インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

go-go years

《紐約時報中文網》のこちらの記事を“中英雙語”で読んでいたら、印象深い表現に出会いました。

In China’s go-go years of miraculous economic growth, straddling the 1990s to mid-2010s, poverty wasn’t a topic that people paid much attention to.
從上世紀90年代到本世紀10年代中期,中國經濟出現了奇蹟般的快速增長,在這段時間裡,貧困並不是人們關注的話題。
為什麼中國互聯網上「沒有窮人」 - 紐約時報中文網

“go-go years”。英語にこういう言い方があるんですね。初めて知りました。ちょっと下品だけど、まさに日本語の「イケイケドンドン」みたいな感じです。

この記事は中国における貧困の「報じられなさ」と、そのジャーナリズム自身の「貧困」を論じたものです(つい先日も「国境なき記者団」による報道の自由度ランキングで中国がワースト2になったと報じられていました)。“go-go years”を経て、たしかにかの国には激烈な変化が訪れましたし、外から中国を見る目もかなり変わりました。でもその間に、かの国の「病」は格段に深まったとも思います。

1990年代から2010年代の中期まで、つまりこのおよそ四半世紀の時間帯は、ちょうど私が中国語を学び始め、留学して、仕事の中で中国語をいちばん使っていた頃でした。この激しい変化の時期にかの国をながめながら学び、仕事ができたことはとてもありがたかったですけど、それはまた自分のかの国に対する視線がどんどん醒めたものになっていくのと軌を一にしていました。

思い返せば1990年代の半ばごろ、ニコラス・クリストフシェリル・ウーダン両氏の『新中国人』を読んで、かの国の闇の部分を強く認識させられたのでした。それまでは、語学学習者にありがちな、その言語を使う国や人々へのナイーブな憧憬だけが自分を支配していましたから、この本は自らを現実へ大きく引き戻す役割を果たしてくれました。


新中国人

もちろん国とその国の個々人とは分けて考えなければなりません(私だっていまの日本という国と私個人を一緒くたにはされたくありません)。ですからこれまでも、そしてこれからも仕事で、あるいはプライベートでかの国の人々と泣き笑いしながら付き合っていくと思います。

ただその先に待ち受けているかもしれない未来を想像してみると、まことに僭越な物言いながら、私にはどうしても明るい風景を想像することができないのです。この記事を読んで、あらためてそんな感慨を抱きました。“go-go years”のなかで積み残してきたもの、あるいはこぼれ落ちるままにしてきたものの精算を迫られる日がきっと来ると思います。

そしてそれはかの国の人々にとってはもちろん、私たちにとってもなかなかにキツい展開になりそうな予感がします。ゴールデンウィークのまっただなか、とても良い天気の午後だというのにこんなネガティブなことを書いてしまいました。