近現代フォトライブラリー」、さらには戦後も続いたゲリラ戦でわずかに生き残り帰還した34名の方々で作られた「三十四会」をはじめとする元日本兵の方々、パラオ共和国の人々にも取材されているそうです。

武田氏のマンガにおける登場人物の造形は、一見こうした主題の作品には不釣り合いなほどの「キュート」なものですし、語り口もいたって現代風です。ですが、それがかえって戦場に身を置いていたのは特別な人々ではなく、自分と同じような人間なのであり(当たり前ですが)、しかも当時まだ20歳前後の若者たちが大半であった(そしてそのほとんどが命を落とした)という現実をもイメージさせ、不思議なリアリティを醸し出しています。

先般、台湾の離島のそのまた離島まで旅をした際、どの島にも先の戦争にまつわる日本軍の施設跡や日本統治時代の痕跡が見られ、そのつど「かつて、こんな遠い南の島のそのまた先まで出張ってきていた日本人」について考えが及び、粛然とした気持ちになりました。でも台湾どころではない、そのまたさらに南のフィリピンやパラオ諸島にまでも出張って、こうした歴史を作ってきてしまったわけです。かつての日本という国は。

この国の歴史を私たちはきちんと記憶にとどめ、今とこれからを考えるよすがにしていかなければならないと思います。

ステーキは「強火で何度も裏返せ」?

牛肉をただ焼いたの(つまりステーキですが)って、おいしいですよね。お高いからめったに食べませんが、スーパーで時折「三割引きセール」みたいなのをやっていて、その時は「タリアータ」を作るために思い切って買ってきます。

普段スーパーでは、オジサンやオバサン方が精肉のパックをあれこれ手にとってためつすがめつ吟味しているのを横目に「どれ買ってもおなじですよ」と心の中で思っているのですが、ことステーキ用の牛肉となると私も「ためつすがめつ」化していて、ああなんて身勝手な人間なんだろうと思います。

ステーキを焼くのって、ただ焼くだけとはいえ存外難しいです。とくにタリアータは肉の内側をローストビーフほど火を入れず「たたき」ほどレアでもなくというくらいに持っていきたいところですが、火加減とかが難しいし、中まで火が通っているかどうかが分かりにくいじゃないですか。

奉職している学校のイタリア人留学生に聞いた話では、本格的なタリアータはオーブンで作るそうですが、まあこちらは普段の炊事の延長ですからあんまり「男の料理的ホビー」なことはあまりしたくない……というわけで毎回適当に作りながらも出来不出来のばらつきに「もやもや」していたところ、こちらの記事に遭遇しました。

cakes.mu

ステーキを焼くときは、塩だけで胡椒は振らず、終始強火で2分30秒くらい、その間頻繁にひっくり返す……と。えええ、今までの「常識」と全然違う。胡椒は単に焦げるだけだから無意味? 焼き始めたらじっと我慢で動かさないんじゃなかったの? 詳しくは上記の記事にあたっていただきたいですが、これが科学的に解明されたおいしいステーキの焼き方、それもタリアータのような比較的気軽なステーキ応用料理にぴったりの調理法だとのことです。

で、さっそく試してみたところ……本当においしくできました! 終始強火なので外側はかなりかりっとした食感になり、中は火は通っているけれどもきちんとレア。タリアータにぴったりです。「成城石井」総菜コーナーの最近のヒット作(と勝手に思っている)「セミドライトマトのマリネ」もくわえて、どーんと野菜を使ったサラダにしてみました。ソースは以前拝見した野口真紀によるこちらの記事の、バルサミコ酢を使ったもの。

www.kurashijouzu.jp

f:id:QianChong:20180915183120j:plain

この焼き方を教えてくださった樋口直哉氏の連載、ほかにもがぜん料理がしたくなる記事がいっぱい。お勧めです。

cakes.mu

Twitter、ちょっと飽きちゃった。

節酒や筋トレなどの「習慣化」に触発されて、今度はSNSへの依存から抜け出すことを「習慣化」させようと思い立ちました。
f:id:QianChong:20180912164655p:plain
https://www.irasutoya.com/2016/05/blog-post_338.html

SNSに類するものとしてこれまでに色々なサービスのお世話になってきましたが、現在ではInstagramも、mixiも、微博(Weibo)も、微信(WeChat)も、QQも、Google+も……、みんなやめてしまいました。

