インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

音感のよしあしと語学の向き不向き

昨日「音感が悪いと良い翻訳はできない」という作家・村上春樹氏のインタビューをご紹介したんですけど、私はこれ、語学全般についても言えるんじゃないかなと思いました。村上氏は「別に声に出さなくても、目で読みながら耳で聴く」とおっしゃっています。確かに、文章を黙読している時も頭の中で音が響いていることってありますよね(というか、私の場合は常に。だから速読みたいなことができないのかもしれません)。

というわけで、語学のうちでも聴いたり話したりするときばかりではなく、読んだり書いたりするときにも「音感」は大切なのだろうなと思った次第です。確かに、これまで自分が学んできた中でも、また自分が教える立場にいる中でも音感の豊かさ、音に対する繊細さ・注意深さと語学の向き不向きは連動しているのではないかと思う場面が多々ありました。

もとより中国語は「声調」というメロディがあって、このメロディを歌うように操り、また他人のメロディを聴き取れないと、なかなか聴いたり話したりができません。でも中国語ほど明確なメロディがない言語でも、例えば私がいま学んでいるフィンランド語においても、やはりこの音感、それに加えてリズム感みたいなものがとても大切ではないかと感じています。

フィンランド語のネイティブスピーカーは、先生によるとおしなべてローテンションかつ一本調子で話す方が多いそうです。それはフィンランド語に中国語のような「声調」がないこともありますし、フィンランド人自身の性格というか民族的な気質みたいなものが介在しているよし。例えばこれはフィンランド人の気質を自虐的に表現したTシャツです。

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Finnish Face Male Unisex T-Shirt – Very Finnish Problems

怒っているわけじゃありません。これこそが私の「フィンランド人顔」なんです、と。わはは、私も若い頃は普通にしていてもよく「怒ってる?」と聞かれていたので、何だか共感を覚えます。それでも、教科書の音声やネットにあるフィンランド語のニュースなどを聴いていると、当たり前ですけどフィンランド語にも抑揚はあり、フィンランド語らしい音の連なりやリズムがあります。そういうのを真似て練習するのがまた楽しいんですよね。

フィンランド語に限らず、英語でも中国語でも、語学の学習においてこの「○○語らしい」音の連なりやリズム感を真似するのが苦手、あるいは恥ずかしいと思う方はけっこういらっしゃるように感じます。日本語母語話者で特徴的なのは、すべての母音を「ベタ押し」で、リエゾンみたいな連音をあまり効かせず、かつ全体を平板に、加えて語尾上げで発音しようとする方です。よく帰国子女が日本の中学校や高校であまり良い発音で教科書をよんだりすると揶揄されて萎縮する……みたいな話がありますが、あれは「英語らしく」発音することへの恥ずかしさや苦手意識の裏返しなのかもしれません。

フィンランド語は語形変化が激しく、かつ名詞やそれを修飾する形容詞などが同じ格語尾に統一されることが多いため、結果として繰り返し脚韻を踏むような文章になることがままあります。それが一種独特のフィンランド語らしい音の連なりとリズムを生んでいるように思います。例えば……

Nämä pienet kivat kissat ovat pöydällä.
これらの小さくて素敵な猫たちはテーブルの上にいます。

この「小さくて素敵な猫たちは」の部分がすべて“t”で脚韻を踏んでいて、「ピエネッ・キヴァッ・キッサッ・オヴァッ」とリズミカルに発音されるんですね。これを往々にして私たちは「ピエネットォー・キヴァットォー・キッサットォー・オヴァットォー」のように、母音ベタ押しで語尾を不必要なまでに強調しながら平板に発音しがちです。先生や教材は決してそんな発音をしていないにも関わらず。

このお手本と自分の発音を引き比べて、どこが違うのか、どうすればよいのかについて繰り返し考えられるかどうか、実践できるかどうか……これはもう、ひとえに音感のよしあしにかなりの部分まで起因するんじゃないかと思ったのです。

こんなことを書くと語学講師としては問題があるかもしれませんが、その意味では語学(母語ではなく第二言語の)にははっきりと「向き不向き」があるなあと感じます。もちろん、ちょっとした気持ちの持ちようで変えられる程度の「向き不向き」ですが、向いていない人はそのちょっとした気持ちの持ちようをなかなか変えてくださらないのです。