インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

さよならTwitter(その2)

一昨年の末にTwitterから降りてしまって一年以上が過ぎました。一時は依存症と言ってもいいほどにのめり込んでいたTwitterも、近寄らなくなってしばらく経つとその「毒」が抜け、いまではほとんど利用していません。

qianchong.hatenablog.com

「ほとんど」というのは、もうひとつ持っていたフィンランド語をつぶやくためのTwitterアカウントは残してあるからです。画面の設定をフィンランド語にし、フォローするのもされるのも基本的にフィンランド語関係の方だけ。だからタイムラインはほとんどがフィンランド語か英語なので、それほど引きつけられません。なにせフィンランド語や英語の文章は、初級レベルの自分にとってはパッと見たときの一瞬の可読性が低いですから。

それでも去年の前半くらいはフィンランド語のクラスで作った作文などをせっせとつぶやいて、たまにつくリプライに返答するなんてことを楽しんでいたのですが、それも最近はなくなりました。「注意経済」に絡め取られてTwitter経由の余計な買い物をすることもなくなりましたし、どうでもいい動画などに気を取られて時間を浪費するようなこともなくなりました。

ただTwitterは、交通機関の遅延情報などがどこよりも速いので、時々見に行くことがあります。そんなとき、トレンドの日本語キーワードに引きつけられて、タイムラインを見ることもあります。先日も何かの話題でタイムラインを見に行ったことがあったのですが、自分でもちょっと驚いてしまったのは、そこで飛び交っている言葉の不毛さでした。ちょっと偉そうな物言いで恐縮ですが、ああ、なぜ自分はこんなくだらないマウント合戦や罵詈雑言や一方的な決めつけの応酬ばかりが目立つ世界に引きつけられていたのだろうかと。

それから、いわゆるインフルエンサー的な方々のつぶやきを読んで、自分の至らなさに変な焦りを感じることがなくなったのも、Twitterを降りた効用だと思いました。私など仕事柄、かつては語学関係の「達人」的な方々のTweetを読んでは胸がザワザワしていたものでした。自分は何もなし得ていないような気がして。

実は先日、ちょっと変な興味を覚えて、かつて自分がよく追いかけていた語学系インフルエンサー的な方々のTweetを読みに行ってみました。お名前で検索できますから。そしてこれまた自分でもちょっと驚いてしまったのは、そうした方々(いまでもかわらず、赫々たるご自身の成果を披露されていました)のTweetにかなり冷静かつ客観的な視線を送っている自分を発見したことです。

いえ、達人に学び、自分の至らなさを認識するのはいいことなのです。でも、そんな達人と自分を必要以上に比べても仕方がない。人は人、自分は自分です。達人と自分との距離におののいて、ため息とともに時間と自分をすり減らしていても何の生産性もありません。Twitterを降りて一年以上経ったいまでも、達人と自分の距離は変わっていないのだけれど、それはそれとして、自分は自分のやるべきことをやればいいと思えるようになった。

この歳にしてこの程度の悟り(?)はむしろ恥ずかしいくらいですけど、Twitterから降りて一年以上経った自分の、偽らざる気持ちです。


https://www.irasutoya.com/2016/11/blog-post_81.html