インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

「むちゃぶり」というシステム

きのうの春分の日は、諸先輩方のお誘いを受けて、都内某所で謡の「自主練」に行ってきました。今年の秋に能『景清』の地謡に参加させていただけることになっていて、今日は大鼓と小鼓、それに能管(笛)を稽古されている方々に混じって一曲通しで練習する機会に恵まれたのです。

『景清』の謡はとても難しくて、本来であれば私のような若輩者が太刀打ちできるような曲ではありません。それでも諸先輩方がつとめる地謡の人数が足りず(八人必要です)、私にもお声がけいただいたという次第。伝統芸能のお稽古をする方があまり増えていっていない昨今だからこそ、私にもお鉢が回ってきたわけです。

私にとってはこれはいわゆる「むちゃぶり(無茶振り)」ではありますが、私みたいな者にも振らねば人が揃わないということでもあるわけで、ありがたく思うとともに少々複雑な気持ちでもあります。

しかし、ここ十年ほど能の稽古をほそぼそと続けてきてわかったことがあります。それは、こうした「むちゃぶり」こそが、実は自分をここまで能に引き留め、引っ張って来てくれた最大の要因であったのだなという点です。たとえば、師匠から「じゃあ今度は、これをやってみましょうか」と振られるいわば「次の課題」が、ことごとく身の丈にあまる難しい内容であることが多い。というか、ほとんど毎回それ。

これは能の稽古に限りません。ジムのパーソナルトレーニングでも、トレーナーさんは実によく「むちゃぶり」を仕掛けてこられます。こちらの限界のちょっと上を行く運動であったり、ウェイトの数字だったりを設定してくる。ハードルの上げ方が巧みなのです。「楽をさせてくれない」と言い換えてもいいかもしれません。


https://www.irasutoya.com/2019/01/blog-post_22.html

そうやって今の自分にはちょっと難しすぎると思うようなタスクを振ってこられるのが、師匠にせよ、諸先輩方にせよ、トレーナーさんにせよ、実に上手なのです。でもたぶん、私がそう言ったら師匠をはじめみなさん「いや、そこまで細かくは考えてないですから」とおっしゃるはず。

でも受け手側の私がそれらの「むちゃぶり」によって必死についていこうとした結果、なにがしかの成果なり達成なりが出たのだとしたら、これは実に巧みな教育法ということになります。細かくは考えていなくても(多分考えてらっしゃるとは思いますが)それぞれの芸や技に真摯に向き合っておられるからこそ、意識するとせざるとに関わらずそういう教育効果が現れてくるのではないかと。

能楽ワキ方下掛宝生流能楽師の安田登氏が、「社会的資源としての能」という文章でこんなことをおっしゃっています。

能の稽古では、弟子を「初心」に飛び込ませるために「披き(ひらき)」とか「免状」というシステムを作っています。
(中略)
ある程度稽古をして、節(メロディ)、拍子、型という基本が大体わかってくると、急にそこに大きな「初心」を突きつけられます。
自分の実力ではとてもできそうもない演目を「やってみろ」と命じられるのです。ピアノやバイオリンとは違って指の動きが難しいとか、そういう技巧的なことではない。やれといわれてできないことはない。謡おうと思えば謡えるし、舞えといわれれば型をなぞることはできる。しかし、とても自分にはできない、太刀打ちできない、そんな風に思われる演目をやれと命じられるのです。
(中略)
ほとんどの人は、全く不本意なままお披きの日を迎えるでしょう。そして、無我夢中で舞台を勤める。当然、結果は不本意です。
しかし、それでもそのとき、その人は何かをぴょんと飛び越えているのです。そのとき、その人はまた新たな「初心」を迎えたのです。元来が弱い私たちは、自分で初心に飛び込むなんてそんなに簡単にはできません。
「披き」というシステムを使って「初心」に無理やり向かい合わせる、それが能の稽古に隠されている「初心忘るべからず」のシステムなのです。
安田 登「社会的資源としての能」|慶應丸の内シティキャンパス(慶應MCC)

ここで「披き」を課されているのはプロの能楽師ですが、私のような素人の趣味においても、また能に限らずあらゆる技術の習得においても、この外からの「むちゃぶり」によって「『初心』に無理やり向かい合わせる」というプロセスはとても大切で、かつ必要不可欠なもののような気がします。

おのれの能力を見定めるのは、実は自分ではないのです。自分で自分の能力を見定め(られると思っ)ているうちは、成長はおぼつかないのかもしれません。