先日の夕刻、もう少しで七時になろうかという頃でした。ジムからの帰り道に急に雨脚が強くなったので、傘は持っていたけれど小降りになるまでしのごうと思って、手近なカフェに「避難」しました。場所は「おされ」な青山の、ブルーボトルコーヒーです。ところがカウンターで「ブレンドをください」と注文したら、店員さんにこう言われました。
「ブレンドひとつ。はい、でも、七時までなので、テイクアウトだけです」
店員さんは、そのわずかな発音のニュアンスから、日本語母語話者ではないと分かりました。もちろん十分に流暢ですし、意思の疎通には何の問題もありません。なのに、自分でも驚いてしまったのは、このときに私はちょっと「イラッ……」としてしまったのです。
もちろんその場では、その「イラつき」はそれ以上昂進せず、「あ、じゃあいいです」と言ってまた傘を広げ、強い雨の中を表参道駅の入り口まで走ったのですが、さっきの自分のちょっとした「イラつき」が、なぜか後々まで小さな棘となって心に刺さったのでした。
そりゃまあ人間だもの、「イラッ……」とすることはありますわ。もとより私は短気な性格ですし(関西弁で言うところの「イラチ」というやつです)、満員電車などでは人一倍イライラして「いつかきっとあんたも犯罪をおかすだろう(©忌野清志郎)」状態になるのが分かっているので、ラッシュを避けるために定刻の二時間も前に出勤しているような人間です。
だけど、あのほんの数秒ほどの間に沸き起こった「イラつき」は、かなり情けない。というのも私は、日々職場で日本語が母語ではない外国人留学生に数多く接していて、彼ら・彼女らが日本でかなり「心が折れる」瞬間のひとつは、不自然な日本語に対する日本人(日本語母語話者)の許容度があまりに低いことだとつねづね聞かされているからです。
例えばコンビニのバイトで、日本語の発音や統語法が少しでも不自然だと、あからさまに嫌な顔をされたり笑われたりすると。また何度も聞き返していると「ドゥユーアンダスタン(Do you understand ?)」嫌みたっぷりな「返し」をされたりすると。
ブルーボトルコーヒーのあの店員さんは、まず「ブレンドひとつ」と注文を受けてから、でもあと数分で店が閉まるからテイクアウトだけだと告げました。別に問題はないはずですが、私はその瞬間に「だったらそれを先に言え」と感じたのかもしれません。また、「はい、でも、七時までなので……」というくだりの、ほんの少しのたどたどしさに違和感を覚え、さらには雨脚が強くなった中やっと避難できたのになぜ、という身勝手な憤懣も加担して、あの「イラッ……」がわき出たのだと思います。
なんと不寛容なことか。
もうひとつ。
いま奉職している学校は、前期末試験の真っ最中です。
私が担当している科目で、通訳の基礎訓練を行うクラスがあるのですが、試験は日本語のニュースのシャドーイング*1とリプロダクション*2にしています。まだまだ日本語も発展途上の生徒たちなので、あらかじめ教材を配布して練習しておいてもらい、試験当日はCALLで録音するだけという、と~っても易しい試験(試験とも言えないくらいですが)です。
この試験で、ある留学生が「カンニング」をしていました。シャドーイングやリプロダクションはスクリプトを見ず、メモもとらずに行うルールであったにもかかわらず、配布してあった音声をノートにディクテーションしたものを見ながら録音に臨んでいたのです。
私はそれを見つけて、横から手を出してノートを裏返し、なおかつ彼の頭に「ぽん」と手を置きました。いや、手を置いたのではなく、叩くニュアンスがあったと思います。「ダメですよ」というつもりでしたが、思わず手が出ていたわけです。
彼は「てへへ」という笑いとともに「すみませ~ん」と悪びれもしない様子でした。また私としてもカンニングとはいえ、自分で教材をディクテーションしてきたことそのものは彼の勉強にもなったと思うので、それ以上は追求しませんでしたが、あとあとから、あの「ぽん」がやはり棘となって心に刺さりました。
あれは明らかに暴力の芽でした。
昨今、スポーツ界などを中心に暴力やハラスメントに対する告発が続いています。そんな中、糾弾された側は時に「体罰ではない」「愛のムチだった」「選手のためだ」というような弁解を行います。そして「押しただけだ」「ちょっと手を置いただけだ」が「暴力やハラスメントと受け取られたとしたら、申し訳ない」といったような詭弁も。
でも、理由はどうあれ、「肩に手を置く」とか「頭をポンポンする」というのもハラスメントになり得ます。いくら「スキンシップ」などの言葉で言いつくろっても、それは暴力へとつながる芽なのだと思います。考えすぎでしょうか。いえ、やはり考えなくてはいけないことだと思います。