Facebookはいったん「完全退会」しましたが、一部の友人とMessengerを使ってやり取りする必要があって復活させました。以前はFacebookのタイムラインに書き込んだりブログのリンクを流したりしていたのですが、これはやめてしまいました。ことに、たまたまのぞきにいったタイムラインで「誰それとの友達記念日」なる珍妙なメッセージが出るに至って、以後はMessengerしか使わなくなりました。

Pinterestはあの写真の並び方と、出会う写真のテイストがとても好きなのでやめていませんけど、でものぞきにいくのはひと月に一度ほどなので、これもそのうち「断捨離」しちゃうと思います。

LINEは全くやる気はなかったのですが、家族やAirbnbの家主さんとのやり取りに使うことが多くて、渋々アカウントを作りました。こちらから積極的に使うことはまずありません。

結局、最後まで残って積極的に使っているのは、Twitterとこの「はてなブログ」だけです。それでもTwitterは最近、少々うんざりしてきました。あまりに偏った意見や居丈高な発言が多くて、その「情念」にさらされていると、見ているだけで疲れてくるからです。

考えたつもりになるのが怖い

Twitterでは、どなたかのツイートに共感してコメントしたりリツイートしたり、あるいはコメント付きのリツイートをしたりすることがありますが、それだけで何か「考えたつもり」になっている自分にいささかうんざりしてきた、ということもあります。ましてや、新聞記事のリンクになにがしかのコメントをつけてリツイートするにいたっては、まるでその記事の内容全体を最初から自分が考えていたような謎の全能感に浸ったりしがちじゃありません?

それにTwitterに浸りきっていると、つい世の中の動向も同じようなものだと錯覚してしまいがちなんですけど、実際にはどうなんでしょう。Twitterの、日本での月間アクティブユーザ数は現在約4500万人ほど。これ、すごく巨大な数に見えますよね。15歳以上の人口の約半分弱です。でも週1回以上アクセスするのがアクティブユーザとはいえ、普段感じているTwitterのツイートの「玉石混交感」からすれば、掬すべき意見はTwitterの他にも世の中にたくさんあるはずです。Twitterから完全に足を洗うことはしないまでも、もう少し他の世界にも耳を傾けて見るべきだと思ったのです。実際、仕事や私用でお目にかかる方の中にもTwitterをやっていない方は大勢いらっしゃいますし。

Twitterはその字数制限から情報の取得が手軽です。でもそれゆえに、情報の消費が刹那的かつ総花的になって、ある一つのテーマに沿って深く考えを下ろしていくという作業が疎かになるのではないかとも思いました。やはり時間はかかっても、いや、あえて時間をかけてでも専門書や文学書を読むべきではないかと。

SNSは「集思廣益(衆知を集める)」ための優れたツールではありますけど、その「知」自体をSNS「だけ」から集めてばかりいると、いわゆるネトウヨのような妄想を産む素地になるのではないでしょうか。刹那的に浮かんでは消える、でもそれだけに刺激だけはいちだんと強い情報ばかり追いかけていると、自分の頭で深く掘り下げて考える筋肉が衰えていくような気がします。

長い文章を書くための素材作りとして

Twitterはまた、自分の考えを短くまとめて発信するのにも向いています。それらは、世に問うというほどのものではないけれど、少なくとも自分の外に出す以上、ある程度は考えて、でもすばやく考えてとりあえず発信する訓練になる(Twitterのツイート前に何時間も文章を校正する方はほとんどいないですよね)。ツイートしているうちに反応があって、色々教えられることもありますし、自分の考えが修正されていくこともあります。

というわけでTwitterは、ツイートやツイートの連投を通して自分の考えをとりあえず文章にしておき、あとで編集して長い文章をブログなどに乗せるための下準備といった感じで使うのがいいのではないかと。いずれにしても、Twitterよりはブログのほうが文章の練習(私の場合はほとんどボケ防止ですが)になるんじゃないかと今は考えています。ですから文字通りの「短いつぶやき」はなるべくしないようにしています。

ともあれ、徐々にTwitterからも距離を置いていこうかなと考えています。Twitterの速報性や他のユーザとの「互動(インタラクション)」は大きな魅力ですが、速報性はその都度タイムラインを検索すれば事足りますし、他ユーザとの互動は承認願望という一種のダークサイドと紙一重ですし。でもまあ何にせよ、TwitterをはじめとするSNSに長時間浸るのだけはやめようと思います。

