インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

ひらやすみ

私は電子書籍というものが苦手です。なんど挑戦しても、紙の本のようには内容が頭に入ってこないので、もうすっかりあきらめてしまいました。ただし、マンガだけは基本的に電子書籍を買うことにしています。マンガはすぐに増殖して本棚の少なからぬ場所を占めてしまうからです。うちは極狭のアパートなので、これはまあしかたがありません。

でも、この作品は書店で偶然見かけたときに、紙の単行本を買おうと思いました。かつて住んでいたことのある街の駅前が表紙に、そしてかつて通っていた大学の校舎が裏表紙に描かれていて、なんとなく「ご縁」のような予感を覚えたからでした。はたして、その予感は当たっていました。


ひらやすみ

これはちょっと不遜な物言いなのですが、マンガにせよ、小説にせよ、何かの物語作品において「自分に向けて描かれて(書かれて)いるのではないか」と思えるようなものが、自分にとっての「いい作品」なのではないかと思います。そしてまた、そういう作品に出会えることが、どれほどの僥倖であるだろうかとも。そしてこの『ひらやすみ』は、まさにそんなふうに思わせてくれる作品でした。

ネタバレになるので詳しくは書きませんが、私はこの物語を読んで、自分の学生時代から30歳くらいまで(主人公の生田ヒロトは29歳という設定です)の世界、その雰囲気にあまりにも似ているので驚きました。そして数々のエピソード、それも個人的にはいわゆる「黒歴史」に近いような、あれやこれやのイタい経験ともかなりシンクロしていて、少々怖くもなりました。

もちろん、描かれている風景(特にJR中央線某駅の周辺と、大学のキャンパスおよびその周辺)がかなり写実的なので、たんに個人的に懐かしかっただけなのかもしれません。ただ、この作品が多くの方に好評をもって受け止められている(マンガ大賞2022で第3位になったそうです)ということは、たぶん誰にとってもご自分の人生に重ね合わせて感じる、何か大切なものがここにはあるのだろうと思います。「これは自分に向けて描かれている」と思う方が多いんでしょうね。

表面的にはこの物語は、あまりにも勝敗や損得にこだわりすぎる生き方から降りて、慎ましやかで、かつ心穏やかな暮らしに「癒やし」を見出すーーまずはそんな読み解かれ方をされる作品かもしれません。でも私は、多彩な登場人物たちの、基本善良で、日々のあれこれに懸命だけれども、ときおり(キャラによってはひんぱんに)かいま見せるエゴやちょっとした毒のような部分にこそ、「おおっ!」と引き込まれるものです。

それと画面から伝わってくる空気感にも心地よいものを感じました。特に見開きで描かれる春の夜や土砂降りの雨の光景は、それが何の変哲もない都会(現代的なビルなどのそれではなく、平屋に代表されるごく庶民的な都会)の一風景であるからか、見るものに一層のリアリティを感じさせます。もちろんそのリアリティは、東京の、ごく庶民的なエリアに住んだことがある人だけに感じられるものかもしれませんが。

前述の通り、私はこのマンガを書店の店頭で買い求めましたが、あとからAmazonのレビューをのぞいてみると、前川つかさ氏の『大東京ビンボー生活マニュアル』との類似性を指摘されているコメントがありました。なるほど、私もあの作品を大学生の頃に愛読していましたが、たしかにこの『ひらやすみ』に通じるような空気感がありました。

『大東京〜』は当時一世を風靡していた、わたせせいぞう氏の『ハートカクテル』のパロディないしは逆オマージュ(?)とでもいうべき、バブリーな時代への反動ないしは内省を感じさせるものでした。それから約四半世紀を経て、その本歌取りのような『ひらやすみ』はしかし、低成長ないしは縮退の時代にあって自分の生き方を展望しようとする若い方々の世界観をも反映した、より繊細で深みのある物語になっているような印象を持ちます。

その意味では、一見懐古趣味的な設えのようでいて、きわめて現代的な物語。そして現在も雑誌に連載が続いている進行中の物語でもあり、今後の展開が楽しみです。これからもこの作品は紙の単行本で楽しもうと思っています。

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