インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

『サピエンス全史』を読んで

壮大な物語でした。遅ればせながら読んだユヴァル・ノア・ハラリ氏の『サピエンス全史』上下巻です。宇宙の物理的現象の誕生から筆を起こして現在まで、さらには未来までをも見据えつつ「ホモサピエンス(人類)」の来し方行く末を論じた大著。生物学的な知見や、農業革命などの部分も面白かったのですが、やはり近現代の歴史に絡む部分がとても刺激的でした。


サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

例えば「歴史は決定論では説明できないし、混沌としているから予想できない」という一節。

決定論が魅力的なのは、それに従えば、私たちの世界や信念は歴史の自然で必然的な産物であることになるからだ。私たちが国民国家で生きていて、経済を資本主義の原理に沿って構成し、熱心に人権を信奉するのは、自然で必然的だというわけだ。歴史が決定論的でないことを認めれば、今日ほとんどの人が国民主義や資本主義、人権を信奉するのはただの偶然と認めることになる。
下巻 p.46

この本を読もうと思ったのは、その前に吉川浩満氏の『理不尽な進化』を読んだからなのですが、ここで吉川氏は「進化」という言葉にまつわる誤解を丁寧に解きほぐしていきます。進化とは、よくある四足歩行から二足歩行へと推移して背筋が伸びていく連続画のように、劣ったものから優れたものへと一直線に上昇していくようなものではなく、「適者生存」は優れたものが生き残るという意味でもないと。進化の結果は優れていたという「能力」に依るものではなく、単なる「運」であり、「適者生存」の意味は「いま生存しているものを適者と呼ぶ」というだけのことであると。
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https://www.irasutoya.com/2015/07/blog-post_861.html

生物学的な「進化」もさることながら、文明が生まれて以降このかた人類が選び取ってきたシステム、例えば国民国家、それを駆動しているさまざまな主義、さらには貨幣や宗教も……すべてがいまあるようにあるのは単なる運であり偶然なのだとしたら。急に足下が揺らぐような感覚に襲われませんか。じゃあ歴史はなすがまなに任せればよいのかと投げやりな態度になってしまいそうです。が、もちろんハラリ氏はそんな雑駁な方向には進みません。

それでは私たちはなぜ歴史を研究するのか? 物理学や経済学とは違い、歴史は正確な予想をするための手段ではない。歴史を研究するのは、未来を知るためではなく、視野を広げ、現在の私たちの状況は自然なものでも必然的なものでもなく、したがって私たちの前には、想像しているよりもずっと多くの可能性があることを理解するためなのだ。
下巻 p.48

なんと希望に満ちた歴史観でしょうか。最近就任したばかりの文部科学大臣は『教育勅語』について「現代風にアレンジして道徳などに使える部分がある」と発言し、戦前回帰志向をあからさまに打ち出しました。この人だけにとどまりません。今の政権を担っている人々は「歴史を研究した・歴史に学んだ」体を装いながら、その実、一つの価値観にすべての人間を押し込もうとしています。そこには歴史の真摯な反省も、未来の選択に対する豊かな想像も見あたりません。

性的弱者の問題にせよ、国や地域や民族間の争いにせよ、今存在している、そしてかつて存在したあり方だけに固執するのではなく、人間にはさまざまな未来の可能性があるのだと信じることからより多くの人々の幸福が生まれてくる。ハラリ氏の歴史観は、私たちはそのためにこそ歴史を学ぶのだという励ましの言葉に読めました。

その一方で、ハラリ氏はこんなことも書いています。

今日の生物学者が、現代の人間に見られる生物学的差異は取るに足らないと説明するだけで人種差別をたやすく否定できるのに対して、歴史学者や人類学者が文化主義を否定するのは難しい。つまるところ、人類の文化の差異が取るに足らないなら、歴史学者や人類学者がそういった研究をできるように私たちが費用を出す必要がなくなるからだ。
下巻 p.125

ここで言う「文化主義」とは、文化間の差異を強調することで人種差別を助長するような言辞に加担する態度を言っています。自分は人種差別など支持しないという方でも、文化間の差異については大いに称揚することはありますよね。「多様な人間集団にはそれぞれ対照的な長所があると主張するとき」に、その「文化間の歴史的相違の視点から語る」、要するに「みんな違ってみんないい」というスタンスで、私もけっこう使っています。

でもハラリ氏は、これが諸刃の剣であると警告を発しているわけです。困りました。人類の多様な文化の差異が取るに足らないものとは思わない(思えない)、けれどそれは容易に人種差別のツールにも変わりうるのです。例えば移民政策に関して、西洋的な民主主義と自由主義に対するイスラム圏の文化の対立といった構図のように。あるいは例えば日本と中国は「同文異種」で水と油のようなものだから永遠に理解しあえないと決めつけ、ことあるごとに脊髄反射的に「断交だ」などと叫ぶ人たちのように。

私はこの本を読んで、歴史を学び未来を作っていくことはそんなに単純ではなく、一本道の進化や発展でもなく、ましてや一刀両断や「がらっぽん」や「グレートリセット」できたりするものでもなく、繊細で緻密な思考とさまざまな方面からの知見が必要な、その意味ではとても刺激的でダイナミックな営みであることを改めて感じました。

現在、この本の続編である『ホモ・デウス』が邦訳され、書店に平積みされています。こちらもぜひ読んでみたいと思います。