インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

Grammarly

自分の書いた英文をAIが添削してくれる“Grammarly”というサービスがあります。無料版と有料版があって、無料版でも冠詞や前置詞の間違い、スペルチェック、記号の使い方、語彙の適否などをチェックしてくれるので、英文を書くときにはとても重宝します。詳しい紹介と使い方はこちらのサイトでていねいに解説されていて、とても助かります。ありがとうございます。

digital-shift.jp

私は無料版のアカウントで利用していますが、無料版でもChrome拡張機能に組み込むことができ、その結果たとえばGoogle翻訳のページでもこんな感じで使えます。ここでは“Grammarly”が2箇所にチェックを入れてくれています。ひとつは“today’s”の前に“for”が抜けているという指摘、もうひとつは“really”はこの文章では必要ないんじゃないかという指摘です。

私は自分で英文を書きながら、それがとりあえず日本語や中国語やフィンランド語で意味の通る文章として再生成されるかどうかを確かめつつ書き進める+訳された側の文章をクリックして他の表現を探る……というようなことをかなり以前からやっていたのですが、そこに“Grammarly”が加わることで、より作業がスムーズになりました。

例えばGoogle翻訳で英文を書きながらその日本語訳を参照する場合、日本語の文をクリックするとそれに対応する英文が下に表示されるので、その表示された英文と自分の英文を引き比べつつ、より良さそうな表現を選んでいくというようなことをしていました。それが“Grammarly”の拡張機能で常に自分の書く英文に対しても添削が入るようになったわけです。

こうした添削、私たちはちょっと前までは“Lang-8”とか“HiNative”みたいな語学系SNSで生身の人間によるチェックに頼っていました。というか、私みたいな語学の講師はそれ自体が仕事のかなり大きな部分を占めている(いた)のです。それがもう、こうやってAIでできるようになっちゃったわけです。しかも無料で。

“Grammarly”の有料版では、さらに文章のスタイル(カジュアルな文章なのかフォーマルな文章なのか、とか)を選んで添削してもらえたり、盗作のチェックみたいな機能もあるそうです。オンライン英会話なども、生身の人間相手だと物怖じしそうなところ、AIが音声ベースで会話してくれるというサービスが始まっています(私はいまのところまだ、生身の人間相手じゃないと会話するモチベーションが起きませんが)。AIが語学関係の人間の仕事を代替していくというのが絶賛進行中というわけです。


https://www.irasutoya.com/2016/12/blog-post_863.html

すごいなあと思う一方で、これはますます外語学習に対する人々のモチベーションを下げる方向に行くんじゃないかなと感じました。だって外語の扱いがここまで簡便になり、それがさらに進化していくのだとしたら、もはや多くの人々において泥臭く外語のスキルを学ぼうという気がなくなっちゃうんじゃないかしらと思うのです。

例えば前置詞の使い方ひとつとっても、これまでは語彙面から、文法面から、そして何より内発的な自分の表現したい意図から……とさまざまな思考を経て、個々人がより正しい使い方を身に落とし込むべく努力してきたわけですけど、“Grammarly”がリアルタイムでいちばん正しい道を指し示してくれるなら、もうその個々人はどんどん考えないようになっていくじゃないですか(もちろん“Grammarly”では、たとえば語彙の選択など、なぜそういう添削になるのかという理由も表示されたりしますが)。

英語よりマイナーな中国語の学習環境でさえも、私がかつて学び始めた頃からは想像すらできないほどの激変が起こっています。もしいま私がこれから中国語を学び始めるとして、はたしてかつてのような泥臭い努力を自らに課し続けることができるだろうかと考えると、かなり心もとないです。ネット翻訳でとりあえずの訳文(それも日々向上している)が出るし、カメラで中文を写せばすぐに訳してくれるし、音声入力でディクテーション(聽寫)はできちゃうし、動画サイトにだって自動字幕機能があるし……。これではよほど外語学習に意義と意味を見出し、相当の熱意がある人しか、外語を学び続けようとはしなくなくなるんじゃないか*1

とまれ、言語をめぐるこうした動きは今後も不可避、かつ飛躍的な進展を続けていくでしょう。これからの時代、外語を学ぶということに対してはこれまでとはかなり異なる動機づけ、そして学び方・教え方が必要になるのかもしれません。

*1:私自身は、職場の営業的にはタブーの物言いながら、日本語母語話者が外語コンプレックスから脱出し、みんながみんな幼少期から外語学習(なかんずく英語学習)に人生のかなりの部分を捧げるといういまのような狂騒状態が少しは収まるのならそれもまたいいかも……と密かに思っています。もちろん、外語を学ぶことは自らの世界の切り取り方を多様にし、自分と世界との“界面(インターフェイス)”を拡張するという意味で、これまでも・これからも人類には不可欠な作業だと信じてはいますが。