一時期は数分ごとにスマホTwitterを確認しなければ「むずむず」するほどの依存症めいた状態だった私ですが、ようやくまるまる一日、時には数日アクセスしないでも過ごせるまでになりました。この「習慣化」をもう少し続けて行きたいと思います。とはいえ、このブログをエントリさせたら、そのツイートをTwitterにも流すんですけどね。これもまた承認願望ですよね。

ご主人と呼ばれて困惑する

昨日、Twitterのタイムラインで拝見した、こちらのツイート。

なるほど、たとえば夫婦で訪れた客のうち、妻が自分のカードで支払ったのにホテル側はそのカードを夫に返す……と。そんなことがあるのですね。これはいくらなんでも、ひどいです。

私の同僚で、夫が米国人の日本人女性がいるのですが、彼女によると「夫が自分のカードで支払ったのに、私にそのカードを返されることがある」と言っていました。そうそう、日本では「ガイジンさん」は日本語が通じないとハナから決めつけて、日本人(に見えるほう)にカードを返す、あるいは話しかける(その外国人の夫が日本語で話していても!)ということが、割合よくあるようです。これも、ひどい。

完璧なサービスなど存在しませんし、また完璧を追求すべきでもないと思いますが(過剰なサービスの追求は労働の強化となって不幸を生んでいると思います)、こういう硬直化した意識は一朝一夕には変わらないのでしょうかねえ……。

ご飯は女性がよそうもの?

上記のツイートには、そのあとに連投されているツイートがいくつかあって(詳細はTwitterでご覧ください)、その中に「旅館などでお櫃が女性の側に置かれる問題」が含まれていました。

実は先日京都で、細君の快気祝いということで少々奮発して老舗旅館に泊まったんですけど、確かにご飯の「お櫃」は細君の側に置かれましたね。うちはいつも私の担当なので自分でお櫃を移しましたけど、これ、海外の方にも同じようにしているのかなと想像すると、ちょっと危ういような気もします。

だって、何も聞かれずにお櫃が女性の側に置かれたら、「女性の私がよそえってこと?」……となりそうじゃない? くだんの旅館では細君がいわゆる上座に座っていたんですけど、それでもお櫃は細君の側に置かれましたから、やっぱり「女性がよそうもの」というのがデフォルトなんでしょうね。

でもまあ、お櫃が置かれたときに「あ、私がやりますから(笑顔)」と言えば、次からは私の側に置いてくれるのかな。うん、がぜん興味がでてきました。次にあの旅館に泊まることがあったら、ぜひそうしてみたいと思います。

余談ですが、Twitterでは「ワインのテイスティングは必ず男性に振られる」というツイートがありました。確かにそうですね。割とお高いレストランでは「男性に渡されるメニューにだけ金額が書いてある」というのも、実際に経験しています。こういうのも、まあ伝統と言ってしまえばそれまでですけど、最初から男女の役割を決めつけちゃうの、私はやっぱり馴染めません。
f:id:QianChong:20180914101427p:plain
https://www.irasutoya.com/2015/05/blog-post_980.html

奥様と旦那様

上記の旅館では、私達につきっきりでお世話をしてくださるスタッフの方がいたのですが、この方は細君のことを「奥様」、私は「ご主人」と言っていました。たとえば配膳するときに、もうひとりのスタッフに向かって「こちらのお皿を奥様へ」などと指示するなどですね。

この「奥様」や「ご主人」という呼称、私はと~っても違和感があるんですけど、じゃあ自分がスタッフの立場になってみたらと考えると……けっこう難しいです。「お連れ合い」は不自然な感じだし、「妻さん・夫さん」はありえないし、名前で読んだら、披露宴の司会みたいですしねえ。この件に関してTwitterでつぶやいたところ、「お連れ様」という呼称もありますというご意見をもいただきました。

自治体の窓口などでもこうした呼称について色々と苦慮していて、たとえばある自治体では「妻さん・夫さん」に統一しているという話も聞いたことがありますが、こうした議論から新しい日本語が作られ、人口に膾炙していくまでには(そもそもそうした可能性があるのかどうかも含めて)まだまだ時間がかかるでしょうね。

ポルトガルのワイン飲み比べ

ポルトガルのワインと料理を楽しみながら、彼の地の食文化を知るという集いに参加してきました。編集者・ライターで「ポルトガル食堂」を主宰されている馬田草織氏とIDÉE SHOP共催のイベントです。

