職場の学校の留学生が、東京都内の大学生との学習交流会に参加してきました。大学生は全員が日本人(日本語母語話者)で、交流会の後にレポートを書いてくださり、私もそれを読むことができました。そこでひとつとても興味深いと思ったのは、多くの大学生が「初めて外国人と直接話をした」とか「留学生の日本語が上手でびっくりした」などと書いてくださったことです。
なるほど、これだけ「グローバル化」の声かまびすしい時代にあって、しかもいちばん外国人の比率が高いと思われる東京都心の大学に通う学生さんたちにして、やはりその多くは外国人との接点がほとんどないんですね。少なくとも、街で見かけることはあっても、直接コミュニケーションを取るくらいまで「接近」したことがあるという方は存外少ないのだと気づかされました。
https://www.irasutoya.com/2018/05/blog-post_41.html
折しも、うちの学校のベラルーシ人留学生が「アパートのオーナーさんに賃貸契約を拒まれた」と相談に来たところでした。どうもオーナーさんはウクライナに侵略したロシアをこころよく思っておらず、それが理由で断ってきたようでした。留学生にしてみれば完全に「とばっちり」ですし、そもそも人種差別として抗議すべきですけど、こういう無理解はまだまだ私たちの国のいたるところで顔をのぞかせます。
私たちは職業柄、日々外国人に接していて、むしろ日本人の比率のほうが極端に少ない環境ばかりに囲まれていますから、こうした出来事に遭遇するたびに「そうか、そうだった」と世間の空気を再認識させられます。でも思い出してみれば、外語を学び始める前の私は、確かに外国人と接する機会などまずない(日本語のみでコミュニケーションを取ることができる)環境にいました。そして現在でも、圧倒的多数の方々は異文化あるいは異言語との接点がほとんどないのですね。
それはある意味で幸せなことなのかもしれません。幸せ、というのとはちょっと違うかもしれないけど、母語である日本語でゆりかごから墓場まで過ごすことができる、母語である日本語で幼稚園から大学院まで教育を受けることができる、二つ以上の文化や言語の間で自分の頭を常にスイッチし続ける必要がない……というのは、世界的に見ればかなり稀なケースです。楽といえばこれほど楽なことはありません。
私はそれが一概に悪いとは思いません。それが日本という独特の国柄を作ってきたという側面もあるのですから。でもその一方で、否応なしにいろいろな文化や言語が交錯しあって行かざるを得ない今とこれからにおいては、私たちはもう少し「自分たちとは異なるもの」に対して慣れていく必要があるのだろうなと思います。
とはいえ、何もそれによって自らが変容させられてしまうのではないかと恐れる必要はないのです(私個人は、自らが変容させられるのが割と好きですけど)。そばに異質な存在があっても、ああそういうものもあるんだというフラットな感覚で接することができる心のありよう、そんなものをもう少し養うことができたら、この国の風通しももう少し良くなるのではないかと。
以前ブログに書いたことがある、イタリア・シチリア島にあるパレルモのみなさんがおっしゃっていた「無理して知ろうとしない、違いを楽しむだけ」という言葉を思い出しました。