インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

「ジジイ」を再生産しないために

昨日Twitterで拝見したこちらのツイート。分かるなあ、そうだよなあ。

この一連のツイートには「結局日本社会も出版業界もジジイたちが『俺の常識/実績』を振りかざして若者や女性の意見を取り入れない/活動の場を奪うとかしてきてる」という文章もありました。そうだよなあ、本当にそうだよ。

ただし、若い方々が「いい年をしたおじさんたち」や「ジジイ」をこうして批判するのは、現代に限った話ではないんでしょうね。私は三十代のころ、出版業界の端っこに連なっていた人間でしたけど、その当時の私たちも、その当時の「おじさん」や「ジジイ」たちに同じような苛立ちを感じていました。どんなに新しいアイデアを出しても「前例がない」とか「勝手なことするな」で握りつぶされて。すでにバブルがはじけて「失われた30年」と呼ばれる時代に突入していた頃の話です。

そう考えると、少なくとも高度経済成長期の神話が失われ、バブルがはじけてからこっち、日本のあちこちの業界で同じような状況が何度も再生産されてきたということになるんでしょうね。不毛だ。実に不毛です。

こういう言い方はいささか不謹慎かもしれませんが、オレは高度経済成長を担ったんだという自負を肥大化させたままの世代がそろそろ人生を引退されようとしている今のこの時期を乗り越えたら、つまりそうした「おじさん」や「ジジイ」たちがごっそりいなくなったら、本邦でもこうした不毛な状況も少しは緩和されるのかもしれません。

いやいや、それは考えが甘いかな。そのあとの世代、つまりバブル崩壊後の低成長期に社会に出た方々だって、長く業界で働くうちにこうした「おじさん」や「ジジイ」のメンタリティという衣鉢を脈々と受け継いでいるのかもしれないのです。私はまさにそのバブル崩壊後の第一世代とでもいうべき群に属する人間ですが、還暦を数年後に控えた自分が、そうした「おじさん」or「ジジイ」的存在に再生産されちゃってはいないと言い切れるでしょうか。

ちょっと前までは「絶対にそうはならない!」という自分の意志に自分で信頼を寄せることができていました。でもここ数年、その自分への信頼がいくぶん揺らいできたことを認めざるをえません。若い方々の一挙一動に何かしらの違和感を覚え、それに対してもの申したくなる自分を発見して驚くことが徐々に増えてきたのです。私はかろうじてそれを言動や行動には移していませんが、ヤな「おじさん」や「ジジイ」とは紙一重ではないかと感じています。

こうした変化はどこから来るんでしょうか。私は今のところ、あと数年のうちに(長くとも十年以内には)この業界や職場から身を引かなければならないという切迫感や寂寥感がもたらすものなんだろうなと自分で自分を観察しています。

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https://www.irasutoya.com/2015/06/blog-post_426.html

私は、今の職場で雇い止めになる歳になったあとは、できる限り今の業界や仕事とは関係のないところで「セカンドキャリア」を構築したいと強く願っています。そのために今から考えられることは考え、動けるところは動こうともしています。だから今の業界には逆になんの未練もないはずなのです。ましてや「俺の経験では」と昔取った杵柄を振りかざして若い方々の意欲を削ぐなんてことは絶対にしたくないし、しているつもりもありません。

でも、どんなに強がってみせても、それなりに心血を注いできた自分の業界の自分の仕事からかなりの割合で身を引く、あるいは完全に身を引くことがどこか寂しいんでしょうね。まるで自分の核がすっぽりと抜け落ちて、なくなってしまうような気がして。だから「俺の経験では」と何か爪痕を残しておきたくなってしまうのかもしれません。冒頭に引用したツイートに書かれている、「いい歳したおじさんたち」がなにかと出張ってきたがる心性の裏には、確実にそうした寂しさがあるような気がします。

雇い止めになるまでのあと数年、だから私は、今までの自分の仕事の仕方を意図的かつ積極的に捨てようと思っています。周囲の、とくに若い方々に教えを請い、意見を聞いて、それを「ガッツリ取り入れる」のです。組織全体でそれをやるのは色々なハードルが立ちふさがっている可能性もありますけど、個人単位なら今日からでもできます。それをひとりひとりがやって行けたら、その先に少しは明るい未来が見えてくるかもしれません。社会全体にも、そして私たち「ジジイ予備軍」自身にも。