イベリア半島の西側、南北に細長く伸びる国土のポルトガルは、冷涼な北部から温暖な南部まで様々な気候風土があり、たくさんの土着葡萄品種があって、様々なワインが生産されているよし。かつて通ったワインスクールでは、やはりフランスやイタリアなどのワイン大国の存在感が大きくて、ポルトガルワインはあまりテーマに挙がらなかったのですが、それでも「ヴィーニョ・ヴェルデ(緑のワイン)」や酒精強化ワインの「ポート」「マディラ」などはけっこう飲みました。

今回は「夏の終わりを楽しむ」がテーマということで、爽やかな酸味が特徴の「ヴィーニョ・ヴェルデ」のほかに、比較的軽い味わいのワイン、さらに酒精強化ワインまで10種類ほどを少しずつ飲みながら、軽いおつまみを食べるという楽しいイベントでした。

ポルトガル料理って、イワシの塩焼きがあったり、お米を多用したり、他にもカステラや鶏卵素麺(実家がある福岡で一番好きなお菓子です)みたいなのが日本の甘味として定着していたりして、わたしたちの好みにも近いような感じがします。

かつてポルトガル領だったマカオへ行った際に食べたイワシの塩焼きは、オリーブオイルがかかってとても美味しかったです。ポルトガルの方はこれに赤ワインを合わせるそうですが、なるほど「ヴィーニョ・ヴェルデ」のような酸味が強くて軽い赤ワインなら、シンプルな魚料理にも合いそうです。

ワインはどれも美味しかったですが、やはり「ヴィーニョ・ヴェルデ」、それも珍しい赤の「ヴィーニョ・ヴェルデ」(赤い緑のワインですから、まんま補色で矛盾してますが)と、アルコール度数高めながらマスカットのような香りで軽やかな「アランブル」という甘口のワインが特に印象に残りました。
f:id:QianChong:20180913082450j:plain:w80
https://www.wine-kishimoto.com/details/kip109.html
f:id:QianChong:20150414150227j:plain
http://www.pontovinho.jp/shop/g/g71287820/

おつまみはポルトガルふうの豚肉サンドイッチ「Bifana」のほかに、クミンの効いた人参とネクタリンのマリネ、サラダ、オリーブ、マルメロジャムと塩気の強い羊乳チーズの組み合わせなど。どれも肩肘張らないシンプルな料理でワインによく合いました。

f:id:QianChong:20180912183947j:plain

最近はあまりお酒を飲まなくなったのですが、たまにはこうやってあれこれ試飲するのも楽しいです。それでも「明日しんどくなると困るから……」と酒量は控えめ。後顧の憂いなくがぶがぶ飲むというのはもうできないし、あまりやりたくもない……そんな「お年頃」になってしまいました。

ところで、今回のイベントを主催された馬田草織氏はポルトガル料理に関する本を何冊も出されていて、私は以前から『ポルトガルのごはんとおつまみ』を愛読しています。この本にはワインによく合うポルトガル料理がたくさん載っていて、私もいろいろと作ってみましたが、ポルトガルならではの干し鱈「バカリャウ」のかわりに甘塩のタラを使うなど、日本で手に入る普通の食材で作れるのがとても親切です。


ポルトガルのごはんとおつまみ

さらにこの本で一番共感したのが、炊き込み系のごはんを「お酒のつまみ&シメ」として位置づけ、多くの紙面を割いていること。酒飲みはふつう「ご飯に酒~?」と敬遠しがちな組み合わせですが、これがもう、本当に美味しいのです。とくにそれほど高級でもない、気安く飲めるワインをどんどん開けながら炊き込み系のごはんを食べるのは至福のひととき。……続けていたら、確実にお腹周りがふくよかになりそうですけどね。

ついに髪の毛が「軟化」した

先日髪を切りに行って、担当の店員さんにこんなことを言われました。

「そういえば、髪の毛の質が変わりましたね」

この店員さん(美容師さん)とはもう十年以上のお付き合いです。毎回切ってもらっているのですが、私は何百人もいるお客さん(たぶん)のひとりですから、んな、客の髪質までいちいち覚えていないかもしれないのに、それでも「変わった」と感じられたのですから、よほどの変化に違いありません。

「変わった……って?」

「特に頭の両サイドですね。柔らかくなったというか」

それは端的に言って、加齢によって髪が細く柔らかくなったということなのではないでしょうか。おおお……ということは次の段階はこれがどんどん抜けていくと。まあそろそろ来るかなとは思っていたんですが。

「いえいえ、違います。薄くなっているわけではなくて、何というのかな、髪が生えている角度が変わったんです。以前はもっと頭皮からこう、直角に立ち上がっていましたけど、今はずいぶん角度がついて寝ているような感じなんです」

なるほど、確かに私は昔から髪の毛が太くて、しかも量が多かったです。いわゆる剛毛というやつです。中学生の頃、理科の時間に顕微鏡で髪の毛の太さを測るというのをやって、うちの班は私の髪を標本に使ったのですが、ミクロメーターの目盛りをはみ出して髪の毛がどんと横たわっており、計測不能だったという過去があります(どーでもいいですけど)。

髪の毛を切ってもすぐに伸びてきて、しかも垂直に立ち上がる感じなので、頭が「ぼわっ」と膨らんだ感じになるのがイヤでした。帽子をかぶってもメガネをかけてもさまにならないんですよね。だもんで、ウルトラスーパーハードな整髪料を使ったり、時には軽いパーマをかけたりして(今思い出しても笑えます)まで「ぼわっと膨らんだ感じ」を抑えていたんですが、ここへ来て髪の毛が素直に寝るようになったというのです。

なるほど、そういえば最近はワックスやジェルなどの整髪料を全く使わなくなりました。もうそんなに「つやばつける*1」歳でもないし、なんだか自分でも人の目など「どうでもいいや」と思うようになったからだと思っていたんですが、同時に、昔のように髪の毛が「暴発」した感じにならなくなっていたのでした。

こうなった理由はよくわからないのですが、たぶん節酒を続けたおかげで頭皮が柔らかくなったからではないかと思います。お酒をあまり飲まなくなってこのかた、頭皮がとても「健康」になったのです。以前は頭皮湿疹などで悩まされていましたけど、今はほとんどなくなりました。よくヘッドスパなんかで「頭皮を柔らかくする」というメニューがありますけど、あれと同じ効果なんじゃないかなと。

お酒を全くやめてしまうとなんだか人生楽しくなくなりそうですが、やっぱりたまに嗜む程度が私には合っているようです。まあ以前は一晩にワイン二本くらい飲んでいましたから、もう一生分あらかた飲み尽くしたということですかね。

f:id:QianChong:20180912080327g:plain

*1:福岡の方言で「カッコつける」。

語学の「戦略」について

外語の学習は楽しいものですが、よく聞く悩みは「長続きしない」ということです。いやいや、かく言う私もこれまで結構色々な言語に手を出しては「敗退」してきましたから、んなエラソーなことは書けません。

曲がりなりにも「ものになった」外語は中国語だけ。英語は、一人で海外を旅行するときに特段困らないくらいには話せますが、はっきり言ってずっと「低空飛行」のままです。なぜ中国語がなんとか「ものになった」のかを今から思い返してみると、これはもう入門や初級段階で先生に恵まれたからとか言いようがありません。

一番最初に習った学校の先生は、授業に遅刻してくるなど「論外」なことが多かったので、すぐに学校を変えました。この二番目の学校と先生は素晴らしかった。それは言うなれば「日本語母語話者の中国語初心者にとって、最大かつ最重要の課題は『発音』の習得である」という、長年の教育から導き出された結論から「戦略」を立て、その「戦略」に従ってカリキュラムが組まれていたからです。

外語学習において、この「戦略」(別に戦わなくたっていいんですけど)はとても大事で、しかもそれは学習者の母語と、学ぶ対象の外語の組み合わせによって様々に変わってきます。中国(中華人民共和国)はこのあたりの意識が明確で、中国語を世界中に広げるために国家ぐるみで多大なリソースを割いています。北京語言大学のような、外国人に中国語を教えることを専門に研究する大学があり、各言語の学生にどう中国語を教えるか、専門家がよってたかって研究しています。

f:id:QianChong:20180911112555j:plain
http://www.blcu.edu.cn/index.html

ひるがえって本邦では、日本語が世界でも十指に入るほどの巨大言語であるにもかかわらず、日本人はなぜか「自信なさげ」で、北京語言大学のような充実した専門機関はありません(国際交流基金くらいでしょうか)。

それでも日本語教育の現場では、たとえば「漢字圏の留学生と非漢字圏の留学生に対する教学方法の違い」などが盛んに議論されているようですから、やはり「学習者の母語と、学ぶ対象の外語の組み合わせ」については(当然のことながら)意識されています*1

話をもとに戻しまして……。

日本語母語話者が中国語を学ぼうとする際、最初に乗り越えるべき関門は「発音」です。「漢字が共通(全く同じではありませんが)だから、日本語母語話者が中国語を学ぶのはラクなんじゃないの?」とよく聞かれますが、漢字が同じなのに発音が違うので、実はかえって学びにくいのです。学ぶ端々から日本語の漢字の発音が干渉してきますから。

というわけで、日本語母語話者が中国語を学ぶ際の(入門・初級段階の)「王道」は、いったん漢字をはなれて、アルファベットの「ピンイン」(あるいは台湾なら「注音字母」)による発音を確実にマスターすることです。ピンインや注音字母だけで読み・書き・聞き取る(音声→ピンイン・注音字母)ことができること。これが「使える中国語」に向かうための第一歩であり「戦略」なのだと思います。

また日本語は動詞や形容詞などが活用(語形変化)し、助詞を多用するいっぽうで、語順はそれほど重視されません。中国語は逆に、動詞や形容詞自体は活用せず、語順を重視します。これらは膠着語屈折語孤立語などと分類されて、専門家の間では「何をいまさら」的な言語間の相違ですけど、私たち一般の人間が外語を学び始める際に、こうした言語の特徴に着目し、自らの母語の特徴と比較して「戦略」を立てるということはあまりなされないのではないでしょうか。

なんとなく、この言語を学んでみたいな~(あるいは仕事に使えるかな~)などと憧れて、語学学校の門をたたき、学習を開始するわけです。もちろんそれはそれでいいのですが、母語である日本語との差、ないしは距離、森羅万象の捉え方についてある程度の知識があると学びやすいかもしれません。もちろん教える語学学校側にはこうした点に基づいた、きちんとした、したたかな「戦略」があってしかるべきですよね(それを初手から学習者に明示できるかどうかはさておき)。

こう考えてくれば、外語を学ぶ際にとりあえず独学とか、その言語の母語話者(言語教育については素人の)について学ぶなどというのは、かなり「リスキー」な気がします。「戦略」を立てずに突撃していくようなものだからです。

f:id:QianChong:20180911114316p:plain
https://www.irasutoya.com/2015/04/blog-post_90.html

さて。

いま、ほそぼそと学習に取り組んでいるフィンランド語ですが、学校の先生のお話からして、入門・初級段階の現在としては以下のような「戦略」が立てられそうです。

フィンランド語は動詞や形容詞が活用する。のみならず名詞もどんどん語形変化する。……ので、まずは単語の原型を覚え、その活用のパターンを人称と合わせて繰り返し練習して体に叩き込む必要がある(さいわい活用の仕方は、パターンこそ多種多様ですが、かなり「機械的」で、例外は少ないようです)。

フィンランド語は語順を重視しない。語順で話す言語ではない。……ので、たとえば中国語や英語でやってきたような例文や基本的な文型の丸暗記という手法があまり効果的ではなさそう。そのぶんまずは単語を覚えて初歩段階から語彙を豊富にしていく必要がある。

フィンランド語には日本語母語話者にはほとんど意識されない「可算・不可算」の概念が強く反映されている。この点は英語と同じだが、英語よりもっと細かい不可算の概念がある。……ので、常に「可算・不可算」を意識する習慣をつける必要がある。

フィンランド語のご専門の方に言わせれば「ふふふ、甘いな……」ってことになるかもしれません。が、とりあえず現在のところ「戦略」にしているのは以上のようなことです(他に「戦略」に加えるべき点があれば、ぜひご教示ください)。

日本ではほとんどの方が英語は学習した経験があると思いますけど、その他の言語を学び始めるとき、やみくもに英語での経験を持ってきても上手くいかないかもしれません。やはり「戦略」のある学校なり先生なりを探して(語学学校でなくてもネットの情報でも)、日本語との違いを念頭に置きながら学んでいくといいんじゃないかと思った次第です。

あ、蛇足ですが「一週間でペラペラ」みたいな惹句はハッキリ言って眉唾の可能性がほぼ100%ですから、近づかないのが吉だと思います。

f:id:QianChong:20180322145009j:plain

*1:私は日本語教育については門外漢なので、認識の違いや最新の現状などについてご叱責・ご鞭撻たまわることができれば幸甚です。